目 次 ******************************** <その1>「万葉集」中の「むすび・むすぶ」 <その2>有間皇子の「結び松」 <その3>「結び松」の歌碑 (参考事項)(その1)勅撰和歌集の「結び松」「いはしろの松」 (その2)有間皇子 (その3)長忌寸奥麻呂 (一口メモ) 結び紐の基本十通り ********************************
「むすぶ」という動作は、(1)紐・糸・草・木など、さらには契りや人の心をつなぐこと。 (2)露・氷などが固まったり、建物を造ったり、夢を見る、約束をするなど、 あるものが形を成すこと。 (3)手のひらを組んで水を汲むこと。 などを意味する。万葉集で読まれる「むすぶ」は圧倒的に(1)の契りや人の心をつなぐことが多い。そのなかでも、 「男女が逢い、別れる時に再会まで解かぬことを誓って互いに下紐を結ぶ習俗」によって、「結ばれる紐は男女の 結びつきの象徴」とされる。「契りや約束、心を結ぶとする詠みが恋や夫婦の愛情に係わるもの」と詠われる代表例は 「淡路の野島が崎の浜風に妹が結びし紐吹きかへす」柿本人麻呂(巻3−251) であり、この歌は夫婦愛の契りと共に旅の安全を願ったものと読み取れ、この歌を始めとしておおよそ20首余り残されている。 巻3(251,397,481)、巻7(1321,1324)、巻8(1546)、巻10(2211)、巻11(2473,2477,2558,2602) 巻12(2851,2919,2951,2973,3028,3056、3181)巻16(3797)、巻18(4105)、巻20(4306) 「神さぶといなぶにはあらね秋草の結びし紐を解くは悲しも」石川賀係女郎(巻8−1612) などは、男女の仲と長寿の願いを込めているととれる。典型的な長寿の祈願は、 「君が代も我が代も知るや磐代の岡の草根をいざ結びてな」中皇命(斉明天皇)(巻1−10) 「たまきはる命は知らず 松が枝を結ぶ心は長くとぞ思ふ」大伴宿禰家持(巻6−1043) 「八千草の花はうつろふ常磐なる松のさ枝をわれは結ばな」大伴宿禰家持(巻20−4501) となる。旅の安全を祈る気持ちも男女の仲の愛情の裏返しであろう。 「近江の海湊は八十ち いづくにか君が船泊て 草結びけむ」読人不知(巻7−1169) 「旅にても喪なく早来と 我妹子が結びし紐はなれにけるかも」読人不知(巻15−3717) 旅の無事を祈る歌の代表的な歌は、有間皇子の「結び松」歌ということになろう。 「斉明天皇が紀の温泉にいでましし時の御歌」が上述の巻1−10番歌で、「磐代の岡の草」を結ぼうと歌われている その磐代の松を有間皇子は、「自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首」として、次の有名な歌を残されている。 「磐代の浜松が枝を引き結び ま幸くあらばまたかへり見む」有間皇子(巻2−141) 「家にあれば笥に盛る飯を 草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」有間皇子(巻2−142) 中皇命に読み上げられた「磐代の草根」と有間皇子の「磐代の浜松が枝」では、歌の中身が全く正反対の内容に なって、前者は長寿を祝うものの、後者は待ちかまえている悲劇に、余命いくばくもない悲愴なものです。 万葉集で歌われた「結び松」は「魂を結び込めて命の無事を祈ったり、誓いを掛けたりするために、小枝を結び合わせた 松」のことで、有間皇子の歌がその後どのように詠み継がれていったかをみる。
有間皇子の「結び松」の歌に続いて、後年、長忌寸意吉麻呂、山上憶良あるいは柿本人麻呂などが追和している。 「岩代の岸の松が枝結びけむ 人は帰りてまた見けむかも」長忌寸意吉麻呂(巻2−143) 「岩代の野中に立てる結び松 こころも解けずいにしへ思ほゆ」長忌寸意吉麻呂(巻2−144) 「つばさなすあり通ひつつ見らめども 人こそ知らね松は知るとも」山上憶良(巻2−145) 「後見むと君が結べる岩代の小松がうれを また見けむかも」柿本人麻呂朝臣歌集(巻2−146) 有間皇子「結び松」の縁りの地・岩代は、みなべ町の西部海岸沿いの地区で、「海上に岩多きによる」地名とされる。 斉明天皇と中大兄皇子が紀温泉(西牟婁郡白浜町)へ行幸中、有間皇子は謀反を謀ったとして捕らえられ、紀温泉に 護送される時、岩代の地で海岸の松の枝を結んで行く末の無事を祈ったが、中大兄皇子の尋問の後、帰路の藤白坂で、 処刑された。 皇子が結んだとされる松は、「岩代の結び松」として植え継がれてきた。その地名も結(むすび)と称されて、 和歌山県の指定史跡になっている。
![]() 「有間皇子結松記念碑」に併置されている解説板 | 和歌山県指定文化財 指定年月日昭和三十三年四月一日 史 跡 岩 代 の 結 松 斉明天皇四年(六五八年)十月天皇と皇太子 中大兄王子(後の天智天皇)は紀伊の湯 (白浜湯崎温泉)に行幸された。孝徳天皇の 遺児有間皇子は留守中に蘇我赤兄の口実に 乗せられ、謀反のかどで捕らえられ、天皇の もとに護送された。その途中紀の海を**に望み 当地の松の枝を結び、自身の命の平安無事を祈って 歌を詠まれた。 有間皇子自ら傷みて松が枝を結ぶ歌 磐代の浜松が枝を引き結び 真幸くあらばまた還り見む 家にあらば笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る (万葉集巻二) 有間皇子は紀の湯で、中大兄皇子の訊問に 対して「天と赤兄と知る。我*知らず」と 答えられたが、帰路十一月十一日藤白坂に おいて十九才の若さで絞殺された。 昭和三十四年十二月 和歌山県教育委員会 南部町教育委員会 |
「岩代の松」は歌枕となって、後世に多くの歌人に詠われてきた。いつに有間皇子の事件に関係するからにほかならない。 「岩代岡」や「岩代野」も歌枕となり、「岩代浜」「岩代岸」なども紀伊の名所として歌学書に記載されている。
有間皇子の歌(万葉集・巻2−141番)の歌碑は、次の一覧表の通り、全国で11基建立されています。 最も縁りの深い和歌山県には、みなべ町や白浜町に萬葉歌碑が建立され、和歌山県以外の地域で建立されている歌碑は すべて庭園を造成するために建立された「萬葉植物」の一連の歌碑群の中の一基になっています。
田村本No. | 建立場所 | 建立年月日 | 歌碑 | 建立者 | 揮毫者 | 備考 | <
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和歌山県ー35 | 日高郡みなべ町西岩代 | 昭和11年11月 | 磐白乃濱松之枝乎引結真幸有者亦還見武 高さ約2mの自然石 | (不詳) | (蘇峰 菅正敬)(?) | 「有間皇子結松記念碑」(蘇峰 菅正敬書)の碑陰に刻字 碑陰には、巻2−141および142の有間皇子の二首を刻まれている。 添付写真集参照方 |
和歌山県ー関F | 西牟婁郡白浜町(湯崎浜駐車場内) 真白良媛像台座 | 昭和38年2月 | 岩代の浜松が枝を引きむすびまさきくあらばまた帰り見む(傍訓付) 台座(高さ3.1m) | (不詳) | 榊莫山(書家) | 銅板(57x48cm)貼り付け |
和歌山県ー34 | 日高郡みなべ町西岩代・光照寺西側 | 昭和39年6月 | 磐代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまたかへり見む(白文) 扁平石(高さ146x幅185cm) |
(不詳) | 澤潟久孝(国文学者) | 「有間皇子結松記念碑」の近隣地 |
和歌山県ー38 | 西牟婁郡白浜町 (白良浜バス停・エネルギーランド北側) | 昭和50年7月 | 磐白の濱松が枝を引きむすび眞幸くあらばまた還り見む 「有間皇子之碑」(高田好胤・書)自然石(高さ105x幅70cm)碑陰に巻2−142番歌の二首を 題詞とともに刻載 | (不詳) | 浦政吉(歌人) | 黒御影石を嵌め込む |
大阪府ーJ | 八尾市恩智中町5丁目 八尾第一万葉植物園内 | 昭和59年3月 | 磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む 「マツ」に関連して植樹 | 八尾市 | (不詳) | 公園内には萬葉植物関連歌の歌碑22基を建立している |
広島県ー16 | 福山市春日町五丁目 広島大学付属福山中・高等学校内・萬葉植物園 |
昭和63年 | 磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む 自然石(高さ73x幅130cm)に黒御影石(43x35cm)を貼り付け |
広島大学付属福山中・高等学校 | 江草洋和(教官) | 昭和63年三基、平成2年一基、平成17年一基、計5基校内に建立されている |
香川県ーA | 坂出市沙彌島内 沙彌島こども樹木園 | 平成2年8月 | 磐代の浜松が枝を引き結びまさきくあらばまたかへり見む 「クロマツ」に関連して植樹 白御影石角柱の上面に陶板(30x40cm)を貼り付け | 坂出市 | (不詳) | 萬葉集関連植物合計49基建立 植物管理担当小・中学校名を角柱石前面に刻載 |
千葉県ー14 | 袖ヶ浦市下新田 袖ヶ浦郷土博物館前「萬葉の里」 | 平成3年4月 | 磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む 「マツ」の歌に関連して植樹 自然石(68x90cm)に陶板(40x30cm)はめ込み | 袖ヶ浦市 | (楷書活字体) | 萬葉植物関連で合計11基建立 |
京都府ー関連C | 城陽市寺田正道・正道官衙遺跡公園 | 平成4年4月 | 磐代の濱松が枝を引き結び眞幸くあらばまた還り見む 「コマツ」の歌に関連して植樹 白御影切石(40x41cm)を斜めに切断し、断面に樹脂板(45x30cm)貼り付け |
城陽市 | (活字体) | 萬葉植物関連で合計30基建立 「古代城陽を詠んだ万葉歌」として、六首の歌碑も隣接地に建立されている |
高知県ー63 | 長岡郡大豊町粟生地区・定福寺境内 「土佐豊永萬葉植物園」(定福寺境内全体が植物園) | 平成10年4月 | 磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまたかへり見む 「マツ」の歌に関連して植樹 白御影切石(80x20cm)に刻字 | (大豊町) | 楷書活字体 | 昭和52年に開園した植物園に、「奉寄進萬葉歌碑百柱」があるが、125基建立済(平成16年現在) |
茨城県ー74 | 土浦市小野地区・朝日峠展望公園・やすらぎの森 | 平成8〜9年頃 | 磐代の濱松が枝を引き結び眞幸くあらばまた還り見む 「マツ」の歌に関連して植樹 磨白御影石(70x50cm)に刻字 | (土浦市) | (未確認) | 萬葉植物関連で合計30基建立 |
万葉植物は、関係資料によると、約170種ほどが挙げられているが、松に関する歌は、全部で77首で 巻1から巻20まで、各巻数首がまんべんなく、詠まれている。「まつ」の歌語の使い方としては、 小松:13首、松原:11首、浜松:8首、松ヶ枝:8首、松:7首、松の木:6首、松陰:6首、 松ヶ根:5首、松の葉:3首、松風:2首、磯松:2首、その他(島松、若松、松の花、松柏など) となっていて、「結び松」という使い方に類する歌として「一つ松」の詠みがある。 「一つ松幾代か経ぬる 吹く風の音の清きは年深みかも」(巻6ー1042・市原王) 万葉集で「結び松」はかならずしも「まつ」の代表歌と断定されたわけではないが、 有間皇子の史実があまりにも印象深く、万葉集のなかでも「まつ」といえば、「結び松」として、人々には、 有間皇子の歌が万葉歌としての印象が強いから、萬葉植物園などを造成したとき、「まつ」の万葉関連歌として 選定されやすいのではないか。
有間皇子によって詠まれた「岩代の結び松」は、「その故事を引きつつ、平安時代も読み継がれて、”結ぶ”や ”解く”などの序となったり、景物の様や風情の歌語として」(久保田淳・馬場あき子「歌ことば・歌枕大辞典」 角川書店・平成11年5月)、万葉集の「挽歌」から勅撰集の「恋歌」に読み替えられていく。 <結び松> 「かくとだにまだいはしろの結び松むすぼほれたる我がこころかな」(金葉集・恋上・378・源顕国朝臣) 「岩代の野中に立てる結び松心も解けず昔おもへば」(拾遺集・恋四・854・人麻呂)(拾遺集・雑恋・1256・人麻呂) (万葉集では、巻2−144として長忌寸意麻呂の歌となっている) などなぞものがたりしける所に 「わが事はえもいはしろの結び松ちとせをふともたれかとくべき」(拾遺集・雑下・526・そねのよしただ) (拾遺抄・雑下・513・曽禰善忠) 「年ふとも猶いはしろのむすび松とけぬものゆゑ人もこそしれ」(新勅撰集・恋二・739・左京大夫顕輔 「結びきといひけるものを結び松いかでか君に解けて見ゆべき」(小町集・8)(玉葉集・恋一・1314・小町) 「おもへどもえぞいはしろの結び松うちとけぬべき心ならねば」(新拾遺集・恋二・1039・祖月法師) <いはしろの松> 「何せむに結びそめけむいはしろの松は久しきものと知る知る」(拾遺集・恋二・742・よみ人しらず) 「のちみんと君がむすべるいはしろの小松がうれをまたみつるかも」(玉葉集・雑五・2436・人麿) 万葉集では、「後見むと君が結べる岩代の小松がうれを また見けむかも」柿本人麻呂朝臣歌集(巻2−146) 「我が袖の物とはよしやいはしろの野辺の下草つゆふかくとも」(新後撰集・恋二・914・大蔵卿隆博) 「いはしろの野辺の夏草しげれただ旅寝のまくら露結ぶまで」(新続古今集・夏・274・従三位範宗) 「いはしろのまつこともなきわがみさへなにとうきよにむすぼほるらん」(続古今集・雑中・1672・前中納言資実) 「いかさまにむすびおきてかいはしろのまつとばかりの契りなるらん」(新葉集・恋三・806・上野太守守永親王) 「いはしろの松にちぎりをむすびおきて万代までのめぐみをぞ待つ」(玉葉集・神祇歌・2756・後白河院御製) 「いはしろのむすべるまつにふるゆきははるもとけずやあらんとすらむ」(金葉集・冬・286・中納言女王) 「物をこそしのべばいはぬ岩代のもりにのみもるわが涙かな」(金葉集・雑下・696・源親房) 「いはしろのもりのいはじとおもへどもしずくにぬるるみをいかにせん」(後拾遺集・恋四・774・恵慶法師) 「ゆくすゑはいまいくよとかいはしろのをかのかやねに枕むすばん」(新古今集・羇旅歌・947・式子内親王) 「いはしろの岡のかやねをむすぶ夜も夢は都にかはらざりけり」(風雅集・旅歌・956・従三位行能) 「いはしろのをのへのかぜにとしふれどまつのみどりはかはらざりけり」(後拾遺集・雑四・1049・前太宰帥資仲) 「年をへてまたあひ見ける契りをもむすびやおきしいはしろの松」(続後撰集・神祇歌・563・前太政大臣) 「われのみとかけぬうらみはいにしへの代代にもありといはしろの松」(続拾遺集・雑上・1105・前関白左大臣) 「むすびける契りぞつらきともかくも人をばいまはいはしろの松」(新千載集・恋三・1337・登蓮法師) 「とにかくにこころもとけぬ世のうさのためしぞつらきいはしろのまつ」(新千載集・1892・正二位隆教) 「むすびおくちぎりも老いの末なればまたともえこそいはしろの松」(新続古今集・神祇歌・2117・和気種成朝臣)
1.有間皇子の略歴 舒明天皇12年(640年)、軽皇子(後の孝徳天皇)皇子として誕生。母は左大臣・阿倍内麻呂の娘・小足媛。 孝徳天皇元年6月14日(645年7月12日)父孝徳天皇即位。12月9日(646年1月1日)都を難波宮に移す、 皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)白雉4年(653年)都を倭京に戻し、皇族や群臣、皇后間人皇女も従う。 孝徳天皇は白雉5年10月10日(654年11月24日)崩御。 斉明天皇元年1月3日(655年2月14日)、孝徳天皇姉の宝皇女(皇極天皇)が再び飛鳥板葺宮で重祚。 父の死後、有間皇子は政争を避けるため心の病を装い、療養と牟婁の湯に赴いた。 飛鳥に帰った後に病気が完治したことを斉明天皇に伝え、その土地の素晴らしさを話して聞かせたため、 斉明天皇は紀の湯に行幸。 飛鳥に残っていた有間皇子に蘇我赤兄が近付き、斉明天皇や中大兄皇子の失政を指摘し、 自分は皇子の味方であると告げた。 皇子は喜び、斉明天皇と中大兄皇子を打倒するという自らの意思を明らかにした。 蘇我赤兄は中大兄皇子に密告したため、謀反計画は露見し(なお蘇我赤兄が有間皇子に近づいたのは、 中大兄皇子の意を受けたものと考えられている)、有間皇子は守大石・坂合部薬たちと捕らえられた。 斉明天皇4年11月9日(658年12月9日)に中大兄皇子に尋問され、その際に「全ては天と赤兄だけが知っている。 私は何も知らぬ」(天與赤兄知。吾全不知)と答えたといわれる。翌々日に藤白坂で絞首刑に処せられた。 なお、処刑に先んじて、磐代の地で皇子が詠んだ2首の辞世歌が『万葉集』に収録されている。 ただしこの2首については、民俗学者・折口信夫により後世の人物が皇子に仮託して詠んだものではないか とも考えられている(『折口信夫全集』第29巻)。 有間皇子の死後、大宝元年(701年)紀伊国行幸時と思われる長意吉麻呂や山上憶良らの追悼歌が 『万葉集』に残されている。平安後期万葉復古の兆しと共に、磐代も歌枕となる。 藤白神社の境内には、有間皇子を偲んで有間皇子神社が創建された。 2.有間皇子関連史跡群 (1)和歌山県海南市内 藤白神社(境内社:有間皇子神社)、有間皇子史跡(墓碑と歌碑) (2)和歌山県日高郡みなべ町西岩代地区 萬葉歌碑(佐佐木信綱博士揮毫)(<その3>結び松の歌碑 参照方) (3)和歌山県西牟婁郡白浜町内 有間皇子之碑 (4)和歌山県御坊市岩内地区 岩内一号墳(七世紀中頃の版築技法による墳丘の盛り土造営されたもので、 被葬者は飛鳥の貴人とされる。当地出身の皇子側近塩屋連が 創築したものとされる。)
(イ)人物:藤原京期の下級官人で、歌才が認められしばしば行幸に加わり、応詔歌や旅の感懐を詠んだ、 柿本人麻呂と時代を同じくした宮廷歌人のひとり。 (大久間喜一郎ほか「万葉集歌人事典」雄山閣出版・平成四年四月)菁 (ロ)略歴:万葉集に残されている14首より、6首の歌によると (1)文武天皇三年(699)正月「難波宮行幸」での応詔歌(巻3−238) (2)大宝元年(701)持統文武紀伊行幸に応詔(巻9−1673) (3)大宝元年(701)紀伊国神之埼(みわがさき)(熊野方面)での詠(巻3−265) 「苦しくも降り来る雨か神が埼狭野の渡りに家もあらなくに」 (註)この歌の享受史としては、 (イ)源氏物語・東屋「・・・佐野のわたりに家もあらなくになど口ずさびて、・・・」 (ロ)藤原定家の本歌取として新古今集・巻6・671歌 「駒とめて袖打ちはらふかげもなしさののわたりの雪の夕暮れ」 (4)大宝元年(701)結び松の哀歌二首(巻2−143,144) (5)大宝二年(702)持統三河行幸に従駕(巻1−57) (ハ)和歌:万葉集に収録されている14首の歌は、官人としての公的生活での上述の歌群6首と 次の巻16に記された8首は私的生活での「遊興の精神を基調とする笑いの歌」群である。 これらの言葉の遊び(戯笑歌)は、古今集・巻19・誹諧歌、近世の狂歌や川柳などの 文芸につながっていく流れの源と見なされよう。 長忌寸意吉麻呂の歌八首 巻16-3824 鐺子(さしなへ)に湯沸かせ子ども檪津(いちひつ)の檜橋より来む狐に浴むさむ 行縢(むかばき)・蔓菁(あをな)・食薦(すこも)・屋梁(やのうつはり)を詠む歌 巻16-3825 食薦敷き蔓菁煮持ち来(こ)梁(うつはり)に行縢掛けて休むこの君 荷葉(はちすば)を詠む歌 巻16-3826 蓮葉はかくこそあるもの 意吉麻呂が家なるものは芋(うも)の葉にあらし 雙六(すぐろく)の頭(さえ)を詠む歌 巻16-3827 一二の目のみにあらず 五六三 四さへありけり 雙六の采(さい) 香(こう)・塔(たふ)・厠(かわや)・尿(くそ)・鮒(ふな)・奴(やっこ)を詠む歌 巻16-3828 香(こり)塗れる塔(たふ)にな寄りそ川隈の尿鮒食(は)めるいたき女奴(めやつこ) 酢・醤(ひしほ)・蒜(ひる)・鯛(たひ)・水葱(なぎ)を詠む歌 巻16-3829 醤酢に蒜搗き合てて鯛願ふわれにな見せそ水葱の羮(あつもの) 玉掃(たまばはき)・鎌・天木香(むろ)・棗(なつめ)を詠む歌 巻16-3830 玉掃刈り来鎌麻呂室の木と棗が本とかき掃かむため 白鷺の木を啄(く)ひて飛ぶを詠む歌 巻16-3831 池神の力士舞かも白鷺の桙(ほこ)啄(く)ひ持ちて飛び渡るらむ
基本的な10の紐の結び方は次の十通りだそうです。(添付図参照) 1.止め結び 2.8の字結び 3.本結び 4.一重つなぎ 5.小綱つなぎ 6.もやい結び 7.巻き結び 8.ねじ結び 9.自在結び 10.ちぢめ結び