平成社会の探索


ー第64回知恵の会資料ー平成18年8月20日ー

「知恵の会」への「知恵袋」


(その8)「地蔵盆」の「お地蔵さん」は「見てござる」

<歌謡世界の「お地蔵さん」>

 キリスト教の世界に於いては二千年に亘って音楽的宗教環境を創造することに努めてきたのに
対して、仏教世界では声明と読経時の鳴り物程度の音楽的環境の設定に終わっています。端的に
言いますと器楽伴奏での「賛美歌」合唱に対して、観世音菩薩の「ご詠歌」斉唱ということに
なりましょうか。
 庶民信仰仏教の諸仏にあって地蔵菩薩は最も多彩に庶民の生活空間に共存する仏と言えましょう。
 すなわち、祀られている場所を見ますと、壮大な寺院の堂宇や境内の中に留まらず、庶民生活の
色々の所に顔を出しています。街角の一角であったり、街道筋では道祖神的扱いを受けています。
さらには、視覚世界だけでなく聴覚の世界でも「(お)地蔵さん」として、童謡、民謡、はたまた
演歌にまで登場している「一番人気者の仏さん」ということになりましょう。如何なる理由で
このように庶民に密接する「ほとけさん」になっているのか、ここでは、歌謡の世界から
「お地蔵さん」を眺めてみました。

 「(お)地蔵さん」の歌の例として、次の歌謡を引用しました。歌詞は後述の参考メモ参照方。
  (1)童謡:「見てござる」
  (2)民謡:「ノーエ節」
  (3)演歌:「別れの一本杉」「おさげと花と地蔵さんと」

 「ノーエ節」に於ける「石の地蔵さん」の引用事情や背景がよく分かりませんが、お化粧時間の
長い女郎衆に怒ったお客から「石の地蔵さん」が引き出され、その地蔵さんの丸い頭のてっぺんに
からすが取り合わされています。どうも「おらが村ののどかな風景」の描写のようです。
 敗戦後の昭和30年代に歌い出された春日八郎の「別れの一本杉」や三橋美智也の「おさげと
花と地蔵さんと」の歌の世界は、当時の社会世相を反映しているようです。都会に生活を求めて、
出てきた人々が、「我が故郷」のあれこれの風景を懐かしんでいるものです。これらの歌には
地蔵菩薩に関わる宗教的な必然的理由は見出せないように思います。
 童謡「見てござる」では、「なかよしこよしの」村の子供達の遊び世界を見守っている「お地蔵
さん」が歌われています。この歌では、「お地蔵さん」以外に「田んぼ田中のかかしどん」と
「やまのからすのかんざぶろう」が出てきます。これも半世紀前の村の一般的風景を歌っている
ことになるのですが、歌の始めに「お地蔵さん」と子供を歌っていることに、作詞家の宗教的心象
風景を垣間見ることが出来そうに思います。

<地蔵信仰と子供の世界>

 地蔵信仰の対象である地蔵菩薩に関する参考事項を関連資料(頼富本宏「庶民のほとけー
観音・地蔵・不動ー」NHKブックス467(昭和59年12月))より引用します。

 まず、「お地蔵さん」は、もともとインドの「大地の神様」が原義で、地上に存在する生命ある
もの全てを養ってくれる神様」という意味とのこと。お釈迦か様が亡くなってから弥勒菩薩が
悟りを開いて法を説かれるまでの56憶7千万年の無仏の間に出現し、その身を種種の姿に
分身して衆生を救済するというのです。
 その衆生済度功徳利益は、地蔵菩薩本願経に説かれる十種本願(土地豊穣作物豊作、
家内安全、天国蘇生、現世長生、願望結縁、水難火災除けなど)で、いずれも庶民が望むこと
ばかりです。
 地蔵信仰の本格的普及は平安末期からで、その支持層は貴族や僧侶だけにとどまらず、下人や
従者にまで及び、末法思想の蔓延とともに現世利益の意味合いが強かった地蔵菩薩も来世利益の
仏様の性格を帯びてゆきます。室町時代に地蔵信仰は一般庶民に浸透し、江戸期に入って、
「民衆の切実な要求の多極化につれて各々、専門化した地蔵尊に形成されてゆく」ことになります。
すなわち「延命地蔵、子安地蔵、田植地蔵」などです。
 そして「子供のほとけとして確立され、地蔵盆も旧来の出世間的地域講から、子供の祭として
出来上がり、街角や村はずれの像は、従来の道祖神的役割で、路傍のほとけの代表的地位となる」
わけです。

(左)摂津国・古曽部の里の伊勢寺(三十六歌仙伊勢縁り)お地蔵さん
(右)伊勢寺の東隣にある能因法師「文塚」のお地蔵さん
 地蔵菩薩と子供の関係を関係する経文(地蔵菩薩本願経)の中から探ってみても、確たる言及は
ないようです。平安末期の説話集「今昔物語」など一連の地蔵霊験記に地蔵菩薩が子供に利益を
与える話しが増えて行き、室町時代以降、この傾向は目立ってくるようです。
 念仏聖と称されて空也の作と人口に膾炙されている「賽の河原の物語ー西院河原地蔵和讃」も
子供と地蔵菩薩を関係付ける背景に成っているのかも知れません。

 (注)「・・・二つや三つや四つ五つ 十にも足らぬみどり子が 
        西院の河原に集まりて 父上恋し母恋し 
        恋し恋しと泣く声は  この世の声とはこと変わり
        悲しさ骨身に通すなり ・・・」

 加えて、円頂形地蔵像のイメージが子供の姿へと重複して行き、地獄救済の他に子供や身体不自由
な者の弱者救済の教えも興っていったようです。

摂津国・芥川堤(「伊勢物語」在原業平縁り)の(左)左岸のお地蔵さん(右)右岸のお地蔵さん
 庶民信仰の代表仏「お地蔵さん」では、地蔵盆も行われます。関西では、8月23〜24日の
地蔵菩薩の縁日に町内や寺院の地蔵尊を祭るもので、古来の地蔵菩薩供養日と子供のほとけという
要素が重なり合って、子供の健やかな成長を祈るお祭へと発展していきました。

<山上武夫と「お地蔵さん」>

 童謡の世界に「お地蔵さん」を導入した童謡作家山上武夫の生涯を、仏教的観点より彼の地蔵
菩薩に対する心象風景として探りながら、追ってみました。
 引用資料:神津良子「お猿のかごや:作詞家山上武夫の生涯」郷土出版社(2004年7月)
      第三章 戦後の作詞家 1.ひらめきから生まれた名作「見てござる」

 山上武夫は大正6年(1917)長野県松代町に、骨董商の長男として生まれました。松代商業
学校(現松代高校)卒業。
 昭和9年(1934)作詞家を志して上京し、NHK募集の童謡詩「この道あの道」(同じ松代
出身の作曲家草川信が作曲)に入選。日本コロンビア専属作詞家として海沼實とコンビで活躍
します。童謡誌「ゆずの木」主宰。昭和62年没。

 「・・・(終戦間もなく)日本放送協会から「戦後の子供の心を明るくする童謡を」依頼されて
  「お国の夜明け」を創作中であった昭和二十年十月八日、(郷里に戻っていたところ)
  数日来の長雨で千曲川が危険水位に達しそうで、今度は天災に見舞われるということか、と
  じっと目を閉じていると・・・・」
 「まぶたの裏を千曲川の濁流が荒れ狂いながら通り過ぎていく風景に変わって、のどかな田園
  風景が色鮮やかに展開しはじめたのである。少年時代に遊んだ千曲川畔と真田家の菩提寺・
  長国寺付近の情景である。秋風に揺れる稲穂。ユーモラスな姿を点在させる案山子群。その
  田んぼ道に続く古寺の境内にぽつんと立っている地蔵尊・・・・。あのお地蔵様は、少年
  少女達が仲良く遊ぶ姿をいつも黙って見ておられた。”見てござる”という言葉が脳裏に
  ぽっかりと浮かび上がってきた。そうだ、これだ!・・・・」

ということで、かの戦後の名作童謡「見てござる」が誕生したというのです。
 人は窮地の陥ったとき、どんな情景を心に描くか、その典型的な事例と言うべきかも知れません。
 現実の惨めな、あるいは悲惨な情景を打ち消したり、逃避したいと思う気持ちが、その人の
持っている和やかな、昔の故郷の風景へ辿り着くのです。
 「子供の頃の心が和む情景」には、必ずと言っていいほど、「村のお地蔵さんの風景」が浮かんで
くるのではないでしょうか。穏やかな地蔵尊の仏像に安寧の世界を展開しているのです。むつかしい
仏教経典の理屈よりも、「お地蔵さんのすがた」を思い浮かべられること、また拝むことが、
「仏教世界への誘い」であり、即、「仏教世界の実感体験」というべきかもしれません。
 したがって、「お地蔵さん」は老若男女の日常生活環境に於いて、仏教世界への「同行二人」の
「お友だち」という役目を担っているのかも知れません。

 さて、山上武夫とコンビを組んだ海沼實は、明治42年(1909)松代御安和菓子店「藤屋」の
長男として生まれました。15歳よりヴァイオリンを独習し、自ら管弦楽団を結成し音楽家を
目指していました。しかし、結婚に恵まれず、心機一転、父の配慮で東洋音楽学校高等師範科に入学。
 昭和8年(1933)児童合唱団「音羽ゆりかご会」を創設し、童謡歌手川田三姉妹(正子、孝子、
美智子)を育てました。
 このコンビによる主な作品に「お猿のかごや」(昭和13年)、戦時下では「欲しがりません
勝つまでは」(昭和17年12月)という戦時下で長らく流行語になった歌もあり、「里の秋」
(昭和20年)もありました。
 戦後は、「みかんの花咲く丘」(昭和21年)、「うまれたきょうだい11人」(昭和44年)、
あるいは「パパとママのラブレター」(昭和45年)など、生涯で3000曲あまり作曲したとのこと。
 昭和46年(1971)没。

 因みに、長野県下、松代出身で「子供の歌」に関わった二人から、日本の音楽教育を先導して
いった次の多くの人々の存在が確認できます。
 近代の音楽教育を確立した伊沢修二  嘉永四年(1851)上伊那郡高遠町生まれ、
 「故郷」を作詞した高野辰之     明治九年(1876)下水内郡永田村うまれ、
 日本のフォスターといわれた中山晋平 明治二十年(1887)下高井郡新野村うまれ、
 童謡作曲家のパイオニア草川 信   明治二十六年(1893)長野市県町生まれ
 
 さらに童謡の作詞家・作曲家として松代出身には何と草川信、海沼實、坂口淳、山上武夫などが
挙げられるのです。
「子供の音楽世界」へ広く、深くかつ長く、独特の関わり方をした地区というべきでしょう。

<参考メモ・その1「お地蔵さん」歌曲集>


(1)敗戦下(昭和20年)に子供の心を救うために生まれた「お地蔵さん」の童謡
      「見てござる」作詞・山上武夫 作曲・海沼實 (両人とも長野県松代出身)
   作曲家海沼実の孫に当たる「三代目海沼実」(1972年東京出身)は、「童謡 心に残る
   歌とその時代」(NHK出版 2003年3月)に次のようにこの歌の逸話を紹介しています。
   「・・・終戦から二ヶ月を経た昭和20年(1945)10月、戦災で元気をなくした子供
    たちをはげますメッセージソングとして発表されたのが「見てござる」です。
    ・・・長野松代を故郷に持つ同郷コンビならではのものといえ、当時の子供達にも広く
    愛唱されました。
    折しも、その翌年・・・から開始された「のど自慢素人演芸会」は、空前絶後の大人気で
    ・・・回を重ねる毎に、参加者の選曲がみな「見てござる」に偏ってしまうという現象も
    起き、関係者を困らせたといいます。・・・・」
   
   「見てござる」の歌碑は、二人の出身地である長野県松代町内の寺院境内(曹洞宗梅翁院)に
    建立されています。因みに二人のコンビによる「お猿のかごや」の歌碑も松代町西条の
    法泉寺にあります。

(左)長野県松代地区の地図(右)梅翁院境内の「見てござる」歌碑

1番
村のはずれのお地蔵さんは
 いつもにこにこ 見てござる
仲良し小よしのジャンケンポン
「ホイ」いしけり なわとび かくれんぼ
元気に遊べと見てござる
 「ソレ」 見てござる
2番
たんぼ田中のかかしどんは
 いつもいばって 見てござる
ちゅんちゅんぱたぱた雀ども
「ホイ」お米をあらしに きはせぬか
お肩をいからし 見てござる
 「ソレ」 見てござる
3番
山のからすのかん三郎は
 いつも かあかあ 見てござる
おいしいおだんご どこじゃいな
「ホイ」お山の上から キョロキョロと
あの里 この里 見てござる
 「ソレ」 見てござる

(2)近代社会の改革時に登場した近代民謡(「ノーエ(農兵)節」)
   江戸末期嘉永年間((1848〜54)伊豆韮山代官江戸太郎左衛門の家臣柏木総蔵が留学先の
   長崎から伝え聞いてきた「ノーエ節」に歌詞をつけ、鼓笛隊を組織して、農兵の訓練に使われた
   もので、「三島農兵節」となり、現在三島農兵節普及会に受け継がれています。

富士の白雪ノーエ  富士の白雪ノーエ
富士のサイサイ  白雪朝日でとける
とけて流れてノーエ  とけて流れてノーエ
とけてサイサイ  流れて三島にそそぐ
三島女郎衆はノーエ  三島女郎衆はノーエ
三島サイサイ  女郎衆は御化粧が長い
御化粧ながけりゃノーエ 御化粧ながけりゃノーエ
 御化粧サイサイ  ながけりゃ御客がおこる
御客おこればノーエ  御客おこればノーエ
 御客サイサイ  おこれば石の地蔵さん
石の地蔵さんはノーエ  石の地蔵さんはノーエ
 石のサイサイ  地蔵さんは頭が丸い
頭丸けりゃノーエ  頭丸けりゃノーエ
 頭サイサイ  丸けりゃからすが止まる
からす止まればノーエ からす止まればノーエ
 からすサイサイ  止まれば娘島田
娘島田はノーエ  娘島田はノーエ
 娘サイサイ  島田は情けでとける

三島市役所駐車場脇にある「農兵調練の碑」
昔の三島代官所跡で、農兵調練場があった。

(3)演歌の世界の「お地蔵さん」

(イ)「別れの一本杉」作詞・高野公男 作曲・船村徹 唄・春日八郎
    昭和30年(1955)
       歌手春日八郎の出身地福島県會津坂下町(ばんげちょう)には、「春日八郎記念公園
    おもいで舘」が建設され、前には、春日八郎の銅像と歌碑が建立されています。

1番
泣けた泣けた
こらえきれずに泣けたっけ
あの娘と別れた哀しさに
山のかけすも鳴いていた
一本杉の
石の地蔵さんのよ村はずれ
2番
遠い遠い
想い出しても遠い空
必ず東京へついたなら
便りおくれと云った娘の
りんごのような
赤い頬っぺたのよあの泪
3番
呼んで呼んで
そっと月夜にゃ呼んでみた
嫁にもゆかずにこの俺の
帰りひたすら待っている
あの娘はいくつ
とうに二十はよ過ぎたろに

(ロ)「おさげと花と地蔵さんと」 作詞・東条寿三郎 作曲・細川潤一 唄・三橋美智也
    昭和32年(1957)発売のミリオンセラー(110万枚)。

1番
指をまるめて のぞいたら
だまってみんな 泣いていた
日暮れの空の その向こう
さようなら
呼べば遠くで さようなら
おさげと花と地蔵さんと
2番
あれから三年 もう三月
変わらず今も あのままで
空見て立って いるのやら
さようなら
耳をすませば さようなら
おさげと花と地蔵さんと
3番
何にも言わずに 手をあげて
爪立ちながら みてたっけ
思いはめぐる あかね空
さようなら
呼べばどこかで さようなら
おさげと花と地蔵さんと


<参考メモ・その2 歌謡曲作詞家の略歴>


(1)高野公男(たかのきみお、本名吉郎)
   昭和5年(1930)〜昭和31年(1956)(26歳)
   茨城県笠間出身。十代で上京して、東洋音楽学校(現東京音楽大学)を中退し、歌謡界入り。
   「流し」「新聞配達」など色々の仕事に就きながら、作詞の勉強に打ち込み、
   昭和29年(1954)ビクターから「お別れなんかいっちゃ嫌や」でデビュー。
   栃木県塩谷市出身の作曲家船村徹と出逢い、生涯の友として、コンビを組みました。
   売り込みに行ったキングで春日八郎の目にとまった「別れの一本杉」が大ヒット。
   そのほか、「あの娘が泣いてる波止場」(三橋美智也)、コロンビアから
   「早く帰ってこ」、「男の友情」(青木光一)、「三味線マドロス」など数々のヒット曲を
   世に出す。
     
(2)東條寿三郎
   大正9年12月1日(1920)福島県生まれ。
   平成15年(2003)11月26日(82歳)
   福島県出身。キングレコード専属の作詞家として歌謡曲を多く手掛ける。
   主な作詞の歌謡曲は次の通り。
   「上海帰りのリル」作曲・渡久地政信 歌手・津村謙 1951(昭和26年)
   「星屑の町」作曲・安部芳明 歌手・三橋美智也 1962(昭和37年)
   「雨の降る街角」作曲・吉田矢健治
   「吹けば飛ぶよな」 歌手・若原一郎

<参考メモ・その3 「日本人は無神論者か?」>


 童謡や演歌にほとけさんが顔を出している日本人の生活環境を見るとき、それらを歌っている
日本人が西欧社会から、よく指摘される「日本人に宗教心はないのか?」という疑問
(本当に西欧人が問い詰めて居るとは思えませんが、)を発せられることに反発したくなります。
 一神教のみが宗教であって多神教、原始宗教は、宗教でないかのような、一方的状況判断と
決めつけには納得しかねるところが多々有ります。
 神の認識の違いであり、宗教的行為の違いではないかと思われます。

 一神教に対して、日本人の神仏を敬う心は、「八百万倍」あるのです。
 日曜日に教会なる宗教の場には行かないまでも、自宅には「神棚」があり、「仏壇」が
あるのですから、日曜日だけでなく四六時中「かみやほとけ」と共生しているといっていいでしょう。
 毎日、五回聖地にむかって、礼拝はしないまでも、毎朝、近くの神社にお詣りし、
朝日を拝み、拍手を打ってくるのです。毎食事時、食べ物を与えてくれる八百万の神さんに箸を
持ちつつ合掌し感謝します。昔は、食事を作る台所にも神様を祀っていました。
 毎日の生活は「かみやほとけ」に取り巻かれ、それに感謝しつつ、一年の活動にも「初詣」に
始まり、「クリスマスイブ」を見よう見まねにお祝いして、大晦日には、「寺社詣」し、新年を
迎えたら、一つ歳を取ったとまた「かみやほとけ」に御礼のお詣りをします。
「かみやほとけ」の存在を意識することしきりの日本人の生活環境なのです。

 会社の一角には必ずといってもよいほど、お稲荷さんの赤い鳥居さんがあり、「安全祈願と
商売繁盛」を願い、家を建てたり工場を造るときは、風水の思想より、神主さんにお願いする
「地鎮祭」の方が重要なのです。鬼門を避けることに気を使い、大安に結婚式を行い、町内や
街道筋のあちこちには道祖神や地蔵尊を拝みます。
 「はなまつり」でお釈迦さんに感謝し、お大師さんの命日は縁日で忘れない。神になった菅公も
月次み二十五日の天神さんをお祀りする。
 こんな生活環境と人生模様の民族がどうして、「無神論者」でしょうか。

 西欧人は「貴方は神を信じますか」と頻りに問いかけますが、そんなに意識しないと神は逃げて
いくのでしょうか。日本人は「無意識のうちにかみやほとけの世界を認識」しているのです。
 それこそ「口に出したら、かみやほとけはにげていく」のです。

 一人の神的崇拝対象が、こともあろうに「結婚していた」ということで、とある宗教世界では、
二千年来の大騒動を巻き興し、小説や映画で「ケンケンガクガク」の宗教騒動が、いまいち、
ぴんとこない筆者です。
 日本の神仏の世界には、男神や女神はじめ、八百万の神やほとけがおられ、ひとりの神の結婚など
いちいち問題にしているひまがありません。神さんの内容を「意識」してあれこれ詮索する暇が
あったら、自分自身の「結婚」を「意識」したら、といいたくなります。
 しかし、あちらも宗教、そういうこちらも宗教、ということが「かみほとけ」の世界なんでしょう。

平成18年7月20日   *** 編集責任・奈華仁志 ***


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