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平成20年3月度・月報

15.与謝野晶子と電磁気社会
ー電気でつながる歌人晶子ー


目     次


<現代社会に於ける電磁気の恩沢>
<電気の発展に尽くした日本人>
<鳳秀太郎と与謝野晶子>
<吉田隆子さんのオペラ>「君死にたもうことなかれ」

鳳志よう

<現代社会に於ける電磁気の恩沢>

 現代社会は電磁気の存在なしには成り立たないことは自明の理であり、現代人はそれこそ24時間、
その恩恵に浴していると言えましょう。現代人の周囲に電磁気に関係しない物はありません。

 現代人の一日を身近なところから考えてみましょう。目覚まし時計は電池で動いています。
 電話やラジオからの音声、さらにテレビジョンからの映像世界が、居ながらにして、遠隔地の情報を
与えてくれるのです。
 多人数が高速で、何処へでも移動できる電気軌道があり、パーソナルコンピュータは膨大な情報を
一瞬にして提供してくれます。携帯電話によって何処からでも、誰とでも話すことができるのです。

 こんな電磁気に頼った社会を、電気の歴史を切り開いてきた先人達は想像していたでしょうか。
 今からほぼ400年前、西暦1600年イギリスのギルバート(1540〜1603)が静電気の
研究を始め「磁石について」を著しました。
 彼はエリザベス一世の侍医で、「電気・磁気について科学的な実験をした最初の人」として、
「磁気学の父」と讃えられています。
 アメリカのフランクリン(1706〜1790)による避雷針の発明は1753年のことで、フランスの
クーロン(1736〜1806)が「クーロンの法則」を発見するのは1785年で、19世紀の到来と
共に、次のように電気に貢献した多くの人々が現れます。
 1799年イタリア・ボルタ(1745〜1827)の電池の発明
      (電圧の「ボルト」は、彼の偉業を讃える電気用語)
 1820年イギリス・エルステッド(1777〜1851)の電流による磁界の発見
      (磁場の強さの電磁単位:エルステッド)
     フランス・アンペール(1775〜1836)の「右ねじの法則」(電流と磁界の方向の関係)
      (電流の単位:アンペア)
 1826年ドイツ・オーム(1789〜1854)の「オームの法則」
      (電気抵抗の単位:オーム)
 1831年イギリス・ファラデー(1791〜1867)電磁誘導現象の発見

 このように、電磁気技術の基礎は19世紀前半で確立され、19世紀後半から、具体的かつ
実用的な電気技術の活用世界が展開していきます。
 1851年 海底ケーブル敷設 イギリス・ブレッド兄弟、クランプトン
 1866年 自己励磁式発電機の発明 ドイツ・ジーメンス
 1873年 電波を予言 イギリス・マックスウェル
 1876年 電話の実用化 アメリカ・ベル
 1879年 電球の開発 アメリカ・エジソン
 1888年 電磁波の発見 ドイツ・ヘルツ  
       水力発電 イギリス・アップルトン
 1895年 無線電信の実験 イタリア・マルコーニ

 20世紀は前世紀の電気技術が花開く時代になり、まさに「電気の時代」を迎えます。
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<電気の発展に尽くした日本人>

 前述のような電気の歴史の中にあって、日本人は如何に関わっていったのでしょうか。
 参考資料(藤村哲夫「電気発見物語」講談社・2002年)によりますと、1720年頃から
ヨーロッパの科学がオランダを経由して日本へもたらされました。

 1765年(明和二年) 後藤梨春:摩擦起電気(「ゑれきてりせいりてい」)を紹介
                                             (「紅毛談」・オランダばなし)
 1776年(安永五年) 平賀源内:わが国初の摩擦起電機をつくる(逓信博物館所蔵)
 1811年(文化八年) 馬場貞由:ミュッセンブルークやフランクリンらの研究を紹介
                                             (「厚生新編」)
              橋本曇斎:摩擦起電機を考案し研究発表
                                             (「阿蘭陀始制エレキテル究理原」)
 1827年(文政十年) 青地林宗:ボルタ電池を紹介(「気海観瀾」)
 1849年(嘉永二年) 佐久間象山:電気実験を行う(ショメルの百科事典オランダ語訳を参考)
              絶縁電線、指字式電信機、ダニエル電池、碍子、などの電気設備一式を
              自作した。電信機の国産第一号。その他地震予知機、電磁誘導起電機、
              電気医療器なども試作した。
 1851年(嘉永四年) 川本幸民:エルステッドの発見から始まる電気磁気学を著す
                     (「気海観瀾広義」)

 こういった江戸期の電気学先駆者達の活躍を見ますと、日本の電気の歴史も、西欧の技術を
ほぼ遅れることなく取り込んでいたことが分かります。
 一方実用的な電気技術の展開は、次のようになります。

 1881年(明治14年) 藤岡市助:電灯事業を提唱(「我が国電力事業創生期の最大の功労者」)
 1883年(明治16年) 矢嶋作郎・大倉喜八郎が東京電灯会社設立(2000燭光のアーク灯を
              見世物にする)
 1885年(明治18年) 屋井先蔵が乾電池を製作。(1893年明治26年特許取得)
              (日清戦争戦場の通信電源)
 1887年(明治20年) 東京市内5個所に電灯局(発電所)を設け、一般家庭に電灯を
              供給しじめる。
 1891年(明治24年) 田邊朔郎がわが国初の営業用水力発電所として、蹴上発電所建設。
              (80キロワット二基)
 1912年(大正元年) 鳥潟右一が持続性電波の発生と鉱石検波器の組み合わせで実用的
              無線電話機完成。
 1924年(大正13年) 福澤桃介が木曽川にわが国初のダム式大井発電所を建設。
              (出力4。3万キロワット)
 1925年(大正14年) 八木秀次・宇田新太郎がテレビアンテナを開発。                      

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与謝野家と有島家の系図

<鳳秀太郎と与謝野晶子>

 前述のような電気技術者の中に、与謝野晶子が見え隠れするのです。我が国の電気工学の歴史に
於いて理論的発展は明治末期に始まっていますが、その中心人物が与謝野晶子(旧姓・ほう 志よう)の
実兄に当たる鳳秀太郎(ほう ひでたろう)という電気学者です。「電磁気学が鳳兄妹を別々の人生」に
したと言えそうです。

 鳳秀太郎は明治5年(1872)、大坂堺の菓子商(羊羹店舗駿河屋)鳳宗七の長男として生まれました。
東大で電気工学を専攻して明治29年(1896)卒業、翌年25才で助教授に就任し、35才で工学博士に
なった秀才です。
 多くの業績が上げられる中、発明品としては、電気波形を表示するオシログラフの特許を早くも
明治44年に取取得しています。また、大正十年第8代電気学会会長も務めています。
 理論的業績では、「鳳・テブナンの定理」(どんな複雑な交流電気回路でもただ二つの要素に
置き換えられると言う定理)「複素エネルギー不滅則」(交流電気回路における虚数エネルギーも
また不滅であるという法則)などが挙げられ、いずれも現代交流電気回路理論の根幹を成す法則の
発見とされているものです。

 与謝野晶子初の歌集「みだれ髪」にある

        <やわ肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君> 

における「君」とは、だれであるか。東京大学電気工学部門の後輩の電気学者の一つの推論として、
晶子の実兄鳳秀太郎を挙げているインターネット情報がありました。
 「鳳秀太郎は電気工学の泰斗であり、あまりにも考え方の違いが大きくて兄妹の仲が悪く、
  <やわ肌のあつき血汐云々>は、「実は心冷たき兄を詠んだものである、」という。

 さて「やわ肌の云々」が、まさしく心冷たき兄を詠じたものであるか否かに就いて確証が得られた
わけではないが、関係者のお話から推察すると、「そうであっても不自然ではない」とされているのです。

 鳳秀太郎は鳳家の長男ですから、本来なれば、家業を継ぐべきところ、工学分野の大家になったために、
菓子商としての商人は勤まりません。結局跡継ぎは妹が婿を取って家業を継ぐか、残されたあとの
男兄弟の誰かが代わることになります。ところが妹は歌の道にのめり込んで家出同然の状態でしたから、
菓子商どころではありません。
 そこで残るは、日露戦争に従軍していた晶子の弟・鳳籌三郎(ほう ちゅうざぶろう)が戦死せずに
帰ってくることを願うしかありません。

 そこで、かの有名な「君死にたまふこと勿れ」を世に問うことになります。

  君死にたまふことなかれ  ー旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きてー

   あゝをとうとよ、君を泣く、  君死にたまふことなかれ、  末に生れし君なれば
   親のなさけはまさりしも、  親は刃(やいば)をにぎらせて 人を殺せとをしへしや、
   人を殺して死ねよとて   二十四までをそだてしや。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

日本の社会全体が「日露戦争」に向かっているという時勢が時勢でしたから、大変な物議を
醸しました。それでも与謝野晶子は、肉親の事を、すなわち家業に励む親のこと、戦争に
狩り出された弟のこと、などを戦争以上に大切に考えたのでした。与謝野晶子にすれば、
「国民あっての国家ではないか」ということなのでしょう。

 それにしても大坂堺の鳳一家は明治期の人間として凄い才能の集団を世に送り出したものです。
分野こそ違え、お二人の日本社会への貢献は、大変なもので、感謝せねばなりますまい。
  
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<吉田隆子さんのオペラ>
「君死にたもうことなかれ」

 新宿書房から吉田隆子「君死にたもうことなかれ」(2005年3月20日発行)が出版されて
いる。

 雑誌「日本評論」に、1950年(昭和25年)6月にオペラ「君死にたもうことなかれ」の
オペラ台本が発表された。作曲者吉田隆子さんご自身「そのうち自分で作曲して、舞台にかける」
つもりである。」と述べています。
 このオペラ台本の内容は次の通りです。
 
 時  明治三十三年(1900)〜明治三十七年(1904)
 場面 第一幕 第一場 高師浜ー歌会
        第二場 東京渋谷村ー与謝野の家
    第二幕 第一場 東京銀座通りー呼び売り新聞社前
        第二場 堺・甲斐町ー駿河屋
        第三場 東京九段ー富士見女学院
    第三幕 第一場 東京・赤坂ー弁慶橋
        第二場 東京九段ー富士見女学院
 人物 与謝野晶子(鳳晶子、23歳〜27歳)
    与謝野鉄幹(晶子の夫。5歳年長)
    並木健一(晶子の歌友、後女学校音楽教師。晶子と同い年)
    山川登美子(晶子の歌友。晶子と同年)
    鳳秀太郎(晶子の兄、工学士、5歳年長)
    鳳籌三郎(晶子の弟。駿河屋を継いだ世襲名・宗七、晶子より3歳年下)
    おせい(籌三郎の嫁、晶子より6歳年下)  など

 吉田隆子の略歴 
    1910 明治43年 陸軍騎兵実施学校校長吉田平太郎の次女として東京府に生まれる。
               二男二女の末っ子。
    1922 大正11年 日本女子大学付属高等女学校入学。ピアノを買って貰う。
    1927 昭和 2年 女学校を卒業。ピアニストを目指す。
    1929 昭和 4年 アンネ仏蘭西に通う。作曲を橋本国彦に師事。
    1932 昭和 7年 「音楽世界」懸賞論文に入選。人形劇仲間高山貞章と結婚。
    1935 昭和10年 メーデー行進に近づき、上野署に拘留される。
               日本現代作曲家連盟に入会。
    1936 昭和11年 久保栄との共同生活・自由が丘で。
    1940 昭和15年 腹膜炎重篤となり、病臥生活。
    1947 昭和22年 ラモー室内楽団により放送初演。
    1949 昭和24年 晶子祭にて歌曲「君死にたもうことなかれ」
                    女性合唱曲「晶子祭」初演。
    1956 昭和31年 癌性腹膜炎で没。享年46歳。

*** 平成20年7月14日(追記) ***産業部技術顧問・中西久幸


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