ようこそ知恵の会へ
(ひとつの素材を多角的に、細分化し、認識を深める)
◆第111回「知恵の会」例会◆ | |||
資料番号 | 発表題目 | 発表者氏名 | 概 要 |
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111-01 | 古代日本の星の語義 | 吉田金彦 | 天武帝崩御、持統の悲哀歌。万葉集2-160「燃ゆる火も」「北山に‥‥星離り去き」161。明星。夕星(ゆうづつ)。「アマツミカ星」悪神・妖星。 |
111-02 | 星の語源の概観と私案 | 田中雅章 | 朝鮮語のピョルと「星」「火」の関係。持統の「春過ぎて夏‥‥」の「衣干す」は「星」と考えると。 |
111-03 | アメノミカヌシノカミ | 石田天佑 | 奈良に「星」の祭神はカガセヲ神社のみ。道教の太一(天帝)。天武の和風諡「アマノヌナハラオキノマヒト」不老不死と最高天(北極星)。 |
111-04 | 星・天の川の鵲・大伴家持の歌「鵲の渡せる橋におく霜の」 | 中西久幸 | 歴史的解釈。藤原定家の撰定。色彩感。幻想。見えないものを「見る美学」。定家・長明・兼好・歌枕・能・落語」日本の美意識の関連、重要性。 |
111-05 | 六芒星・五芒星・鞍馬寺 | 中村正司 | 般若心経の六感。精神性の色空。六道・八正道。京都市地図上の六芒星・五芒星図形。 |
111-06 | キトラ古墳の天文図・星座と宇宙観 | 山嵜泰正 | 石棺の蓋の天文図・星座。西洋星座と差異。身近な星座名。北極星と北斗七星。34度27分の古墳になぜ北緯39高句麗の星座か。二十八宿。 伊勢の太一(天帝・北極星)豊受大明神(そえぼし」)。 |
111-07 | 日本における星の古記録 | 斎藤幸雄 | 星食。日食。惑星。超新星爆発。流星・隕石・彗星・オーロラ。源平合戦と日食など、史料豊富。 |
111-08 | 仏典に見られる星 | 龍口明生 | 釈迦誕生・出家・得道・涅槃に「仏星ぶっしょう」4月8日。別に2月8日説。明けの明星。 |
111-09 | 鞍馬寺と金星信仰 | 小寺慶昭 | 毘沙門天の図。「兜跋」。魔王尊・サナート・クマラ。650万年前金星から渡来と信楽香雲説。ブラヴァツキー夫人の心霊主義。鞍馬寺と修験道。貴布祢・貴船・水源神。 鞍馬の天狗信仰は後発。虚空蔵菩薩・明星。 |
111-10 | 松尾芭蕉の「星の秋」 | 清水弘 | 」 清水弘 「星」6句。「七株の萩の千本(ちもと)や星の秋」芭蕉の弟子七人によく育てと。七草。鯉屋杉風。 |
111-11 | 新七夕伝説 | 中洌正堯 | 天の河・七夕祭の教材開発。家持「鵲の」。枕草子「すばる」。芭蕉「佐渡によこたふ天河」。宮沢賢治『銀河鉄道の夜』。唱歌「たなばたさま」。「冬の星座」。野口聡一「宇宙時代に生きる」。賢治の作品・ジョバンニの生活・友情・心理葛藤など。 |
111-12 | 近江商人の屋号に多い星 | 伴とし子 | 「しまつしてきばる」『朝星商売、夕星帰宅の勤勉。近江八幡・国学者伴高蹊。先祖の労苦に感謝。陰徳と陽徳。福の神。堪忍と用心。「三方よし」。 |
111-13 | 瞳に星を持った少女を描いた蕗谷虹児 | 石原滝子 | 挿絵画家・蕗谷虹児(フキヤコウジ)の歌「泪の淵」「花嫁人形」。1898年新潟県生まれ。アルコール中毒の父。流麗な挿絵・瞳に星ピカの絵。1979年他界。*(添付参考資料参照方) |
111-14 | 宝塚の二つの星 | 岩田貢 | なぜ宝塚か。宝塚スター。歌劇団の結成と小林一三。少女歌劇。花月雪星宙の5組(白氏文集から命名)。トツプスター命名。「星」名は少ない。 |
挿絵画家・蕗谷虹児(フキヤコウジ)の絵画作品例 (SPレコード・タンゴ特集アルバム版表紙絵の例) (発表資料に添付されている蕗谷画家の作品以外の作品事例) | 蕗谷 虹児(ふきや こうじ)(本名一男)。画家、詩人。 1898年(明治31年)新潟県新発田町(現新発田市)生れ。母親:新発田町湯屋看板娘の京風美人。新聞記者と駆落ち、蕗谷虹児を産むが、貧困の末、虹児12歳の時27歳で死去。母親の死により家族は離散。新潟市の印刷会社に丁稚奉公、絵の勉強をしながら夜学に通う。母への追慕の情が、後の画風に影響。 1912年(大正元年)画才が新潟市長の目にとまり、14歳で上京、日本画家尾竹竹坡の弟子になり、日本画を約5年学んだ後、樺太へ渡り、以降放浪画家となる。 1919年(大正8年)竹坡門下戸田海笛を頼って上京。日米図案社入社、図案家としてデザイン修行。 1920年(大正9年)竹久夢二を訪問。雑誌『少女画報』主筆水谷まさるを紹介され、「蕗谷紅児」名で挿絵デビューを果たす。 1921年(大正10年)朝日新聞連載吉屋信子の長編小説『海の極みまで』の挿絵に大抜擢、全国的に名を知られる。 少女雑誌の表紙絵や挿絵が大評判となるや時代の寵児となり、竹久夢二と並び称される。 1924年(大正13年)『令女界』に発表した詩画「花嫁人形」は、後に杉山長谷夫の作曲で童謡にもなり、蕗谷虹児の代表作となる。他に9冊の詩画集を出版。「抒情画」と名付ける。 1925年(大正14年)パリ留学。苦学の末、「サロン・ナショナル」等の連続入選を果たし、フランス画壇日本人画家藤田嗣治・東郷青児等と親交を深める。 1929年(昭和4年)留守宅の経済的破綻で急遽帰国。借金返済のため、挿絵画家生活に戻る。パリ風モダンな画風は一世を風靡。 1935年(昭和10年)詩画集『花嫁人形』出版。戦時色が強くなり時勢に合わず、制作を休止。 終戦後、復興各誌に執筆を再開。 1953年(昭和28年)小学館絵本や、1956年(昭和31年)講談社絵本など、20冊を越える絵本挿絵で子供に親しまれる。 1954年(昭和29年)「東映動画スタジオ」設立に参加、アニメーション映画『夢見童子』原画・構成担当。 1968年(昭和43年)三島由紀夫若き日の小説作品『岬にての物語』に、彩色画が挿絵装丁に用いられる。 1979年(昭和54年)中伊豆温泉病院で急性心不全により没。 「蕗谷虹児記念館」が故郷新発田市に建てられる。「花嫁人形」を歌い継ごうと、1998年から毎年同市にて、「全国『花嫁人形』合唱コンクール」が行われている。 (WIKIPEDIAより) |
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