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平成20年 4月度・月報

16.エジソンのかぐや姫
ー竹フィラメントの白熱灯ー


目     次



<白熱電灯発明への意欲><京都の竹><発明王エジソンに関わる日本人>

<白熱電灯発明への意欲>

 「エジソン」とかけて何と解くーーーー「かぐや姫」と解くーーーーーーそのこころは「竹から光」、
と「竹」を採りあげてみましょう。
 エジソンが白熱電灯に適したフィラメント材料を研究中に日本の「竹取物語」を知っていたら、
あるいはエジソンの研究仲間がエジソンにその話をしたら、ひょっとすれば良いヒントになり、
6000種以上にものぼる気の遠くなるような材料選別研究はしなくてもよかったかも知れません。

 「竹取物語」を物語り作品として言及した最初の文学作品は、かの源氏物語で、「竹取の翁」
(絵合巻)あるいは「かぐや姫の物語」(蓬生巻)として採りあげられるほどに日本の物語歴史では
重要な作品です。
 竹取物語では、次のように、かぐや姫を登場させています。
 ーいまは昔、竹取の翁といふものありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづの事に使ひけり。
  名をばさかいの造(みやつこ)となむいひける。
  その竹の中にもと光る竹なむひと筋ありける。それをみれば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうて
  ゐたり。

 さてエジソンの光への挑戦の経緯ですが、もともと彼は、「人間は夜眠らなければならないことは
損失である」と考え、睡眠時間を減らすことで人間の可能性の限界は拡大すると考えていたこと
です。その為には、夜に光を与えないと、人間の活動世界が拡がらないのです。その為に「電気を
使うことで、夜に光を与え、人間の負担を軽くし、日常生活を豊かに出来る」と考えたのです。
 当時の夜間の照明と言えば、「アーク灯」で、燈台や街灯照明などの公共の場で使用し
始めていましたが、アークを飛ばす炭素棒の寿命が2時間ほどの短さで、メンテナンスにも
いろいろの複雑なことがありました。
 因みに1882年(明治15年)東京銀座に点灯されたのは、「アーク灯」だったのです。
 それ以外の照明装置としては、「ガス灯」「ローソク」「石油ランプ」などに過ぎなかったのです。

 1878年、エジソンの白熱電灯発明の前年、既にイギリスのスワンという技術者が炭素線を
使用した白熱電球を発明していますが、特許申請していなかったのです。しかし、エジソンの
発明の素晴らしいところは、多くの出資者の協力で設立した「エジソン電気照明会社」が、
照明装置としての電球・電灯の発明だけでなく、現在でいうところの電力会社の前身を
創設したことで、すなわち、発電、送電、配電と電気事業の全ての組織作りを確立し、
加えて、電球を製作する上で重要な「真空ポンプ」の開発も目指した点です。

 この発明のために、エジソンの「メンローパーク研究所」には、100人余りの研究者の集団を構成し、
電球のフィラメント素材の選定作業に掛かっています。
 いろいろの失敗から金属製のフィラメント探しをあきらめて非金属材料を数千種試しています。
 その結果、1879年10月21日に、炭化木綿糸を素材にした白熱電灯が、13時間半も長時間に
わたってガス灯三個分の明るさで作動したのです。早速「炭素フラメント電灯」として特許を
出しています。

 その後、よりよいフィラメント素材探しが継続され、「椰子の葉で作った団扇の縁取りに使われて
いる竹」の繊維が良いことが解り、日本・中国・中南米・マレー半島などの竹素材が試されて
ゆきました。これほど地球規模の素材探索作業はないと思われます。エジソンの発明のポイントと
される「1パーセントのひらめきに99パーセントの努力」とはまさにこのことではないでしょうか。
エジソンの発明の凄さです。
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<京都の竹>

 白熱電灯のフィラメント材料として、6000種の材料選択の結果、アジアや中南米の竹が
適していることが解ったエジソンは、次の素材仕様を示して、世界中から素材を集めます。

  *肥料を施していないこと 
  *8〜10年物 
  *秋(10〜12月)伐採物 
  *根元から1m上の12節分
  *節間隔が35〜40cmのもの 
  *硬質の竹表皮層部分 
  *1cm巾の割り竹を100本を一束とする
と非常に條件を限定しています。

 彼の依頼を受け、探検家W.H.ムーアが最適竹材を探しに1880年夏中国経由日本に
やってきました。
いろいろな日本の竹(1年、5年、10年物といろいろの段階の竹材)が、エジソンの元へ送られ、
実験の結果、約千時間も輝き続けた京都八幡男山周辺の真竹から作った電灯フィラメントが、
「竹の繊維管が太くて強いこと」(これはエジソンの結論)、「鉄分が多く含まれていること」などに
よる最適なフィラメント材であることがわかりました。
 なお、京都八幡の真竹には、「梱包紙に竹の葉の絵と大野竹製造所の名前と○の中に
大の字が印刷されていた」と記録されています。

 1894年セルロースによるフィラメントが発明されるまで、1880年から十数年間、八幡の真竹が
アメリカに送られ続け、「エジソンの電灯」として、アメリカの社会に光を与え続けました。
 なお、現在のタングステンフィラメントの電灯に切り替わるのは更に十数年後の1906年ですから、
タングステン電球も大凡100年の歴史を刻むことになります。

 さて、1931年(昭和6年)に亡くなったエジソンとその発明になる竹フィラメント電灯を顕彰する
ために、没後7年、その発明から大凡60年経った1938年、電気関係6団体が合同で、
京都石清水八幡宮隣接地にエジソン記念碑を建立し、昭和33年(1958)3月、エジソン
彰徳会により八幡宮境内に1984年移設されました。

 更に京阪電車の八幡駅前には、エジソンの肖像と記念モニュメントが建立されています。

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<発明王エジソン>

 発明王エジソン(1847〜1931)の名声は、没後75年以上経った現在でも絶大で、「発明」の
諸事業のシンボルとして活躍しています。次の特許庁のポスターを御覧下さい。
4月18日は「発明の日」になっています。
この由来は、日本の産業の発展の基礎となった
専売特許条例(現在の特許法)が1885年4月18日に
公布されたのを記念し、産業財産制度の普及・啓発を
図ることを目的として、1954年に制定されています。
一方アメリカでは偉大な発明家エジソンを顕彰する行事として、
エジソンが初めて綿糸フィラメントを使って白熱電灯を
約40時間点灯することに成功した
1879年10月21日を「エジソンの日」としています。
エジソンの偉業を顕彰するためにニューヨークでも、
夜間一斉に照明を消す催しを行っています。
こうすることによって白熱電灯照明に感謝し、
エジソンに感謝しているのです。
因みに、日本ではおなじ10月21日を「あかりの日」として、
日本電気協会・日本電球工業会等が
1981(昭和56)年に制定しましたが、その趣旨は
1879(明治12)年、エジソンが「日本・京都産の竹」を使って
白熱電球を完成させたことによる「あかりのありがたみ」を
認識する日という点が若干異なります。
 ところで「エジソンの白熱灯」に関係して、「発明王エジソン」に関わった日本人として、
次のような人々が言及されています。

(1)中野初子(出典:室井綽「ものと人間の文化史10ー竹ー」法政大学出版局(1973)p。196)
  「エジソンと日本の竹」のなかで、「当時、エジソンの白熱電球の発明により、日本竹材の
  審査官として中野初子が任命された。竹の炭繊がはじめて世に現れたのは明治十四年
  (1881)、パリの万国博覧会であった。・・・・・・
   中野の語るところによると、・・・・ある日、中野はエジソンにシュロの毛を見せたところエジソンは
  微笑しながら、「すでに試験をしたが駄目であった」と答えたと言うことである。・・・」
  因みに、中野は、当時ニューヨーク留学中の東京大学助教授で、1890年(明治23年)竹の
  送り主を詳しく知ることが出来た(男山エジソンヒストリカル倶楽部「T.A.Edison and Japanese Bamboo」
    1989年2月・男山エジソン頌徳保存会)とされています。

(2)岡部芳郎(出典:立本三郎「エジソンと日本の竹」1989年2月11日(男山エジソン頌徳保存会))
  エジソン研究所に明治38年(1905)から6年間(一説に1904(明治37年)〜1913(大正2年))
  勤めていたただ一人の日本人研究員で、関係者の回想録に次のように記されています。
  「日露戦争中、アメリカを訪問した金子堅子爵はエジソン研究所を表敬訪問され、エジソンは
  <岡部芳郎氏は研究所で働いている唯一の信頼できる青年で、秘密の研究部屋へ出入りは、
   彼のみ許されている>という話を聞いた。」
  彼は山口商船学校の卒業記念遠洋航海途中、急病で取り残され、治療してから偶然知り合った
  人の紹介で、エジソンのところで就職し、帰国してからエジソンを雑誌などで日本に紹介した人物。

(左)エジソン研究所研究員岡部芳郎氏(中)日本の洋楽の父・伊沢修二(右)明治政府農商務大臣・金子堅太郎
(3)伊沢修二と金子堅太郎
  当時アメリカに留学していた二人がエジソン研究所を訪問しています。両人の略歴は次の通り。

<伊沢 修二(いさわ しゅうじ、1851年(嘉永4年) - 1917年(大正6年))>
  日本の教育者で明治〜大正期、近代音楽教育や、吃音矯正などを行う。
  信濃国伊那谷高遠藩士の子。
  1867年(慶応3)江戸へ、大学南校(のちの東京大学)に学ぶ。
  1872年(明治5)に文部省出仕、のちに工部省へ移る。
  1874年(明治7)愛知師範学校校長、
  1875年(明治8)師範学校教育調査のためアメリカへ留学、マサチューセッツ州
           ブリッジウォーター師範学校で学び、グラハム・ベルから視話術を、
           ルーサー・メーソンから音楽教育を学ぶ。ハーバード大学で理化学を学び、
           地質研究なども行う。聾唖教育も研究する。
  1876年留学生仲間の金子堅太郎とともに日本人として初めて電話を使っている。
      (この時エジソン研究所を訪問。)
  1879年(明治12)3月東京師範学校校長となり、音楽取調掛に任命されメーソンを招く。
      来日したメーソンと協力して西洋音楽を日本へ移植し、『小學唱歌集』を編纂。
  1888年(明治21)東京音楽学校、東京盲唖学校校長、国家教育社を創設して
      忠君愛国主義の国家教育を主張、教育勅語の普及にも努める。

<金子堅太郎(かねこけんたろう、1853年(嘉永六年)〜1942年(昭和17年)>
  明治の政治家、司法大臣・農商務大臣・枢密顧問官を歴任し、従一位大勲位伯爵。
  伊藤博文側近として大日本帝国憲法起草に参画する。ハーバード大学法学部で法律を学び、
  日露戦争では渡米し外交交渉や工作を遂行。日本法律学校(日本大学前身)初代校長、
  専修大学創立にも関わる。
  日米友好に尽力し、晩年の日米開戦には憂慮したという。

(4)渋沢栄一
  実業家渋沢は、明治42年(1909ねん)訪米実業団団長としてアメリカ各地を訪問し、
  エジソン研究所も訪問。
  その後も親しい交際を続け、1922年(大正11年)エジソン75歳の誕生日に日本工業倶楽部で
  祝賀会を執り行っています。

(5)御木本幸吉
  世界の真珠王は1926年(昭和元年)フィラデルフィア独立150周年記念万国博覧会に
  真珠を出展し、その折り、ウェストオレンジ・エジソン研究所を訪問しています。

(6)野口英世と星一
  1922年(大正11年)偶然アメリカで知り合った星製薬創始者星一氏と一緒にエジソンを訪問し、
  エジソンからメッセージ入りの写真を貰っています。

(7)その他
  新渡戸稲造は、東洋文化をエジソンに披露した人物として、岩垂邦彦(日本電気・NEC創設者)や
  藤岡市助(東芝創設者)などは、エジソンから電信技術や電球開発の技術指導を受けた人物として
  記憶されています。

 以上の日本人の人脈を辿っただけでも、「エジソンの白熱電球の発明」の周辺には、
国際的な人の関わりを感じられます。単なる「一文明の利器」の発明だけに終わっていない
「エジソンの発明魂」に、改めてその偉大さと人類の歴史に計り知れない恩沢をもたらして
くれた偉業の数々に感謝の念を再認識せずにはおられません。

*** 平成20年4月18日(「発明の日」に) ***産業部技術顧問・中西久幸


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