平成社会の探索

漿

<「知恵の会」への「知恵袋」>

ー第137回知恵の会資料ー平成28年5月29日ー


(その82)「草枕の旅と歌枕」ー<能因法師の羇旅>ー
*********************** 目     次************************

    <旅支度>「旅の文学」の歴史ー日本人の旅の世界を垣間見るー
    <その1>万葉歌人の羇旅歌
     <その2>勅撰和歌集歌人の羇旅歌
    <その3>百人一首歌人の羇旅および羇旅歌
 
    <参考メモ>「古典の羇旅」
    <参考メモ・その1>万葉集の羇旅歌         
    <参考メモ・その2>*中世物語での旅(伊勢物語・在原業平、平家物語・平重衡)
              *女性の旅<蜻蛉日記・右大将道綱母>
              *能因法師の<馬の生業>
    <参考メモ・その3>中世三大紀行文<海道記><東関紀行><十六夜日記・阿仏尼>
    <参考メモ・その4>明治期の小学唱歌<旅の歌>

*******************************************************

                       <旅支度>「旅の記録」の歴史ー日本人の旅の世界を垣間見るー

  <旅>とは、「定まった地(住んでいる所ー日常的環境)」を離れて、ひととき、他(よそー非日常的環境)の地を
訪れること、(必ず、戻ってくることが前提で、道行・死出の<旅>は復路無し)、と一般に解説されているが、
時代とともに、その動機(自動的か受動的か)あるいは目的、さらには、旅の形態(移動手段、移動距離と所要時間、
人数、実働か空想か、など)によっていろいろの<旅>が展開されてきた。
 また空間的移動も<旅>だが、時間的移動とも言うべき「人生」も時間に乗っかって<旅>を続けているとも言える。 
 時代と共に変化していく<旅>を分類する一例として、自らの意志による自動的なもの、命じられた受動的なものに
分類できるとともに、また、実際に動く<旅>と、小説や映画などでの空想世界(次元の違う世界)での<旅>も
考えられる。
 
  動機区分    古代         中世         近代              現代

  自動的   (狩猟・漁労活動)(宗教的巡礼・神社仏閣参拝)            団体(農協旅行・海外ツアー)
                   歌枕の旅(能因・西行・宗祇・芭蕉)        個人(新婚旅行・楽旅など)
        (修行・伝道活動) 巡礼(西国三十三札所・お伊勢参り・         探検(宇宙旅行など)
                     四国八十八箇所など)
                  旅芸人 巡業 
               
  受動的  軍旅(例・防人)  遣隋使・遣唐使・遣新羅使   遣欧使節団      出張(会社業務など)
       行政の貢納品運搬労働                          学旅・遊学(留学・修学旅行など)
          
                 (貴種流離譚)      諸国漫遊記           映画の世界                    
    空想の旅           「伊勢物語」(東下り) 「東海道中膝栗毛」(上方へ) (フーテンの寅)
                 「源氏物語」(須磨・明石)(水戸黄門漫遊記)(諸国へ)(八十日間世界旅行)
                                            (2001年宇宙の旅)
 
 この分類では、頭の中での「旅」ー空想の旅ーが時間的にまた空間的に大変興味のある世界として展開されているように感じる。

 以下では、往時の日本人の旅「羇旅」と称された「旅の記録」として、一例を中世の「漂泊の歌人」の先達とされる
能因法師の旅の世界を辿ってみる。

  (注)羇:たび、和歌集では、羈:おもがい・馬具ーたづな、きづなのこと。
    「紀行」(旅行の日程・見聞などを紀すこと。またそれを書いた文章・日記など)は、「羈行」とうまく符合している。
<その1>万葉集の羇旅歌 
(1)万葉歌の「羇旅」の種類
 万葉集の中に詠まれている「たび」としての「羇旅歌」は、次のように分類される。
 しかしほとんどが受動的なもので、楽しさやうれしさは無い場合が多い。
                 (参考文書:三田誠司「萬葉集の羈旅と文芸」塙書房・2012年10月)
 分類1−都人の旅(都から地方へ)
  *行幸による旅:巻1−5,6から巻20−4293まで、約100首
  *中央官人が国司としてまた、各種の「使」として、任地や外国に赴く旅および任国の政務報告に上京する旅:巻3−296など。
  *配流も畿内から畿外へ旅立つが、やや旅の概念にふさわしくないか。:巻2−141(有間皇子歌)など。
  *社寺を目的地にする旅:巻1−22(十市皇女)など。
  *私的な動機による旅:巻3−460(大伴坂上郎女)など。
 分類2−地方出身者の旅(生国から都へ、また西国へ)
  *防人の任地への旅:巻14−3567,巻20−4321など。
  *相撲人の上京の旅:巻5−864など。
  *地方豪族出身の采女の上京の旅
 
「羇旅歌」の内容をその対象事物と詠者の意図する点を分類する一例として、 
  *旅中の景物・風物に関する歌ー旅先への関心を表出すること
  *旅の心細さや辛さを詠うー旅中の自己への意識を表すこと
  *故郷や家人への思いを述べる歌ー日常的世界への回帰の気持ち

(2)歌語「たび・旅」の万葉仮名
 万葉集に詠まれている「旅」は「羇旅」としておおよそ105首ほど詠み出されており、
その詠いの心は、「ほとんど辛い、悲しい、また苦しい」ものばかりで、現代における「近世からの物見遊山の観光と娯楽」と
なったものとは異なる。(参考メモ・その1)
 (参考文書:吉田金彦「草枕と旅の源流を求めてー万葉の多胡・田子浦の歌」勉誠出版・2004年12月)

(3)「旅のこころの変遷」
  旅の世界の詠み方の変遷を、一例として長忌寸奥麻呂歌(巻三ー265番、知恵の会・第127回「結び松」にて言及)をみる。 
   「くるしくも ふりくるあめか みわのさき さののわたりに いへもあらなくに」
   (雨が降ってきて、困ったことだ。神の崎の佐野の渡し場には雨宿りさえできる家もないのだ。)

 因みに、当該羇旅歌も勅撰和歌集の時代になると本歌取りされて、藤原定家歌(新古今集 巻六・冬歌ー671番歌)
   「駒とめて 袖うちはらふ かげもなし 佐野のわたりの 雪の夕暮」
のように、萬葉歌の実体験の世界は文学の仮想世界へ取り変えられて、旅の苦しさは遠のいて、代わりに正に一幅の水墨画を
鑑賞しているような芸術の世界を詠いだしている。

 更に時代が下って連歌の世界が展開されるようになると、連歌師宗碩の紀行文「佐野のわたり」(後述(参考メモ・その3)参照)
に見られるように、
    初瀬路に出で立ちて、三輪が崎行くほど、雨俄に降りきぬ。
    かの萬葉の古言ただ今のやうに思ひ出られて、「雨宿りを」など人々いひしも、
    「いづこにか家もあらん」と、濡れ濡れ行過るに、飽かぬ心地して、
    返す返す「佐野のわたりに」などうち吟じつつ、泊瀬寺に着きぬ。  
 宗碩は師の宗長に付き添って三輪から初瀬を経由して伊勢に向かう旅路の記述であるが、万葉集の「くるしくも」の
世界はなく、むしろ「ふりくるあめ」にゆとりある文芸の心で対応している。


<その2>勅撰和歌集歌人の羇旅歌

1.八代集での羇旅歌 
 万葉集の時代の楽しくなく苦しい「羇旅発思」は、古今集から新古今集にかけての勅撰和歌集の時代になると、
「羇旅歌」の部立が構成され、和歌世界の中で主要な歌の対象となる。
  古今集ー巻9 羈旅歌:406番〜421番(16首)
         安倍仲麿(唐土にて)小野篁(隠岐国)柿本人麿(明石の浦)在原業平(三河国八橋・武蔵国・天の川)
         凡河内躬恒(越国白山・甲斐国)紀貫之(東国へ)藤原兼ね輔(二見浦・但馬国)
         菅原道真(奈良・手向け山)読み人知らず(みかの原)
  後撰集ー巻19 離別・羈旅:1350番〜1367番(18首)ー小野小町・素性法師・在原業平・伊勢・菅原道真など
  拾遺集ー巻6 (旅の)別:301番〜353番(54首)ー紀貫之・赤染衛門・平兼盛・公任・源重之など
  後拾遺集ー第9 羈旅:500番〜535番(36首)ー能因法師(<その4>参照)・和泉式部・公任・恵慶法師など
  金葉集ー第6 (旅の)別部:334番〜349番(16首)ー基俊・橘則光など
  詞華集ー第6  (旅の)別:172番〜186番(15首)ー和泉式部・源俊頼など
  千載集ー第8 羇旅歌:498番〜544番(47首)ー崇徳院・待賢門院堀河・俊成・円位法師・道因法師・慈円・家隆など
  新古今集ー第10 羇旅歌:896番〜989番(84首)ー山上憶良・人麿・大伴旅人・在原業平・紀貫之・壬生忠岑・実方・
                          行尊・紫式部・源経信・西行法師・慈円・定家・家隆など 
2.定数歌での歌題
  *百人一首歌ー・安倍仲麿・小野篁・菅原道真など(<その3>参照)
  *「堀河百首」ー堀河院御時百首和歌。堀河院初度百首。堀河院太郎百首。
    歌題「旅」として、 「旅宿花」「旅宿時雨」
    康和年間(1099〜1104)頃成立。堀河天皇の召しにより,藤原公実が企画,源俊頼が勧進。
    藤原公実・源俊頼のほか,当時の代表歌人,大江匡房・藤原基俊など16人の歌人の歌1600首、
    立春・子日(ねのひ)以下100題の16人の1600首歌を収める。
    勅撰集に268首が撰入され,また歌合(うたあわせ)の証歌としても重んじられて,
    以後の組題百首の規範となった。

3.紀行文の世界
  ー伊勢物語などー柿本人麿・在原業平・凡河内躬恒・紀貫之
  紀行散文の歴史(<参考メモ・その3>参照)を振り返ってみると、「伊勢物語」「土佐日記」などに始まり
 中世日記紀行(<参考メモ・その3>参照)を経て、近世の紀行散文として松尾芭蕉による歌枕の旅「奥の細道」や 
 「伊勢参り」に託けた十辺舎一九「東海道中膝栗毛」などの遊戯的旅世界へ展開されていく。

4.漂泊歌人の魁・能因法師について 
  中世歌人の旅として能因法師の旅の世界を「能因歌枕」を中心に眺めてみる。
  能因法師はその後の漂泊の歌人とされる西行や芭蕉の先達として、歌枕の世界を拓いた人物として評価される。

(1)略歴(引用冊子:高重久美「能因」ーコレクション日本歌人選045 (笠間書院)2012年10月31日)
   俗名:橘永ト(たちばなのながやす)永延二年(988)ー永承七年(1053)頃か。
   近江守従四位上忠望の子、兄為ト(ためやす)の養子のあと、次兄元ト(もとやす)の養子となり、
   大学・文章生で出発、終生の先輩:大江嘉言(よしとき)、同輩:橘則長など。
   和歌を藤原長能(ながとう)に師事し、歌道師承の先蹤となる。
   長和二年(1013)秋26歳出家。洛東東山長楽寺を経て摂津国児屋(古曽部)の里に移住し、古曽部入道と称す。
   「白河の関」詠の万寿二年(1025)初度の奥州下向をはじめとして、東国へ或いは西国へと各地を旅し、
   好き(数奇)の歌人として「袋草子」ほかに逸話を散見する。
   和歌六人党(藤原範永、藤原経衝、平棟仲、源頼家、源頼実、源兼長 )に重きをなし、源俊頼らに影響を与えた。
   自撰家集「能因集」(上・中・下巻 256首)、永延(988年頃)から寛徳1044年頃)までの秀歌集「玄玄集」、
   歌語の注釈・異名・詠み方や和歌の名所旧跡を集めた歌学書「能因歌枕」および散佚した「八島の記」の著作がある。

(2)略歴に見る旅の世界(引用冊子:高重久美「能因」ーコレクション日本歌人選045 (笠間書院)2012年10月31日)

   年号    西暦年 年齢    事       蹟       関連歴史事蹟
   永延二年   988    1  誕生
   長保二年  1000   13  大学寮入学
   寛弘三年  1006   19  藤原長能に和歌入門         拾遺和歌集成る
   寛弘九年  1012   25  晩春、東国(甲斐国)下向。     三条天皇即位(1011)
   長和二年  1013   26  出家。               後一条天皇即位(1016)
   寛仁三年  1019   32  夏、児屋(古曽部)に居を定める。  藤原頼通摂政・関白(1017・1019)
   治安元年  1021   34  三河国へ下向。
   万寿二年  1025   38  春、初度、奥州下向。        藤原道長没(1027)
   長元二年  1029   42  再度、奥州下向。
   長元三年  1030   43  出羽国象潟に三年間幽居。
   長元五年  1032   45  夏、長途の奥州の旅から帰洛。
   長元七年  1034   47  遠江国へ下向。           橘則長没。
   長元九年  1036   49  美濃国へ下向。           後一条天皇崩御、後朱雀天皇即位。
   長暦元年  1037   50  美濃国より一時帰洛。藤原保昌追懐。 藤原保昌没(1036)
   長暦四年  1040   53  春、旧知藤原資業の任国伊予に下る。
   長久元年  1040   53  歳暮、伊予国から一時帰洛。
      長久三年  1042   55  秋、伊予国で源為善を哀悼。     源為善没。参考(5)大山祇神社境内巨大樟
   長久五年  1044   57  春、一時上洛後、伊予へ戻る。
   寛徳二年  1045   58  春、伊予国より帰洛。        後朱雀天皇崩御。後冷泉天皇即位。
   永承四年  1049   62  春、藤原兼房任国の美作国へ下向。

   旅の略歴を見ると、20台の半ばから、晩年の60台半ばまで、数年に一度は、大旅行を敢行している。
   正に漂泊の歌人にふさわしい動きを残している。自らの「馬の生業」もあるが、知人を訪ねることによって
  歌人としての和歌の世界の現地を実感することも目的にした活動であったと思われる。
   これだけ、日本の東へ西へ旅をすれば、その道中の和歌の世界に関心を持てることになる。
   主だった著作「能因歌枕」の作成も当然の成果ということになる。
  
(3)「能因歌枕」地図

   「歌枕」は歌詞・枕詞・名所・歌題など和歌に詠まれる言葉や題材など多岐にわたる概念を意味したが、
   平安後期以降、さらに和歌の題材として読まれる名所そのものの意に用いられるようになり、勅撰集の
   古今和歌集の成立二都もない表現の定型化が完備したとされる。
   歌枕の用法は(1)特定の景物につながるものー竜田川、吉野など
         (2)特定の連想を引き起こすものー古びた(長柄の橋)など。
         (3)掛詞として他の歌語を連想させるものー逢うー逢坂など。
   歌枕の活用は、詠まれた和歌が内容や歌語が類型化に陥りやすいという問題はあるが、修辞的工夫がいろいろに
   展開でき、歌の時間的および空間的世界を多いに広げ、余情表現が豊かになる。
   こういった活用できる「歌枕」形式を初めて文字にして整理した能因法師の業績は大きい。

   「能因歌枕」の内容から採りあげられている各地の名所を抽出すると次のようになる。
           (出典:佐々木信綱編「日本歌学大系第一巻」風間書房(昭和47年8月))

     (イ)自然の景物毎の歌枕
      関ー逢坂の関、白河の関、衣の関、不破の関    河ー吉野川、竜田川、大井川
      橋ーはにはのはし、はまなのはし、さののふなはし 山ー吉野山、朝倉山、みかさ山、竜田山
      森ー神奈備の森、生田の森、信太の森       滝ーいはなみのたき、おとなしのたき
      野ー嵯峨野、交野、宮城野、春日野        里ー信夫の里、伏見の里、生田の里

   (ロ)国々の所々名
      採りあげている国名ー山城以下62国。
      最も多い歌枕の国ー山城(86か所)、大和(43か所)、陸奥(42か所)、摂津(41か所)。

   (ハ)摂津国41か所。
      すみよし、けるみの浦、なからの浦、まのの浦、まつかぜ、いくたの森、みかみのうら、
      あまのわたり、あまの川、あこめの関、なが井の里、かへるやま、ほり江、さまのさき、
      たまさかの池、かめ井、みなと川、たまさか山、ぬのびきの滝、しまえ、たきののは、
      水のをか、まちかね山、なには津、みをつくし、はつかしの森、さくら井、ふぢの森、
      いはせの森、たまさかの松、ゆきの森、いはせの山、すみの江、せびえの原、神なびの社

   (二)「能因集」詞書きに見る地名例
     「春美濃の南宮にて、・・・」「美州に閑居五首」「長暦四年(1040年頃)春 伊予国に下りて・・・」
      美濃、美作、伊予と、東に西に多方面に出歩いたことが推測できる。
      これらの諸国行脚で詠んだ歌が仏道修行に基づく心を表に出したところが感じられないので、
      僧侶としての修業の旅人というよりは、むしろ、気ままに思いつくままに旅を重ねていると言った方が
      よいような印象を受ける。好き(数奇)の心で、多分に「都をば霞とともに」立って、数奇の逸話を
      残した奇人に近い人物像から来る印象によるのかも知れない。
      結局、西行に先行した旅の歌人能因法師の面目躍如たる「能因歌枕」の和歌世界を追求した人生で
      あったことは確かです。

    ー実地に行脚したと思われる旅先を「能因集」中の地名から例題として、
      東国方面:白河の関および西国方面:四国・伊予ー大三島の縁の神社と樟
     を取り上げてみる。

(4)<歌枕陸奥>
 「能因法師集・中」には東国及び陸奥の歌が多く記されているが、その一番手が次の「秋風の白河の関」で

 ー二年の春みちのくににあからさまに(一時的に)くだるとて、しら河の関にやどりてー
 「みやこをばかすみとともにたちしかど秋風ぞふくしら河のせき」

 この歌の後に次のような詞書きの歌が10首以上ほど連なっている。

 「(甲斐)しらねのみゆるを見て」        「ひたちの国にてつくばのやまを」
 「みちの国にいききて、しのぶのこほりにて・・・」「たけくまのまつ、・・・」
 「すゑのまつやまにて」             「しほがまのうちにやどりて・・・」
 「くははらのしほりにて・・・」         「いではのくにに、やそしまに行きて」
 「みちの国にかたらふ人なくなりにけりとききて、・・・・」

 続いて「東国風俗五首」の連作ができ、思い入れが深まって、ついには想像の世界の奥州に及び、
「想像奥州十首」を詠んでいるが、その歌枕群は、三江の浦、武隈、宮城野、末の松山、塩釜、籬(まがき)、
なでしこのやま、姉歯の橋、野田の玉川などとなる。
 能因法師の「みちのく」を憧れる気持ちが平素から如何に強かったかが分かる。

 
 *******白河の関 散策記*********

 栃木県最北部は那須高原山岳地帯になっていて、高原の北が陸奥になる。JR東北本線の陸奥への入口に
白河市があり、昔この地は奥羽三関<白河関(磐城)、勿来関(常陸)、念珠関(羽前)>があった。
 白河関へは白河駅から白河関行きバスで約40分ほど走る。白河市街を抜けて郊外の平野を抜けて、
白河市街の南方山間部に入り、山間を辿って行くと、白河関跡、および白河関森公園に至る。
 公園内には関の記念展示館も建てられている。
 白河神社の石碑のある道を森の中に入って行くと、寛政十二年(1800)白河藩主松平定信公建立の
「古関蹟」の石碑を見ることが出来る。
  白河神社参道の傍らには、幌掛けの楓として、源義家が衣を掛けたとされる楓、源義経が平家追討の戦勝を
祈願して立てた旗立ての桜、さらには従二位の杉として樹齢800年の家隆手植えの老木もある。
 さらに白河神社の境内には、古歌碑があり、次の三首が刻まれていて、まさに和歌世界の構成である。

 「たよりあらばいかでみやこへつげやらむ今日白河の関は越えぬと」(平兼盛)
 「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」(能因法師)
 「秋風に草木も露をはらわせて君がこゆれば関守もなし」(梶原景季)


白河関記念公園入口

白河関記念公園内の再現白河の関

古歌碑(左から順に梶原景時歌、能因法師歌、平兼盛歌)
   芭蕉の「奥の細道」には、
 「・・・心もとなき日数も重なるままに、白河の関にかかりて旅心さだまりぬ・・・」
と述べているように、白河関は昔から都から見た場合、歌枕としてより、僻地の境界と考えられて
いたようだ。したがって能因法師にしろ、平兼盛にしろ、この白河の関に立ったとき両人とも
都の事を考えたに違いない。

< 白河関記念公園の再現白河関> 
 白河の関が設置されたのは、延暦十八年(799)で、承和二年(835)には存在することが
確認されており、廃止されたのは、12,3世紀頃と考えられている。
 現在の「古関蹟」を推定したのは、白河藩主松平定信公の考証によるもので、その後、昭和34〜
38年頃の発掘調査で、空堀、土塁などの遺稿が一部残っていることが確認されている。


(5)能因法師雨乞いの樟
   愛媛県今治市大三島 大山祇神社境内境内北側の放生池(弁財天池ともいう)の傍、宇迦神社の前の樟の巨樹。
   幹周17m、推定樹齢3000年。日本最古の樟とされる。
   現在は枯死した一部が残っており、国の天然記念物「大山祇神社のクスノキ群」の一部を成している。
   大山祇神社は伊予国風土記にも記載のある古社で、8世紀に島の反対側の瀬戸から現在地に遷宮。
   境内には幹周11mの「乎千命御手植の楠」(国の天然記念物)や、かつて幹周14mあった「河野通有兜掛の楠」
  (枯死、国の天然記念物)、近隣に幹周15.5mの「生樹の御門」(愛媛県指定天然記念物)などクスの大木群あり。
   古来大三島島内はクスノキやトベラ、ウバメガシの原生林に覆われていたと考えられている。
   このクスノキは1941年の測定で幹周17m、根回り26mを測ったが、当時すでに枯死していた[5]。江戸時代の記録では人十五人抱え4尺、あるいは目通り9間(約16.6m)とある[6]。何れも愛媛県最大の巨樹である「生樹の御門」や「土居の大楠」を大幅に上回る大きさであった。

   1041年(長久2年)大干ばつの際、伊予国司藤原資業の使者として能因が大山祇神社で雨乞いを行った。
   『金葉和歌集』や『能因法師集』に詠まれている。
   「天の川苗代水にせきくだせ天降ります神ならば神」と幣帛(へいはく)に書付け祈請を行うと、
   伊予国中に一昼夜(能因法師集)、あるいは三日三晩(金葉和歌集)にわたって雨が降り続き、
   喜んだ村人は能因に餅を送ったという。
   能因がこのクスノキに前述の幣帛を掛けたとの伝承から「能因法師雨乞いの樟」と呼ばれる。


<その3>百人一首歌人の旅の歌
  百人一首中には、部立「羇旅歌」から、4首(第7番歌 第11番歌 第24番歌 第93番歌)採られている。
1.第7番歌 阿倍仲麻呂の唐土での歌「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」
       仲麻呂は結局日本へ帰って来れなかったから、旅は未完に終わった。

2.第11番歌 小野篁の隠岐への旅 「わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと 人には告げよ あまの釣り舟」
       遣唐使派遣の旅は未完に終わり、代わりに隠岐への流罪の旅となってしまった。

3.第24番歌 菅原道真の奈良方面への旅
       菅家の百人一首歌は、出典の「古今和歌集」の詞書きによりますと、朱雀院(宇多法皇)の御幸、
       昌泰元年(898)10月の奈良・吉野・竜田・難波への巡幸の時の詠とされます。
       「このたびは 幣もとりあへず 手向山 もみぢの錦 神のまにまに」
       したがって、可能性の高い「手向け山」は奈良の周辺、京都から奈良への道筋、あるいは、
       奈良から難波への道筋に求めることになりましょう。推測される場所は、それぞれ奈良の周辺で
        北辺一帯:<奈良坂>・・・般若寺越え
             <歌姫越>・・・添御県坐神社
        東方一帯:<手向山>・・・手向山神社
        南西方向:<竜田道>・・・峠八幡神社

4.第93番歌 源実朝の海辺での回想歌
       「世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ あまの小舟の 綱手かなしも」

5.詞書に旅が挙げられる歌
       第88番歌「「旅宿逢恋」皇嘉門院別当「難波江の 葦の仮寝の 一夜ゆえ

6.歌の主題から旅の歌と思われるもの
  第4番歌 山部赤人「田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ」
  第10番歌 蝉丸「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」
  第16番歌 中納言行平「立ち別れ いなばの山の 峯に生ふる まつとし 聞かば 今帰り来む」
  第26番歌 貞信公「小倉山 峯のもみぢば 心あらば 今ひとたびの 御幸待たなむ」
  第60番歌 小式部内侍「大江山 生野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立」(未達の架空の旅)

7.歌人の人生の中に旅が記録されているもの
  持統天皇ー吉野行幸、三河行幸など       柿本人麿ー石見の国その他、旅の歌多し。
  大伴家持ー越中国ほか、            在原業平ー伊勢物語「東下り」
  壬生忠岑ー甲斐の国へ。(古今和歌集)     紀貫之 ー土佐日記
  平兼盛 ー白河の關(能因法師の関係文参照)  曽祢好忠ー丹後
  藤原実方ー「陸奥守」左遷。          右大将道綱母ー長谷寺参詣、唐崎詣でなど。
                               (<参考メモ・その2>参照方)
  和泉式部ー各地に縁りの伝承有り。丹後国ほか。 紫式部 ー越前への旅
  清少納言ー寺社への参詣、周防国赴任?     相模  ー相模国への赴任。
  前大僧正行尊ー修行のたび           能因法師ー陸奥、伊予など。
                                (<参考メモ・その2>参照方)
  大江匡房ー大宰府へ赴任、           崇徳院 ー讃岐国へ。
  藤原俊成ー三河国赴任。            西行法師ー「山家集」の旅の歌数多。
  藤原定家ー熊野詣で随伴。           後鳥羽院ー隠岐国配流。
  順徳院 ー佐渡国配流。

<参考メモ>歌人の旅    

<参考メモ・その1>万葉歌人の旅   

  万葉集には、「たび」歌語を用いた歌が105首余り残されている。ただし、「たび」の歌語を用いないでも内容として
「羈旅歌」と見なされるものも多く見られるので、旅を詠んだ歌数はかなり幅があると見なければいけない。

 万葉集における「羈旅」という部類とその編纂としては、巻7の雑歌部に「羈旅作」(1161番〜1250番・90首)があり、
「旅の歌を詠む」ことに資するという目的のもとに「歌材」を提供するという、編纂動機が生み出した最初の巻として
注目されている。(参考文献:市瀬雅之ほか「万葉集編纂構想論」笠間書院・2014年2月)
 さらに巻12には、「羈旅発思」(3127番〜3179番・53首)を分類し、「羈旅」においての「思ひ発こす」心を
次のように数首ずつに分けられるとしている。
(1)別れる(2)悔しむ(3)恋ひつつある(4)後れる(5)越える
(6)忘れる(7)恋う(8)手向け(9)下紐・紐の緒
 加えて、「悲別歌」(3180番〜3210番・31首)と「問答歌」(3211番〜3220番・10首)を分離して詠う心の細分化したとする。

 「くさまくら・草枕」+「たび・旅」の詠みは、約48首(46%)ー長歌10首、短歌39首になる。
  万葉集の歌の分類である七大分類(雑歌・相聞・挽歌ほか)の中で、「旅」という語の歌は、上述の巻7および
古今相聞往来歌の部類になる巻12の中で「羇旅発思」(たびにおもひをおこす)53首として収録されている。
そのうち、<草枕>+<旅>の歌は、数首あり、柿本人麻呂集の4首も含まれている。
 (参考冊子:吉田金彦「草枕と旅の源流を求めてー万葉の多胡・田子浦の歌」勉誠出版・2004年12月)

 「たび」の万葉仮名別に歌をまとめると次の一覧表のようになる。
 (引用事典:正宗敦夫編「萬葉集總索引・単語篇」(昭和49年5月7日)平凡社)
万葉仮名
(歌数)
使用例と特徴巻番号ー歌番号代表歌
多比
(6)
たびゆくあれ・くさまくらたび(2首) 7-1234,18-4128,20-4327(*),20-4343,
20-4351,20-4416
(*)わがつまも ゑにかきとらむ いつまもが たびゆくあれは みつつしのはむ
多妣
(13)
くさまくらたび(8首)など・家を思う、旅人を思う、 15-3607(*),15-3612,15-3636,15-3637,
15-3669,17-3927(**),17-3929,17-3936,17-3937,
17-4008(長歌),20-4325,20-4406,20-4420
(*)しろたへの ふぢえのうらに いさりする あまかとみらむ たびゆくわれを
(**)くさまくら たびゆくきみを さきくあれと いはひへすゑつ あがとこのへに
多非
(1)
たびのかりほ20-4348 たらちねの ははをわかれて まことわれ たびのかりほに やすくねむかも
多婢
(12)
たびにして他・旅の不自由さを嘆く、くさまくら(3首) 15-3643,15-3674,15-3677,15-3686,15-3717,
15-3719,15-3743,15-3763(*),15-3781,15-3783,
19-4263,20-4455
(*)たびといへば ことにぞやすき すべもなく くるしきたびも ことにまさめや
多鼻
(1)
たびのしるし1-57 ひくまぬに にほふはりはら いりみだり ころもにほはせ たびのしるしに

(17)
たびにしあれば・くさまくらたび(2首)、巻1〜3に多い 1-46,1-67,1-75,2-142(*),2-194,3-252,3-415,
3-440(**),3-451,6-928(長歌),7-1139
(*)いへにあれば けにもるいひを くさまくら たびにしあれば しひのはにもる
(**)みやこなる あれたるいへに ひとりねば たびにまさりて くるしかるべし

(33)
くさまくらたび(17)、巻3,4,6,10,12に集中 1-5(長歌),1-69,3-366(長歌),3-367,3-415(*),
3-460(長歌),4-500,4-543(長歌),4-546(長歌),4-621,
4-622,4-634,4-635,6-913(長歌),6-930,6-942(長歌),
6-971(長歌),8-1532,9-1691,9-1757(長歌),9-1790(長歌),
9-1791(**),10-1918,10-1938,10-2163,10-2235,12-3136,
12-3141,12-3147,12-3152,12-3158,12-3184,13-3272(長歌),
13-3291(長歌),19-4252
(*)いへならば いもがてまけむ くさまくら たびにこやせる このたびとあはれ
(**)たびひとの やどりせむのに しもふらば あがこはぐくめ あめのたづむら

(1)
くさまくらたび4-549(*) (*)あめつちの かみもたすけよ くさまくら たびゆくきみが いへにいたるまで

(5)
5首とも、くさまくらたび 4-566,12-3176(*),12-3216,13-3252,13-3347 (*)くさまくら たびにしをれば かりこもの みだれていもに こひぬひはなし

(2)
くさまくらたび(1首)、旅の苦難を嘆く3-426(*),9-1688 (*)くさまくら たびのやどりに たがつまか くにわすれたる いへまたまくに
冠:?
+冠下:革+奇
(2)
くさまくらーたび、巻13 13-3346(長歌),13-3347(*) (*)くさまくら このたびのけに つまさかり いへぢおもふに いけるすべなし
去家
(1)
巻12中の一首12-3133(*) (*)たびにして いもをおもひで いちしろく ひとのしるべく なげきせむかも

(4)
くさまくらたび(2首)9-1727,9-1747(),10-2249(*),12-3144 (*)たづがねの きこゆるたゐに いほりして われたびなりと いもにつげこそ
羈旅
(5)
「羈旅作」として、<くさまくらたび>の三連作(3) 7-1161,10-2305,12-3134,12-3145(*),12-3146 (*)わぎもこし あをしのふらし くさまくら たびのまろねに したびもとけぬ
羇旅
(7)
題詞の<きろ> 3-249(*),3-270,3-388,5-864,7-1161,
12-3127,17-3890
(*)柿本朝臣人麻呂羇旅歌八首

<参考メモ・その2>中世物語での旅

1.伊勢物語・在原業平および平家物語・平重衡
(1)伊勢物語の旅の世界
     伊勢物語・第八段〜第十四段ー記された地名群
       第八段ー信濃國・浅間嶽・三河國八橋・駿河國宇津の山・富士山・武蔵国と下総國の角田川
       第九段ー武蔵国・入間郡みよし野の里
       第十段ー東へ
      第十一段ー武蔵野・
      第十二段ー武蔵
      第十三段ー陸奥國栗原あねは
      第十四段ーみちの國・信夫山

(2)平家物語での旅の世界
     平家物語・巻九・海道下りー言及された地名順
       四宮河原・逢坂山・勢多の唐橋・野路の里・志賀の浦波・鏡山・比良の高嶺・伊吹の嵩・不破の關屋・
       鳴海の塩干潟・参河國八橋・濱名の橋・池田の宿・小夜中山・宇都の山辺・手越・甲斐の白根・
       清見が關・富士の裾野・足柄の山・こゆるぎの森・鞠子河・小磯・大磯の浦・やつま・砥上が原・
       御輿が崎・鎌倉

2.女性の旅<蜻蛉日記・右大将道綱母>
   百人一首・第53番歌 嘆きつつひとり寝る夜のあくる間は如何に久しきものとかは知る
   天禄元年(970年)子息道綱を伴っての唐崎祓の旅
 右大将道綱母の「唐崎祓」の旅は、今を去る1040年前、天禄元年六月のことであった。
 「唐崎祓」の往路の行程は「蜻蛉日記」(中巻・第九節)に記されている。

*1.京を出立 「いかで涼しきかたもやあると心ものべがてら浜づらのかたに祓へもせむと思ひて
        唐崎へとものす。」
*2.鴨川通過 「寅のとき(午前四時頃)ばかりに出で立つに、月いとあかし。・・・鴨川のほどにて
        ほのぼのと明く。・・・」
*3.逢坂上口 「・・・山路になりて、京にたがひたるさまを見るにも、・・・いとあはれなり。」
*4.逢坂關  「・・・關にいたりて、しばし車とどめて、牛かひなどするに、・・・ 関の山路
        あはれあはれとおぼえて、・・・ゆくへのしらず見えわたりて、・・・釣り船なるべし。」
*5.大津到着 「・・・大津のいとものむつかしき屋どものなかに引き入りにけり。」
*6.清水到着 「・・・巳の時はて(午前11時頃)になり・・・清水といふところに、・・・車かきおろして、
        <清水>に来つると、おこなひやり(京の留守宅に様子を知らせる)などすなり。」
        (現在の大津市逢坂町1〜2丁目付近)
*7.唐崎到着 「さて、車かけて、その崎(唐崎)にさしいりたり、車ひきかへ(車の向きを変える)て、
        祓へしにゆく。・・・」         
*8.祓え終了 「未のをはり(午後三時頃)ばかり、果てぬれば、帰る。」

  祓へを終えて、また往路(約20km)の逢坂関を越えて、京へ約6時間ほどかけて戻っていった。

 右大将道綱母の邸宅は一条戻り橋東側近くにあったとされいているので、唐崎へ行くには山中峠を通れば
直線で約15kmぐらいだが、峠越えは大変なので、東国への大道である逢坂山を越えて、約20kmの道のりを
一日かけて往復していることになる。
 右大将道綱母から約200年ほど後世の鎌倉期に鎌倉への旅をした女性阿仏尼は一日平均35kmほど歩いていたから、
昔の旅の一日の行程の限界は、35〜40kmくらいであったことになる。

 右大将道綱母が、唐崎祓以外に長谷寺や近隣の寺社への参詣の旅も行ったらしいこと、またかの紫式部も
越前への赴任の旅以外に石山寺などへ、さらには、清少納言でも広隆寺や京の近郊へ出かけているので、
受領層以上の人々は女性でもかなり行動していたことが想像できる。


3.能因法師の<馬の生業>
  橘永ト(たちばなながやす)は26歳前後に訳あって出家し、摂津国古曽部に隠居して「古曽部入道」能因法師となり、
官途の拘束を受けず、自由な立場で、敷島道へ邁進したわけだが、その残された「能因法師集」なる和歌世界から
判断する限り、じっと里に籠もって仏道一筋の精進生活ではなかったようだ。

 歌集の上の部では青年期、中の部では出家前後から、漂泊の旅の壮年期、下の部では歌人としての名声を確立した
晩年期にわたる歌の人生遍路の記録である。
 元々出家して古曽部に住まいしたのも、歌道の先達伊勢女御の後を慕ったとされているから、出家後も彼にとっては
和歌が生き甲斐であったことは確かだ。

 一方で生きていくための生業(たつき)となったのが、どうも「馬」に関係していたらしいことが推測され参考資料に
言及されている。

 「・・・目崎徳衛氏は能因の隠棲地古曽部に注目、同地が古来、牧場だったことから、能因は
  馬の交易を営んでいたと推定された。(「能因に於ける二、三の問題」芸林(昭和34年・上、
  6月・下))
  傾聴すべき説で、「能因法師集」にはなるほど、馬を詠んだ作品が多く、再度の奥州下向の
  目的も釈然とする・・・」(犬養廉「百人一首100人の歌人」(別冊歴史読本)
               新人物往来社(平成四年一月))

 「陸奥」と「馬」を次のように詠んでいる。

 ーみちの国にかたらふ人なくなりにけりとききて、ゆきてみればあれたる家にあらきむまを
  つなぎたりー
 「とりつなぐこまとも人をみてしかなつひにはあれじと思ふばかりに」(中・117)

 ーみちのくにひょりのぼりたるむまのわづらひて、この国にてしぬるをみてー
 「わかるれどあさかのぬまのこまなれば面影にこそはなれざりけれ」(下・210)

 高槻市広報誌「たかつき」に連載されている「いにしえ物語拾遺」(その6〜9)にも、次のように
能因法師と馬の関係を言及している。

 「・・・(高槻市域の地名)「上牧」は、古代官営の牧場が展開した・・・
  ・・・淀川右岸の上牧から芥川左岸にかけては絶好の牧場立地でした」(その6)
 
  (注)「延喜式」官営牧場 (1)御牧(おんまき)皇室直属の牧場
               (2)諸国牧(しょこくまき)兵部省管轄の牧場
               (3)近都牧(きんとのまき)左馬寮・右馬寮管轄牧場

 高槻市域には、この「上牧」の他に「三箇牧」という地区が地名として残っており、南隣の
摂津市域には、「鳥飼の牧」という地名が、上牧の淀川対岸枚方市には、「牧野」という地名が
残っている。
 
 「・・・二度の奥州旅行で若駒を調教する現地の牧司と親しくなった能因は、陸奥の駿馬を
  都に連れ帰り、親しい官人に贈ったり、また他の官人から求められたりしているのです。・・・」
  ・・・東北からの馬の入手ルートの確保は、必然的に飼育の場所の確保を伴います。
  これが能因が古曽部に住んだ最大の理由・・・」(その8)

であったわけで、伊勢女御を慕っての移住は、あくまでも結果的なことであったことになる。
 ではその「能因牧場」はどのあたりにあったのか。

 高槻市上牧の周辺  「・・・近都牧にあったのか、あるいは安満庄の中に私牧があったものか
  ・・・萩之庄檜尾川左岸に「河原牧」の小字があり、高垣町・緑町にそれぞれ「西之川原・
  河原田」の小字、また八幡町にも「牧戸」の小字がある・・・
  ・・・上牧、つまり「上の牧」に続いて「中・下」が、三ヶ牧とは別に、檜尾川から芥川
  左岸にあった・・・・」(その8)

 かって檜尾川・芥川および淀川右岸流域一帯が牧場であったことを彷彿とさせる地名が現在でも
僅かながら残っているという。

 上述の上牧の対岸即ち淀川左岸の枚方市域における「牧野」の地名も、その北側が交野で
古代天皇家の御陵地に続いていたことから、この一帯は馬との関係が深かったことがわかります。
 能因法師の住まいからは南方に淀川周辺まで見渡せ、馬を飼育するには格好の場所であったことに
違いない。

 「能因牧場」の時代から千年経ち、牧場には「馬」の代わりに「車」と「電車」が往ったり来たり、
しております。能因法師が現代で生活生業を求めた場合、自動車に関係した職業を選んでいたかも知れない。

 それよりも能因法師にしてみれば、牧場が消えて、民家が立ち尽くし、その間をあわただしく
行き交う鉄製の車と列車を見て、如何に敷島の世界から遠い騒然とした社会であることかと嘆いた
事は確かだ。
 のんびりと淀川河岸で草をはんでいる馬の群を見ていることの方が北摂の風景に適していることは
確かです。せいぜい後鳥羽上皇の水無瀬離宮の環境までが北摂の地の風光に受け入れ得たのでしょう。
時の流れとは言え、この変貌振りは極端といわざるを得まい。 

<参考メモ・その3>

 紀行文芸の一例として「中世日記紀行集」(新日本古典文学大系51・岩波書店)に取り上げられているもの。

 *「高倉院厳島御幸記」:治承四年(1180年)2月21日〜4月9日、厳島神社参詣、新院(高倉院)随行近臣・源通親による。
             (往路:船旅8日間・3月19日〜26日、復路:3月29日〜4月9日)
 *「海道記」(後述)
 *「東關紀行」(後述)
 *「うたたね」:失恋の傷心の旅・養父任地遠江へ、阿仏(1222?−1283)手記。
 *「十六夜日記」(後述)
 *「中務内侍日記」:伏見天皇の女房・藤原経子による尼崎紀行や初瀬紀行を記す。
           弘安三年(1280)〜正応五年(1293)
 *「竹むきが記」:光厳天皇の女房・日野名子による天王寺・石山・初瀬への参詣紀行文。
          建武四年(1337)〜貞和五年(1349)
 *「都のつと」:修行のため東国(鎌倉・武蔵野・常陸・甲斐・秩父・上野)および陸奥(白河・塩竃・松島)へ、
         現存最古の東北紀行文。南北朝期歌人宗久による。観応年間(1350-52)約一年半の行脚。
         松尾芭蕉「奥の細道」への先達的影響が見られる。
 *「小島のくちずさみ」:後光厳天皇の美濃國小島への退避行に供奉。二条良基による近江路の数日間の紀行文。
             文和二年(1353)7月20日から、美濃臨幸後、9月21日帰京まで。
 *「藤河の記」:奈良から近江・琵琶湖を渡り、朝妻から不破の關を越え、美濃の垂井から鏡島への行き帰り。
         文明五年(1473)5月2日〜28日。一条兼良(1402-1481)記す。
 *「筑紫道記」:周防國山口から太宰府・博多への旅。文明12年(1480)9月6日〜10月12日、36日間の紀行文。
         連歌師宗祇は7回の越後への旅その他多くの旅行をしている。
 *「北国紀行」:美濃・郡上から飛騨・越中・越後・上野・武蔵國隅田川・相模の鎌倉までの往復。
         文明18年(1486)五月〜長享元年(1487)11月末まで。二条派歌人・堯恵(1430-1498?)記す。
 *「宗祇終焉記」:越中府中から上野の草津・伊香保および江戸・鎌倉・箱根を経て駿府まで。文亀二年(1502)
          3月から8月中旬まで。宗祇に同行した宗長の紀行文。
 *「佐野のわたり」:京から奈良・三輪・初瀬・多氣・伊勢山田に滞在し、大湊から船旅の桑名まで。
           大永二年(1522)7月20日〜8月23日。連歌師宗祇に同行した宗碩の紀行文。

 これらの紀行文芸のうち、鎌倉往還として共通している「海道記」「東関紀行」「十六夜日記」は、
三大中世紀行文としてまとめられている。

1.「海道記」ー貞応二年(1223)ー「歌枕」の探訪を目的とし、「伊勢物語」関係の故地に業平を偲んでいる。
     道行き順路(出典:新日本古典文学大系51「中世日記紀行集」岩波書店(1990年10月))
       旅の行程表ー貞応二年・1223年4月4日ー4月18日(15日間の行動)
       日順 日付  出発地 到着地  國名(現在の地名)  国名(現在の地名)  移動距離(キロ)
        1  4   京都ー大岳  山城(京都市左京区)  ー近江(滋賀県甲賀郡)   48 
        2  5   大岳ー鈴鹿  近江(滋賀県甲賀郡)  ー伊勢(三重県鈴鹿市)   28  
        3  6   鈴鹿ー市腋  伊勢(三重県鈴鹿市)  ー尾張(愛知県津島市)   52     
        4  7   市腋ー萱津  尾張(愛知県津島市)  ー尾張(愛知県名古屋市)  20       
        5  8   萱津ー矢矧  尾張(愛知県名古屋市) ー三河(愛知県岡崎市)   44       
        6  9   矢矧ー豊河  三河(愛知県岡崎市)  ー三河(愛知県豊川市)   32       
        7 10   豊河ー橋本  三河(愛知県豊川市)  ー遠江(静岡県浜名郡)   28       
        8 11   橋本ー池田  遠江(静岡県浜名郡)  ー遠江(静岡県磐田市)   28       
        9 12   池田ー菊河  遠江(静岡県磐田市)  ー遠江(静岡県榛原郡)   36      
       10 13   菊河ー手越  遠江(静岡県榛原郡)  ー駿河(静岡県静岡市)   36      
       11 14   手越ー蒲原  駿河(静岡県静岡市)  ー駿河(静岡県庵原郡)   36       
       12 15   蒲原ー木瀬川 駿河(静岡県庵原郡)  ー駿河(静岡県駿東郡)   32       
       13 16  木瀬川ー竹の下 駿河(静岡県駿東郡)  ー駿河(静岡県駿東郡)   32        
       14 17  竹の下ー逆川  駿河(静岡県駿東郡)  ー相模(神奈川県小田原市) 32        
       15 18   逆川ー鎌倉  相模(神奈川県小田原市)ー相模(神奈川県鎌倉市)  40       
        計 15    (14泊)  (9國を通過) (一日平均35キロ走破)   (524キロ)     
 

2.「東関紀行」ー仁治三年(1242)ー「平家物語」(道行き文の濫觴「海道下り」(重衡の鎌倉護送))や
       太平記「俊基東下り」、源平盛衰記「師長東下り、宗盛父子東下り、さらに、松尾芭蕉「奥の細道」に影響した。
     道行き順路(解説書の目次例:吉川秀雄著「新譯東關紀行精解」(昭和二年2月十五日十四版)精文館書店)
       近江路ー相坂の關・打出の濱・粟津の原・瀬の長橋・野路・篠原・鏡の宿・武佐寺・老曽の森・醒ヶ井
       美濃路ー不破の關屋・株瀬川
       尾張路ー萱津・熱田の宮・鳴海潟・二村山
       三河路ー八橋・赤坂・本野が原・豊河
       遠江路ー高師の山・橋本・舞澤の原・天龍の波・今の浦・任事の社・小夜の中山・菊川・大井川
       駿河路ー岡部・宇都の山・清美が關・興津・岫が崎・神原・田子の浦・浮島が原・千本の松原・車返
       伊豆路ー三島の社
       相模路ー箱根の山・湯本・鎌倉・和賀江の築島・三浦のみさき
       鎌倉


3.「十六夜日記」ー弘安五年(1282)ー女性の鎌倉道中記。「伊勢物語」(東下り)や西行などを念頭に記している。
     道行き順路(弘安二年・1279年10月16日ー29日 14日間
           出典:新日本古典文学大系51「中世日記紀行集」岩波書店(1990年10月))
       16日ー近江路ー粟田口・逢坂の関・野路・篠原・鏡・守山泊
       17日ー近江路ー野洲川・小野泊
       18日ー美濃路ー醒ヶ井・美濃國關の藤河・不破の關屋・笠縫(大垣市笠縫町付近)の駅・
       19日ー美濃路ー平野(安八郡神戸町付近)・結神社(安八郡安八町付近)・
              州俣の川(長良川上流)・一宮社(真清田神社)・
       20日ー尾張路ー尾張國下戸駅(稲沢市下津付近)・熱田の宮・
         ー三河路ー二村山・八橋泊・
       21日ー三河路ー宮路の山(愛知県宝飯郡)・(注)紀行文「うたたね」既知の所。・渡津(豊川西岸)泊・
       22日ー遠江路ー高師の山(愛知県・静岡県境)・浜名の橋・引馬の宿(浜松)泊・
       23日ー遠江路ー天龍の渡り・遠江見附(磐田市見付町付近)の里泊・
       24日ー遠江路ーさやの中山(掛川市と金屋町境)・事任の社・菊川(榛原郡菊川町付近)泊・
       25日ー駿河路ー大井川・宇津の山・手越(静岡市手越・安部川西岸)泊・
       26日ー駿河路ー藁科川(安部川支流)・興津の濱・清見が關・浪の上泊・(注)(富士の山を見る)
       27日ー駿河路ー富士川・田子の浦・伊豆の国府泊・(注)夕日のなか、三嶋の明神参拝。
       28日ー相模路ー箱根路・足柄山道(湯坂)・早川・丸子川・酒匂泊・
       29日ー相模路ー酒匂の浜路・月影の谷(やつ)投宿


<参考メモ・その4>明治期の小学唱歌<旅の歌>

(1)「旅泊」  大和田建樹  明治22年  イギリス民謡  (注)「燈台守」(凍れる月影 空に冴えて・・・・)

    磯の火ほそりて 更くる夜半に 岩打つ波音    ひとりたかし 
    かかれる友舟  ひとは寝たり たれにかかたらむ 旅の心
    
    月影かくれて  からす啼きぬ 年なす長夜も   あけにちかし
    おきよや舟人  おちのやまに 横雲なびきて   今日ものどか

(注1)大和田 建樹(おおわだ たけき、安政4年4月29日(1857年5月22日) - 明治43年(1910年)10月1日)
    日本の詩人・作詞家・国文学者・東京高等師範学校(現・筑波大学)教授。
    『鉄道唱歌』・『故郷の空』・『青葉の笛』などの作詞者。
    1857年(安政4年) 伊予国宇和島藩士・大和田水雲の子として生まれる。藩校の明倫館に入学。
    1876年(明治9年) 広島外国語学校に入学。  1886年(明治19年) 東京高等師範学校教授。
    1891年(明治24年) 文筆家。明治女学校講師。1900年(明治33年) 『鉄道唱歌』全5部作発表。
    1910年(明治43年)脊髄炎死去。享年54。
(注2)主な作品・唱歌 
    大和田は速筆で、国文学・随筆・紀行文・詩歌において多くの作品を残した。総数97種150冊。門人も500人を有す。
    鐵道唱歌は企画者市田元蔵と実際に取材旅行を行い作られた作品で、「車窓日記」として残る。
    代表的な小学唱歌:「舟あそび」(曲:奥好義)「故郷の空」(曲:スコットランド民謡)「青葉の笛」(曲:田村虎蔵)
            「暁起」(曲:田中銀之助)「あわれ少女」(曲:フォスター)「四条畷」「夢の外」
    連載物:地理教育・鉄道唱歌  海事教育・航海唱歌   明治文典唱歌  国民教育・忠勇唱歌  
        春夏秋冬  花鳥唱歌  
    軍歌集:「日本陸軍」(曲:"開成館"深澤登代吉)「日本海軍」(曲:小山作之助)「黄海海戦」(曲:瀬戸口藤吉)など。
    『明治唱歌』全六集 大和田建樹,奥好義 共編(中央堂,1888年5月〜1892年4月) 
    明治になり本格的に西洋音楽教育をスタートし,民間でも音楽教材も盛んに出版されるようになった.
    『明治唱歌』はその中の一本で 収録された曲の約 2/3 は外国曲.
     歌詞の殆どは大和田建樹の創作で,大和田の創作詩集.
(注3)記念碑その他
    宇和島駅前には、大和田建樹の生誕地であることを記念し、『鉄道唱歌』の碑がたっている。
    明倫館の後身・明倫小学校に、大和田自筆の額がある。


(2)「旅愁」  犬童球渓作詞 オードウェイ作曲   明治40年

    更けゆく秋の夜 旅の空の    わびしき思いに ひとりなやむ 
    恋しやふるさと なつかし父母  夢路にたどるは 故郷の家路
    更けゆく秋の夜 旅のそらの   わびしき思いに ひとりなやむ

    窓打つ嵐に   夢もやぶれ   遙けき彼方に  こころ迷う
    恋しや故郷   なつかし父母  思いに浮かぶは 杜のこずえ
    窓打つ嵐に   夢もやぶれ   遙けき彼方に  こころ迷う

   (注1)旅愁(りょしゅう)詩人犬童球渓が明治40年(1907年)に訳した翻訳唱歌。ウィキソースに旅愁の原文あり。
       1907年8月発表音楽教科書「中等教育唱歌集」で取り上げられ、日本人に広く親しまれてきた。
       原曲はジョン・P・オードウェイ(John P. Ordway)による“Dreaming of Home and Mother”(家と母を夢見て)。
       2007年(平成19年)に日本の歌百選の1曲に選ばれた。
   (注2)犬童 球渓(いんどう きゅうけい、1879年4月20日 - 1943年10月19日)
       日本の詩人、作詞家、教育者。熊本県人吉市出身。東京音楽学校卒業。本名は「犬童信蔵」というが、
       球磨川の渓谷に生まれたことから「球渓」というペンネームをつけた。1943年、人吉で自殺。
       大学卒業後、音楽教師として各地を転々とし、新潟高等女学校に勤務していた期間中に、
       ジョン・P・オードウェイの『家と母を夢見て』の曲を知り、故郷の熊本県から遠く離れた自分の心情と
       重ね合わせながら訳詞した。明治40年(1907年)8月に「中等教育唱歌集」において、犬童の訳詞曲として
       『旅愁』と『故郷の廃家』の2曲が採用された。これはすべて日本国外からの翻訳唱歌を集めた音楽教科書であったが、
       当時としては画期的な試みのひとつとして各曲にピアノ伴奏楽譜がついていた。
       当時の翻訳唱歌の大半は「学校唱歌校門を出ず」のレベルにとどまっていたが、
       犬童球渓の訳詞による『旅愁』はアメリカの曲にも関わらず“日本の歌”として親しまれている。
       犬童球渓はこれらの代表作も含めて、生涯に250曲ほどの西洋歌曲の翻訳作詞を残した。
       彼の訳詞の特徴として、英語からの直訳を嫌い、日本語らしい表現にこだわった点などが挙げられる。
   (注3)原作者ジョン・P・オードウェイ(1824年 - 1880年)
        アメリカ音楽史に残る歌曲を数多く作曲したスティーブン・フォスター(1826年 - 1864年)や、
       『大きな古時計』の原作者ヘンリー・クレイ・ワーク(1832年 - 1884年)とほぼ同時期に活動した音楽家。
       彼は医学博士であり、医師の仕事の傍ら楽譜出版業も手がけたが、
       原曲の“Dreaming of Home and Mother”は、アメリカではほとんど忘れられたという。
       なお、代表的クリスマスソング、ジェームズ・ロード・ピアポント作『ジングルベル』の
       原曲"The One Horse Open Sleigh"はオードウェイに献呈されている。



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平成28年5月20日  *** 編集責任・奈華仁志 ***

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