平成社会の探索

<「知恵の会」への「知恵袋」>

ー第105回知恵の会資料ー平成23年12月18日ー


(その50)課題「ふね(船・舟)」
ー「遣唐使船とともに」ー
硬骨漢・大伴古麻呂の活躍
 目     次 
まえがき
(その1)遣唐使船の歴史
(その2)大伴古麻呂の挙動
(参考)遣唐使船の構成

<まえがき>

 日本の歴史の中にあって「舟・船」が文化受け渡しの重要な手段とされてきた事例を、時系列的に見れば、
(1)遣唐使船(2)南蛮貿易船(御朱印船)(3)遣欧使節(4)岩倉具視欧米視察団
と、その渡航先は中国大陸、東南アジア地域、欧州、さらには北米大陸世界へと拡がっています。
 一方、戦闘目的の軍事行動でも、
(1)白村江海戦(2)蒙古来襲(3)和冦 (4)日露戦争(日本海海戦)(5)太平洋戦争
と、これまた、戦闘地域が近隣地帯から、大洋を渡って世界的な広がりをみることになります。 

 これら国外の異文化への航海にあって、我が国の文化形成に大きな影響を与えた事例は、
古代に於いては遣唐使船であり、近世に於いては欧米視察団がその代表的な事例ということになりましょう。
 以下では、古代氏族大伴氏と遣唐使船との関わりの一例を拾い出してみました。 


<(その1)遣唐使船の歴史>

 万葉集の編纂対象期間と遣唐使の時代はほぼ重なっていますから、万葉集に「遣唐使の歴史」を
辿ることができます。まず、編年史料(桜井満監修「年表 万葉文化誌」(株)おうふう(平成7年
6月20日))に編集されている遣唐使の略歴を、天平勝宝年間の時点までを一覧表に致しますと、
次のようになります。菅原道真による遣唐使廃止までの事歴一覧は(参考メモ)の添付表参照方。
派遣回数略  歴万葉集記録・関連事項
第一次
630年
(舒明天皇二年)
8月5日 犬上御田鍬、薬師恵日を唐に派遣。
舒明四年8月帰朝。
第二次
653年
(白雉四年)
*第一船:5月12日、大使吉士長丹・副使吉士駒、
乗員121人。白雉五年7月24日帰国。多くの文物・宝物を
持ち帰る。
*第二船:大使高田根麻呂・副使掃守小麻呂、
乗員120人。学問僧道昭、定慶等も参加。
7月薩摩国竹島付近で遭難。
第三次
654年
(白雉五年)
押使高向玄理・大使河辺麻呂・副使薬師恵日。
高宗に拝謁。日本国地理、国祖神名下問あり。
斉明天皇元年8月帰国。玄理は大唐にて没。
第四次
659年
(斉明天皇五年)
7月3日、大使坂合部石布・副使津守吉祥。
*第一船:南海の島に漂着、大使以下殺害さる。
東漢阿利麻等島の船で括州に到る。
*第二船:洛陽にて高宗に謁見。蝦夷風俗下問あり。
冬至の会に参列。斉明天皇七年5月初めて
済州島人を伴って帰国。
第五次
665年
(天智天皇四年)
守大石・坂合部石積ら。天智天皇六年11月9日帰国。
9月23日、唐国使者劉徳高等254人来朝。
同時に入唐僧定慧帰国。
(第六次遣唐使説)
天智天皇六年(667)11月13日
唐使司馬法聡等の帰国に送使として
伊吉博徳・笠諸石が任命され、
翌年正月23日帰国。
第六次
669年
(天智天皇八年)
河内鯨。大唐郭務宗ら、二千余人を遣わす。
第七次
701年
(大宝元年)
1月23日、遣唐執節使粟田真人、大使高橋笠間・
副使坂合部大分。万葉歌人山上憶良は遣唐少録として参加。
4月12日、遣唐使拝朝。5月7日、入唐使粟田真人に
節刀授かる。160人、五隻の船に分乗して筑紫から
渡航を図るが暴風雨で渡海できず。
702年6月29日再出発、10月中国楚州到着。
長安(武氏則天周王朝)に到る。
704年(慶雲元年)7月粟田真人帰朝。
三野連(岡麻呂、小商監従七位下中宮少進、
大凡40才)
入唐の時、餞の歌として春日老の歌
(巻1−62)
坂合部大分らは十四年後、養老二年(718)
第八回遣唐使と共に帰朝。
第八次
716年
(霊亀二年)
8月20日、押使多治比県守・大使阿倍安麻呂
(9月大伴山守に代わる)・副使藤原馬養。
霊亀三年2月23日、拝朝。3月9日、遣唐押使に
節刀を賜る。留学生阿倍仲麻呂・吉備真備・
玄坊等も参加。557人四隻二分乗して、10月1日
長安に到る。
翌養老二年(718)10月20日帰朝。
霊亀三年2月1日、遣唐使、神祇を蓋山南に祭る。
(巻19−4240〜1)
第九次
732年
(天平四年)
8月17日、大使多治比広成・副使中臣名代。
天平五年(733)3月21日拝朝。辞見、節刀拝受。
4月3日四隻難波津より594人出発。8月、唐蘇州に到着。
734年(天平六年)10月、蘇州から四隻が出帆、
第一船11月20日種子島帰着。第二船二年後5月18日、
第三船天平十一年(739)それぞれ、帰国。
第四船は、行方不明。
735年(天平七年)3月10日節刀返上。
25日拝朝。4月26日、入唐留学生下道真備、
唐礼・大衍暦を献上。
金村、入唐使に贈る歌(巻八ー1453〜5)、
作者未詳(巻19ー4145〜6)、阿倍老人、遣唐時、
母に奉る悲別歌(巻19−4247)、遣唐使船の難波を
発つとき母の子に贈る歌(巻9−1790〜1)
第十次
746年
(天平十八年)
正月7日石上乙麻呂、任命。実施されず。
第十一次
750年
(天平勝宝二年)
9月24日、遣唐大使藤原清河・副使大伴古麻呂、
751年4月4日、遣唐使祈願・伊勢神宮および
畿内七道諸社に奉幣。11月7日、吉備真備副使任命。
752年3月3日、拝朝、9日、副使以上を内裏にて節刀を
賜う。四隻が南路経由で揚子江口に着岸。
長安で玄宗皇帝の謁見を受け、翌五年(753)11月15日
蘇州より渡海、第一船ベトナムへ漂流。
12月7日、遣唐副使吉備真備屋久島に漂着。
754年(天平勝宝六年)1月16日、遣唐副使大伴古麻呂、
鑑真和尚・法進ら八人を伴って帰国。在唐時の
席次争いを報告。
4月18日、第四船判官布勢人主ら薩摩国に到着。
春日神祭日に藤原大后(光明子)の
入唐大使藤原清河に賜う歌(19−4240)、
清河の歌(19−4241)、藤原家に入唐使の餞宴をするとき、
藤原仲麻呂の歌(19−4242)、多治比土作の歌
(19−4243)、清河の歌(19−4244)、
大伴古慈悲家にて入唐使らを餞するとき、
多治比鷹主の寿歌(19−4262)、大伴村上・清継の
伝承する古歌(19−4263)、藤原清河らに酒肴を
賜う歌(19−4264〜5)

<(その2)大伴古麻呂の挙動>

 万葉集に関連した「遣唐使」に、次の様な歴史的に興味のある事例が探索されます。
 (1)学生阿倍仲麻呂の従者として大陸に渡り、民族交流に貢献した羽栗父子
 (2)大伴氏族出身の遣唐使として活躍した大伴古麻呂や継人
 (3)遣唐使として著名な山上憶良
  (4)帰国を果たせなかった著名人・阿倍仲麻呂、藤原清河とその遺児・喜娘

 (1)は、既に平成19年9月の例会で、「万葉の栗・羽栗吉麻呂」として、報告いたしました。
 今回は、(2)大伴古麻呂の情報を収集してみました。

 大伴氏族が「遣唐使という国家的プロジェクト」へどのように参画したかは、既に(その1)「万葉集の遣唐使記録」で
要約した通りです。万葉集の編纂対象期間と遣唐使の時代はほぼ重なっていますから、万葉集に
「遣唐使の歴史」を辿ることができます。編年資料(桜井満監修「年表 万葉文化誌」(株)おうふう
(平成7年6月20日))によった第十一次遣唐使までの略歴を一覧表を参照願います。

 大伴古麻呂のとった航路は「南島路」で、筑紫大津浦を出港して、直ぐ航路を西にとり、肥前国松浦郡
庇良島(平戸島)に寄港して後、航路を南に転じ、天草島・薩摩国の沿岸に沿って南下し、種子島ー屋久島ー
宝七島ー奄美大島ー徳之島ー沖縄島ー久米島ー石垣島と、南下し、東シナ海が狭まったところを横断し、
揚子江口地域の港に着岸する。この航路は北路と同じく日数がかかり、なおかつ東シナ海を渡る危険も伴う。
 したがってその後は、直接中国大陸に向かう「南路」が採られるようになる。

 天平勝宝五年(753・天宝十二年)四隻は十一月十六日揃って唐・蘇州黄洫浦を出帆し、南島をとり、
二十日第三船が先ず沖縄島に着き、翌二十一日には第一船・第二船共に、沖縄島についた。
 十二月六日南風が吹いてきたので、副使大伴古麻呂と鑑真和尚の乗った第二船は出帆して、種子島に向かった。
 七日に屋久島に着き、十八日に屋久島を出帆し、十九日は一日波浪に悩まされ、二十日の午頃薩摩国
阿多郡秋妻屋浦に付いている。(唐大和上東征伝) 

遣唐使入唐航路図
北路は初期遣唐使船の航路で、海況や気象に応じて島影や入り江に避難出来る安全な航路。
7世紀半ばに対新羅関係が悪化し、やむなく東シナ海直航の危険な南路を採らざるを得ず。
 第十一次遣唐使で歴史上に記された「大伴氏族の遣唐使」大伴古麻呂とは、次のような略歴を
有する人物です。(引用資料:高島正人「奈良時代諸氏族の研究」吉川弘文館(昭和52年4月))
 まず、古麻呂の家系は大伴家持とはお祖父さん(大伴長徳)を同じくする系統です。

(大伴古麻呂について、参考系図「伴氏系図」では家持の子、「大伴系図」では長徳の子と
なっているが、年代的に不適当)
**********     大 伴 古 麻 呂 略 歴     **********
          記名のいろいろ (胡麻呂、古万呂、古丸あるいは唐名・胡満)

 天平 二年 730 治部少丞(推定位階は従六位上) 
          中納言兼太宰帥大伴旅人が任地で脚に瘡を病み、遺言口承の為
          勅によって大伴稲公と太宰府に下向。     
 天平 十年 738 兵部大丞(推定位階は正六位下)
 天平十七年 745 従五位下昇叙
 天平勝宝元年749 左少弁(相当位階は正五位下)
 天平勝宝二年750 遣唐副使叙任
 天平勝宝三年751 従五位上昇叙(叙爵後満六年での一階昇叙)
 天平勝宝四年752 右大臣以下と建部門に参向
          遣唐副使として藤原清河大使とともに内裏に召され節刀を下賜さる
          従四位上(四階昇進)
          衛門督大伴古慈悲邸にて遣唐使送別開宴。
          万葉歌二首 (巻19−4262,4263)
          「韓国に往き足らはして帰り来む丈夫武雄に御酒たてまつる」
                              (多治比真人鷹主)
          「梳も見じ屋中も掃かじ草枕旅行く君を齊ふと思ひて」
                           (大伴宿爾村上、清継ら)
 天平勝宝五年753 (唐玄宗・天宝十二年)蓬莱宮含元殿朝賀式典出席
          *日本大使席次問題 
           西畔第二席で吐蕃の下に位置したこと、東畔第一席は新羅で大食の上席に
           あったこと、新羅は日本への朝遣国であることなどより、日本大使の
           東畔第一席を要求する抗議を呈し、席次を変更させた。
          *唐帝より官職授与 銀青光禄大夫光禄卿
          *鑑真和尚招聘
           帰朝に際し、大使清河ととも延光寺を訪れ、鑑真に謁し東帰を招請した。
           出向に際し、清河は唐の官憲の検索を恐れ、折角乗船させた鑑真等を
           下船させたが、古麻呂は秘かに第二船に乗船せしめて、12月帰国できた。

  (筆者付言)(大使清河の第一船は難破して藤原仲麻呂ともども帰国ならず、生涯を唐国で
        終えることになる。この船の違いが日本の仏教発展にも貢献したことになり、
        結果的に古麻呂の果たした役割は大きかった。) 

 天平勝宝六年754 正月 唐僧鑑真・法進ら八人を従えて帰朝上奏。
          四月 左大弁・正四位下昇叙(兄の兄麻呂に次ぐ大伴氏族中第二位の座を
             占めるにいたる。)
          七月 太皇太后宮子崩御により右大臣藤原豊成らと造山司勤仕
 天平勝宝八年756 五月 中臣・忌部らと伊勢太神宮に幣帛を奉献。
             聖武太上天皇崩御により多治比広足、百済王敬福らと山作司を勤仕。
 天平宝字元年757 三月 道祖王の廃皇太子
          四月 群臣に皇嗣下問、文室珍努らと池田王推挙。
          六月 陸奥鎮守将軍兼任、陸奥按察使任命さる。             

 (筆者付言)(この官職は官人としての大伴氏族の宿命ともいうべきもので、
        同族での就任歴は次のようになっています。)
        大伴古麻呂  天平宝字元年 757 正四位下
        大伴駿河麻呂 宝亀三年   772 正四位上
        大伴家持   延暦元年   782 従三位

 天平宝字元年757 七月 橘奈良麻呂らと塩焼王を奉じて藤原仲麻呂を排除しようと画策、
             任地下向の途次、美濃国不破関にて仮病で逗留ししたが、
             露見して捉えられ、下獄糾問杖下に刑死。

    **********************************************

 古麻呂の人物批評として、引用文献には次のように記されています。

 「・・・正義感に富み文武に秀でた剛直の士であり、殊に右大臣長徳を祖父に
  贈右大臣御行を父に持つ名門意識と自覚に燃え、歴代藤原氏、殊に仲麻呂の
  専権と横暴に強い反感と危機感を覚えていたのではなかろうか。・・・」

 しかし、事成らず、杖下に刑死することによって「参議従三位兄麻呂以下大伴氏
 一族の首脳のほとんどを失脚させ、・・・」ることになったのです。
 例外に漏れず、大伴家持もあおりを食って因幡国国守として畿外へ追い出されて
 しまいました。

 さて、「遣唐使大伴古麻呂」の活劇は次の二点に絞られましょう。
 (1)朝賀式典日本国使節席次問題
 (2)鑑真和尚密航招請事件


(1)朝賀式典日本国使節席次問題

 藤原仲麻呂に関する歴史小説の一節より引用しましょう。古麻呂の行動は日本人側から見ますと
活躍劇ですが、小説家の目からは、極めて冷めた歴史観からの記述になっています。

 (その1)正延哲士「阿倍仲麿」其の五 辞国銜命 より
 「・・・唐の天宝十一載の夏。阿倍仲麿には重大な知らせがあった。十九年ぶりに、日本からの
  遣唐船が寧波に到着したのである。・・・
  ・・・仲麿が微かな感情の動きをみせたのは、遣唐使の名簿を見たときであった。彼が入唐した
  時の判官大伴古麻呂と、下道真備がともに副使に名前を連ねていた。・・・
  ・・・晩秋の一日、長楽駅に到着した遣唐使を、皇帝の内使という名目で仲麿を出迎えた。
  ・・・古麻呂は狷介な眼差しで仲麿を一瞥し、ぐいと顎を突き出し清河の挨拶を促した。・・・
  ・・・古麻呂は日焼けした顔に、武人らしい一徹さを滲ませていた。

  天宝十二載の元旦である。諸国からの入遣使は、大明宮の中央にある壮大な含元殿の朝賀に
  列して皇帝の弥栄を讃える。・・・
  ・・・皇帝の出御を告げる宮廷楽士の荘重な調べが演奏される前、予期せぬ騒ぎが起こっていた。
  日本の副使である大伴古麻呂が大声で、殿中省の役人に抗議をしているのだ。所定の位置は
  離れていたが、注意していたので仲麿には良く聞こえた。古麻呂は「新羅国がわが日本の国使の
  上席に在るのはどういうわけか。彼の国はわが国にも貢ぎ物を送っている小国ではないか。」と
  真っ赤な顔で掴みかからんばかりの勢いである。・・・
  ・・・大使の藤原清河は困惑して、古麻呂を宥めるように吉備真備を促している。中書舎人が
  宥めにかかったが、古麻呂の思いこみは強くて、主張が入れられなければ席を蹴って退出しかね
  ない勢いである。・・・・
  ・・・皇帝の出御に解決しなければ大失態になる。仲麿は・・・「ともかく、新羅の使節に
  席を代わるように交渉してもらえまいか」と頼んだ。・・・・呉懐実らがどのような説得をしたのか
  新羅の使節らはしばらく話し合ったあと、西の吐蕃の次の席へ移っていった。このような場所で野蛮な
  言い争いをするのは、外交上決して得策ではないことを金志明も説得してくれたのであろう。
  仲麿は顔を背けたいほどの羞恥でいたたまれなかった。その騒ぎの結果、日本の使節は東第一の
  席に移って皇帝の謁見に臨んだ。・・・」

  この朝賀式典の後、関係者それぞれの思惑を次のように比較しています。
  大伴古麻呂 「・・・鴻臚客館へかえった古麻呂は、その夜、席次争いの模様を従者らに
         意気揚々と説明した。しかし、彼の行為は唐の官達の間でいたって不評で
         あったのはいうまでもない。・・・」
  阿倍仲麻呂 「・・・宮中から退出する前に金志明を訪れて日本の使節の非礼を詫びた。
         唐の朝廷に仕えて諸国の使者を長い間見てきた仲麿には、日本の使節の
         態度が極めて異質に映る。その特殊性は皇室の閉鎖的な婚姻と皇統を見れば
         明らかであろう。そういうところに自分が帰国して果たして何が出来るだろうか
         とも思う。」
  金志明   「(仲麿のお詫びの訪問に対して)「気になさらないで下さい」と・・・。
         日本という国に潜む異質なものを感じていたに違いない。・・・」
  著者の付言 日本の使節は忘れられた頃にやってくる。それ故に貢ぎ物は諸国と比べて多い。
        だから特別な待遇を期待する。日本使節の態度は諸国の使節に対してどことなく
        尊大であった。

  (その2)林青梧「阿倍仲麻呂の暗号」第七章 唐の対日政策 「仕組まれた含元殿席次争い」
  (その1)よりさらに辛辣な物語り解釈で一歩踏み込んだ解釈をしているのがこの冊子です。すなわち
偶にしか朝遣してこない日本国使節に対する歓迎手順は、唐朝として「使節団が重要だから」ではなく、
「唐朝の廷臣阿倍仲麻呂が重要だから」であるのに、「これを自分たちへの好意と受け取っている
らしい使節団員の(古麻呂の)単純思考振りに、当時の日本の廷臣の水準の低さがしのばれる」と
まで、見下げた評言をとっています。筆者は大伴古麻呂を英雄視したいのではないのですが、ここまで
ばっさりと「正義感に富み文武に秀でた剛直の氏」で国を思う心で燃えている万葉官人」を切られると、
反発したくなります。「自虐的行動や言動で、事態の不満の捌け所にしたがる民族性そのものが部分的に
出ているとも見られる歴史小説とも見たい」と切り返したいところです。なお次の説明文までついています。

  「・・・皇帝謁見の朝勤の儀では、玄宗自身日本使節団になみなみならぬ関心を示し、
   特に清河らの儀容を賞賛した。「日本国は礼儀の君子国なり」と称揚し、画師に命じて
   清河と真備の肖像画を描かせた。古麻呂は問題にされなかった。」

  「・・・中華では東が西より上席である。その東の第一席には新羅使たちが、西の第一席には
   大食国(サラセン)が、東の第二席には吐蕃(チベット)が着いていて、日本は西の第二席と
   なっていた。・・・唐は本来、新羅を衛星第一周辺国とみなしていることを、席次で日本に
   通告したかったのだ。唐の基準から見れば新興国で初めて正月の唐皇帝謁見に顔を出すもとの
   倭国が四位とは、むしろ厚遇してやったのだといいたいところだろう。・・・
   ・・・しかし、大伴古麻呂に、唐のそんな意図がよみとれるはずがない。この種の傲慢な
   日本人の特質である。
   ・・・(新年拝賀の儀担当)光禄卿呉懐実は新羅の正使になにやら耳打ちした。新羅正使は
   明らかに反発の色を見せたが、呉の説得に頷き、顔色を曇らせたものの一行を促して立ち
   上がらせた。・・・(とにかくここでは譲ってもらえないか。そのかわり倭の新羅征討は絶対に
   ゆるさない。必ず唐は新羅を助ける。)新羅使全員は黙ってぞろぞろと本来の日本席へ移って
   きて、争う気配を見せなかった。
   ・・・大伴古麻呂はあまりにも簡単にけりがついたので、大声をあげたのも恥ずかしげな顔で、
   東の上位に移っていった。」

 この席の入れ替え申し入れをしたこと自体が、「日本が唐への従属を承認したことになる」と著者は
書き続けています。さらに次のような深読みで、小説を進めています。
  「・・・そんなことに気づかない。外交感覚の欠落というほかなかった。四位の席におれば、
   逆に唐との対等の立場を無言の主張したことにも成るのだ。」
   

(2)鑑真和尚密航招請事件
 
 正延哲士「阿倍仲麿」其の五 辞国銜命 より、鑑真和尚の密航状況を次のように綴っています。

  「・・・密かに鑑真和上の渡海の準備が進んでいた。・・・
   ・・・和上渡海の企みを仲麿が知らされたのは船が風待ちをする黄泗浦へむかう途中であった。
   鑑真はすでに黄泗浦に泊まる四船のどれかにのっているという。・・・
   ・・・纜を解く三日前、突然、広陵郡の役人の臨検があっt。国法を犯して渡海しようとする者の
   噂を聞いたので確かめに来たのだという。・・・大使の藤原清河は四船から判官以上を召集した。
   ・・・「わしの船に移っていただこうか」と古麻呂はいう。
   ・・・二度も船を仕立てて渡航しようとして果たせなかった普照は諦めず、・・・大伴古麻呂の
   侠気にすがろうと懇願し続けている。・・・」

 関係者のあれこれの苦労の末、漸くに大伴古麻呂の乗る第二船で、なんとか、来日を果たした
鑑真和上であったのです。

<(参考メモ)遣唐使船の構成>

 ・初期遣唐使船は二船よりなり、一隻に120人前後のものが乗り組んだ。
 ・中期・末期遣唐使船は、四船(四舶・よつのふね)よりなり、第一船に大使、第二船に副使、第三・四船に
  判官が乗る。一隻に大凡120〜160人位が乗り込んだ。また100〜150トン程度の採貨重量の船が
  必要であった。
 ・想定された船の大きさは、全長24m、巾8.5m、喫水2.8m、満載排水量約300トン。
 ・大木を鉄釘を用いず継ぎ合わせ、継ぎ目も短水草のような草類を以て塞ぐという幼稚な造船技術であった。
  ・遣唐使船の建造は主として安芸国に下命される事が多かったことより、大陸から渡来したジャンク建造の
  技術者集団が置かれたとされる。
 ・東シナ海横断日数も、半月より一ヶ月以上もかかっていることより、遣唐使船の船底は扁平で、波を切るのに
  不適当で、帆が上手く活用できていなかった。
 ・帆の利用が下手のため、操船は櫓に頼らなければならなかった。一隻の乗組員中五六十名は水手(水夫)で
  あった。
 ・遣唐使船には何隻かの短艇(同船・獨底船)を搭載しており、必要な場合、海に降ろして利用した。
 ・遣唐使船には船号・位階を賜わった。(例)船号・佐伯ー従五位下、船号・播磨速鳥ー従五位下、など。
 
(出典:森克己「遣唐使」日本歴史新書(昭和41年11月)至文堂)

遣唐使船想定図(石井謙治「日本の船を復元する」(2002年12月)学習研究社)

遣唐使一覧(東野治之「遣唐使船」朝日選書634(1999年9月)朝日新聞社)


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平成23年11月25日 *** 編集責任・奈華仁志 ***

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