平成社会の探索

<「知恵の会」への「知恵袋」>

ー第125回知恵の会資料ー平成26年9月14日ー


(その70)課題「そら(空)」ー<そらね>は<そらごと>だったー
                                 目     次

      <1>百人一首歌の周辺
      <2>「そらね」の関連事項         
                     <参考メモ・その1>泉涌寺の百人一首歌碑 
              <参考メモ・その2>「函谷関」と祇園祭
                                   <とはずがたり・その1>「そらごと」にあらず?
                             「そらおそろしき」清女実兄の殺害事件
                       <とはずがたり・その2>「そらごと」か?
                             「そらぞらしき」清女への暴漢襲撃事件
       
 「そら」という言葉の概念は、大変広く、万葉歌にも活用されていて、歴史的に寿命は長い。
 名詞としての「空」「虚」などの漢字より、天より下の空間、天候や気候、高い場所、方角や境遇などを意味し、
それ以上に特徴的な「そら」とは、形動詞としての「空虚であること」、「明確な基準や理由がないこと」、
「うそ」「いつわり」などであり、接頭語としても、動詞について「むやみに」「やたらに」など、さらに
形容詞について「そらおそろしい」「そらはずかし」などと活用される。

 名詞その他の前についての事例として、いろいろの意味に使われている。
 (1)そらね(空音)そらめ(空目)そらみみ(空耳)そらゆめ(空夢)など:実態のない物、まちがった事など。
 (2)そらごと(空言)そらなさけ(空情)そらね(空寝)そらなき(空泣)
    そらに(空似)そらねんぶつ(空念仏)そらなみだ(空涙)など:うわべだけとして。
 (3)そらだのめ(空頼)など:甲斐がない、無駄であること。
 (4)そらうた(空歌)そらのみこみ(空呑み込み)など:いいかげん、でたらめ。
 (5)そらおぼえ(空覚え)そらどけ(空解)など:自然に。
 (6)そらとぼけ(空惚)など:わざと、承知の上で。  (引用辞典:「日本国語大辞典」小学館 平成**年)

 以下には、清少納言の百人一首歌に詠まれている歌語「そらね」(空音)の言葉の周辺を拾ってみる。
 (1)実際に鳴っていないのに聞こえるような気がする音、また鳴らそうとしないのにたまたま鳴ってしまう音。
 (2)いつわりの言葉(「そらね」を吐く)
 (3)鳥などの鳴き声を真似て出す声。なきまね。(清少納言の百人一首歌の歌語)
 「そらね」には「空音」以外に「空値」「空寝」(「空寝入り」)なども充てられる。 

 なお、「そらね」に関係する言葉として「ものまね」あるいは「なきまね」が考えられるが、これは
 (1)(能楽などで)実際の物の姿を真似て、そのように見せる演技
 (2)役者の声色や動作などを真似る芸
とされるので、「そらね」とはちがってかなり限定された事態と解される。


<1>百人一首歌の周辺

 女流文人の清少納言が百人一首に残した歌は、第62番歌
  「夜をこめて 鳥の<空音>は はかるとも よに逢坂(あふさか)の 関は許さじ」

 この歌の出処である「後拾遺和歌集」と清少納言「枕草子」を引用してみる。

1.後拾遺和歌集 第十二 雑二 940番歌
  詞書 大納言行成物語などし侍りけるに、内の御物忌にこもればとて急ぎ帰りて、つとめて鳥の声に
     催されてといひおこせて侍りければ、夜深かりける鳥の声は函谷関の事にやといひつかはしてたりけるを、
     たちかへりこれは逢坂の関に侍りとあればよみはべりける  清少納言
  歌  夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ

2.枕草子(三巻本)第134段  頭の弁の、職にまゐりたまひて・・・・・ 
   つとめて、蔵人所(くろうどどころ)の紙屋紙(こうやがみ)ひき重ねて、(行成)「今日は、残りおおかる
   ここちなむする。夜を通して昔物語も聞こえ明さむとせしを、鶏の声にもよほされたなむ」と、いみじう言多く
   書きたまへる、いとめでたし。御返りに、(清少)「いと夜深くはべりける鶏の声は、孟嘗君のにや」と聞え
   たれば、立ち返り、(行成)「孟嘗君の鶏は、函谷関をひらきて、三千の客(かく)わづかに去れり、とあれども
   これは、逢坂の関なり」とあれば、
  (清少)「夜をこめて鶏の虚音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ 心かしこき関守はべり」と、聞ゆ。
   また立ち返り、
  (行成)「逢坂は人越え易き関なれば鶏鳴かぬにもあけて待つとか」
   とありし・・・・

 事の成り行きをかいつまんで、整理してみると、
  「蔵人頭・藤原行成が天皇の物忌を口実に、女房連との談話の場を急ぎ退出し、翌日に、その事情を
   <鶏の声にもよほされて>と ”そらね”’(ものまね)という漢籍の<鶏の声>を引用して、
   ”そらごと”(架空の恋愛)を仕掛けるべく手紙に認めてきたので、清少納言が<鶏の声は孟嘗君のにや>と”
   まともに古典知識の回答を返すと、
   <函谷関ではなく、逢坂の関>だと返答がきたので、”まともに反応したのに、はぐらかさないで”とばかり、
   当該和歌を読み返したという。その歌にまた行成が”そらごと”歌で答えた。」
という。つまり、行成は「鶏の声」で翌日になることに言い及んだことで、清少納言の古典知識をためしたところ、
すっと反応してきたので、すぐに後朝の歌の風情で(するりと逃げ腰で?)切り返したと言うことになる。

 作者和泉式部は情熱の歌人として名を残し、57番歌の作者紫式部は「源氏物語」で名をなしたのに対して、
本歌の作者清少納言は「枕草子」で不朽の女流文人の名を歴史に留めた。いずれの女性も一条天皇の
中宮彰子や定子の取り巻きの女性群像で、且つ彼女らの家系ははるかに遡れば親王の末裔に当たり、学問の道に
関係深い人々が血縁関係にいたというのが特徴であろう。
 当時宮中に仕えるためには、最高の学問や知識を身につけておく必要があったわけで、中でも彼女らは
超一流の文化人であった。

  この歌のもともとの背景は、中国「史記」の「孟嘗君伝」によるもので、戦国時代斉国孟嘗君の秦国にある
函谷関(<参考メモ・その2>参照方)に於ける故事に依っているわけで、この漢籍の内容を知っていなければ
理解できない。歌をやりとりした大納言藤原行成が、最初に清少納言に仕掛けたことに対して
切り返したわけで、枕草子執筆者・清少納言の方が役者が一枚上ということで、作歌の才能が優れていることを
自慢したかったらしい。確かに漢籍知識に関しては自慢できるだけの力を持っていたと見るべきだろうが、
この<鶏の声>という”そらね”の”そらごと”のやりとりでは、行成の方がしたたかではないか。

 清少納言の百人一首歌で特徴のある歌語は、「こめて」、「空音」、「謀る」、「世に・・・ゆるさじ」等で、
いずれも和歌用語として耳になじまないと思われるようなものだが、そこは才女の清少納言のこと、
一世一代の、と言っては大げさだが、逸話と共に名歌残した。従って百人一首の中でもかなり異質な言葉群と
なっていることは否めない。他の百人一首は、背景や詞書きなどはなくとも、それなりに意味がくみ取れるが、
この歌だけは「枕草子」中の「頭弁の職」(第121段)の話抜きではどうしようもない。

 「空音」は現代ではさしずめ「鳴き真似」という用語に変化していますが、「そら言」「空事」「空耳」
「空だのめ」「空々しい」「空文」「空砲」「空理」「空論」「空威張り」「空元気」などと、まだまだ日常でも
使われている「空」語彙群となる。そこで「空和歌」一首。

 「空空し 空理空論 げにこめて よに空言の 空文ゆるさじ」

 残念ながら「空振り」の一首と見なされよう。


<2>「空音」の関連事項

 「空音」に関係して、当該和歌の解釈と解説を四論文にみる。
  歌の解釈での諸問題を取り上げるに当たって、関係事項の定義を取り上げておく。
 (1)「丑」の刻:午前1時から3時。
    日付変更時点:丑の刻(午前3時まで)と寅の刻(午前3時から)の間
 (2)物忌み:陰陽道で天一神・太白神の神が遊行する方角を避けて、あるいは、日取りや夢見が凶に当たるとき
        不浄に触れたときなどに、それらを避けるために、一定期間家に籠もり身を慎むこと。
    内の物忌み:天皇の物忌みで、その期間、侍臣たちは殿上間に籠っている。
     日替わりしない間、すなわち丑の刻に参籠しなければならなかった。
 (3)鶏鳴:にわとりが鳴くこと、またその声。明け方、早朝。
      (明け方になったから、鶏が鳴くのか、鶏が鳴くから、明け方になったと見るのか。)
     函谷関の関門は、鶏鳴と関係なく、決められた時間に開門するのでなく、鶏が鳴かないと開門しないのか。
     史記の故事からすると、後者である。
 (参考)四字熟語:けいめいくとう【鶏鳴狗盗】
          ニワトリの鳴き真似をして人をあざむいたり,犬のようにして物を盗んだりする
          卑しい者。小策を弄(ろう)する人。 

  さらに 62番歌の歌語の諸問題としては、(引用文献:吉海直人「百人一首の新考察」世界思想社 1993年9月)
 (イ)特殊な歌語が多い。:「夜をこめて」「空音」「はかる」「許す」(ゆるめる・はなす・にがす)
 (ロ)本文異同:「空音 は はかる」と「空音 に はかる」(参考論文 その4 参照方)


(その1)吉海直人「百人一首を読み直すー非伝統的表現に注目してー」新典社新書41 (2011年5月31日)

  行成は宮中で鶏の声を聞いたから、内の物忌みに参籠せねばならないので、早退したわけではない。
  「急いで帰ったことを後朝風に据え直し、疑似恋愛的な」状況設定に仕立てることで、「清少納言の
  反応を楽しもうと」した。

  (筆者付記) 行成は清少納言に、漢籍の故事引用の反応を見たかったのか、それとも疑似恋愛の後朝のやりとりを
        期待したのか。行成はどちらに清少納言が反応しても、次の一手は準備していたのではないか。
        清少納言は、待ってましたとばかり、自信を持って、「孟嘗君の故事」に反応しました。
        「どうですか、よく判っているでしょう」とばかりに。「そうですか、私・清少納言のもとから、
         少しでも早くにげだしたかったのですか。」とでも言いたげに。
        行成は暁よりも一時も早く退出したことのみを「孟嘗君の鶏鳴」と関連させただけで、本来の
        意図したことは後朝雰囲気を醸し出すことにあったと見られる。

  「孟嘗君の故事」で反応した清少納言に対して、行成は、「函谷関ではなくあなたと私の逢坂の関ですと
  臆面もなく逢坂の関を持ち出し」て、後朝の世界へ引きずり込もうとした。
  ところが、後朝の場合でも、「本当の後朝であれば、暁(午前三時)つまり翌日(寅の刻)になってから
  帰るのが一般的な礼儀である。」 

  (筆者付記)「鶏鳴」で退出したとなれば、逢う瀬を過ごした後、女の元を退出したと言うことになる。
        行成と清少納言が夜更けに談話の席をもったことを、夜の男女の仲としたのか。
        となれば、清少納言が詠んだように、行成は清少納言のもとから、はやばやと退出したい理由を
        架空の「鶏鳴」の事つけたことになる。

  成り行きに「ねじれ」が「存在」する。すなわち
  (イ)孟嘗君の故事では、まねごととはいえ、実際に発声した「鶏鳴」は、騙す側は発したものであるのに対して、
     行成の場合は、実際に発声していない「鶏鳴」で、騙された側に当たる。
  (ロ)孟嘗君の「函谷関」は、敵から脱出する関であるのに対して、行成の逢坂の関は、男が女に逢いに
     入る関となり、全く当事者の関に対する動きも、またその行動する時間帯も、正反対である。
  (ハ)行成は清少納言の歌に対して、「逢坂は人越えやすき関なれば鳥も鳴かぬにあけて待つとか」という
     下手な歌を返したことより、「鶏がなかなくてもあなたは関を開けて私を待っていてくれる」時間帯に
     変更されている。(「鶏鳴」の時間帯から、男が女を訪ねる時間帯に。)
  清少納言は、先手を打って、鶏も鳴かぬ関を開けるようなことなどしない「心かしこき関守侍り」と言っている。
  百人一首歌の「ゆるす」とは、「解放する」「自由にする」という意味に解する。

  「ここでもっとも価値があったのは、手紙の内容のおもしろさでも清少納言の歌でもなく、行成自筆の手紙」で、
  「清少納言の最大の功績は、行成に何通もの自筆の手紙を書かせたこと」にあった。

(その2)圷美奈子(あくつみなこ)「新しい枕草子論」新典社研究叢書159 (2004年4月)
          第四章 漢籍故事に拠る言説における表現差 第三節 孟嘗君の鶏

   この逸話のポイント:函谷関ー鶏鳴を謀って孟嘗君らが逃げ去った関
             逢坂関ー行成・清女の二人が恋人として逢う瀬を持った(とりなした)、
                 逢ふという名の関
             (逸話で、典拠通りの引用がなされていないことは問題でない)
(筆者コメント)
もともと、この逸話における行成の文学遊戯世界では、
男女の逢う瀬における「鶏鳴」と「後朝」ぐらいで、
孟嘗君まで、さかのぼらない軽い構想であったのではないか。
ところが、「鶏鳴」から清女によって漢籍故事の世界へ
ひっぱりもどされそうになったので、あえて、軌道修正すべく、
「函谷関」を「逢坂関」へ、振り向けたのでは。
「そらね」を優雅な文学遊戯の「そらごと」につかったことに、
「そらね」の「そらね」たる使い甲斐があったというものだ。
これは、遊戯の仕掛け人・行成と共演者・清女ともに、楽しんだはず。
「そらね」を活用して、まんまと函谷関ならぬ「清女の関」を
抜け出てきたのが、孟嘗君ならぬ藤原行成君だったわけだ。
こうなるとどちらが勝ってどちらが負けたということは、二の次になろう。
   「行成が恋文めかした文に記した暁の「鶏の声」を捉え、」「孟嘗君の鶏であろうと揶揄したのは清女であった。」
   「・・・揚げ足を取られた行成は、・・自分が恋の世界のものとして言った後朝の鶏の違いを示してみせる・・・」
   「・・・清女はかの有名な一首、夜をこめて鳥のそらねははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ、 を詠み送る。」
   「<こころかしこき関守侍るめれ>と書き添えてやった・・・・」ことが、清女にとっては命取りになったのである。」
   言葉の掛け合いに心を奪われた清女のこの詠歌に至って、行成のマイナス・ポイントであった孟嘗君のニセの鶏鳴の
   問題は帳消しになってしまったのである。すなわち行成は返しに、
   「いやいや、「逢坂の関」ならば、私がうっかり持ち出した「鶏鳴」はもはや関係ないわけです。
    ですから「ゆるさじ」もなにもないわけで、「鳥も鳴かぬに開けて待つ」とかということです。」
   とやり返すことになる。
   この一連の応酬を審判した定子は「さて逢坂の歌はよみへされて、返事もせずなりにたる、いとわろし」と評している。
   これはまさしく、自らの戦法に溺れて清女が「よみへされた」一件であったのだ。

    圷美奈子「清少納言」コレクション日本歌人選007(笠間書房 2011年5月)による追加文
   「従来は、清少納言の女性としての軽薄さ、外聞の悪い素行について揶揄した歌と考えられているが、それはひどい。」
   「清少納言の歌は、史記列伝の世界の函谷関と、誰にも親しみやすい逢坂の関とを、鶏鳴によって、即座に
    結びつけて巧みに詠んだものである。」
   「行成の<偽りの鶏鳴>をあげつらうことから出発したやり取りであったが、行成の弁解の言葉にある逢坂の関の
    存在について讃え、世に長く伝えられる歌が一つ、生まれたのである。」


(その3)藤本宗利「枕草子研究」風間書房 2002年2月15日
          日記的章段の方法  十二 『枕草子』の宮廷文学的性格ー「とりのそら音」をめぐってー
    (蔵人所の紙屋紙に認められた藤原行成の手紙)・・・機知と諧謔とにあふれたものであると同時に、
    清少納言とのこまやかな交流をしのばせるもの・・・「別れを促す憎むべき存在」であったはずの「鶏」と
    いうモチーフが、清少納言の返事に用いられる際には反対に、「脱け出したがっている男に帰るきっかけを
    与える天恵・帰るための口実」にすりかえられているから・・・男が自己の愛の深さを示すべきものとして
    選んだモチーフが、そのまま男の不実の指標に転換された結果となった・・・

     ・・・「とりの虚音」のやりとりも、清少納言と行成との間のものであると同時に、彼等をそれぞれに擁する
    定子後宮側・殿上人側の両集団の間で交わされた応酬でもあったと言える。つまりこの二人を代表選手として
    挑み合わされる、一種の知的遊戯とでもいうべき本質のものなのである。
     このことが宮廷という立場における女房の立場を浮き彫りにするのではないか。彼女たちの優雅で当意即妙な
    応答ぶりは、個人としての讃美を越えて、そのような女房を従えている主家の栄誉に繋がっていくのである。
    すなわち男たちの無聊をなぐさめるという、きわめて私的な要素の上に成り立った行為が、主家の飾りとしての
    公的な評価の対象になるという両義性を帯びている存在こそが女房なのである。

     ・・・一方の女たちも、男からの呼びかけに打てば響くような応答ができるよう、男たちの挑み心を
    そらさぬように心用意を怠らない。古歌や楽器・筆蹟の習得に努め、化粧や衣装の配色や、立ち居振る舞い・
    声づかいにまで心を配って、主家の飾りとして殿上の注目を集めるべく妍を競ったのである。
     宮廷社界における自己の売名という共通の利害のもとで、男も女もお互いに己の美や才を相手の前に衒い、
    媚態を演ずる。そこには恋の駆け引きにも似た一種の心理的緊張が生ずる。いわば擬似的恋愛である。
    宮廷においては「恋」さえもかようにして、「仕事」なのであり、「政治」だったのである。

     ・・・行成からの「逢坂は」という詠みかけに対して返歌しなかったという点で、もっと言えば、
    「へされて返しもえせず」と書いたことで、彼女は自分を「恋多き女」として演出したのは確実である。
    「いいわ、わたしの負けよ。だってほんとのことだから、言い返しようがないんだもの」という調子で、
    肩をすぼめて眼をしばたたいている彼女の顔が見え隠れしている。・・・・返歌しないことで、行成に言い
    負かされた形となって、彼に花を持たせた清少納言は、自らを「恋多き女」として描くことによって、
    <<この勝負を引き分け>>にして見せたのである。


(その4)萩谷朴「鳥のそら音にはかる」考ー百人一首定家添削の罪ー
                    (出典:日本文学研究(通巻25 1986年1月)p29−35)
   「鳥のそら音に」の理由を示す格助詞<に>を、「鳥のそら音は」の係助詞<は>に替えてしまった定家の意図は

   ”鼻にかかるN音が連続することを嫌って、和歌の口誦音に対する審美的観点よりして、きわめて気軽に
   <は>に、音声のなめらかな文字続きに改めるという、恣意的な改訂を加えたのであろう。”

    (筆者愚言)ー萩谷先生へー浅学凡夫(全日本かるた協会・調査研究部所属)の思いつき
         定家の恣意的な和歌の歌語改訂につき、先生のご意見は、「音声のなめらかな文字続きに改める」と
         いう論点を頂戴して、さらに、次の音声事情も改訂の理由の一点になるのではないか。

         「よをこめて とりのそらね<に> はかるとも よ<に>あふさかの せきはゆるさじ」

         すなわち、第二句の<に>が第四句の<に>の重なるので、聞きぐるしく、言いにくい。
         したがって、
         「よをこめて とりのそらね<は> はかるとも よ<に>あふさかの せきはゆるさじ」

         「に」に替へて とりのそらね「は」 はかるとも よ「に」虚(そら)歌語の 助詞「は」ゆるさじ

                  とりのそらね「は」にしても、第五句の せき「は」ゆるさじ
         と「は」は重なる。かといって とりのそらねにつける助詞として 「を」とした例もあるというが。
         しかしこれでも よ「を」こめて の「を」と重なってくる。
         現代の用語ならば 「で」が適当でしょうが、発音が濁ってまずい。

         ただに、「そらね」を用いた定家の「虚(そら)歌」ならずや?         

  凡そ、平安以降の古典文学にして、定家の手を経ぬものは少なく、定家が書写し、所持し、注記したが故に、
 その権威のお蔭を蒙って、漸く今日に伝襲された文献も少なくない。
  平安以降の古典は定家の手を経たが故に、数多く現代に伝来していることを感謝すると共に、その本文には、
 恣意的改訂の加わっていることが多く、大いに戒慎すべき欠点が少なくないという意見も、折りにふれて
 開陳してきた・・・・・

  定家の恣意的な改訂本文が広く伝播することによって、・・・・平然と、流布本によって、というよりは、
   「百人一首」で慣れ親しんだ歌句に従って、無思慮・無批判・無分別に、要するに無条件に「鳥のそらねは」と
   いう本文を挙用することが習性となっていたのである。

   因みに、本論文に引用されている各種の解説文による「そらね」の訳文を比較すると、
   「鳴きまね」「虚音(そらね)」「にせの鶏声」「鳥が鳴いて・・・だました」「いつわりの鳴き声」「うそ鳴き」
   などとなっている。

(<そら>の参考例)枕草子中の<そら>ごと
  枕草子第80段(三巻本)に
   頭の中将(藤原斉信・ただのぶ、公任・行成・俊賢とともに四納言)の、すずろなる そらごと を聞きて、
   いみじう言ひおとし、・・・・
  と斉信にあしざまに噂され、漢詩の文言のやりとりで、何とか名誉を保ったという逸話の一段が記されている。


(その5)冲方丁(うぶかたとう)「はなとゆめ」角川書店 2013年11月6日
          自伝日記風小説『枕草子』語りー第四章「職の御蔵司」ー
  「・・・いつだったか、行成様が職の御蔵司にいらっしゃって、わたしと長話をしてくださったときのことです。」
  の書き出しで、例の一件を日記風章段の原文に沿って述べたのち、

  「・・・本当に、男性とこのように心を響かせ合うことがあるなんて、不思議な気分でした。恋人であるとか、
   想い合っているとかいった以上に、この人なら本心から信頼できるし、それこそ大事なものをなんでも預けて
   しまえると思わせてくれるのです。        (下注)
    わたしたちはそんなお互いの気持ちを、「遠江の浜柳」とこっそりと呼んでいました。刈っても刈っても、
   あとから生えてくる川柳のように、切っても切れない男女である・・・という『万葉集』から引いた言葉です。」
                                        (下注)
  と清少納言に「とはずかたり」風に語らせている。要は当該逸話は、信頼関係にある男女の文学遊戯であると。

   (注)著者が書き足した万葉歌とは、

   霰(あられ)ふり 遠江(とほつあふみ)の 吾跡川楊(あとかはやなぎ)   万葉集・巻第七・1293番
   刈りつとも    またも生ふとふ     吾跡川楊(あとかはやなぎ)    雑歌(旋頭歌)・読人不知
        (恋しい人への思いは、絶っても断っても、沸き上がってくる事よ)

<参考メモ・その1>泉涌寺の百人一首歌碑

 京都東山・泉涌寺内仏殿横、泉涌水の脇に清少納言の百人一首歌碑が建立されている。
  何故彼女の歌碑が建っているかと言うのも、もとは後世の人々の清少納言に対する思いやりからだ。
すなわち、清少納言は、皇后定子没後、月の輪(泉涌寺の周辺)に隠棲し、不遇の晩年をかこっていたとも、
皇后定子陵である鳥辺野陵を護る老後を送ったとも言われる。

 清少納言が月の輪地区で余生を送っていたことは公任の歌集に言及されている。

 ー清少納言が月輪にかへりすむころ
 「ありつつも雲間にすめる月のわをいくよ詠て行帰るらむ」(公任卿集)

 月輪山荘は、父の所有地でなく、山城守・藤原棟世の物で、愛宕郡鳥辺郷の南に位置する丘陵地の
一帯で、現在の東福寺(当時は、法性寺境内の一画であったと思われる)、泉涌寺、月輪中学校の
区域一帯を指すところ。
 一首の歌がこのように、碑に刻まれて、しかも由緒有る寺院の境内に据えられ、後世の伝えられる
ことは、名誉なこと限りなし。紫式部に言わせると、「才女ぶってお高くとまる自慢癖の清少納言」に
似合いの場所かもしれない。

(右)清少納言歌碑(左)光琳カルタ「よをこめて とりのそらねははかるとも」
 
 泉涌寺境内の清少納言の百人一首歌碑
  清少納言の場合は、わざわざ歌碑を残してくれなくても、「枕草子」という記念の金色塔が永久に
日本民族の中に伝承されて行くわけで、これこそ「してやったり」ということではないか。
 石碑による情報の伝達の場合は、その場に出向いて碑に対面しないと、伝えようとする碑文の目的は
果たされないが、和歌と形を取って人の口伝えに依れば碑文以上により多くの人々に情報を伝える
ことが出来よう。

 清少納言の場合、最も確実な且つより多くの情報を後世に示す為に採った方法は、「書き物」という
形を創出したことで、後世に範を示すことに成功している。正しく情報の世界といわれる平成現代を
千年先駆けた才女と言えよう。
 清少納言と同様に平成現代の人々が今度は彼女に代わって千年後の社会の機構を創出することが
出来るだろうか。御寺の境内の碑文に向かう時、彼女は対面する人々に向かってその問いかけを
しているような気がしてならない。泉涌寺もひとつのタイムカプセルを持っているような物。

<参考メモ・その2>「函谷関」と祇園祭の「函谷鉾」

<孟嘗君>戦国四君のひとり、斉の孟嘗君が秦の昭襄王の討手から逃れた鶏鳴狗盗の故事
     中国・戦国時代・斉・王族。常に食客三千人を擁した。秦に使いした時に、捕らえられて
     殺されそうになったが、逃れて函谷関に来たとき、関は鶏が鳴かないとあけなかったので、
     従者に鶏の鳴き声の巧みな者が声を真似て、関を出ることができたという史記・孟嘗君列伝にあり。

<函谷関>中国、河南省西部、黄河の南岸に位置する交通・軍事上の要地。初め戦国時代に秦が霊寶県の南方に
     函谷関を設けたが、紀元前114年、前漢の武帝により東に150kmほど離れた新安県の東方に移された。
     名称は山間の谷沿いに陽光がほとんど差し込まない狭い道が続いているのでまるで函の中を行く
     ようだった事に由来する。

(左)北京ー上海ー西安(長安) (右)長安(西安)ー函谷関ー洛陽
<箱根八里>鳥居忱(とりいまこと)作詞 滝廉太郎(たきれんたろう)作曲 明治34年3月 「中学唱歌」
      第一章 昔の箱根 箱根の山は天下の険 函谷関も物ならず 万丈の山千仞の谷 前に聳え後に支う・・・
      第二章 今の箱根 箱根の山は天下の阻 蜀の参道数ならず 万丈の山千仞の谷 前に聳え後に支う・・・

<函谷鉾>(1)四条通烏丸西入ル函谷鉾町の鉾で、応仁の乱以前に起源を持ち、「くじ取らずの鉾」として、
        長刀鉾に次いで第二番目に巡航し、鉾櫓、屋根の規模は大きい。
     (2)鉾名の由来は、中国戦国時代、斉國孟嘗君の函谷函での鶏鳴故事による。
     (3)鉾の飾りでは、鉾頭の三日月と山形は、山中の闇を表し、真木の上端近くに孟嘗君、その下に
        雌雄の鶏がまつられている。
     (4)保存会法人:公益財団法人函谷鉾保存会(函谷鉾ビル二階)昭和42年4月12日発足

(左)函谷鉾(右)模型鉾の勢揃い(右から、長刀鉾・函谷鉾・月鉾)

<とはずがたり・その1>「そらごと」にあらず?「そらおそろしき」清女実兄の殺害事件

 「御堂関白記」(藤原道長日記)寛仁元年(1017)三月八日、子息藤原頼宗の報告を受け、次の記録を残している。
 「白昼の平安京を数騎の騎馬武者と従う十数人の随兵が、六角小路と富小路の交差地点当たりの住人、清少納言実兄で
前太宰少監清原致信(むねのぶ)宅を襲撃し、致信を殺害してしまった。清原致信は藤原保昌の郎等(郎党)である。」
 清原致信は、清原深養父の曾孫で、元輔の息子である。殺害への遠因となる怨念とはなにか。
 暴行集団の中に源頼親の命を受けた従者秦氏元が入っていた。頼親は以前清原致信に殺害された大和国の当麻為頼の
仲間であった。大和国で藤原保昌の手下(清原致信)に殺害された(らしい)当麻為頼の仇を、仲間であった源頼親が
その手下(秦氏元)を使って実行した、ということになる。
 ところが、この当事者間の人間関係は、はなはだ入り組んでいて、複雑である。(下記関係図参照)

清原致信殺害事件関連図
 殺害事件の当事者周辺には、平安朝宮廷文学世界のきら星のごとき女性が関わっている。その横の男どもの世界は
殺伐たる殺し合いの世界であったということになる。
(出典:繁田信一「王朝貴族の悪だくみ」ー清少納言危機一髪」柏書房(2007年5月10日))



<とはずがたり・その2>「そらごと」か?「そらぞらしき」清女への暴漢襲撃事件

 上述の清少納言実兄襲撃事件は、「いかにも生じそうな誤解を混入されつつ、不自然な尾鰭を付加されつつ」
「古事談」巻二に次のような説話集に織り込まれている。

 「源頼光が前太宰少監清原致信の殺害を命じられたのは、渡辺綱・平貞道・平季武・坂田公時の四天王であった。
  その頃、致信は妹の清少納言と同居していたが、・・・致信の居所に踏み込んだ四天王たちは、致信を殺した
  ついでに、その場に居合わせた清少納言をも殺そうとしたのであった。すると殺されまいとする清少納言は
  自分が女性の尼僧であることを示すために、いきなり法衣の裾を大きく捲り上げて、みずから陰部を露出させた
  そうな」

 すなわち、清原致信殺害の首謀者は源頼親から異母兄弟の源頼光にすり替えられて、致信殺害現場に清少納言が
居合わせたことにまでなっていて、その危険回避を「おもしろおかしく」とは言い難い、「まことらいし」
「そらごと」説話集に仕上げていることである。
 確かに、いかにも読み手の男性軍を喜ばせそうな談話集に仕上げている。
 まさに<「そらごと」じゃないの、話自身が、はなはだ「そらぞらしい」ですね、>と言いたいところ。
 またそこが、「説話集」の説話の本質なのか。
         (出典:繁田信一「王朝貴族の悪だくみ」ー清少納言危機一髪」柏書房(2007年5月10日))

ホームページ管理人申酉人辛

平成26年8月25日  *** 編集責任・奈華仁志 ***

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