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<その1>太閤さんの千成瓢箪 <その2>瓢箪山稲荷神社の辻占い 雑記帳<その1>瓢(ひさご)の初出事項ー日本書紀の茨田連衫子 雑記帳<その2>大阪府章としての瓢箪 *************************** |
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瓢箪・ヒョウタンは、ウリ科に属し、和名は<ひさご・ふくべ>ともいわれ、容器として水筒や酒貯蔵に用いられ、 楽器(ギロなど)にもなった。 名前の<ヒョウ・タン>から、「三つで三拍(ヒョウ)子そろって縁起が良い、六つで無病(ビョウ)」 など、縁起物の掛け軸や器あるいは染め物に意匠された。 豊臣秀吉に至っては、容器として、また軍用品として、さらには自らの意匠として、フルに活用したが、 その「千成瓢箪」に関係する2つ目の事項として、秀吉のゆかりの地・大阪での「瓢箪」地名の例「瓢箪山稲荷神社」を 瓢箪・ヒョウタンの二こぶに因んで2項目に取り上げてみた。 ********* <その1>太閤さんの千成瓢箪*********** 古来、瓢箪は縁起物や酒などの容器に用いられてきたとされるが、特に、秀吉の千成瓢箪が人々に親しまれている。 1.秀吉の馬印ー千成瓢箪 (1)墨俣城と逆さ瓢箪 永禄九年(1566)織田信長の命令で木下藤吉郎は墨俣城(一夜城)をたったの10日間で築いた。 城が完成して敵も味方もあっと言わせる仕掛けとして高々と旗印を掲げようということになり、 築城を手伝っていた御滝ノ藪目という渡り神官が、<丸にひさご>の神紋のついた水神のお札を持ち出した。 「降雨止雨、水分の神に日夜築城の成就を祈願いたしたわの。その水分の神の神紋がこの瓢よ。」 その時に用いた瓢は山民仲間の瓢箪師が提供した。瓢箪師とはふくべ、ひしゃくを作るほか、瓢と箪、すなわち 大きな瓢を輪切りにして乾燥し、飯櫃をつくる)食器つくりをした。 瓢箪師が大瓢を一本の旗印に仕上げたが、秀吉がまともにつるした瓢を「逆さにせい」といったので、 以降、秀吉の旗印「逆さ瓢箪」が出現した。 (杜山悠「天下統一の旗印、千成瓢箪」歴史と旅・第十二巻第16号(昭和60年12月)) (2)岐阜城と瓢箪の馬印 「絵本太閤記」(江戸時代後期)によると、その由来は、永禄十年(1567)秀吉の主君・織田信長が、 斎藤龍興の稲葉山城(岐阜城)を攻めていた時、少数の部下を連れて裏口から城内に忍び込んだ秀吉は、 その作戦の成功を城外の味方に知らせるため、酒器に使っていた瓢箪を竹の先に結んで、高々と掲げたという。 戦いに勝った信長は「瓢箪の印は面白い趣向だ。馬印に用いよ」と大いに喜んだので、以来、秀吉は戦に 勝つごとに小さな瓢箪を一つずつ増やし、やがて千成瓢箪となったという。 (ちなみに、「千成瓢箪」は「絵本太閤記」以降しか出てこないので、この本から作られた話になったとみれている。 それが後世広く受け入れられたか。さらには、「秀吉の成功体験にあやかりたい」と考えてもてはやされ、 縁起物としての価値が高まったのでは。) 一方、江戸時代前期の「賤ヶ岳合戦図屏風」(江戸時代前期)や「大坂夏の陣図屏風」に描かれている豊臣方の馬印は、 千成ではなく、瓢箪は1個しか認められない。 (3)馬印の寸法 秀吉は各種の馬印を用いていたが、「金の瓢箪1箇に金の切り裂き一本」の瓢箪の大きさは、 長さ二尺二寸(66cm)直径一尺三寸(39cm)で、切り裂きは横三尺二寸(96cm)、 縦二尺(60cm)であった。 (櫻井成広「豊家の血統と秀吉の馬印」別冊歴史読本ー豊臣秀吉・その絢爛たる一生 (新人物往来社)昭和53年7月20日)
1.馬印描いた屏風 大阪城天守閣所蔵の「大坂夏の陣図屏風」や「賤ヶ岳合戦図屏風」など。 その他大阪城天守閣では、秀吉ら諸大名126人の馬印や旗指物(はたさしもの)を描いた紀州徳川家伝来の 書物「諸将旌旗図」も所蔵している。
また、天守閣では瓢箪関連の土産物として、木製の置物(3600円)や携帯ストラップのお守りなどを販売している。 2.「豊臣秀吉」(尋常小学唱歌)(その1) 一番 百年このかた乱れし天下も 千なり瓢箪ひとたび出ずれば 四海の波風忽ち治まり 六十余州は草木も靡く ああ太閤豊太閤 二番 余力を用ひて朝鮮攻むれば 八道見る間に我が手に破られ 国光かがやき国威あがりて 四百余州も戦き震ふ ああ太閤豊太閤
参考までに、もう一曲の唱歌あり、 「豊臣秀吉」(大日本偉人唱歌集三十四)(その2)大和田建樹作歌 村上一郎作曲 一番 恩にそむき君を攻む、 叛旗いづくぞ本能寺、身は古寺の夕露と、消えても消えぬ其恨、川と長く海と深し 二番 君の為に賊を討つ、 功は高し天王山、 山風寒く吹き落ちて、なびかぬ四方の草もなし、六十余州いまは我手、 三番 海を渡り師を出だす、雄図は遠し四百州、怖ぢ震わせし誉こそ、歴史の光国の花、天と共に地と共に (追記)春ごとに心にかけて吉野山 花のさかりにけふ見つるかな
3.大阪市内の「瓢箪町」(現西区新町1丁目にあった新町遊郭内の町) *慶長年間(1596−1615)北船場地区の伏見町・呉服町あたりの「又一町」と称したが、元和5年(1619)難波村の 農地で、道頓堀川沿いに移転させられ、「瓢箪町」と称した。さらに、寛永七、八年(1631)頃、現在の船場地区の 順慶町西側に当たる新町遊郭内の中央通りに移ってきた。 開発した町人・木村亦次郎の母は豊臣秀頼に仕えた木村長門守重成の乳母で、秀吉の馬印の瓢箪を家に伝えるため とも、また亦次郎は山城伏見の浪人で、願い出て花街の長になり、玄関に馬印の瓢箪を飾っていたため、 あるいは、さらに町名のおこりとして、秀吉が「御馬印千成ひさご」をここに立てたからだと元禄12年(1699)の 書物にすでに記されているとも伝える。(大阪城天守閣特別事業委員会「天守閣復興五十周年記念・大阪城展」1981) *新町遊郭の中心街として瓢箪町は繁栄し、近松門左衛門の「夕霧阿波鳴門渡」などで知られる名妓夕霧太夫を抱かえて いた扇屋が有名であった。 *瓢箪町から、東大門を出ると西横堀川に新町橋が架けられていたが、瓢箪橋とも称された。
*明治五年(1872)遊女解放令ののち、瓢箪町は商業地に変貌した。「扇屋」の建物は大正中頃まで 落語の定席「瓢亭」があった。 *初代中村鴈次郎は扇屋の出身。 (日本歴史地名大系・28巻「大阪府の地名I」兜ス凡社 2001年7月1日) 4.縁起物「千成瓢箪」を商売道具とした例(インターネット情報より) 千成瓢箪は、人々にとって大切なお守りのようだ。これにちなんだ屋号や名称は飲食店のほか、学校やホテル、 遊技施設など多岐にわたる。 大阪・千日前のお好み焼き店「千房(ちぼう)」は1973年創業で、屋号は、豊臣秀吉が戦場で 自らの存在を示すために用いたとされる馬印「千成瓢箪」。 (社長・中井政嗣さんは、22歳でお好み焼き店を開いたが、活気のある千日前で出店したのが「千房」。 屋号は、知人から紹介された京都の易者で、「秀吉は勝つ度に馬印のヒョウタンを増やした。 千の房になるくらい成功するように」と勧められたという。) 40年間でフランチャイズを含め国内外64店の「千の房」チェーン店に成長させた。
***********<その2>瓢箪山稲荷神社の辻占い***************** 1.瓢箪山稲荷神社 鎮座:東大阪市瓢箪山8−1 御祭神:保食神 祭日・例祭:七月八日 東高野街道沿いの東側に位置する小丘(山畑古墳群で最大最古のもの)に あり、一方を「大塚、他の一端を「鬼塚」と呼び、瓢箪の横たわる形状に似ているので、瓢箪山と呼ぶ。 由緒:創建は天正11年、豊臣秀吉が大阪城築城にあたり、巽の方向、三里の地に鎮護神として、伏見桃山城から 鎮護神として「ふくべ稲荷」を勧請したことが由来とされる。現在の本殿は慶応二年に建立されたもの。 社は小さな叢社であったが、祠と街道の中間の南側に一茅舎があって、老翁の辻占いを判じていたが、 明治維新ののち、大坂の一市人がこの辻占いによって営業上大いに利益があったので、祠を大きくして 神官を置くようになり、爾来当社は、「辻占い」の稲荷として広く世に知られるようになった。 2.辻占い:江戸時代から東高野街道において、辻占いの風習があったが、明治時代初めころ、宮司が「辻占い」を 創始し、「淡路島かよふ千鳥河内瓢箪山恋の辻占い」と全国に知られるようなった。
3.<瓢箪山古墳>山畑古墳群の双丘墳 南北主軸、長さ50m双円墳、北墳:幅2m長さ2.4m、南墳:天井石の石材露出。(開口部なし) 羨道幅0.8m、長さ4.9m 六世紀前半の古墳。 貞享五年(1688)四条村古地図に旧址字大塚「瓢箪山」「いなり」と記されている。 (参考情報館:東大阪市り埋蔵文化財センター<発掘ふれあい館>、および東大阪市立郷土博物館) (注1)山畑古墳群:東大阪市上四条町に散在する古墳時代後期(六世紀中頃か七世紀初頭)の群集墳。 内部主体は全て横穴式石室で、昭和30年以来、発掘調査がなされた。 当初60基以上あったが、現在は37基残すのみ。墳丘の直径が10m内外の円墳が ほとんどであるが、上円下方墳(1基)・方墳(2基)のほかに、 双円墳も三基(#22,52,53)あり、その一基が「瓢箪山古墳」である。 (注2)瓢箪山古墳:東大阪市瓢箪山町・生駒山西麓の標高10mの低地に位置し、古墳の西側に瓢箪山稲荷神社が 鎮座する。主軸南北に長さ50mの双円墳。北丘は南西方向に横穴式石室が開口し、 六世紀前半の築造と考えられている。 貞享五年(1688)四条村古絵図には、「旧跡字大塚」と記す。瓢箪形の山を描いた脇に 「瓢箪山」「いなり」と記され、古くから稲荷社が祀られていたことがわかる。 同絵図には、瓢箪山の北東方向に「旧跡成山」、北西に「旧跡鬼塚」と記されている。 なお、<瓢箪山古墳>の名称での前方後円墳としては、滋賀県蒲生郡安土町宮津にも 主軸長さ162m前方部70m、後円部90mの墳丘あり。
*********雑記帳<その1>瓢(ひさご)の初出事項ー日本書紀の茨田連衫子*********** 茨田堤(まんだのつつみ) 『日本書紀』の仁徳天皇11年には、淀川に日本で最初といわれる「茨田堤」が築かれ、築堤に大変苦労したことが 次のように記載されています。 この工事は非常に難しく、2か所の切れ目をどうしてもつなぐことができません。天皇はたいへん心配していたところ、 ある日夢の中に神が現れて「武蔵人強頸(こわくび)と河内人茨田連衫子(まんだむらじころものこ)の二人を川の神に 供えると、堤はできあがるだろう。」と言いました。 さっそく天皇は二人を探すように命じ、探し出された二人のうち強頸は泣く泣く人柱となり、堤の1か所はこうして つながりました。 しかし、衫子は「私は二つのひさご(ひょうたん)を持ってきた。私を望んでいるのが真の神であるならば、これを 流しても沈んでしまって、浮かばないだろう。もしも浮いて流れるのなら偽りの神だから、私は人柱になることは できない。」と言って、ひさごを流しました。すると急に旋風が起こり、ひさごを沈めてしまったと思うとすぐに 浮き上がり、下流へ流れて行ってしまいました。 衫子は知恵を働かせたので人柱にならずにすみ、無事堤を完成させました。 2か所の切れ目は強頸絶間(こわくびたえま)・衫子絶間(ころものこたえま)とよばれてきました。 仁徳天皇13年(『日本書紀』)には茨田屯倉(まんだのみやけ)が設けられ、この地域一帯が朝廷によって管理・運営された ことが記されています。 『古事記』には、「秦人(はだびと)を役(えだ)ちて茨田堤及び茨田屯倉を作れり」と記しています。秦人とは渡来人の ことで、渡来人によって大陸の優れた土木技術が用いられ、完成することができたのでしょう。 淀川のそばに「太間」と書いて「たいま」と読む地名があります。これは「絶間」がなまってこのようによばれるように なったといわれています。当地では、この難工事の物語が伝説として語り継がれています。 昭和49年(1974)に「淀川百年記念」事業に関連して淀川堤防上に碑が建てられました。淀川の方を向いた表面に 「茨田堤」と彫られ、その脇には「まむたのつつみ」と添え書きされています。
***************雑記帳<その2>大阪府章としての瓢箪***************** 秀吉が城主を務めたゆかりの地、大阪府と滋賀県長浜市では府章、市章に用いられている。 大阪府章および府旗は、大阪府公報(昭和43年6月21日付け)に次のように制定されている。 公告 大阪府公告第175号 大阪府の府章を次のように定めた。大阪府知事 佐藤義詮 大阪府公告第176号 大阪府の府旗を次のように定めた。大阪府知事 佐藤義詮 府章ならびに府旗の意味 明るく・豊かで・住みよい大阪 「大阪(OSAKA)の「O」の字を基調として、大阪の希望(明るく)・繁栄(豊かで)・調和(住みよい)を 上部三方へのびる円で表す。また、商都大阪の繁栄の基礎を作った豊太閤にちなむ「千成ひょうたん」抽象図形化 しながら、全府民の連帯性とその力の結集による無限の可能性を表象したもの」
都道府県章以外に、紋章・旗標章・徽章・県職員団徽章あるいは、シンボルマークなど、各種の図案が用いられている。 (参考資料:国民文化協会「事典シンボルと公式制度日本篇」1968年) *制定の歴史ー戦前:東京市1889(明治22年)、千葉県1909(明治42年)、大分県1911(明治44年) 宮崎県1912(明治45年)、兵庫県1921(大正10年)、群馬県1926(大正5年) 岐阜県1932(昭和7年)、佐賀県1945(昭和20年) 戦後:1960年代に明治百年1968年(昭和43年)前後に、制定した道府県が多い。 長崎県1991(平成3年)が最後の制定県。 *シンボルマーク:東京都1989(平成元年)、岐阜県1991(平成3年)、新潟県・佐賀県1992(平成4年) 鹿児島県1994(平成6年)