平成社会の探索


ー第65回知恵の会資料ー平成18年10月1日ー

「知恵の会」への「知恵袋」


(その9)「定家の月」

<百人一首の月詠歌>

 百人一首の中で月詠歌は、次の十一首で、「有明」まで拡大しますと、十二首になります。これは、
百人一首の歌題中一番多い部類になります。
 (注)最も多い歌語:「ひと」(20首、取り札9枚の「ひとなかせ」の札)、
           「山」(14首)、「つき」(12首)、「風」(11首)など。

 これらの「月詠歌」を選定した定家の意図するところはどの辺にあったのでしょうか。これらの
歌を取り出して、月の運行順に並べて図示してみますと、次のようになり、月の移りゆきに沿った
色々の歌を、しかも古今和歌集から半数以上(6首)を選定していることが解ります。

21番「今来むといひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな」(古今集・素性法師)
 7番「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かな」(古今集・安倍仲麿)
23番「月見ればちぢに物こそかなしけれわが身ひとつの秋にはあらねど」(古今集・大江千里)
86番「嘆けとて月やは物をおもわするかこち顔なる我が涙かな」(西行法師)
68番「こころにもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな」(三条院)
57番「めぐりあひて見しやそれともわかぬまに雲隠れにし夜半の月かな」(紫式部)
79番「秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ」(左京大夫顕輔)
36番「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいずこに月宿るらむ」(古今集・清原深養父)
59番「やすらはで寝なましものを小夜更けてかたぶくまでの月を見しかな」赤染衛門
81番「ほととぎす鳴きつるかたをながむればただ有明の月ど残れる」(後徳大寺左大臣)
30番「有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし」(古今集・壬生忠岑)
31番「朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪」(古今集・坂上是則)
 また月の状態を「見える月」「見えない月」という基準で分類しますと、中天あたりを運行して
いると思われる清原深養父の第36番歌と紫式部の第57番歌が後者の部類になります。
 藤原定家は、壬生忠岑の第30番歌を秀歌として褒め称え賞翫していたと言われていますが、
父親の俊成の言葉「歌人は源氏読みであるべき」立場から、「源氏物語」同様に、紫式部の歌も
重要視していたように思います。選ばれた月詠歌の中にあって、数少ない「見えない月」を
詠んだ歌を「紫式部の歌」に充てているのです。

<雲隠れの月>

(1)紫式部の歌「めぐりあひてみしやそれともわかぬまに雲隠れにし夜半の月かな」

 この歌の一般的解釈は「たまたま出あって、見たのがそれ(月)であったかどうかもわからない
うちに、雲がくれてしまった真夜中の月であることよ。ー昔親しかった人と偶然めぐりあったが、
あわただしく帰ってしまった人であることよ。」とされています。これは、新古今和歌集の詞書きに
「偶然出会った幼友達なのに、月が西山に沈まないうちに、月と競いあうようにあわただしく
かえってしまったのを、つらくおもって詠んだ」と記されていることによるものです。

 この歌の解釈にさらに一歩踏み込んで、(独断と偏見で拡大解釈しますと、)次のように読みます。
 夜半の月とは、紫式部の場合は、「はやうよりわらはともだちにてはべりけるひと」の比喩ですから、
これを「読み人の親しき(ちかしき)ひと」の概念を指していると解釈します。すなわち、「読み人の
親」のことで、世に言うところの「親孝行思い立ったが親はなし」の心境です。
 親が子を子として、子が親を親としてお互いに認識し、意識して思いやり(「看し」あるいは
「それと分く」)始めた頃に、もはや親は子の前から姿を消しているという「世の習い」一般を
暗に示そうとしているのではないかという解釈です。
 (人に押し付ける解釈でなければ、どのように解釈しようと鑑賞する人の好みとしたい。)
 ついでに、紫式部の曾祖父(藤原兼輔)の歌で、源氏物語に多く引用された子を思う歌を
思い出します。
 「人の親の心は闇にあらねども子を思う道にまどひぬるかな」
 誠に時移り所変われど、変わらぬは親子の関係ですね。

 さて、定家が百人一首に選んだ歌人の歌には、その人を代表して、生涯像を詠みだしていると
思われる歌を選んでいる例も幾つか思い当たるところです。一例を挙げますと、
 <1>第9番ー小野小町<2>第15番ー光孝天皇<3>第50番ー藤原義孝
 <4>第53番ー右大將道綱母<5>第54番ー儀同三司母<6>第56番ー和泉式部
 <7>第62番ー清少納言<8>第63番ー左京大夫道雅<9>第68番ー三条院

 同じく、紫式部の場合も、私家集「紫式部集」の筆頭歌である当歌を代表として選定し、かつ
定家の頭の中には「雲隠」という歌詞を引用したかったこともこの歌を選んだ背景となっている
のでは、と憶測しました。源氏物語での「雲隠の巻」との関係を言及している評釈は、慶長年間の
百人一首評釈書(「百人一首抄」後陽成天皇・慶長十一年(1606))にも見えるところです。

 因みに江戸期の各種百人一首歌評釈書(後述参考メモ書き)によりますと、第57番歌の解釈は、
「月」を「わらはよりの友」に比喩を与え、かつ本歌取りの歌として伊勢物語の次の歌を引用して
います。
 「わするなよ程は雲居になりぬとも空行く月のめぐりあふまで」
 また、「雲隠」という歌語に「古来、逝去の事に用ひたり」と付言しつつも、この歌ではその意味
合いは薄い、または、ないものと考えていたようです。また賀茂真淵や斉藤彦麿らは、万葉歌
(巻三ー302)を引用しています。
 「子らが家路 やや間遠きを ぬばたまの夜渡る月に競ひあへむかも」

(2)万葉集での「雲隠れの月詠歌」
 万葉集では約180首(一説に225首)の月詠歌が集録されています。日本人の月を見る態度は
奈良町以降で、自然観賞の習慣が生まれ照る月を愛でる表現も見られるようになりますが、
「仲秋の名月」なるものを鑑賞する習慣は、中国唐代に興った習わしを真似たもので、本邦では
孝謙天皇の時代からとされています。 
 万葉集では、巻第七・雑歌に「月を詠める」題詠として、1069番歌から1086番歌まで
19首が集められていますが、八月十五夜の月を詠む歌はありません。後撰集あたりから、
「八月十五夜」の歌題が見られるようです。もっとも万葉集の中には、「照る月」ばかりでなく、
三日月を詠んだ歌、あるいは、次のような歌もあります。

 「まそ鏡照るべき月を 白たへの雲か隠せる 天つ霧かも」(1079番)
 「霜曇り為すとにかあらむ 久方の夜渡る月の見えなくおもへば」(1083)
 「山の端にいさよふ月を 何時とかも わが待ち居らむ 夜はふけにつつ」(1084番)

 いずれの歌も「月は見えないままでかまわない」と言っているのでなく、明らかに、「空に
月の出」を期待している心情です。それが平安朝になりますと、月に対する美意識が変わっていく
のでしょう。  


(3)平安朝文学での「雲隠れの月見」
   大陸的「月見」は、明らかに「皎々たる月」を眺めることにあるようです。また、
  古今和歌集でも「雲隠れの月」を鑑賞するという美学は未だ存在していなかったのでは、
  ないかと思われます。

(@)和漢朗詠集に見る漢詩の「皎々たる月」詠歌集(巻上・秋 十五夜付月 より)
   「三五夜中の新月の色 二千里外の故人の心」(白氏文集)
   「十二廻(しふじくわい)の中(うち)に 此夕(こよひ)の好(ことんな)きに
    勝りたるは無し 千万里の外(ほか)に 皆我が家の光を争ふ」紀長谷雄

(A)「古今和歌集」での「月」詠歌群
   「木の間より漏り来る月の影みれば心尽くしの秋はきにけり」(184番・読み人知らず)
   「白雲に羽うちかはし飛ぶ雁の数さへ見ゆる秋の夜の月」(191番・読み人知らず)
   「久方の月の桂も秋はなほ紅葉すればや照りまさるらむ」(194番・忠岑)
   「秋の夜の月の光し明ければくらぶの山も越えぬべらなり」(195番・在原元方)

<見えぬ物を見る美学>

 紫式部の百人一首歌に見られるように、日本人は、「月」を詠むのに必ずしも、満月ではなく、
三日月などの欠けた状態を趣があると見たり、さらには、見えない月を見ることを月見の一つに
するという一種の美学を創り出しています。

(1)源氏物語に於ける「すめる月」と「見えぬ月」
   「澄める月」の代表的描写(「朝顔」巻より、光源氏のことばとして)
   「時々につけて、人の、心を移すめる、花・紅葉の盛りよりも、冬の夜の澄める月に、
    雪の光あひたる空こそ、あやしう、色なきものの、身にしみて、この世の外のことまで、
    思ひ流され、おもしろさもあはれさも、残らぬ折なれ。」

   一方、「天気が悪くて月が隠れている、あるいは、月がない頃の出来事は「源氏物語」では、
    例外的である。」(林田孝和ほか「源氏物語事典」(大和書房)2002年)ということ
   ですから、「見えぬ月」をわざわざ言及している所はないようです。従って、なおさら
   物語の中ほどにさしかかっての「雲隠」の巻は、衝撃的であるのかも知れません。かつ
   紫式部は、敢えて、文章不用と見たのでしょう。こういう作家的工作も天才的です。
   因みに、「月は、雪や花と並んで親しまれる風物でありながら、眺めるのを忌むという
   月の俗信があった。」(引用文献:前出)ということです。これでは、「見えない月」と
   いうより「見ない月」ということになります。
   
   なお、「枕草子」での清少納言の月は、「ごく常識的な季節の月が多く採りあげられて
   いる」(枕草子研究会編「枕草子大事典」(勉誠出版)平成13年4月)とのこと。

(2)鎌倉期の知識人の「見えない物」への拘り
   (悪く言えば、<やせがまん>か、あるいは、無い物ねだりをしない<あきらめのはやさ>か、
    <おくゆかしさ>か。)

    しかしながら、定家詠「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」という
   歌の中に「やせがまん」「諦めの早さ」などと言えるところがあるのでしょうか。
    定家より少し時代が下がる鎌倉初期の知識人の「月見」の考えを引用してみましょう。

(イ)鴨長明の「無明抄」
   「・・・霧の絶え間より秋山をながむれば、みゆる所はほのかなれどおくゆかしく、
    いかばかりもみぢわたりておもしろからむと、かぎりなくおしはからるるおもかげは、
    ほとほとさだかにみむにもすぐれたるべし。・・・」
    (出典:冷泉為人「百人一首についてー日本人のこころをめぐってー」
        (財)小倉百人一首文化財団 百人一首ゆかりの史跡を尋ねて
        平成18年4月27日 於上賀茂神社

(ロ)吉田兼好の「徒然草」(第137段)
   「花はさかりに、月はくまなきをのみ見る物かは。雨に向ひて月を恋ひ、たれ込めて春の
    行方知らぬも、なほあはれになさけふかし。咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭など
    こそ見所おおけれ。・・・ 
    望月のくまなきを千里の外までながめたるよりも、暁近くなりて、待ち出たるが、
    いと心深う、青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたるに、木の間の影、うちしぐれ
    たる村雲がくれのほど、またなくあはれなり。・・・
    すべて、月・花をば、さのみ目にてみるものかは。春は家を立ちさらでも、月の夜は
    閨のうちながらも思へるこそ、いとたのもしう、をかしけれ。・・・」


 「見えぬ物を見る美学」の典型は、平安期和歌世界の「歌枕」であり、中世の「能」や「狂言」、
また、俳句も見方を変えれば、最小限の言葉を使いながら、より多くの「見えぬ世界のイメージ」を
鑑賞者にふくらませられるかが、句の良し悪しになるのではないでしょうか。
 さらにこの考えを拡大解釈して、近代の「落語」も一種の「見えぬ物を見えるように見せる芸術」
ではないでしょうか。


(3)和歌世界の「歌枕」
 日本文化の中に於ける「歌枕世界」の成り立ちを見ますと、次のようになりましょう。      

(イ)歌枕の役目 
   「万葉集」やその後の「勅撰和歌集」の年月を通して、日本民族は「やまとうた」の和歌を
   民族の伝統文芸に創り上げ(古今集仮名序など)、「歌枕」という文化伝承のための道具を
   考案して和歌に導入し、「歌枕」に日本の風景を切り取って千年後の現在へ送り込んで
   きました。「歌枕」は日本民族の知恵の結晶です。
(ロ)昔の人々の異郷風物への憧れ
   自由に行動が出来なかった時代の人々の生活空間は誠に狭いものであり、先祖から
   伝承された世界を受け継ぐために「語り継ぎ、言い継」がれてきた口承世界や物語世界が
   主体であったのです。その環境下で異郷風物への憧れを満足させるに「歌枕」は打って
   付けのものでした。
(ハ)「歌枕」の再評価
   平成時代の「歌枕」を実地体験することによって、そこから嘗ての人々が共有した「歌枕」と
   その提供した空想世界へ思いをめぐらすことが現代人の為すべき事といえましょうか。
   すなわち次のような時間的および空間的思考交差パターンが考えられます。
   中古、中世の歌人達、たとえば、百人一首歌人達は、「歌枕」という乗り物を創出して、
   空間的に移動困難であった「歌枕世界」を逍遥しました。
   「歌枕世界」の実景を体感できる現代人は、「百人一首」などの和歌集という乗り物に
   乗って、時間的に移動困難である「百人一首歌人達の歌枕世界」を体験したいところです。   

(4)「能」「狂言」世界の舞台芸術
  中世からの芸術「能」「狂言」の舞台は、四本の柱に支えられただけの六メートル四方の
 「限定された、また切り取られた空間」に過ぎません。役者はこの狭い空間で、ありとあらゆる
  世界を演じ、展開してみせるのがこれらの芸術です。
  空間的には、現実の世界はもとより、幻想の世界、夢の世界、天国や地獄、時間的には、
  過去・現在・未来いずれの時間でも演じられるわけです。
  正に、「見られぬ世界」を「見ることが出来る世界」に仕立て直して、観衆の前に「見せる」
  ものです。かつ舞台上の演技者が観客に「無限の夢幻的イメージ」が作れるように仕向けるの
  です。この辺は現代の映画手法とは、数段観衆に高度な精神的演技協力を要求する特殊芸術で
  あると言えましょう。
  またこれらの舞台は、西欧の平面的舞台(額縁舞台)と違って三方から観衆が鑑賞している
  よろずの物が創出される「魔法の空間」であるのです。楽屋から舞台への「橋掛り」は、
  あの世とこの世の架け橋と見なされています。舞台装置から既にこの世で見えぬ物を見える
  ように設えているのです。西洋の演劇では見られない舞台設定です。 

(5)座ったままであらゆる世界を演じてみせる「落語の世界」
  「落語」の世界は、「能」「狂言」の演劇舞台よりさらに限定されたざ「座布団一枚」の世界
  に座しての手八丁、口八丁での「笑いの世界創出芸術」です。
  落語は、十七世紀の初め頃、難波と江戸で、興ったとされています。彼らの道具は、扇子に
  手拭いがせいぜいでこの僅かの演技用道具をあれこれに使い分けて、いろいろの笑い世界の
  時間的空間的設定をこなしていきます。観客が充分に対応してくれないと笑い世界は、展開して
  ゆきません。
  西欧社会では、これに匹敵すると思われる芸術に「パントマイム」という寸劇パーフォーマンス
  が伝承されてきていますが、創出できる世界は、誠に単純で、「落語世界」のごく僅かの
  部分にしか相当していないでしょう。まして、笑いの世界の広さ深さにいたっては、とても
  「パントマイム」が「落語」に対抗できるはずがありません。


<参考メモ・その1 「百人一首歌組み合わせパズル」>


 百人一首歌の中の「月詠歌」十一首について、百首の中に於ける位置付けを色々に考えた
パズル案を二例添付しておきます。

(左)織田正吉「絢爛たる暗号ー百人一首の謎をとくー」(昭和53年・1978・3月)集英社
および「謎の歌集・百人一首ーその構造と成立ー」(1989年1月)筑摩書房
(右)林直道「百人一首の秘密ー驚異の歌織物ー」(1981年6月)青木書店

<参考メモ・その2 引用資料集>


(1)藤原定家の「月詠歌」

     建久元年(1190)秋 「花月百首」 ー左大將良経家百首歌「西行追悼企画」ー
     「・・・月五十首は初秋(旧暦七月)の木の間を洩れる新月から秋の終わり(旧暦九月末)
      のしぐれに曇る有明の月まで、・・・季節の進行順に・・・さまざまな美しさが詠われ
      てゆく。・・・」(引用文献:久保田淳「王朝の歌人9−藤原定家」集英社(1984))

     (1)月の出 「秋はきぬ月は木のまに漏り初めて置き所なき袖の露かな」(651)
            「さえのぼる月の光にことそひて秋の色なる星合の空」(652)
     (2)東の空の月 「さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしく宇治の橋姫」(660)
              「関の戸を鳥のそらねにはかれども有明の月はなほぞさしける」(668)
     (3)中天  「ながむれば松より西になりにけり影はるかなる明け方の月」(675)
            「しののめは月も変はらぬ別れにてくもらば暮れの頼みなきかな」(676)
     (4)西の空の月 「あけばまた秋のなかばも過ぎぬべしかたぶく月のをしきのいみかは」(678)
              「衣うつ響きに月のかげふけて道行き人の音もきこえず」(689)
     (3)月の入 「あぢきなく物おもふ人の袖の上に有明の月のよをかさねては」(699)
            「長月の月の有明の時雨ゆゑ明日の紅葉の色もうらめし」(700)
            (和歌出典:「新編国歌大観」巻三 私家集 拾遺愚草)

(2)百人一首第57番紫式部歌(その1)解釈古本冊子各種
     引用資料:吉海直人「百人一首研究資料集」第三巻(全六巻)註釈二
          (株)クレス出版(2004年3月)
     引用文献:神作光一「古注・新注数種対照ー小倉百人一首演習ノート」
          引用されている書類は、細川幽斎(幽斎抄)、後陽成天皇(後陽成抄)、
          北村季吟(拾穂抄、八代集抄)、下河辺長流(三奥抄)、契沖(改観抄)、
          戸田茂睡(雑談)、栗本英暉(百人一首解)、賀茂真淵(宇比麻奈備)、
          衣川長秋(峯のかけはし)、香川景樹(百首異見)、斉藤彦麿(嵯峨の山ふみ)、
          尾崎雅嘉(一夕話)       
     
(3)百人一首第57番紫式部歌(その2)南波博士の解釈例
     引用資料:南波浩「紫式部集全評釈」(有)笠間書院 昭和58年6月30日
     評説  :「歌と詞書きとの照応性、緊密性は、単なる「人事の自然化」の伝統的比興
           詠法を超えて、作者式部は歌のSituationー場面、状況、人間的
           関係などに深い関心おwもち、それを重視していたことをします。」
          「式部歌は、表層面において、自然の風景を叙しながら、風景それ自体が
           式部自身であるという詠法が貫かれている。」
          「式部歌の通観点は
           ー人との「出逢い」と「別れ」というパターンの反復構成で、
            「愛別離苦」「会者定離」をいう。
           ー紫式部の人生に対する基本的思考を反映している。」

(4)小学唱歌(明治17年3月) 「四季の月」
    <1>咲き匂う  山の桜の   花の上に  霞ていでし  春の夜の月
    <2>雨すぎし  庭の草葉の  露の上に  しばしは宿る 夏の夜の月
    <3>見る人の  心ごころに  任せおきて 高嶺にすめる 秋の夜の月
    <4>水鳥の   声も身にしむ 池の面に  さながら凍る 冬の夜の月

<参考メモ・その3 歌枕世界>


 日本文化の中に於ける歌枕世界の展開は、次のようになりましょう。

  (@)「歌枕」に注目し始めたのは、10世紀後半、藤原公任(966〜1041)
     「四条大納言歌枕」、能因法師(988?〜1050?)「能因歌枕」「名所歌枕」、
      藤原範兼(1107〜1165)「五大集歌枕」「古歌歌枕」の歌枕集あたりが
     その嚆矢。
  (A)伊勢物語(10世紀初め)ほかの中世歌物語集
     都を出て伊勢からの東下りとして、東海を武蔵国へ。「歌枕」に裏付けされて異境の地を
     彷徨う貴種流離譚の世界へ誘い込まれます。「歌枕」が形成されていくのは、
     「源氏物語」と前後する10世紀終わり頃から11世紀にかけてと見られ、中世の
     「平家物語」や「謡曲」の世界でも、「歌枕世界」は存分に活用されています。
  (B)土佐日記などの紀行文集
     土佐日記(承平五年・935年頃)・・・・土佐から都への途上の風物見聞記
     「海道記」「東関紀行」「十六夜日記」・・・・鎌倉幕府と都との往来が盛んになる。
     「奥の細道」・・・・江戸前期における「歌枕」に対する代表的紀行文となった。
  (C)近世に於ける「異郷風物」への憧れ
     小説の道中物「東海道中膝栗毛」(十辺舎一九)(享和二年・1802年)・・江戸と
     京都の往来が盛ん。
     西欧文物享受「西洋事情」(福澤諭吉)(慶応二年・1866年)・・・欧米の文明への
     憧れ.

 絵画や写真を通しての異郷風物の文化受け入れ、「歌枕世界」が生々しい映像として提示され始め
ますと「歌枕」は色褪せて影を薄め、崩壊していかざるを得ません。

  (D)名所図会の流行
    「図会」は江戸時代に出版された「イラスト入りの名所ガイドブック」で、現代の「写真
     入り観光ガイドブック」。
     1780年(安永九年)「都名所図会」を初めとして、1835年(天保五年)「江戸
     名所図会」に至り、さらに明治維新までに刊行された主な図会は、「大和」「摂津」
    「和泉」「東海道」「河内」「播州」「木曽路」「唐土」「紀伊」「近江」「阿波」
    「備中」「尾張」など。
     神社仏閣名所関係では、「伊勢参宮名所図会」「鹿島志」「芸州厳島図会」「金比羅
     参詣名所図会」「善光寺道名所図会」「西国三十三名所図会」「成田名所図会」など。
  (E)写真類が出版されるようになって「写真入り名所案内本」が流布し、わざわざ出かけなく
     とも、「歌枕」が生々しく提示され出し、歌を詠む衝動を殺ぐことになり、「歌枕」で
     伝承されてきた文化が形態を変えるようになる。
  (F)テレビジョンやパーソナル・コンピューターが伝達する実像世界を体験できるように
     なった時代においては、異郷への思いが募るのでしょうか。またその思いから、何が
     生まれてくるのでしょうか。
    (注1)テレビ映像出現:「世界の旅」番組や日本各地の風物のテレビ放映
    (注2)パソコンでリアルタイムに得られる遠隔操作カメラ映像群

平成18年8月31日   *** 編集責任・奈華仁志 ***


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