平成社会の探索

<「知恵の会」への「知恵袋」>

ー第143回知恵の会資料ー平成29年5月28日ー


(その 88)「はやりうた・流行り歌」 ー「昭和初期の流行歌」と「近代大衆文明利器」ー
******** 目     次***********
<その1>蓄音器と流行歌
<その2>ラジオと流行歌
      雑記帳<その1>松井須磨子のカチューシャの唄
雑記帳<その2>「國民歌謡」から「ラジオ歌謡」へ
***************************

 「はやりうた」の定義としては、流行の小唄、歌舞伎での下座音楽、いわゆる「流行歌」などが含まれ、主として、
「江戸時代の大衆流行歌謡」(平野健次ほか「日本音楽大事典」)をいうとされるが、
ここでは、「ある一時期世間に流布し、その時その時の社会の雰囲気などを反映させて、多くの人々にこのまれる歌謡」に
ついて、音楽世界に関係する音源に耳を傾けたい。

 「はやりうた」の歴史は、平安時代の「梁塵秘抄」に収録されている「今様歌」にさかのぼれるのではないか。
「梁塵秘抄」そのものが「はやりうた」の収録とも言える。平安中期から流行し始めた新様式のうたで、
和歌や雅楽の影響を受けていて、七五調四句からなり、白拍子と言われる遊女が歌い、宮廷社会の人々に愛唱され、
宮中の節会などにもうたわれたという。
 例えば、雅楽「想夫恋」(平調の唐楽)。「相府蓮」(「丞相府の蓮」(じょうしょうふのはす/大臣の官邸の蓮)を
 あらわし、晋の大臣(丞相)である王倹の官邸の蓮を歌った歌が原曲であったが ,想夫恋,想夫憐など字が当てられて
 女性が夫を思うという意に解せられ,《平家物語》で小督局が高倉天皇を思いつつこの曲を箏で弾奏するくだりが有名。

 その流れは、筑前今様となり、果てには、「黒田節」にその要素がつたえられて、近代の流行歌の一曲になっている。
 近代の「はやりうた」は昭和初期の「流行歌」に始まり、それを支えた近代大衆文明事物である映画、レコード、
ラジオなどが関係してこよう。
 以下に「レコード(蓄音器による)」と流行歌、「ラジオの誕生」と流行歌の関係を探ってみる。


  *****************  <その1>蓄音器と流行歌  *******************
             「はやりうた」から「流行歌」へ(レコードの活用)

 音が記録できるようになったのは、1877年(明治10年)エジソンの蓄音器の発明によから、音の記録とのつき合いは
既に140年になる。当初の音の記録は、「アクースティック」方式で、いわゆる「ラッパ吹き込み」であったが、大正末期から
昭和初期の1920年代に入り、「電気吹き込み」録音が可能になり、音質は多いに改善され、いろいろの音源が記録されていった。
  蓄音器とレコードは明治時代半ば、1890年頃から普及し始めていたが、1900年代になって国産の蓄音器が開発され、
明治末から大正初期の1910年代レコードの生産や販売体制が本格化して、一般庶民でも手の届く大衆娯楽にとなった。
 大正時代中頃1920年代には、国内資本の大手レコード会社(日本ビクター・1926年、日本コロムビア・1927年、
日本ポリドール・1929年、キングレコード・1930年、テイチク・1934年など)も設立され、一大産業に成長していった。
 
 当初のレコードの分野は、邦楽(義太夫・長唄・浪花節・琵琶など)や芸能(落語・漫談・ラジオドラマなど)が中心であった。
 続いて、西洋音楽の普及・拡大による大衆化・日常化にも欠かせないマスメディアとなっていくが、これらは欧米からの
原盤輸入によるクラシック音楽の発売である。
 流行歌と称される大衆歌謡を考えるとき、明治44年・1911年の帝国劇場の開業が重要な出来事である。流行歌の嚆矢とされる
「カチューシャの唄」は、帝国劇場で演じられた芸術座公演「復活」の劇中歌である。
「流行歌」の第一号とされる、松井須磨子歌うところの
「カチューシャの唄」は、大正三年(1914)4月、
島村抱月の芸術座が京都南座で巡業中に、東洋蓄音器株式会社
(京都市五條大宮東入、大正元年創業、大正8年日本蓄音機商会
(日本コロムビア)に吸収合併)「オリエントレコード」なる
レーベルのもと、「復活唱歌セリフ両面盤」として、新聞広告
(「日出新聞」「大阪朝日新聞」)などで大々的に売り出された。
 (後述、<雑記帳・その1>参照方)
蓄音器とレコードによる音声複製技術は大正初期は、
未だ一般庶民への普及度は低かった。
レコード会社の社員の日給が一円以下で両面盤SPレコードは
一円五十銭、蓄音器にいたっては十五円以上であったから、
とても庶民の娯楽音源にはほど遠い時世である。
(永嶺重敏「流行歌の誕生」吉川弘文館(2010年9月1日))
 録音された「カチューシャの唄」は、めづらしさも手伝ったのか、一挙に人気を呼び、新しいマスメディアとしての
レコードによって、さらに粗悪な複製盤まで登場して、当時のカフェ等の大衆の集まる所を中心に、急速に「ひゃりうた」
として、現代で言う「流行歌」として広まっていった。
 レコードが芸術座の巡業を促し、「カチューシャの唄」が「復活」劇と共に全国に流行していったので、演劇とレコードが
流行の両輪となって、瞬く間に「近代の流行歌」の原型を示したことになる。

 大正時代は、演劇や、街頭に立つ艶歌師によっていわゆる「はやりうた」が広まって、徐々にレコードによる流行歌の
広がりもみられるようになった。レコード会社の発売する流行歌が全国に広まっていくのは、ビクターが昭和3年に
邦楽盤新譜発売以来とされている。レコードの録音技術の向上と蓄音器の性能向上なども流行の背景にある。
 ビクター初のヒット曲はまず佐藤千夜子続いて藤原義江による「波浮の港」で、ダンスホールが創設され、カフェは全盛を
極め、ジャズレコード(現在のジャズのいみではなく、雑多な曲といういみのジャンル)が売れ出し、「青空」「アラビアの唄」
「君恋し」など、歌手二村定一のジャズ調の唄が人気を呼んだ。 
 以降、昭和4年には、映画主題歌の嚆矢「東京行進曲」、股旅歌謡の始まり「沓掛小唄」、新民謡調「紅屋の娘」などが、
でてきて、レコードによる流行歌は全盛をきわめていく。

 昭和6年には、古賀政男が登場し、本格的な現代流行歌の世界が形成されていく。大正期の中山晋平、昭和期の古賀政男ら
レコード業界では、華々しい流行歌合戦が繰り広げられていく。藤山一郎歌うところの「キャンプ小唄」「酒は涙かため息か」
「丘を越えて」「スキーの唄」などの一連の古賀メロディが全国を席巻していった。

                          (以上情報編集は「関西SPレコード愛好会」世話役による。)
 

****************   <その2>ラジオと流行歌  *********************
              「國民歌謡」から「ラジオ歌謡」へ(ラジオの威力)

 世界初のラジオ放送はアメリカで1920年に開始されたAM放送で、日本での実験放送は、その2年後、1922(大正11年)
3月上野公園で開催された平和記念博覧会場と東京朝日新聞本社との間でニュースや音楽の放送であった。翌年の
1923年(大正12年)関東大震災が発生し、ラジオ放送の必要性があらためて認識されるようになり、 日本でも開局の出願が
100件以上になり、東京では28社の申請があったが、逓信省の指導により、東京放送局が設立され、1925年(大正14年)
3月1日の放送開始を目指して準備に入った。
 1925年3月22日(「放送記念日」)に(社)東京放送局(JOAK)が、東京、芝浦の仮放送所から試験放送を開始し、
7月までに大阪(JOBK)、名古屋(JOCK)でも放送を開始し、当初から邦楽やクラシック音楽を中心とする西洋音楽音源も
提供していた。聴取契約者はわずか5000軒ほど。7月12日愛宕山に建設した施設から本放送を開始。
 1926年(大正15年)日本放送協会が設立され、東京放送局、大阪放送局(大正14年6月開局)、名古屋放送局(大正14年7月開局)
の3局が統合され、今日に至っている。(NHKという名称は、戦後、GHQの指示でつくられたもの) 
 3年後の昭和3年11月には、昭和天皇大礼放送がなされ、ラジオが全国民への情報伝達手段としてその威力が示された。

日本放送協会が昭和14年に「日本放送協会史」を纏めて、
「ラヂオの聴取加入数」すなわち受信機の普及状況を振り返って
次のように記している。
「*放送開始當時は、ラヂオの新奇性が時代の好尚に投じ、
受信機價格は現在に較べて著しく高價でありながら、
聴取加入は豫想外に一時著しい激増振りを示した。
「*昭和6年から11年にかけては満州問題を中心とする
内外時局の多事に際し、ラヂオがその眞價を遺憾なく発揮し、
国民生活の必需品としての認識を一般大衆に徹底せしむると共に、
一方放送設備の擴充や聴取料金の値下げ、エリミネーター受信機
(雑記帳・その3参照方)の普及による機器の安價簡易化、
電力會社ラヂオ商工業者との提携による加入開発等に依って
茲に加入増が本格的な軌道に乗った。
「*昭和12年度以降は更に支那事變の勃發と國民精神総動員運動の
實施に伴ってラヂオの時局的活動の使命が再認識され、
諸般の積極的加入獲得策に依って郡部加入が劃期的躍進を示し、
事業前途に愈々大きな光明を輿へつつある。
  ラジオの普及状況、すなわち日本放送協会の放送受信契約数は、大正15年の放送開始から15年経った1940年・昭和15年には、
50万件から500万件(大凡國民20人に1人の割合)に達し、戦前最盛期には10人に1人以上の割合まで、普及している。
 これはラジオが生活環境の情報伝達に如何に有効な「文明の利器」であるかを國民ひとりひとりが認識したためであろう。

 しかしこの便利な文物も「諸刃の剣」であって、國民ひとりひとりの人心を支配していく機器であることが、
その後の時代の歴史の中で明らかになっていく。その例は、音楽の世界でも現れてくる。

  「ラヂオ放送」が開始された当初の音楽の提供は、講談・落語・浪曲など、当時の大衆に人気のある「芸能番組」に続いて、
邦楽や西洋音楽分野まで、芸能世界の延長と扱われていたので、現在のような「音楽のみの放送局」や「音楽鑑賞番組」には
ほど遠い、放送時間の穴埋めのようなものである。
 *JOAK試験放送日の番組例:午前9時30分後藤総裁挨拶、新聞社提供ニュースなど午後8時55分の天気予報で終了。
  音楽番組例:午前11時50分新日本音楽演奏「さくら変奏曲ほか・箏演奏宮城道雄 午後2時ソプラノ独唱など。
  (受信契約数:3,500件)            
 
  しかし、日本放送協会発足当時の組織には現在の「NHK放送文化研究所」の前身にあたる部署が設けられ、
開局五ヶ月後には、早くも聴取者の好みを番組に反映させるため<娯楽番組>の葉書による嗜好調査に取りかかる努力も
あって、大正14年10月には聴取契約数は10万を突破している。
 
 「ラヂオ放送」発展の歴史と、その数年間における「流行り唄」ー「流行歌」を照合してみると、次のようになる。

   年度      ラジオ放送事業の出来事                主な流行歌
 1925(大正14年)受信契約者はわずか5千強。娯楽番組嗜好調査。 「籠の鳥」「小諸なる古城のほとり」「千曲川旅情の歌」
 1926(大正15年)(社)日本放送協会発足 聴取者数39万
 1927(昭和2年)鉱石ラヂオ受信機時代 ベートーベン百年音楽祭「道頓堀行進曲」
         イタリア歌劇第一回放送 初の中継放送(第13回甲子園中等学校野球選手権大会)
 1928(昭和3年)真空管式受信機時代へ 仙台・熊本放送局開局 「アラビアの歌」「出船」「宵待草」「浅草行進曲」
         JOBKラヂオ体操開始 高柳氏・テレビ公開実験
 1929(昭和4年)浜口首相緊縮政策全国ラヂオ放送       「君恋し」「東京行進曲」「不壊の白珠」
         ラヂオ全国放送開始
 1930(昭和5年)電送写真開始 Vn/ジンバリスト来日    「祇園小唄」「この太陽」「富士山見たら」「麗人の唄」
 1931(昭和6年)ラジオ第二放送開始 「ラヂオ年鑑」創刊   「丘を越えて」「影を慕ひて」「酒は涙か溜息か」
         (東京ロンドン間無線電話テスト)(国産初トーキー映画公開)
 1932(昭和7年)聴取契約数100万突破。全国ラジオ調査実施。   「城ヶ島の雨」「涙の渡り鳥」「幌馬車の唄」「忘られぬ花」
         海外中継放送開始(第10回ロサンゼルス・オリンピックー南部・西・北村・西田ほか金メダル7個)
 1933(昭和8年)ラヂオ時報自動化 JOBK学校放送開始   「サーカスの唄」「島の娘」「十九の春」「天龍下れば」「東京音頭」
         夏の甲子園野球ー中京・明石25回延長戦放送 日本放送協会放送審議会設置
 1934(昭和9年)「放送用語並発音改善調査委員会」設置    「赤い灯青い灯」「赤城の子守歌」「急げ幌馬車」「国境の町」 
 1935(昭和10年)学校放送全国的開始 日伊ラヂオ交歓放送成功 「小さな喫茶店」「野崎小唄」「二人は若い」
 
 ラジオ放送が始まって、おおよそ10年経った昭和11年には、二・二六事件が起こり、言論思想の自由は完全に國民から
奪い取られたため、当時の日本放送協会(NHK)は、清純で健康な唄をラジオを通じて、普及させようと「國民歌謡」という
放送企画を打ち出す。(雑記帳・その2参照方)
 「國民歌謡」番組は、昭和15年まで、5年間続き、時世の変化により、昭和16年には「われらのうた」に、
昭和17年には「國民合唱」と名称を変えながら続けられ、昭和20年まで存続した。しかし終戦と共に、中止せざるを得なかった。
 戦後昭和22年より「ラジオ歌謡」となり、多くの歌いやすい曲を提供し、戦後の暗い世相に人々を勇気づける音源としての
流行歌を提供することになった。

      ********* 雑記帳<その1> 松井須磨子のカチューシャの唄***********

1.カチューシャの歌の歴史的背景

 近・現代”流行歌”の第一号とされる「カチューシャの唄」および日本の流行歌手第一号とされる「松井須磨子」は、
 大正三年(1914)島村抱月の芸術座が帝国劇場で上演した「復活」劇中歌で、同座の女優である松井須磨子に
歌われ、全国に大流行し愛唱されたもので、「カチューシャの唄」は作詞・島村抱月と相馬御風、作曲・中山晋平による。
 演劇の中で、女声によって、伴奏なしに、邦楽でなく、洋楽の歌唱として歌われ、さらに唄の中に囃子の「あいの手」
(ララ)を入れたことが、非常に珍しく、話題になったためか、「爆発的に流行し、日本全国で長く愛唱された」。
  (参考資料:永嶺重敏「流行歌の誕生」ー「カチューシャの唄」とその時代ー吉川弘文館 2010年9月)

 カチューシャかわいや わかれのつらさ せめて淡雪解けぬ間と 神に願ひを  (ララ)かけましょか
 カチューシャかわいや わかれのつらさ 今宵一夜に降る雪の 明日は野山の  (ララ)道かくせ
 カチューシャかわいや わかれのつらさ せめてまた逢うそれまでは 同じ姿で (ララ)いてたもれ
 カチューシャかわいや わかれのつらさ つらい別れの泪のひまに 風は野を吹く(ララ)日はくれる
 カチューシャかわいや わかれのつらさ 廣い野原をとぼとぼと ひとりでてゆく(ララ)あすの旅

 一番は、島村抱月の作詞によるが、劇中歌として短いので、二番から五番までは、抱月が相馬御風に依頼した。
 メロディは「明治大正期の小学唱歌特有のヨナ(四七)抜き(「ファ」音と「シ」音のない音階)旋律で、
現代の演歌の基本的旋律になっている。
 島村抱月は事前宣伝活動として、「文学講演会」を催して、マンドリン伴奏の「カチューシャの歌」まで披露し、かつ、
帝劇開幕前日(3月25日)の読売新聞に五番までの歌詞だけでなく、楽譜まで掲載している。
 一方、レコードによる音源の発売は、大正三年オリエントレコード(京都)東洋蓄音器会社発売の・SPレコードと
なった。レコード1円50銭(レコード会社従業員の日給1円以下)で、蓄音器は15〜25円で、流行歌を支えるマスメディアに
まで未だ成長していなかった。しかし、島村抱月の主宰する芸術座のスター女優で、抱月の恋人であった松井須磨子による
地方巡業によって、また、その後のレコード産業の勃興や映画産業の商業化によって、人々が熱狂し、歌が流行して
ゆくことになる。

2.劇中歌のあれこれ
  「カチューシャの唄」を嚆矢とする「劇中歌」としては、大正時代の流行歌の多くに見られるもので、
  「ゴンドラの歌」「恋はやさし野辺の花よ」「ベアトリ姉ちゃん」「わしゃ貴族だよ」「ぶんぶん」
  「コロッケの唄」「東京節(パイノパイノパイ)」「金色夜叉の唄」「薔薇の歌」などが挙げられる。

3.大正時代の流行歌
  おおよそ今から百年前1917年前後、大正時代の流行歌としては、
 「カチューシャの唄」大正3年(1914)(芸術座・劇中歌)をはじめとして、

 「まっくろけのけ節」大正2年(1913)箱根山昔ゃ背で越すかごで越す・・・(添田唖蝉坊作詞・作曲)
 「ゴンドラの歌」  大正4年(1915)いのち短し愛せよ乙女・・・(吉井勇作詞 中山晋平作曲)
                     (芸術座・劇中歌)
 「ばらの花」    大正5年(1916)小さい鉢の花びらが・・・(ジョージヤ行進曲?)
 「金色夜叉」    大正6年(1917)熱海の海岸散歩する・・・(宮島郁芳・後藤紫雲 作詞・曲)
 「さすらいの歌」  大正6年(1917)行こか戻ろかオーロラの下を・・・(北原白秋作詞 中山晋平作曲)
                     (芸術座・劇中歌)
 「琵琶湖周航の歌」 大正6年(1917)われは湖(うみ)の子 さすらいの・・・(小口太郎作詞)
 「コロッケの唄」  大正7年(1918)ワイフもらってうれしかったが・・・(益田太郎冠者作詞 外国曲)
 「宵待草」     大正7年(1918)待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ・・・(竹久夢二作詞)
 「恋は優し野辺の花」大正7年(1918)恋は優し野辺の花よ・・・(小松愛雄作詞 オペレッタアリアより)
 「パイノパイノパイ」大正8年(1919)東京の中枢は丸の内 ・・・演歌師・添田知道(添田さつき)作詞 アメリカ民謡
 「流浪の旅」    大正10年(1921)ながれながれて落ち行く先は・・・(宮島郁芳・後藤紫雲 作詞・曲)
 「船頭小唄」    大正12年(1923)俺は河原のかれすすき・・・民謡「枯れすすき」として野口雨情作詞 中山晋平作曲
                     (映画化)
 「波浮の港」    大正13年(1924)磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃ帰る・・・(野口雨情作詞) 
 「月は無情」    大正13年(1924)つきは無情と言うけれど・・・・(松崎ただし・渋谷白涙作詞 添田さつき作曲)
 「ストトン節」   大正13年(1924)ストトンストトンと通わせて・・・(添田さつき作詞作曲)
 「籠の鳥」     大正14年(1925)あいたさみたさに怖さをわすれ・・・・(千野かほる作詞 鳥取春陽作曲)
                     (映画化)
 「千曲川旅情の歌」 大正14年(1925)小諸なる古城のほとり・・・・島崎藤村詩集
 そのほか「炭坑節」 大正期  月がでたでた月が出た ヨイヨイ・・・(?)
     浪花節から派生した俗曲「奈良丸くずし」(大正2年)[1]の三番の歌詞「月が出た出た月が出た/
     セメント会社の上に出た/東京にゃ煙突が多いから/さぞやお月様煙たかろう」は東京・江東区での煙突が並ぶ風景を
     歌い、のちの炭坑節の元となった、などの説有り。

   ********** 雑記帳<その2>「國民歌謡」から「ラジオ歌謡」へ ************

1.「國民歌謡」の歴史
 「ラヂオ」が一般国民向けの歌曲の分野に乗り出したのは、昭和4年頃からで、二年前の昭和2年春の金融恐慌と
 銀行倒産の対策として、昭和4年浜口内閣は緊縮財政を行なったのに伴って、JOAKは「國民精神作興の夕べ」を
 編成し、放送局自身が次の四曲を準備している。
 (1)「興国行進曲(堀内敬三作詞・山田耕筰作曲・独唱内田栄一)
 (2)「緊縮の歌」(北原白秋作詞・山田耕筰作曲・独唱内田栄一)
 (3)「緊縮小唄」(西條八十作詞・中山晋平作曲・独唱上田仁)
 (4)「きんしゅく節」(鶯亭金升作詞・町田嘉章作曲・成和音楽會)
 当時の聴取者数は東京地区30万件、全国で65万件程度。続いてコロムビアが(1)および(2)をレコード化。
 また、昭和8年から放送局内の扱いとしては、「レコード流行歌」と一線を画することから「歌謡曲」としている。

  JOBK(大阪中央放送局)の奥屋熊郎が巷の「流行歌」と一線を画したあかるく楽しいホームソング作りを
 目指して企画した番組「新歌謡曲」(昭和11年4月29日および5月17日放送、(「心のふるさと」歌手:関種子
  (大木惇夫作詞 江口夜詩作曲 南の國のふるさとは オレンヂの花咲くところ ・・・・・など、8曲と5曲)
 から始まり、JOAK(東京中央放送局)が参加して、新しい歌を歌唱指導付で放送することになったもの。
  日本放送協会(NHK)が昭和11年6月に放送を開始した「國民歌謡」は、昭和16年2月には「われらのうた」に、
 昭和17年2月には「國民合唱」となり、戦後昭和21年5月より「ラジオ歌謡」となり、多くの歌いやすい曲を提供し
 流行歌を提供してきたと言える。
  代表的な「國民歌謡」曲としては、
 (1)第一作 JOBK制作 「日本よい国」(今中楓渓作詞・服部良一作曲・歌手奥田良三)(昭和11年6月1日)
        「春の唄」(貴志邦三作詞・内田元作曲・歌手月村光子)(昭和12年3月1日)(雑記帳・その4)
 (2)第二作 JOAK制作 「朝」島崎藤村詩集「落梅集」(明治34年出版)より、小田進吾(高科哲夫)作曲
 (3)その他 「椰子の実」(昭和11年7月13日放送)、「春の唄」(昭和12年3月1日放送)、
        「海ゆかば」(昭和12年11月22日放送)、「出征兵士を送る歌」(昭和14年11月13日放送)、
        「旅愁」(昭和14年11月27日放送)、「隣組」(昭和15年6月17日放送)、
        「めんこい子馬」(昭和16年1月27日放送)など。
  (音源例:「國民歌謡〜われらのうた〜國民合唱」を歌う 藍川由美 DENON COCQー83299)

2.「ラジオ歌謡」の歴史
  戦前の「国民歌謡」の初心に戻って、昭和21年(1946)から昭和37年(1962)までNHKラジオ第1放送で放送された
  歌番組。戦後まもなくヒットした映画「そよかぜ」主題歌「リンゴの唄」が大ヒットし、貧しさとひもじさに
  うちひしがれていた国民の大いなる慰めになったことも、番組登場のきっかけになったといわれる。
  800曲近い曲放送され、大阪局制作は180。
  作曲者には、高木東六、團伊玖磨、古関裕而、服部良一、清水脩、芥川也寸志ら。
  (1)第1作 1946年5月 「風はそよかぜ」
  (2)その後、「朝はどこから」、「三日月娘」、「あざみの歌」、「山小舎の灯」、「さくら貝の歌」、
         「森の水車」、「雪の降るまちを」など、
  *1953年には、当時まだ16歳だった美空ひばりが登場し、「あまんじゃくの歌」を歌っている。
  *歌を放送するだけでなく、アナウンサーが歌詞を朗読したり、難しいことばの説明、また歌い方の指導などもした。
   歌の文句は聞き取りにくく、「耳学問」では間違って覚えやすいことを配慮したためである。
   歌謡だけでなく歌曲「夫婦善哉」などの劇も放送された。大阪放送局には、専属の管弦楽団と合唱団があった。
  *ラジオ歌謡の成功は戦後次々開局した民放ラジオ局にも多大な影響を与え、
   大阪朝日放送はラジオ歌謡に対抗し、呉羽紡績(現・東洋紡績)協賛で“クレハ・ホームソング”を企画・制作。
   「踊子」(三浦洸一)、「川は流れる」(仲宗根美樹)、「白いボール」(王貞治・本間千代子)、
   「ふるさとのはなしをしよう」(北原謙二)などの歌曲が生まれている。
  *ラジオ歌謡も1962年に終了し、1961年からは『みんなのうた』が放送開始された。

   ********** 雑記帳<その3>「ラジオ」受信機の変遷 ************

 *当初の受信機は鉱石ラジオで、電源を必要としないが、レシーバでしか聞くことできなかった。真空管式のラジオは、
スピーカを鳴らすことができたが高価で、庶民が使えるものではなかった。また、真空管式ラジオの電源は電池であった。
消費電力の大きな真空管を動かすのには大型の蓄電池が必要で、保守管理に手間がかかり、費用も高かった。
外国メーカのライセンスで大企業が日本製ラジオの生産を開始したが、当初は形式証明制度という規制によって国産品は
低性能かつ高価なものとなった。

 *ラジオの交流化と普及(エリミネータ受信機の時代)(昭和3年・1928-昭和6年・1931)
 一人しか使えない鉱石受信機と高価で扱いにくい電池式真空管ラジオという条件であっても放送の人気は高く、聴取者は
増加したが、それに拍車をかけたのは、真空管の改良によってラジオが家庭の電灯線から電源を取れるようになったことである。
初期の交流式ラジオは、電池を取り除くものという意味で「エリミネーター受信機」と呼ばれた。
部品の国産化、低価格化が進み、新興の中小企業を中心とした国産品が市場の中心となる。
ラジオは爆発的に普及し、1931年には聴取者が100万を突破した。当時の松下電機産業株式会社もラジオ業界に進出した。

 *ミゼット型ラジオの時代(スピーカ一体型の小型受信機へ)(昭和7年・1932-昭和11年・1936)
 1930年代にスピーカと本体が一体ものになり、10kW程度の大電力放送局もでき、比較的低感度のラジオでも実用になる
エリアが増えたが、ラジオ本体は3球式の小型のものが多くなった。砲弾型の円形スピーカーから角型のキャビネットに
移行していった。この時期は小型のセットが多く「ミゼットmidget型」と呼ばれた。
 ミゼット型全盛期の1934年に、高品質なラジオの普及を目指して放送協会認定制度が本格的に始まった。
 この頃にはラジオの大半が交流式となっていたが、山間部へのラジオの普及の妨げとなり、また、災害時にラジオが
聴けないという問題もあった。このため再び直流式受信機の普及が図られたが、成功しなかった。

 *戦前の普及型ラジオ(並四の時代) (昭和12年・1937-昭和14年・1939)
 1934年に日本放送協会の組織が変更され、中央集権色が強い組織となり、放送内容も全国ほぼ一律となった。
第二放送は主要局で行われていたが、放送局は放送協会ひとつだった。また、各地に放送局が設立され、
中央局のパワーアップも行われ、高性能なラジオは必要とされなかった。
 ラジオの主流は、再生検波+三極管による低周波2段という構成のセットで、電源整流用の真空管が付いて、
真空管は4個となる4球受信機は、俗語で「並四」と呼ばれた。


   ********** 雑記帳<その4>JOBK制作の「ラヂオ歌謡」「春の唄」 ************

 昭和11年6月1日、JOBK開局記念日を期して開始された「國民歌謡」の前身「新歌謡曲」の第一作は、
今中楓渓作詞・服部良一作曲・独唱奥田良三による「日本よい國」で、以後JOBKとJOAKが交互に担当して
「國民歌謡」に発展していった。
 JOBK担当の「國民歌謡」には、昭和12年3月1日放送の「春の唄」がある。
 堺市うまれの貴志邦三(1898〜1983)が西宮駅近くの北口市場をモデルに昭和11年12月5日に「春の歌」を書いた。
 東京築地生まれで山田耕筰に師事した内田元(1903〜1947)は、東京音楽学校卒業後、大阪放送管絃楽團の指揮者を
勤め、昭和11年以降、関西に移って貴志と親交を深めて、両人とも西宮駅近く(北昭和町・現在の昭和園)に
在住していた関係上親交を深めていたので、「春の唄」を作曲した。
 この「國民歌謡」曲は、戦後も「ラジオ歌謡」で再放送され、教科書にも掲載された。

 ラララ、紅い花束車に積んで 春が来た来た 丘から町へ 菫買ひ間書 あの花賣りの 可愛い瞳に春のゆめ
 ラララ、青い野菜も市場に着いて 春が来た来た 村から町へ 朝の買物 あの新妻の 籠にあふれた春の色
 ラララ、啼けよちろちろそよ巣立ちの鳥よ 春が来た来た 森から町へ 姉と妹の あの小鳥屋の 店の店頭にも春の唄
 ラララ、空はうららかそよそよ風に 春が来た来た 町から町へ ビルの窓々 みな開かれて 若い心に春が来た

  「春の唄」の記念板として、現在、阪急電車西宮北口北東の円形広場(北東地区の集合商業ビルへの渡り廊下)に
銅板が取り付けられて、当該「國民歌謡」曲の縁りの地として顕彰されている。 

「春の唄」縁りの地・阪急西宮北口駅円形広場の記念銅板

ホームページ管理人申酉人辛

平成29年4月25日  *** 編集責任・奈華仁志 ***

ご感想は、E-mail先まで、お寄せ下さい。
なばなひとし迷想録目次ページ に戻る。 磯城島綜芸堂目次ページ に戻る。