敷島工藝社産業部

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平成15年12月度・月報

9.日本人が地上を離れた日



空中オブジェ(飛ぶ鳥模型)(吹田市民会館正面ホール内)

目     次


<人類が地上を離れた日>

<20世紀文明の灯の町>

<日本のキティーホーク>

<二宮忠八翁の飛翔人生>


<人類が地上を離れた日>


 この二枚の写真に写っている複葉飛行機の違いは何でしょうか。
 右が有名な「人類が初めて地上を離れた瞬間」である1903年12月17日、米国東海岸のノース・
カロライナ州キティホークの丘陵においてライト兄弟が動力による初飛行に成功した瞬間の写真です。
 左は、それからちょうど100年後の2003年12月新聞記事(読売新聞平成15年12月5日付
夕刊)で、「ライト兄弟の飛行機復元」のタイトルがついています。

 1903年12月17日午前10時35分、ライト兄弟がその試作機「フライヤー号」で「わずか
12秒」間だけ、「わずか120フィート」にすぎない「世界史で初めての飛行」をしたのです。
 新聞記事に依りますと、「100年前の雄姿再び」を目指して当時の飛行機を忠実に再現し、
100年後の同じ日の同じ時間に同じように「人類初の再現初飛行」をしてみたいという人々の
「100周年記念式典」計画を紹介しています。今でも未知の世界へのチャレンジ精神を失わない
ライト兄弟から100年後輩達であるアメリカ人の活動です。

 因みに現在でも「紙ヒコーキ」の競技会があり、そこでは、このライト兄弟初飛行時間「12秒」に
拘った「12秒飛行競技」もあります。催し物の一例を紹介しておきます。
信天翁倶楽部・科学談話室<空を飛ぶ信天翁>(紙ヒコーキ野郎)参照方。
 また不思議な巡り合わせですが、1903年には、飛行機の次の世代を開く「ロケット」に関して
ロシアのツォルコフスキーが「ロケット飛翔論文」を発表した年でもあるのです。
 

!!!人類文明開化の世紀・20世紀!!!
???人類滅亡への世紀・21世紀???

 こうして歴史を振り返りますと、20世紀初頭は世紀的技術時代の幕開きであったのです。
 極東の小さな島の中の京都のそのまた郊外の山里でさえ、人類の輝かしい文明の痕跡が残された
20世紀であったのです。(次節「20世紀文明の灯の町」参照方)

 それに反して、21世紀の幕開きは、どうでしょうか。100年前の色々の輝かしい技術開発に
匹敵する素晴らしい人類の進歩と飛躍は、期待できるのでしょうか。

 ライト兄弟が発明した飛行機が、約100年経って、テロリスト達の戦闘武器に変身し、ことも
あろうにライト兄弟の国家的中心地ニューヨークの高層ビルを叩きのめす手段になろうとは、
ライト兄弟がどんなに嘆いていることでしょう。
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<20世紀文明の灯の町>

  京都府の最南西部、三重県・奈良県を通って流れ下ってきた木津川が宇治川、桂川に合流して淀川と
なる右岸の地域に「八幡市」があります。市域24平方kmの小さな地方都市ですが、市内にある
石清水八幡宮が歴史的に有名です。貞観二年(860)、九州宇佐の地より男山に石清水八幡宮が
勧請されたことに由来する市名です。
 
 この町には、「20世紀に於ける文明の利器の象徴」とも言うべきものに大変深く関係した歴史が
残されています。「20世紀に於ける文明の利器」には、色々な事物がありますが、人類に恩恵を
もたらした典型的な物の代表として「電気による灯」「電灯」であり、「人類が鳥に成れた」「飛行機」
です。

(その1)<電球の竹の町・八幡市>
     「電灯」といえば「エジソン」の電球の発明が思い出されます。
     1879年(明治12年)10月21日、エジソンは木綿糸をフィラメントにした人類初の
     白熱電灯に灯をともすことに成功しました。米国では、この日をエジソンに感謝する照明の
     記念日にして、いっせいに電灯を消して闇の世界を体験して電灯の有り難さを再認識する
     日にしています。エジソンのフィラメント改良研究の結果、京都府綴喜郡八幡の地で採れた
     竹を焼いて作った炭素を電球の発光部のフィラメントにして寿命1000時間の光を得た
     のです。現在では、タングステン線をコイル上に巻いた物を約1atmのアルゴンガス封入
     した電球が用いられていますが、それまで「八幡の竹」が人類に光を与え続けたのです。
     これを記念してエジソンの偉業を顕彰する石碑が石清水八幡宮の境内に建立されています。
     (注)白熱電球(Incandescent Lamp)の発明は同じ時期に英国の
        J。W。Swanも発明したと伝えられています。 

(左)発明当初の白熱電灯(右)石清水八幡宮境内のエジソン記念碑
(その2)<飛行神社のある町・八幡市> 
     石清水八幡宮の男山東麓に「飛行神社」なる一風変わった神社があります。
     これは、「日本人のライト兄弟」ともいうべく、明治20年代に飛行機の開発に全力を
     尽くした伊予国八幡浜(愛媛県八幡浜市)出身の二宮忠八翁が当初は日本の航空関係者の
     後には世界の航空界の殉職者の霊をも祭る目的で、大正4年創始した神社です。

「飛行神社」正面風景

境内の展示物例(左)第二次世界大戦時の「零戦」プロペラ
(中)神社由緒書(右)ジェット戦闘機エンジン(F104J)
     二宮忠八翁は、明治24年(1891)(ライト兄弟の初飛行の12年前)ゴムの動力に
     よるプロペラ式固定翼製模型「飛行器」を飛ばすことに成功し、有人飛行機の開発を軍隊に
     要請しましたが、取り上げてもらえないうち、ライト兄弟が成功してしまいました。
     有人飛行機開発を断念した二宮翁は、考えを転換して、別の観点から航空機界の発展を
     祈願する目的から、この神社を造営したというわけです。
     二宮忠八翁の人となりは、後述の参考メモを参照願います。

二宮翁が青年時代に発明したカラス型模型飛行機(飛行神社資料館の展示物と同社由来略記より)

明治26年(1893)考案の「玉虫型飛行機」(翼長2メートル)設計図と模型
(飛行神社資料館の展示物より)
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<日本のキティーホーク>

 ライト兄弟が自ら考案した動力式有人飛行機に乗り、人類初の飛翔に成功したのは、米国東海岸に
近いとある丘陵地キティホークです。
 さて、それでは、日本人が日本人のアイデアによる日本に於いて初めて「日本人が地上を離れた日」は
何時でしょうか。この質問の答えは、二宮忠八翁の出身地で「日本のキティホーク」となる愛媛県
八幡浜市を訪れる必要があります。
  
 八幡浜市の「国自慢」は、地元出身の「偉大なるパイオニア」達で、「二宮忠八」と「打瀬舟
(うたせふね)」を挙げています。
 二宮翁は上述の通りですが、「打瀬舟」とは「八十余年もの昔、アメリカ大陸に夢を馳せ、太平洋を
渡った冒険心旺盛な先人達の小さな帆船のことです。

 明治24年4月29日、二宮翁は25歳の春、四国丸亀練兵場で、聴診器のゴムを動力にした
カラス型模型飛行機をわずか10m飛ばすことに成功した記念すべき日です。
 この日を記念した地元の八幡浜市では、毎年4月29日には、市主催の模型飛行機大会が開かれ、
さる平成3年(1991)度には、二宮忠八飛行実験成功偉業100周年記念特別企画として、
忠八翁発明の有人飛行機の試作と試乗実験が行われました。

 日本大學航空工学の先生の指導の下、地元の工業高校生による忠八翁の設計図に基づく飛行機を
試作し、海岸をその飛行機のための滑走路まで造成して記念事業を進めました。
 (開発の経緯は、「飛行神社」内の解説ビデオに収録されています。)
 そして、明治24年4月29日から丁度100年目の平成3年10月20日、二宮忠八翁の再現機が
八幡浜で40メートルの飛行に成功しました。
 「日本人が地上を離れた日」は、ライト兄弟の初飛行から、なんと88年後であったということに
なります。
  
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 (注)「日本人が地上を離れた日」は、1991年なんて事はない、
    *明治43年(1910)12月19日、ライト兄弟の初飛行から丸7年目にして
     東京は代々木練兵場で日野熊蔵大尉がドイツ製グラーデ機に乗り、日本人として初めて
     「地上を離れた日」となりますが、残念ながら、飛んだのは、日本人だけ。飛行機は、
     外国製でした。
    *第二次世界大戦前には、世界一周機、高性能の「零戦」戦闘機、さらには、ジェット機の
     プロトタイプまで、さらに戦後でも「純国産中型旅客機YS−11」を日本人が自力で
     作り上げたではないか、
    と反論する向きもありましょう。

     しかし、残念ながら、飛翔の原理、設計、材料、製造、飛行士、飛行場所すべて、
     「日本人の、日本人による、日本人のための」飛行機であったか、といいますと、
     1991年愛媛県八幡浜に登場した「二宮翁玉虫型飛行機」には、かないません。
 *********************************************
 
 「歴史に「もし」と言う言葉はない」とよく言われますが、明治中期で日清戦争前当時の陸軍が
二宮翁の進言を取り上げて開発に乗り出していたら、ライト兄弟の開発まで、まだ12年もあった
わけですから、「日本人が人類初の鳥に成れた」かもしれません。

 しかし、今や日本も次のような新聞記事を詠むことが出来る時代になりました。
 この記事は、偶然にも前述の「ライト兄弟の飛行機復元」記事と同じ紙面にあるのです。

民間企業による世界初の小型ジェット機の初飛行新聞記事
(読売新聞平成15年12月5日付)
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<二宮忠八翁の飛翔人生>


若き日の二宮忠八(1866−1936)(飛行神社資料館の展示物より)
  慶応 2年 1866 愛媛県八幡浜市生まれ。
  明治13年 1880 伯父の薬屋で働き、薬学基礎を学ぶ。
  明治14年 1881 学資稼ぎに数種類の「忠八凧」を売って人気を得る。
  明治20年 1887 香川県丸亀歩兵連隊に看護卒として入隊。
  明治22年 1889 軍隊演習時、鴉の飛翔より飛行機発明のヒントを得る。
  明治24年 1891 丸亀練兵場で「鳥型模型飛行機」飛翔実験に成功。
  明治26年 1893 「玉虫型飛行機」を完成。
  明治27年 1894 日清戦争勃発。軍隊旅団長宛て開発上申書提出も却下。
  明治31年 1898 軍を辞し、製薬会社に入社。

(愛媛県八幡浜市のホームページより)
  明治34年 1901 京都府八幡町に転居、本格的に有人飛行機開発に乗り出す。
  明治36年 1903 ライト兄弟の有人飛行成功を聞き、男泣き。自力開発断念。
  明治37年 1904 日露戦争勃発。
  大正 4年 1915 自宅で航空機受難者の霊祭祀。
  大正15年 1926 帝国飛行協会有功賞受賞。
  昭和 2年 1927 勲六等瑞宝章叙勲。
  昭和 7年 1932 飛行神社完成。
  昭和11年 1936 70歳で没。

 二宮忠八翁の人生を振り返りますと、典型的な明治時代の日本人を知ることが出来ます。
 近代国家に生まれ変わりつつある時代の人間の行動規範が示されているようにも感じます。
 彼がライト兄弟の有人飛行成功の情報に、「いくら独自に開発に成功しても後世の評価は、
二番手」と言われる悔しさからの飛行機開発断念は、パイオニアとして身の切られるような痛恨の
極みであったと思います。パイオニアのみが実感できる苦しさでもあったのです。


忠八翁と本業の薬種業活動状況を示す事物類
(飛行神社資料館の展示物より)
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空中オブジェ(飛ぶ鳥模型)(吹田市民会館正面ホール内)

*** 平成15年12月17日 ***産業部技術顧問・中西久幸


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