平成社会の探索

<「知恵の会」への「知恵袋」>

ー第130回知恵の会資料ー平成27年5月17日ー


(その75)課題「ゑ(絵・絵画)」ー<似せ絵と似顔絵>ー
                                 目     次

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            まえがき 人面墨書土器(古代)ー鳥獣戯画(中世)ー鉄腕アトム(現代)

  <その1>「似せ絵」の歴史(鎌倉期)<その2>浮世絵師の人物画(江戸期)<その3> 清水崑の「吉田茂」(現代)
          
   (参考事項) <その1>藤原隆信と「似せ絵」<その2>新聞の政治諷刺漫画集 <その3>三・崑・士の略歴   
               
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まえがき 戯画や漫画の好きな日本人


(左)平城京跡出土土器(奈良国立文化財研究所) (中)国宝・鳥獣人物戯画巻(高山寺蔵)(右)手塚治虫・鉄腕アトム
 描く絵のなかにおもしろみを含めるという絵画を好んできた日本人は、国家的疫神祭祀に、あるいは、手慰みに書いたと
思われる人面墨書土器から、主として少年少女向けの現代マンガ・手塚治虫作品まで、戯画や漫画を書き続けた日本民族の
絵画歴史は長い。
 太古の壁画には動物の絵が描かれたが、筆記用具を使うような時代になってからは、人物も対象になっていったのでは
ないだろうか。
 線で描かれた素描にくらべ、墨を用いた筆によるスケッチは、絵に重量感や躍動感を与え、非常に印象的である。

<1>「似せ絵」の歴史(鎌倉期)

1.「にせえ(ゑ)」とは、鎌倉時代に発達した<肖像画>の一種。日本における肖像画の歴史の一事例と見なされる。
  高雄神護寺蔵の源頼朝・平重盛・藤原光能(後白河法皇と平業房像は紛失)の似せ絵は、いずれも藤原隆信の作と
  いわれ、本人そっくりの写実的に表現された画像で、藤原隆信の子信実の作品にも秀作が残されている。
                       (金田一春彦「新世紀ビジュアル大辞典」学習研究社1998年11月9日)
2.日本における<肖像画>の流れ
  (1)平安時代までは、唐様式の肖像画(例・空海が持ち帰った真言五祖像など)の影響を受けた
     各宗派の開祖や高僧を描いた<祖師像>が主流。例:聖徳太子像(宮内庁)、慈恩大師像(法相宗の初祖)

(左)聖徳太子像(宮内庁蔵)(右)慈恩大師像(国宝 薬師寺 11世紀前半)
  (2)鎌倉時代になり、中国の宋や元時代の肖像画(写実的<対看写照>で個性的な高僧の像)の影響を受けて、
     実際に我が国の人が肖像画として描かれるようになる。
    *似絵(にせゑ) ー公家や武家の特に顔を写実的にスケッチ風に描いた、即席性と線描性を
              特徴とする肖像画(大和絵の系統)
              当時後鳥羽院を中心に藤原定家ら芸術的なサロンが文化をリードしていた時期で、
              似せ絵の主題は、*技能を持つ人々 *技能・芸能スター *特定行事参列者達など。
    *頂相(ちんぞう)ー禅宗で、仏法伝授のあかしとして師が弟子に与えた肖像画(漢画の系統)

     似せ絵は13世紀中頃、第86代後堀河院・第88代後嵯峨帝の下で、隆信の子信実により大成された。
     この家系は14世紀前半の豪信に至るまで次々と似せ絵画家を輩出した。(隆信派と称される)
     その後は、頂相に代表される似せ絵的な写実的描法が広がって行き、隆信派は消滅したとされる。
  (3)室町時代には、将軍や戦国武将などが、生前の祝い事や死後の遺影として、新しい時代の肖像画となる。
                     (守屋正彦「すぐわかる日本の絵画」(株)東京美術 平成14年3月1日)

(左)源頼朝像(国宝 神護寺蔵 13世紀)(右)夢窓国師像(重文 妙智院 14世紀前半)
     

<その2>浮世絵師の人物画(江戸期)

1.葛飾北斎(中島鉄蔵)(1760−1849)の素描画集
  江戸後期浮世絵師。江戸本所生まれ。勝川春草、狩野派・司馬江漢・土佐派などの画風を習得。狂歌摺り物、草紙や
 戯作も行った。画題が広い中、風景画は歌川広重と双璧をなし、フランス印象派に影響を与えた。
 代表作「富岳三十六景」の風景版画あり。
  「北斎漫画」は、全十五編は、文化十一年(1814)から明治十一年(1878)までの間に出版された作品集。
  国際語となったマンガ(漫画)は、北斎が初めて用いた言葉で、描かれた対象は、文化文政時代(1804−1829)
 の世界全般で、特に人物群は生き生きと描き出している。


(左)「男女和合す」の群像(右)能面尽くし

(左)「酒盛り」の群像(右)「お稽古」の群像
  北斎が絵師を目指す人のために、イラストの手引き書「北斎画本早引」なる冊子も作っている。
  いろは四十八文字で、図柄が引き出せるように配列された百科図典といえる。

(左)「い」の字絵見本群像(右)「す」の字絵見本群像
2.歌川国芳(1797−1861)の人物画集
  江戸後期浮世絵師。江戸日本橋本銀町生まれ。京染紺屋・柳屋吉右衛門の子で幼名芳三郎、俗称孫三郎。
 初世豊国門下。洋画の手法を取り入れた風景画「東都名所・駿河台」などで有名。
  「幕末の激動期をしたたかな幕政諷刺で煙に巻き、反逆精神、諧謔精神を作品に反映させながら、型破りに生きた
 異才の絵師。残された多種多様な、奇想天外な発想とウィットに富んだ作品が、華麗に強烈に、そして印象的に、
 我々に迫ってくる。」(「歌川国芳 奇想天外ー江戸の劇画家・国芳の世界」株式会社青幻舎(2014年3月28日))

(左上)「あたまぶち」「つんぼ」「ぬかつかひ」(左下)「おくびょう」「とおめがね」「のぞき」の群像
(右)「白面笑壁のむだ書き」

<その3>清水崑の「吉田茂」(現代)

 清水崑さんによる新聞紙上の「吉田茂」漫画は、昭和22年から29年まで続いた。  

(左)昭和22年1月30日付朝日新聞に初出品(中)(右)昭和29年12月5日の最終作品
 清水崑さんの「吉田茂」群像を見る。(参考資料。4)




参考事項<その1>藤原隆信と「似せ絵」

藤原 隆信(ふじわら の たかのぶ、1142年(康治元年)- 1205年3月19日(元久2年2月27日))
平安時代末期から鎌倉時代初期の貴族。

1.家系
父は長門守藤原為経(「常磐三寂」の一人、為忠の三兄弟ー為業(寂念)・頼業(寂然)・為隆(寂超))
母は藤原親忠娘・美福門院加賀。
母の再婚相手である藤原俊成に育てられる(歌人・藤原定家は異父弟にあたる)。
正四位下・左京権大夫。
若年期は歌人として名を上げ、二条天皇や後鳥羽天皇に仕え、寂蓮と並び評された。
八条院と九条兼実の連絡役を務め、その縁から義父・俊成を兼実を引き合わせ、
九条家と御子左家を結びつけた。

2.特技の「似せ絵」
画家として「似絵(にせえ・肖像画)」の名手、
承安3年(1173年)『玉葉』9月9日条には最勝光院(後白河院妃建春門院御願寺)の障子絵に、
隆信が重要な部分である人の顔だけ素描し、他は常盤光長が補充部を担当したと記されている。
神護寺所蔵の国宝・源頼朝像・平重盛像・藤原光能像などの『神護寺三像』は、
『神護寺略記』では、隆信の作と伝えられた。
隆信は、後白河院の近臣であったが、彼が、似せ絵を描くようになったのは、後白河院のお蔭である。
なお、後白河院は、鳥羽院影を宮廷絵師であった藤原隆能に描かせたが、天皇影を描かせた初めである。

3.歌詠みとしての事績
歌人としては、六条藤家系の歌人として活動したとした説もある。
六条藤家出身の美福門院の庇護を受けて官界に入り、和歌の面でも六条藤家と結びついていた。
私家集は、寿永元年(1182年)夏頃成立した「寿永百首家集」と元久元年(1204年)頃成立したものがある。
俊成の訓育を受けたことは、五条三位入道俊成と隆信の交わした元久本『隆信集』の旋頭歌の部に見える。
若年期、寂蓮の好敵手として世評を得ていたという。
物語『うきなみ』や歴史物語『弥世継』を書いたとされるが、いずれも現存しない。

4.官人としての活動
政治的活動としては、美福門院の関係から、わずか8歳で美福門院の蔵人となり、
叡子内親王の御給で叙爵を受け、12歳で外祖父・親忠から若狭守の譲りを受けるなど、
美福門院−八条院−二条天皇の近臣として昇進経路をたどっている。
また、美福門院は前述の六条藤家の藤原清輔の従兄弟にあたり、歌風の問題にも影響しているとする見方もある。
42歳で右京権大夫に任ぜられ上野介・越前守などを歴任。
建仁2年(1202年)出家。浄土宗の開祖法然に帰依。

5.女性関係
色好みとしても名が高く多忙であった。女性遍歴の華麗さは、家集の恋部にうかがえる。
代表例は建礼門院右京大夫との交渉で、両人の歌集から関係を推測することが出来る。
特に、家集「建礼門院右京大夫集」に状況が伺える。

<建礼門院右京大夫集>
鎌倉初期成立、歌数約360首。世尊寺流藤原伊行女、右京大夫(1155年? - ?)の自撰。
承安2年(1172年)右京大夫女房名で中宮時代の建礼門院(平徳子)に出仕、六年足らずで辞し、
のち後鳥羽上皇と七条院に合わせて二十年以上仕えた、
天福元年(1233年)頃、『新勅撰集』撰進に際し藤原定家に歌の提出を求められ纏めた家集
(『新勅撰集』に二首、『玉葉集』に十首)。

前半:承安4年(1174年)起筆し、中宮のめでたさや平家の栄華を讃えながら、
年下の貴公子平資盛(中宮の甥)との恋愛を主軸に据え、
歌人・画家として有名な藤原隆信とも交渉を持った経過を述べる。
(例歌)(ほかの人との恋愛関係を嫉妬して、隆信から右京大夫へ)
    「あはれのみ ふかくかくべき われをおきて たれにこころを かはずなるらむ」
    (返しとして、右京大夫から隆信へ)
    「ひとわかず あはれをかはす あだひとに なさけしりても みえじとぞおもふ」
 (糸賀きみ江「現代語で読む・建礼門院右京大夫集」武蔵野書院(2002年8月31日)) 

後半:寿永2年(1183年)7月、都落ちする資盛との別離に始まり、平家の滅亡に殉じて
資盛が壇ノ浦の海の藻屑と消えたのち、ひたすらその追憶に生きた日々を描く。
元暦元年(1184年)、西国にいる資盛へ手紙を遣わしたが、翌春にはその入水を知ることになり、
間もなく西海から帰還した建礼門院を大原に訪れて、その変わり果てた姿に涙した。
作者は心の傷を癒そうとして比叡坂本を旅したが、なかなか悲しみから脱することができなかった。
牽牛織女の七夕に因んで50首詠み、資盛の忌日に追善供養を営みながら、哀傷は連綿と続く。

四十歳を過ぎた頃、後鳥羽院に再出仕、
最後に家集を編纂するに至った事情を述べ、藤原定家との贈答をもって結ぶ。


参考事項<その1>清水崑「似せ絵」集

(1)贋浮世絵・五人の美人(参考資料。2)

左から、岸恵子・京マチ子・高峰秀子・津島恵子・山田五十鈴
(2)戦後の著名人群像

左から、天津乙女・淡島千景・杉村春子・田中絹代・水谷八重子

左から、湯川秀樹・川端康成・長谷川一夫・藤原義江・山田耕筰

参考事項<その2>新聞の政治諷刺漫画集

 昭和22年から29年にかけての清水崑による新聞紙上の政治諷刺漫画は、現代も主な全国紙に引き継がれており、
現在、最近の紙上を見ると次のような事例が拾える。

平成27年4月3日の全国紙上の政治漫画一例
(左)朝日新聞(やく・みつる作品)(中)毎日新聞(所ゆきよし作品(右)産経新聞(山田伸作品)

平成27年4月3日の全国紙上の政治漫画一例(さて、どなたでしょうか?)
(左)読売新聞(3月26日付)(中)読売新聞(4月4日付)(右)日経新聞(4月4日付)

参考事項<その3>「三・崑・士」の略歴

1.清水崑
大正元年9月22日長崎市生まれ。昭和49年(1974)62歳死去。本名・清水幸雄。
ペンネーム「崑」ー崑崙(コンロン)は、山の名前、昔中国の西方にあると考えられた霊山で、西王母が住む所と言われた。
現在チベットと新彊自治区の境を東西に連なる大山系をいう。
長崎市立商業学校在学中から似顔絵が得意だった。上野美術学校を志し、昭和6年上京。
新聞配達や街頭似顔絵描きで生活。昭和8年、文芸春秋社の雑誌に挿絵、カットなどを描き、「新漫画派集団」に参加。
戦後創刊された「新夕刊」に政治漫画を連載する。昭和23年朝日新聞社嘱託として、政治漫画を昭和29年まで連載。
昭和26年「小学生朝日新聞には、「カッパ川太郎」を、昭和27年から32年まで「週刊朝日」に「かっぱ天国」を連載。
(参考資料・2)

(左)1955年(昭和30年)33歳(右)晩年の自画像

2.市川崑(いちかわ こん、幼名:市川 儀一)
1915年(大正4年)三重県伊勢市出身。 2008年(平成20年)死去・92歳。
出生名ー市川儀一、成人してから市川崑に改名。
改名の理由ー市川自身が漫画家の清水崑のファンであったからとも、
姓名判断にこっていた伯父の勧めからとも言われている。

映画世界への人生ー1932年公開の伊丹万作監督『國士無双』に感動し映画界志望。
少年時代に見たウォルト・ディズニーのアニメーション映画にあこがれ、
親戚の伝手で東宝京都撮影所トーキー漫画部に入り、アニメーターを務める。
『ミッキー・マウス』や『シリー・シンフォニー』の一コマごと、克明に分析研究、学ぶ。
脊椎カリエス、腹膜炎で兵役免除。

日本のアニメーター、映画監督。配偶者・和田夏十(脚本家) 
活動期間:1936年(昭和11年) - 2008年(平成20年)
娯楽映画から実験的映画、テレビ時代劇ドラマまでを幅広く手がけ、
昭和の日本映画黄金期から21世紀初頭まで、第一線で映画制作に取り組んだ。
市川作品は「文芸作品」「時代劇」「アニメーション」「ドキュメンタリー」「コメディ」
「メロドラマ」「ミステリー」など、多分野に野心的な作品を撮り、色々な映像文化を残した。

(1)映画分野
1936年(昭和11年)脚本・作画・撮影・編集を一人で短編アニメ映画『新説カチカチ山』を担当。
漫画部の閉鎖とともに会社合併により実写映画の助監督に転じ、伊丹万作、阿部豊らに師事。
家族8人全員が1945年8月6日被爆したが全員無事であった。
1945年(昭和20年)29歳、実写の助監督に戻し、1948年の『花ひらく』で監督デビュー。
アニメーションから実写映画に転身して成功を収めた数少ない映画人。
1970年代、横溝正史の「金田一耕助シリーズ」を手掛けた。絢爛豪華な映像美と快テンポの語り口で全作が大ヒット。
横溝正史ブームが始まる。さらに『細雪』『おはん』『鹿鳴館』などの文芸大作、
海外ミステリー翻案『幸福』、時代劇『四十七人の刺客』『どら平太』『かあちゃん』など。

(2)テレビ分野
テレビ創成期の生放送ドラマ、ビデオ撮りのドラマから実験期のハイビジョンカメラを使ったドラマまでを手掛け、
テレビ史においても先駆的な役割を果たした。

主な作品
(1)映画:
*主な受賞作品群:『ビルマの竪琴』(S.31)『野火』(S.34)『鍵』(S.35)『おとうと』(S.36)『私は二歳』(S.37)
 『東京オリンピック』(S.40)『犬神家の一族』(S.51)『細雪(S.56)『おはん』(S.59)『四十七人の刺客』(H.6)など。
*大胆な映像処理の『盗まれた恋』の実験的な作品で話題を呼んだが、
 『三百六十五夜』のオーソドックスなメロドラマの大ヒット作品も撮っている。
*1955年(昭和30年)日活に移籍。『ビルマの竪琴』で一躍名監督の仲間入りを果たし、大映に移籍。
 『鍵』、『野火』、『炎上』、『破戒』、『黒い十人の女』、『日本橋』、『ぼんち』、
 『私は二歳』、『雪之丞変化』など名作を毎年のように発表。
*1960年(昭和35年)『おとうと』は、初のキネマ旬報ベストワンに輝く作品。
 石原裕次郎主演『太平洋ひとりぼっち』(1962年(昭和37年))。
*1965年(昭和40年)総監督として製作した『東京オリンピック』が、当時の興行記録を塗り替えた。
 オリンピックは筋書きのない壮大なドラマに他ならないとして、開会式から閉会式に至るまでの緻密な脚本を
 和田夏十・谷川俊太郎・白坂依志夫とともに書き上げ、これをもとにこのドキュメンタリー映画を撮りあげた。
(2)テレビ
*1959年(昭和34年)『恋人』(日本テレビ)以来、22作品ほどあり。
*1965〜1966年放送された『源氏物語』(毎日放送)は、美術や衣装を白と黒に統一するなど独特の演出を手がけ、
 演出指導した「夕顔の巻」では国際エミー賞にノミネート。
*テレビコマーシャルでは、大原麗子を起用したサントリーレッド(ウイスキー)がシリーズ化され、長く放映。
*1972年連続テレビ時代劇『市川崑劇場・木枯し紋次郎シリーズ』(フジテレビ)はフィルム撮り作品だが、
 市川自身による斬新な演出と迫真性の高い映像から今日では伝説的な作品となり、その後のテレビ時代劇に
 大きな影響を与えた。
*全民間テレビ放送局で同時放送『ゆく年くる年』1979年(昭和54年)- 1980年(昭和55年)で総監督も務めた。
(3)ドキュメンタリー作品
*『銀座100年』1976年(昭和51年)ほか、9作品あり。
(3)コマーシャル映像
*1966年(昭和41年)ライオン歯磨き以来、24作品ほどあり。

叙位・叙勲:
  紫綬褒章(昭和57年) 勲四等/旭日小綬章(昭和63年)文化功労者(平成6年)正四位/旭日重光章(平成20年)


3.大村崑
昭和6年(1931)神戸市生まれ。昭和28年(1953)大久保伶氏師事、司会の勉強。
翌年から大阪北野劇場専属コメディアンとして舞台に立つ。
昭和33年(1958)民放開局と同時に「やりくりアパート」でテレビデビュー
以後「番頭はんと丁稚どん」、「とんま天狗」等、テレビ出演し爆発的人気を得る。
昭和34年1959)劇団「笑いの王国」結成、座長就任。

テレビの代表的番組「細うで繁盛記」・「ちびっこのどじまん」の司会を務め
 オロナミンC、ダイハツミゼットのCMなどで国民的タレントとしての地位を確立。

昭和45年(1970)万国博「こどもの祭り」を演出。ポートアイランド博「こどもの世界の祭り」制作・演出(1981)。
丹波に「崑の村」オープン(1999)田舎体験施設で芸能人育成活動。
年に1、2ヶ月舞台活動、TVドラマ出演し、シリアスな役柄からコメディな役柄までこなしている。
受賞歴:大阪府民劇場奨励賞(1975)/第33回大阪市民表彰文化功労賞(1998)/
(社)日本芸能実演家団体協議会 芸能功労者表彰(2001)など。
(社)日本喜劇人協会八代目会長就任(2001)
 

参考資料

1.宮島新一「日本歴史叢書日本歴史学会編集 肖像画」吉川弘文館 平成6年11月10日
2.清水崑「第2期現代漫画2ー清水崑集」筑摩書房 1971年1月10日
3.清水崑「一筆対面」東峰書房 昭和32年6月25日
4.吉田茂記念事業財団「清水崑・画 吉田茂 諷刺漫画集」原書房 1989年6月22日
5.和田誠「似顔絵物語」白水社 1998年12月25日


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平成27年4月20日  *** 編集責任・奈華仁志 ***

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