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平成15年2月度・月報

6.人工衛星と衛星探査


<スペースシャトル「コロンビア号」事故>

  イラク戦争の気配が忍び寄る平成15年2月を迎えたと思ったら、アメリカのテキサス州上空で、
国際ステーション建設の帰途に就いていたスペースシャトル「コロンビア号」が着陸目前の23分前
信号が途絶し、高度約64kmの上空を時速2万2400kmの超高速度で大気圏に突入するともに
破壊炎上してしまいました。

「コロンビア号」全長37m・翼幅約24m
1981年初飛行し、これまで28回打ち上げ
(引用資料:読売新聞2003年2月2日付け記事)
 宇宙開発を進めているアメリカを中心とした関係者の驚きと落胆はいかばかりでありましょうか。
想像を絶するものがありましょう。
 開発された技術で未知の世界へ挑戦していく「パイオニア」精神の努力は、素晴らしいものがある
一方で、このような多大な犠牲も起こりうるのです。関係者は、悲しみを乗り越えて、より着実な
宇宙開発をさらに推進することに怯まないと意を固くしています。

 日本時間で平成15年2月1日午後11時16分過ぎのことですから、そろそろ本日最終のテレビ
ニュースを見ている時間でした。テレビに映し出される「コロンビア号」がバラバラと火の塊になって
砕けながら地上へ落ちていくさまは、見るに耐えないものでした。

(左)空中分解して落下して行く「コロンビア号」(右)落下していった軌跡
(引用資料:読売新聞2003年2月2日付け記事より)
 この事故の詳細は、宇宙開発事業団プレス発表を参照してみましょう。
 少しずつ米国のNASAから伝わってくる事故原因調査報告が事故の内容を知る唯一の手がかりです。 

 この種の宇宙開発に係わる有人宇宙飛行事故は、これが最初ではなく、これまで次のように何度か
悲しい犠牲者を出してきました。
事故年月国名事故概要
1967年1月
(昭和42年)
米国 アポロ1号、発射台上船内火災、飛行士3人全員死亡。
1967年4月
(昭和42年)
旧ソ連 ソユーズ1号、地上激突、飛行士1名死亡。
1970年4月
(昭和45年)
米国 アポロ13号、月へ向かう途中機械船酸素タンク爆発。飛行士3人は無事。
1971年6月
(昭和46年)
旧ソ連 ソユーズ11号、帰還時空気漏れ。飛行士3人全員死亡。
1983年9月
(昭和58年)
旧ソ連 ソユーズT10−A打ち上げ直前、ロケット爆発。飛行士2人緊急脱出。
1986年1月
(昭和61年)
米国 スペースシャトル・チャレンジャー発射後間もなく爆発。飛行士7名全員死亡。
1997年2月
(平成9年)
ロシア 宇宙ステーション・ミール船内火災発生。飛行士6人は無事。
  人類はこれまで、地球上でのいろいろな開拓あるいは開発にその精力を割いてきました。
 しかし、20世紀の半ば頃から人類の目は、地球の上空に目が向き始め、「宇宙開発」がスタート
したのです。ソビエト連邦の人類初の人工衛星、有人宇宙周回、アメリカの人類初の月着陸など
20年もかからない間に驚異的な宇宙開発技術が展開されました。
 日本人もこれまで毛利衛さんを始めとして、女性の宇宙飛行士向井千秋さんも活躍し、つぎつぎと
宇宙開発事業団から米国のNASAへ送り込まれています。

  「スペースシャトル計画と日本人宇宙飛行士」の経過は次のようになっています。
年   月計画と飛行備    考
1970(昭和45年)ーシャトル構想浮上
1972(昭和47年)ー開発スタート(ニクソン大統領承認)
1981(昭和56年)ーコロンビア号初軌道飛行成功 初のスペースシャトル。28回飛行。向井さん、土井さん乗船歴。
1983(昭和58年)4月チャレンジャー号初飛行。 初の夜間打ち上げ。10回飛行。1986年1月空中爆発。
1984(昭和59年)8月ディスカバー号初飛行。 30回飛行。1990年「ハッブル望遠鏡」を宇宙へ送る。向井さん1994年乗船歴。
1985(昭和60年)10月アトランティス号初飛行。 26回飛行。金星探査機「マゼラン」、木星探査機「ガリレオ」を宇宙へ送る。
1986(昭和61年)1月チャレンジャー号空中爆発。
1988(昭和63年)9月シャトル計画再開。
1992(平成4年)9月エンデバー号、毛利衛さん(55)初乗船。 1992年5月初飛行。19回飛行。チャレンジャー号の代替船。毛利さん、若田さん乗船歴。
1994(平成6年)7月向井千秋さん(50)初乗船。 (コロンビア号)
1996(平成8年)1月若田光一さん(39)、ミッションスペシャリストで乗船。 (エンデバー号)
1997(平成9年)11月土井隆雄さん(48)、日本人初の宇宙空間で船外活動。 (コロンビア号)
1998(平成10年)10月向井さん、2度目の乗船。 (コロンビア号)
1998(平成10年)11月国際宇宙ステーション建設開始 地上400km上空に15カ国が協力して建設。2002年11月より3名が作業中。
2000(平成12年)2月毛利さん、2度目の乗船。(エンデバー号)
2000(平成12年)10月若田さん、2度目の乗船。(ディスカバー号)
2003(平成15年)3月野口聡一さん(37)、初乗船の予定であった。 アトランティス号にて、国際宇宙ステーション日本実験棟「希望」建設の作業予定であった。
 上表の日本人宇宙飛行士5名に続いて、角野直子さん(32)、星出彰彦さん(34)、古川聡さん(38)も
次の乗船を目指して、目下NASAで訓練中であったのです。
 それらの目指すところは、21世紀に於いて「宇宙国際ステーション」を建設することにあります。 

 今回の事故が、これまでの宇宙開発の進展を妨げないことを望むところですが、事故を教訓に
より確実な技術を基盤にして、人類の宇宙に駆ける夢を具体化したいものです。

<火星探査>
 上記の有人宇宙衛星活動もさることながら、並行して行われている各種の太陽系衛星観察も忘れては
ならない興味のあるところです。20世紀後半に於ける火星探査の状況を見ますと、つぎのように
なっています。
  1960年代の中頃から始まった人工衛星による火星の直接探査は、それから約10年間継続され
その間に得られた各種の分析結果や火星表面の写真類によって、かなり詳しく火星の情報が得られ
ました。(引用資料:小尾信弥訳著「火星ー探査衛星写真ー」朝倉書店(1976年12月))
衛星名探査時期探査状況
火星1号
(ソ連)
1962年11月 地球から1.6億kmで
電波断絶
マリナー4号
(米国)
1964年11月
〜1965年7月
9,800kmまで接近。
表面のテレビ写真22枚。
マリナー6号
(米国)
1969年2月
〜1969年7月
3,390kmまで接近。
76枚の表面写真。
マリナー7号
(米国)
1969年3月
〜1969年8月
3,500kmまで接近。
126枚の表面写真。
火星2号
(ソ連)
1971年5月
〜1971年11月
軌道船は周回軌道に入ったが、
着陸機は表面に衝突。
火星3号
(ソ連)
1971年5月
〜1971年12月
軌道船は周回軌道に入り、
着陸機は軟着陸し20秒間
テレビ送信。
マリナー9号
(米国)
1971年5月
〜1971年11月
1,395kmまで接近。
7,329枚の表面、大気、雲、
火星衛星写真。
火星4号
(ソ連)
1973年7月
〜1974年1月
火星周回軌道に入り、
表面写真その他データ返送。
火星5号
(ソ連)
1973年7月
〜1974年1月
火星周回軌道に入り、
表面写真その他データ返送。
火星6号
(ソ連)
1973年8月
〜1974年2月
火星周回軌道に入り、
表面写真その他データ返送。
バイキング1号
(米国)
1975年8月
〜1976年7月
軌道船から表面写真、
水蒸気分布、温度分布測定、
着陸機で、表面、大気温度、
気象観測、表面物質分析
生物探査実験。
バイキング2号
(米国)
1975年9月
〜1976年9月
バイキング1号に同じ
 バイキング1号および2号で、火星に関する相当の情報が得られたので、その後10数年は、一端
火星探査は、中断していました。

 1988年ソ連は、火星衛星フォボス探査の目的で2個の人工衛星(フォボス1号、2号)を
打ち上げました。2号のみ1989年1月火星周回軌道に入りましたが、着陸機を降ろす前に通信が
途絶してしまいました。

 1993年米国は、「マーズオブザーバー」を打ち上げましたが、これもフォボスと同様の通信
途絶してしまいました。

<火星探査再開>

 1996年(平成8年)12月4日打ち上げられたマーズパスファインダー(Marspathfinder)
(先導者という意味)は、1997年7月4日21年ぶりに火星に軟着陸しました。
 小型ローバー”ソジャーナ”(探査車)を使って火星表面の岩石化学分析や、気象観測をしました。
 その状況を伝える新聞記事を掲載します。

(引用資料:朝日新聞平成9年7月5日)
 続いて、1997年9月11日、今度は「マーズグローバルサーベイヤー」が火星を南北に回る
極軌道に乗って火星面の観察を続けているとのことです。
       (以上、引用文献:小森長生著「火星の驚異」平凡社新書112(2001年11月))

 久々の人工衛星による太陽系の衛星観察に世界の人々が注目しました。
 筆者の知人J.OMORI氏は、平成9年の出来事の思い出に次のような短歌を詠んで、同人会からも
注目されました。
「毎朝のインターネットに映りゐる火星に降りし地球の使者よ」
                          (出典:「短歌新聞」第531号・平成10年1月新春百人一首当選歌)

  宇宙開発には、人間が直に宇宙へ乗り込むことはどうしても必要なのでしょうが、大変な冒険であり、
今回のような「コロンビア号」の事故が今後一切無いという保証はないのです。
 宇宙開発技術が更に進歩して、現在進めている「国際衛星ステーション」建設も地上から打ち上げる
ロボットでこなしてしまって、人間は出来上がってから、乗り込んで行くという具合になれば、宇宙
開発にかける危険率も更に低いものに出来るのでは、と考えるところです。

 人類の好奇心は、もはや地上の世界だけでは物足りなくて、過去幾世紀に渡って山に海に探検を
重ねてきた知識となり、さらに宇宙へと拡がっていくのは当然のことでしょう。
 それに現状の地球世界にとっては、「冒険」としての「宇宙開発」より、もっと切羽詰まった事態に
基づく追いつめられた「人類の課題」になりつつあるのです。すなわち、人間自身が地球環境を自らの
生存のために破壊しつつあること、人口増加のため生存する場所とその食糧確保の手段や場所が限界に
来ているという状態です。

 衛星家族が出来て人類の世界が拡がれば何かと内容の豊富な人間社会になりそうに思います。
 一方で、人間の住む衛星間で、何かと又諍いをするようになるやも知れませんね。
 ああなればこうなると心配事が絶えません。ともかく、当面100年や200年は、この狭い地球で
100億に膨張していく人間が仲良く暮らすことでしょうか。人類が地球上で仲良く暮らすことが
出来るようになったら「宇宙を解放しましょう!」との「神の啓示」かもしれません。

*** 平成15年2月20日 ***産業部技術顧問・中西久幸


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