平成社会の事象探求

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◆第94回「知恵の会」例会◆
「薬・くすり」発表内容一覧表

龍谷大学・北101号室(参会者24名)

資料番号発表題目発表者氏名概          要
94-01仏典に於ける薬に関係して龍口明生 食事は正午までに終える。薬は4種類。時薬・夜分薬・七日薬・尽寿薬。釈迦在世の名医・耆婆Jivaka
94-02葬送地鳥辺野の薬師如来明川忠夫六波羅蜜寺・空也の十一面観音。 薬師如来の十二大願。奈良時代の薬師信仰。平安中期以降の阿弥陀信仰。
94-03不老不死の仙薬を伝える丹後伴とし子徐福の伊根町新井崎神社と黒茎のもぐさ。 浦島子の不老不死薬。八百比丘尼の人形の肉。田島間守の橘。売布(めふ)神社と「橘の里」。天日槍〜田島間守
94-04くすり(薬)石田天佑 ギルガメシュ叙事詩の不老不死の霊薬。徐福の煉丹。水銀朱。丹生。道教。非時(ときじく)の実。 医食同源。屠蘇(とそ)。
94-05指の呼称ー「薬指」をめぐって糸井通浩 薬指の呼び方。東日本の薬指。西日本の「紅指し指」、西日本の山間部「薬指」。時代的に「名無し指」鎌倉室町の 「くすし指」江戸期「紅指し指」明治「薬指」。
94-06「本草和名」に見える和名について高橋喜一 平安初期・深江輔仁著。1025種を挙げる。
94-07薬としての茶・信長の薬草園・長崎の薬草園山嵜泰正 陸羽『茶経』・奈良時代の行賀。嵯峨天皇の茶・栄西の『喫茶養生記』。養生の仙薬。信長の伊吹山薬草園。 長崎の薬草園(ケンペル・ツェンペリー・シーボルト)
94-08薬(中国語)王志英 四字熟語「良薬口に苦し」霊薬。助詞・漢方薬は副・服。錠剤は片。丸薬は粒・顆。 袋は袋。薬は「食べる」
94-09「耳嚢」の妙薬・奇薬斎藤幸雄 怪奇物語。筆者・根岸鎮衛(やすもり)奉行歴任。民間療法・呪い・占い・治療薬など
94-10麻酔薬「痛仙散」の履歴中洌正堯 「毒にも薬にもならぬ」華岡清洲の麻酔薬・全身麻酔。1805年。アルカロイド。 チョウセンアサガオ(キチガイナスビ)。曼陀羅華。
94-11京の薬種屋の歴史清水弘 四堺祭。典薬寮・施薬院。薬屋の出現・陳外郎。室町期。本草学。 京都の薬種屋(時代変遷・二条通・江戸期の変遷と数)。薬祖神祠 (神農・少彦名命・大己貴命・西洋医学の祖ヒポクラテスを祀る)
94-12本邦近世薬事史上の人物三閑話中西久幸 「医心房」丹波康頼。お雇い外人薬草学祖「ケールツ」。三重県人発明王小林政太郎「オブラート」。 大阪の道修町・武田薬品の長兵衛(初代〜7代)。田辺・塩野義など。
94-13大坂の薬種商と製薬会社伊郷好文 秀吉の城下町・道修町。漢方から洋薬輸入。武田の「杏雨書屋」
94-14薬の広告五箇条小寺慶昭 暗示「ナオール」命令口調。権威を信じ込ませる。新案特許出願中。使用前と使用後の比較。 消費者に錯覚を起こさせる。「騙される奴が悪い」
94-15「薬代」はどこへ岩田貢 京都府の1ケ月当たり食料消費が都道府県順位で酒類10位。ビール5位。 バン5位。ところが、医療費・歯科診療費は33位。
     (参考メモ)94−3「田島間守の橘」についての参考情報

1.田道間守に関係した京都の地名「木津」(きつ:橘)
  田道間守が常世の國から垂仁天皇に捧げるために「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」を
  持ち帰ったのは、現在の「木津」の地で、「橘」(きつ)から「木津」の地名として残っているという。
  (引用資料)京都地名研究会著「京都の地名検証3ー風土・歴史・文化を読むー」
        京丹波市「木津」(担当:糸井通浩)(259頁)参照。勉誠出版(2010年6月30日)

2.兵庫県豊岡市三宅に鎮座する「菓祖中嶋神社」について(神社の説明板より)
  御祭神 田道間守命
  当神社の創立は甚だ古く、約千三百年前の第三十三代推古天皇(在位五九二〜六二八)の御代と言われ、
 現在の朱塗りの本殿は、今より約六百年前の室町時代中期、正長元年(一四二八年)に、但馬の領主山名氏に
 より建立されたもので明治四十五年国宝に指定されております。
  御祭神の田道間守命は韓国、昔の新羅の王子で、我が国に渡来して帰化し、ここ但馬の国を賜り、
 これを開発した天日槍命(旧国幣中社但馬一の宮出石神社の祭神)の曾孫で、第十一代垂仁天皇の命を受け、
 当時の菓子としては最高のものとして珍重せられた「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」
 (橘…みかんの一種)を常世の国(現在の韓国済州島と言われている)に渡り長い歳月をかけ、艱難辛苦の
 すえ持ち帰りましたが、天皇は既に亡くなっており、命は悲嘆の余り、その御陵に「ときじくのかぐのこのみ」を
 献げた上、殉死されました。
  ときの景行天皇(垂仁天皇の第三皇子)は、命の忠誠心を哀れみ、御陵の池の中に墓を造らせられましたが、
 推古天皇の御代になって、命の子孫で七代目の孫にあたる当地三宅に住む吉士中嶋の君と言う方が当社を創立し、
 命を祭られたと伝えられております。
  中嶋神社の名は、御陵の中の命の墓が、中の島に見えるところから名付けられたと言われ、いのちをかけて
 「ときじくのかぐのこのみ」を持ち帰った命を、菓子の神様として祭るようになり毎年四月の第三日曜日を、
 橘菓祭(菓子祭)とし、全国より菓子業者の参拝もあり、招福・家業発展を祈願して、盛大に祭典が行われます。
  
3.万葉集(巻十八ー4111番歌)大伴家持の「橘の歌一首」
  かけまくも あやにかしこし すめろきの 神の大御代に 田道間守 常世に渡り 参出来し時
  時じくの 香の果実を かしこくも 残したまへれ 国も狭に 生ひ立ち栄え 春されば
  孫枝萌いつつ ほととぎす 鳴く五月には 初花を 枝に手おりて をとめらに つとにもやりみ
  白妙の そでにも扱き入れ 香ぐはしみ おきて枯らしみ あゆる実は 玉に貫つつ 手にまきて
  見れども飽かず 秋づけば しぐれの雨降り あしひきの 山のこぬれは くれないに 
  にほひちれども たちばなの なれるその実は ひた照りて いや見が欲しく み雪ふる 冬に至れば
  霜置けども その葉もかれず 常磐なす いや栄はえに 然れこそ 神の御代より 宜しなへ
  この橘を 時じくの 香の果実と 名付けけらしも
  反歌一首
  橘は花にも実にもみつれども いや時じくになほし見が欲し (巻十八ー4112番)

4.文部省唱歌「田道間守」
  香り(かをり)も 高い(たかき)橘を 積んだお船が今帰る(かへる) 
  君の仰せ(おほせ)を畏みて 万里の海をまっしぐら
  今帰る(かへる) 田道間守 田道間守
  御座さぬ(おはさぬ)君の陵に 泣いて(なきて)復らぬ(かへらぬ)真心を
  遠い(とほつ)國から積んできた 花橘の香とともに
  名は薫る(かをる) 田道間守 田道間守
  (昭和17年・国民学校三年生用唱歌、したがって昭和8年生まれの人々の懐かしのメロディとなる)

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更新日
平成22年7月21日

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