律令体制下の播磨国東部は、美嚢郡(みなぎぐん)の西半分の地区となっていました。現在の志染町 あたりには縮見屯倉(しじみみやけ)が置かれていたと言います。 「日本書紀」顕宗天皇即位記によりますと、第20代安康天皇なきあとの継承紛争の最中、安康天皇の 兄弟で第21代天皇に就いた雄略天皇に殺害された第17代履中天皇の皇子になる市辺押磐皇子 (いちのべのおしわのみこ)の二人の兄弟、兄の億計王と弟の弘計王は、当地縮見屯倉に難を逃れたと いうのです。 以上の天皇系累は次のようになります。皇位継承問題は古くから何かと問題のあったことのようです。 (16)仁徳天皇 ー(17)履中天皇ー市辺押磐皇子ー(24)仁賢天皇(億計・オケ・王)ー(25)武烈天皇 ー(18)反正天皇 ー(23)顕宗天皇(弘計・ヲケ・王) ー(19)允恭天皇ー(20)安康天皇 ー(21)雄略天皇ー(22)清寧天皇 そして、第26代継体天皇へと皇室系譜は、転換されてゆきます。 どうして履中天皇のお孫さん達がこの播磨国東部に逃亡してきたのでしょうか。多分に関係する地方 有力者の存在が考えられます。日本書紀では、屯倉の首である海部造細目という人物が言及されて います。お二人の天皇の今に残る史蹟は「志染の石室」にあります。
中世の三木市地区には、多くの寺社や貴族の所領が陣取りされていました。三木庄や細川庄などで、 建暦二年(1212)藤原定家は、源実朝から地頭職を拝領し、領家職と合わせて、細川庄一円の領主と なっています。 この所領が定家の末裔間の諍いのもとになるのです。それが、定家の息子為家の側室になる阿仏尼を 鎌倉幕府の所領訴訟に鎌倉下りさせる原因になっています。唯一の成果は、「十六夜日記」が後世の 日本人に伝わったということでしょうか。この点に関しては、百人一首歌人随筆「敷島随想」 ー源実朝ー十六夜日記と細川庄と大通寺を参照願います。 藤原定家も転んでもただでは起きないということになるのでしょう。末裔の女性をして、所領の訴訟が 起こったとしても文学作品の一編でも残させるということでしょうか。 藤原定家の所領地区は、中世頃から既に多くの利権が渦巻いていた領国でした。それだけ、 領地支配者にとって重要な米の産地として魅力的な土地柄であったということになります。現在でも 酒造米として名の通った「山田錦」の銘柄の産地になっているとおりです。 それだけ古い土地柄ですから、中世からの家屋もこの東播地区には伝承されているのです。それは 呑吐ダムが造り出す人工湖「つくはら湖」の東側地区にあたる神戸市北区に位置している衝原(つくはら) 地区に、「千年家」といわれる国指定重要文化財「箱木家住宅」があります。 箱木家はもと山田庄の地侍で応永年間(1394〜1429)頃には、この村落の中心的な家柄で あったとされています。「つくはら湖」の造営によって移築されたものです。
ところで、中世では、多くの荘園が密集するところであった細川庄も現代では、現代のスポーツ荘園と いうべき「細川ゴルフ荘園」に化けてしまいました。現在、三木市内には、なんと13ヶ所ものゴルフ場が 開発されているのです。隣接する周辺の市町内のゴルフ場まで考慮しますと、三木市周辺のゴルフ場の 密集具合が如何に高いかがわかりましょう。目次に戻る
中世末期の16世紀後半、播磨国の東部一帯8郡24万石は、別所氏族の領地となり、その後の 戦闘の現地になります。長享二年(1488)別所則治が三木城を築き、東播磨地区の制覇を目指した とされています。 別所氏族と羽柴秀吉との三木合戦(1578〜1580)は、三木地区を荒廃の地に変貌させました。 三木城に籠城を余儀なくされた別所長治は、22ヶ月間の抵抗の末、自らの身と引き替えに住民の命を 救います。 その辞世「今はただうらみもあらじ諸人の命にかはるわが身とおもへば」の歌碑が城址内に建立されて います。 一方攻める羽柴軍の軍師竹中半兵衛も、戦いの途中、三木城を取り囲んだ砦の中で病で、没して しまいます。両人とも戦さで、この三木城周辺で生涯を終えました。 羽柴秀吉はこの三木合戦のあと、すぐに本能寺の変で織田信長が急逝したことにより、急速に 「天下人」に近づき、約3年後には関白になり、さらに一年後太政大臣豊臣秀吉となります。近世の 幕開けは、三木城の陥落からかもしれません。
羽柴秀吉を織田信長の部下から、天下人へと出世を助けたことに最も功労があったとされる 竹中半兵衛なる人物に関しては、参考となるホームページを引用しておきます。 因みに、秀吉没後、天下を狙っていた徳川家康は秀吉の後継者豊臣秀頼を竹中半兵衛の故郷の 近くで「天下分け目の関ヶ原の戦い」を展開して、秀吉から天下人の権利を奪い取ります。歴史の 皮肉としか思えない運命の展開です。目次に戻る
中世の和歌世界で最重要貴族歌人は藤原定家です。その末裔で冷泉家の血筋を引く人物にして、 日本歴史上朱子学の祖とされる藤原惺窩が、三木市内細川町の生まれです。 細川町と藤原定家の関係は前述の通りです。 藤原惺窩なる人物に関する参考資料は、百人一首歌人随筆「敷島随想」ー 鎌倉右大臣(源実朝)より、引用しておきます。三木城主別所長治に滅ぼされた細川庄の冷泉為純の 三男として生まれましたが、子供の時から僧籍にあったために、難を逃れ、姫路書写山に拠っていた 羽柴秀吉を頼ります。 天正八年(1580)三木城は秀吉の手に入り、十五年(1587)秀吉は天下を統一し、同じ年 朝鮮半島から三人の使者が来日したとき、藤原惺窩に筆談をさせます。これを機に惺窩は、仏道を 捨て儒学の道に入っていきます。 江戸時代が始まるにあたり徳川家康に進講したとされます。270年に渡る江戸時代の処世的思想を 提示したことになり、実質の官学の祖林羅山は学問上の弟子に当たり、慶長九年(1604)44歳の 惺窩に入門しています。藤原惺窩を師と仰いだ著名人に紀州城主浅野幸長、京の事業家角倉了以 らがいます。 三木市の郷土の著名人として、その生誕地に銅像が建立されています。 なお、元和五年(1619)59歳で亡くなった藤原惺窩は、御先祖の藤原定家と同じ相国寺が同じ 墓所となっています。 細川町桃津の美嚢川に架かる「冷泉橋」を渡って生誕地を訪問しました。美嚢川沿いの農村風景は、 中世の細川庄の景観とあまり変わるところがない思われる鄙びた農村環境です。ところが残念ながら、 村落の周辺のあらゆる丘陵地は、現代人の間で人気のある「ゴルフ場」となってしまっています。 藤原定家、さらには藤原惺窩もびっくりではないでしょうか。
三木市内には、近代科学技術のモニュメント的事績が少なくとも二点あります。それは、日本の 標準子午線が三木市役所近くを通っていること、明治の初期、日本で初めてサイホン橋に依る疎水 工事が行われたこと、です。 (1)東経135度線 日本に於ける標準時子(北)午(南)線は東経135度線を基準にしています。この線は、日本海の 海岸では、丹後半島の網野地区に当たり、福知山市の近郊・夜久野を通り、西脇市・三木市・ 明石市を通り、淡路島の北端をかすめて、紀淡海峡・友が島の西側を抜けて、紀伊水道を通って います。 三木市では、市役所の東隣で、三木・三田線(県道38号線)の道路脇に東経135度を表示した 石碑が立てられています。(北緯は34度47分45秒になります。) これは、昭和二年(1926)一月に建立された「大日本中央標準子午線」と刻まれたものです。 参考ホームページを参照願います。 因みに、子午線が通過する市町村は10市3町になるそうで、それぞれの自治体が「子午線表示」を しているようです。関係する参考ホームページを添付しておきましょう。 (2)サイホン橋による疎水工事 県道三木三田線沿いの御坂地区に「御坂サイホン橋」があります。県道の南北丘陵地帯 (北:ひょうご情報公園都市ー南:三木震災記念公園)間に疏水導管が敷設されているものです。 これは、英軍陸軍少将パーマー氏が設計し、約二年かけて明治24年(1891)に完成した当時と しては画期的なわが国初の「サイホン(噴水管)工法による一大土木工事」であったのです。 この疎水工事はその後の琵琶湖疎水(滋賀ー京都)、安積疎水(福島)の魁となり、日本三大 疎水工事の一大金色塔となりました。 当該疎水は、既に建設後110年以上経っているに関わらず、現在も使用されているのです。 その意味で、この工事は世紀の大土木工事であったというべきでしょう。 因みに導水管の大きさは径が1100mmで、長さ6mの単管が片側の丘陵斜面に30数本敷設 されています。サイホンの片側は大凡230m近くの長さで、平坦部と最下部のサイホン橋の前後が 約500m近くありますから、丘陵間の噴水工法による疎水全長は1000m近くになるでしょう。
御坂地区の丘陵地と美嚢川に架かる近代的構築物に対して、周辺の地域には、寺社建築物も 残されています。 サイホン橋の北詰めの近くに御坂神社があり、サイホン橋の北丘陵地に隣接して伽耶院があります。 「延喜式」神名帖に載る御坂神社は天正年間((1573〜1593)の兵乱で焼失し、慶長十三年 (1608)現在地へ建立されたという。 伽耶院は大化年間(645〜649)が法道仙人が創建したという古い寺院ということになります。 本堂ほか、木像毘沙門天立像などは重要文化財となっています。毎年10月の大護摩の仏事には 山伏姿の修験者が集まり、全山に法螺の音がこだまするとのこと。
三木地区に於ける現代の産業の代表は、「山田錦」と「三木金物」ということが出来るでしょう。 「山田錦」とは、酒造りの米のことで、酒造米の王者とされる銘柄で、三木地区の特産品になります。 古くから灘の生一本の原料として重宝がられてきたのです。 もう一品は「播州金物」として16世紀の三木合戦以降、三木地区の特産品として継承されてきた 伝統工芸品であるのです。三木城址の一画に「三木市立金物資料館」があり、特産品各種金物を 展示しています。
金物資料館で金物製品の名称として、漢字の勉強をしてきました。
*** 平成18年2月28日 ***産業部技術顧問・中西久幸