平成社会の探索


ー第63回知恵の会資料ー平成18年7月2日ー

「知恵の会」への「知恵袋」


(その7)参議篁が渡(わた)る「海(わた)」

<「百人一首」の「わたのはら」>

 百人一首の歌の中で、「海」に関係した歌は、16首(4,7,11,18,19,20,42,
46,48,72,76,88,90,92,93,97)ありますが、ずばり「海(わた)」を
詠み込んだ一対の歌は、

 11番 わたの原 「八十島」かけて 漕ぎ出で ぬと人には告げよあまの釣り舟 参議篁
 76番 わたの原 漕ぎ出で てみれば久方の雲居にまがふ「おき」つ白波 法性寺入道前関白太政大臣

ということになります。それぞれの歌の詞書は、
 11番 隠岐国に流されける時に、船に乗りて出で立つとて、京なる人のもとに遣はしける 
 76番 新院(崇徳院)位におはしましし時、海上遠望といふことをよませ給ひけるによめる
となっていて、一見両歌人の立場は全く異なるように思われますが、百人一首歌については、
次の点でいろいろと共通する事項が多いように思います。

 (1)歌語の共通点として、いづれの初句も「わたの原」という「海(わた)」を、さらに
    「漕ぎ出で」(流罪につく、海に出る)と、詠んでいる。
 (2)歌の内容が宮廷(八十島(祭))や宮中(雲居)に言い及んでいる。
 (3)歌の背景に流罪が含まれている。参議篁の隠岐島への遠流と崇徳院の讃岐配流。
    (忠通は詠歌時、崇徳院の将来を予想したわけではなかったでしょうが、歴史の流れと
     しては大いに関与したことになります。何処の「海上」(八十島沖?)で何を
     「遠望」(遠い将来の讃岐白峯寺?)したのでしょうか。「おき」を隠語として
    (隠岐)とみるか。)
  (注)忠通の歌の特殊な解釈
     天皇に近く侍ってみると、周りには皇位を狙う盗賊紛いの輩がいかにも多いことだ。
    
 したがって、これら二首の歌に於いては、特に、「海(わた)」と「漕ぎ出で」の二種類の歌語に
歌の詠みたい観点が纏められ、百人一首にこれらの二首を選定した定家の意図が結集しているのでは
ないか、と思われます。

 篁詠のキーワードになる歌詞とは、「かけて」と「人には」の二語ではないかと考えました。
 以下では、参議篁の歌について、その背景に「八十島の海の神への祈り」として、
 (1)配流の身(参考メモ3)としての隠岐への海路の安全祈願
 (2)遣唐使(参考メモ2)船のいざこざへのお祓い(禊ぎ)
などの観点から歌の背景なり関連事項や参考事項を採りあげてみました。

<参議篁の歌詞「わた」の周辺>

 篁歌の一般的な解釈は、次のようになっています。
「広々とした海の(はるかかなたの)多くの島に向かって、(今)私はこぎだしたと、
(都にいる)あの人に告げてくれよ。漁夫の釣り舟よ。」
      (小町谷照彦「新訂小倉百人一首」(1990)文英堂)
 それぞれの歌詞の意味合いを参考資料より引用します。

*************** <歌詞1.「わたのはら」> ***************

   「わた」(「海」「渡」)の語源について、古語辞典類では、
  (イ)「海」の意味で、わたの原、わたつうみ、わたつみ、わたの底などに用いる。
  (ロ)「渡」の意味で、船で渡るところから、近世専ら「わたり」「わたし」に用いる。

 参考資料(1)では、次のように示唆に富んだ解釈を提示されています。

 「わたのはら」の「わた」は、海神という意も有する「わたつみ」の語とも響き合い、
 「海原ー八十島」を「わたのはらー八十島」と読み替えたことによって、篁の一首には
  より神秘的な意味性が付与されたと言えるのではあるまいか。
  篁が漕ぎだしていこうとしたのは、眼前の波のまにまに見え隠れする遠流の地「海原の
  八十島」ではない。もっと幻想的・宇宙的な拡がりを含んでの「わたの原八十島」
  であり、・・・

*************** <歌詞2.「八十島」> ***************

  (イ)固有名詞としては、摂津国歌枕として八十島祭の意味。歌学書や屏風歌などでは
     出羽国歌枕としての象潟を指すともされる。
  (ロ)歌枕としての「八十島」は、多くの島ということで、上代の万葉集から海上の旅歌に
     用いられてきました。
     「海原を八十島隠り来ぬれども奈良の都は忘れかねつも」(巻十五・3613)
     「ぬばたまの夜渡る月は早も出でぬかも 海原の八十島の上ゆ妹があたり見む」
                                 (巻十五・3651)
  (ハ)篁歌を本歌とする「わたのはら やそしまかけて」歌
     *「わたのはらやそしまかけてすむ月にあくがれ出づる秋の舟人」
                     (16・続後拾遺集・333・藤原行房朝臣)
     *「わたのはらやそしまかけてしるべせよ遥にかよふ沖の釣り舟」
                     (19・新拾遺集・764・如願法師)

 参考資料(3)では、「八十島」について次のように評論されています。

 「八十島」については本来は普通名詞であろうが、
 「住吉や八十島遠くながむれば松の梢にかかる白波」(後鳥羽院御集)
 とあるように、難波の八十島と考えると必ずしも大海原というわけではないことになる。」

と提言されているように、篁は「わたのはら」を掛詞として単なる「普通名詞」で「八十島」を
詠いだしたのではないと「考えたい」ところです。
 すなわち、「わたのはら」の掛詞で、「八十島」を呼び込んだ篁の念頭には、「八十島祭」があった
かどうかはともかく、結果的には、後世人の目からみますと「八十島」に「海の神への祈り」を
含めていたと「見てやりたい」ところです。
 
 因みに「八十島祭」と篁の時代的考証は、<参考メモ1>を参照願います。

 ここで、もう一編の参考資料(2)によって「八十島かけて」考を引用してみます。

 「「わたのはら八十島かけて」は、万葉集にみられる歌(前述巻十五・3613,3651番歌)
 などの類型の中に組み込まれるものであり、「海原ー八十島」なる組み合わせを敢えて「わたの原ー
 八十島」と読み替えた」

ものだと、評言されています。したがって、当該「わたのはら」には篁の大いなる意図があると
見たいところです。 

**************** <歌詞3.「かけて」> ***************

 「かける」という動詞の語義はどうなっているのでしょうか。
   参考資料(2)には、「かけて」の従来の諸解釈を纏めています。
  「兼けて」「及ぼして」「つたって」「心に掛けて・目がけて」「目にかけて」「これから
   彼にわたって」「ここから・・・にむかってずっと」
  これらのなかで、一般的なのは、「目がけて」「目指して」などとされます。

 辞典(平凡社「日本国語辞典」)によりますと、「掛」「懸」「賭」「架」などの漢字で表される
「かける」は大きく六種類あり、そのうち、第二分類の「ある機能を持つものの働きの支配下に置く、
その働きの対象に取りいれる」という語義に、次のような事例が挙げられています。
 (い)心や耳目に留めて関心事とする。
 (ろ)言葉に出して言う、言葉に表す。
 (は)関係付けて言う、かこつける。
 これらの用法を「かける」に適用しますと、「海の神への祈り」を詠うことによって、今から
「わたらんとする航海の安全」を期しつつ、「祈りの言葉」に代えているのです。

 参考として、参考資料(1)や(2)で引用されている「阪倉篤義氏」の評論では、「かける」と
いう詞は、
 「空間的乃至時間的に距たったもの、今ここに存在しないものに、よりどを求め、それをあてに
  して心を寄せる不安定な心情を言う」
場合に用いられるという。ということは、前述課題2項で言及しました正に「海の神への祈り」では
ないかと思われるのです。
 因みに参考資料(2)では、「遠く遙かな島々をあてにして、それに心を寄せる作者の不安定な
心情を詠んだもの」として、訳としては「八十島に心をよせて(たよりなげに)」というものです。
 さらに参考資料(1)では、「かけて」に現実世界に限定されない深い世界の意味あいを汲み
取りたいとして、篁が「わたの原八十島ーかーけーてー」詠み継いでいこうとしたのだ、と言及
されています。

************ <歌詞4.「こぎいで」船出の場所> ************

  篁が流刑地に向かった船出の場所はどこか、契沖その他の資料にいう難波津周辺からか、
 参考資料(1)に検討されている出雲国千酌からか、分かれるところです。
  (参考メモ3。参照方)

*************** <歌詞5.「人にはつげよ」> **************
 
    「人」とは、だれか、一般的解釈は、都に残って留守番をしている親しい人、例えば妻と
  されています。
   藤原俊成がその歌論書「古来風躰抄」にて、「人にはつげよといへる、姿・心たぐひなく
  侍る也」と絶讃された詠みです。俊成卿は「人には告げよ」をどのような篁の詠みの「姿・
  心」と看たのでしょうか。
   参考資料(1)では、「「海人」は「天」にも通じ、「つり舟」は天の河を渡る舟とも
  通いあっている。・・・敢えて現実の隠岐とは次元を異にした異境を幻視している、乃至は
  「京の人」にそうした幻想を見せようとしている・・・」
  「離別に臨んで、自らのあまりに悲惨な現状を直截に訴えるのではなく、・・・」
  「この現実生界に絶望しきった篁が、最後の最後に夢見ようとした異郷幻想ではなかったか。」

 と解釈を入れておられます。

   京の「人」には、「親しい人々」もおれば、「彼の流罪に関係する多くの人々」がいる
  わけです。そこで、敢えてこの「人」は、婉曲的に「嵯峨上皇」を含む台閣の面々を
 (あるいは、をも)指しているのではないかというのが、筆者独断の思いこみです。
   流罪の旅路の舟乗り場まで来て、これまでの憤懣やるかたない気持ちはすっと消えて、
  何か言い残すとすれば、親しい人への「異境への幻想」を見せること、だけであったとは
  思えません。郵船に乗り込むときになって、一層に「憤懣やるかたない気持ちが高まった」と
  みたいのです。直接的に嵯峨上皇に向かって、怨みがましく「流刑地に漕ぎ出でるぞ!」と
  逆らえないので、敢えて矛先を変えて、「人には」つげよ、と詠んだのではないでしょうか。

   「つげよ」とは、「告げよ」ということで、知らせよという意味に解釈されていますが、
  「告ぐ」(他動詞ガ行下二段活用)ではなく、「継ぐ・次ぐ」(他動詞ガ行四段活用)と
  考えて、「受け伝える、継承する」等の意味に取れないでしょうか。

**************** <歌詞6.「あまのつり舟」> *************

  「あま」とは、「海人」か「天」か。どこの何を指すのか。敢えて両方の意味を含ませている
  と読み取れないことはないと思います。表向きは、流刑地に向かう海上に漂っている「海人」に
  事借りて、実は、「天」すなわち、「嵯峨上皇」と「その取り巻きの台閣」(つり舟)の人々を
  (をも)さしていると詠めない事はない、と思われます。
   さらに篁が乗船しなかった「遣唐使船」も喩えてみれば「つり船」のようなものではないか、
  とでもいいたげに、「あまのつり舟」(遣唐使船の婉曲的表現か?)で歌を結んでいます。

   因みに、参考資料(2)では、「海人の釣り舟」に向かって呼びかける形式の歌は万葉集に
  先例を看るので、この点からも「一首全体に万葉的な古態を残有しつつ、それが洗練されて
  いく過程において成立した表現であった」と考察されています。

 以上の各歌詞の咀嚼を考慮に入れて、次のような試みの評釈を作りました。篁の経歴(死後の世界
でも閻魔王庁の冥官に就くなど)と清廉潔白・質実剛直・直情径行型で、難局にも決して弱みを見せず、
逃げない日本男児の代表のような性格(参考メモ4。参照方)を想像しての解釈になっています。

**********************************************
(遣唐副使として遣唐使船に乗船拒否したことに対して、
嵯峨上皇とその台閣より流罪を言い渡されましたので、)
隠岐国への流刑に就くために、(郵)船に乗って出帆するに当たり
千酌駅頭より遥かに「八十島の隠岐(沖)」を望みながら、
都にあって当該流罪に関与した人々(嵯峨上皇や朝廷の台閣)に向かって詠む
「(帝が即位後、「八十島祭」で海の神へ祈願するように)
配流地隠岐島までの海路が安穏たれ、と海の神への祈りつつ
(遣唐使船では「漕ぎ出で」なかったが、)
今は流罪に服するべく、「確かに(隠岐の)八十島へ漕ぎ出しましたぞ!」
「都の(上皇や台閣の)方々よ。!」
(とくと聞こしめせ!)
        

<参考メモ1。「わたつみ・海の神」への祈り>

<その1>八十島神祭ー八十島祭(やそしままつり)
 八十島祭とは、平安から鎌倉期に、天皇が即位された大嘗祭の翌年、即位儀礼の一神事として
難波津で行われた宮廷祭祀の一例で、記録には、嘉祥三年(850)文徳天皇即位以来、元仁元年
(1224)後堀河天皇即位まで、二十二回資料に記されています。
 (注)文徳天皇 第55代 (827〜858) 在位 (850〜858)8年余
    小野篁  (802〜852) 遣唐使船問題 承和五年(838)
    したがって、文徳天皇の即位年と篁の遣唐使船事件発生年には、12年のずれがある。 

 祭使は典侍が任命され、宮廷の御巫(みかんなぎ)・生島巫(いくしまのみかんなぎ)が同行し、
天皇の衣を納めた「はこ」を持って難波津に下向し、祭場(熊河尻)の祭壇で御衣の「はこ」を
ひらけて琴の音に合わせて振り動かす動作が祭儀の中心になっています。
 神に捧げる多くの(52種)祭物が海に投じられ、祭使は帰京後、御衣を天皇に返上して、儀式は
終わります。
 祭神は、生島神・足島神(たるしまかみ、大八洲の御霊)で、目的は、新しい天皇の体内に
大八洲の霊を付着させ国土の支配権を呪術的に保証することとされます。
 祭の起源は、記録に初見される嘉祥三年の始まりとする説もありますが、第49代光仁帝
(770〜781)までのほとんどの天皇が、「大嘗祭の翌年必ず難波宮に行く」のは、この
八十島祭の執行に関係した行幸ではないか、と見られ、「七世紀以前からの伝統的祭儀」と
見られています。
 (注)天皇の大嘗祭と難波行幸の記録
    天皇   大嘗祭         難波行幸         行幸先      
   文武帝 文武二年  (698) 文武三年  (699)正月  難波宮
   元明帝 和銅元年  (708) 和銅二年  (709)    難波宮
   元正帝 霊亀二年  (716) 養老元年  (717)二月  難波宮
   聖武帝 神亀元年  (724) 神亀二年  (725)十月  難波宮
   孝謙帝 天平勝宝元年(749) 天平勝宝二年(750)正月  難波宮
   光仁帝 宝亀元年  (770) 宝亀二年  (771)二月  難波宮 

 これらの伝統的天皇祭祀の歴史から推測しますと、九世紀の小野篁時代の高級官僚には、
「八十島(祭)」といえば何を意味するか、いかなる行いか、充分に承知していたことであろうと
思われます。

<その2>海の神社ー海神神社関係
 「八十島祭」に見られるような海の神を信仰するという「海神信仰」は、海洋民族の間に伝承される
信仰で、古代人にとっては「天空」「地上」「地下」「高山」「深海」はそれぞれに神霊が存在する
一つの世界と見なされたのです。
 「海神」の場合は、「わた」(うみ)「わたのはら」(うなはら)を支配する神を「わたつみ」と
しました。したがって海上交通安全を「わたつみ」に祈願することになるのです。住吉(すみのえ)
神社や宗像神社の祭神などがそれに当たります。

 海(海神)神社と名の付く神社は、全国で十二社ほどあるようですが、畿内では神戸市垂水区に
「海(わたつみ)神社」があります。一名「垂水大明神」「日向大明神」とも言われる旧官幣中社。
 祭神は、底津綿津見(そこつのわたつみ)神、中津綿津見神、上津綿津見神の三神。
 由来は、神功皇后が朝鮮に出兵しての帰途、当地の海上で暴風波が起こり、御座船が進まなかった
ので皇后が斎戒の上、占いをして、海上三柱の神を現社地へ祭ったことによると伝えられています。
 以降、舟運守護海上鎮座の神として仰がれて「延喜式」では、名神大社となっています。

<参考メモ2.三回にわたる遣唐使船の経緯>

 小野篁が関わった、また実質的に最期の遣唐使となった「承和遣唐使節団」の渡唐の経緯を
参考資料(1)より抜粋しますと、次のようになります。
 第一回渡航 承和元年(834)任、承和三年(836)発(四船)ー失敗(一艘は大破)
 第二回渡航 承和四年(837)再発(三船)ー失敗(壱岐島と値賀島に漂着)
 第三回渡航 承和五年(838)再々発(三船)651名ー承和六〜七年(839〜840)帰国

 第三回目の渡海挑戦は、承和五年6月21日遣唐副使小野朝臣篁の「病ニ依ッテ進発不能」との
報告で始まります。7月5日に第一舶・第四舶が出発し、三週間以上遅れて、7月29日に第二舶が、
「病」の篁を乗せず、判官藤原豊並を副使代理の形として進発して行きます。
 大使常嗣が篁の第二舶を第一舶とした(「縁起によい船霊の方はそのまま手許に残して、欠陥の
ある船本体の方だけを、部下に押し付けた」)ので、副使篁は大使の横暴を怨み、(「また仁明朝
ー台閣の首班は硬骨漢藤原緒継ーの承認に、篁が異議を唱え)仮病を使って「遂に宿舎(鴻臚館)に
ひきこもり、ストライキ戦術に出て)乗船拒否したというわけです。「加えて「西道謡」という詩を
作って遣唐の役を風刺した。
 これを御覧になった嵯峨太上天皇は激怒し、篁の処分を太政官に審議させ」その結果、「彼は隠岐
流罪の処分を受け」たのです。
 
 篁が想起したであろう過去の事例として、次の事件が挙げられています。
 「・・・宝亀八年(777)の第十四次遣唐使節団の場合、・・・大使に任命された佐伯今毛人
  (当時五十八歳)は、「称病」て平城京に留まり、副使小野石根と大神末足が、大使不在の
  まま渡海したという先例で、・・・篁が解任を覚悟したのは、おそらくこの今毛人の先例に
  よってのことであろう。」
 「・・・小野石根は、篁と同じ小野一族の一人で、・・・当初から遣唐副使の任に預かったわけ
  ではない。・・・おそらく今毛人は、信頼の厚い部下として、石根を推挙したので、・・・
  唐国に赴く羽目になった石根は、帰路大嵐に遭って難破、漂没している。・・・篁は石根の
  悲劇を思うにつけ、上官常継のいいなりになって、己が身を犠牲にするような愚だけは犯すまい
  と銘じていたのかもしれない。」
 「五月に遣唐船を見送ったのち、篁はそのまま大宰府に留まって処分の決定を待っていたのでは
  あるまいか。・・・篁が皈京したという記事がなく、・・・大宰府鴻濾館に寄住していた唐人と
  詩作を交わしたという・・・」

「承和五年十二月十五日、遂に隠岐遠流の勅が下された。・・・太政官は直ちに太宰大弐南淵氷河
あて、符を送付したことだろう。篁は獄に繋がれ、・・・同月二十七日には位記が剥奪。翌年の
正月をまって、領送使や防援等の厳重な監視のもと、隠岐へ連行された。」

<参考メモ3.遠流の船出場所>

 律令制下での遠流地隠岐へは、多くの天皇、上流階級の著名人が配流されています。隠岐に
流された人々に日本の歴史があります。
 島根半島から大凡43km離れた日本海上の孤島、隠岐の島は主として島前、島後の四島と
それを取り巻く大小約180の島々から成ります。正しく、日本海に浮かんだ「八十島」以上で
「ももやそしま」です。
 神亀元年(724)、流刑地として遠流の地に指定されました。(他の遠流国は常陸、安房、伊豆、
土佐、島国では、佐渡と隠岐「続日本紀」)それ以来当地への主な流人としては、

 (1)藤原刷雄 天平宝字八年(764)藤原仲麻呂の乱に関係
 (2)小野篁  承和五年(838)遣唐副使を拒否
 (3)伴健岑  承和九年(842)承和の変に関係
 (4)伴宿禰中庸 貞観八年(866)応天門の変に関係
 (5)源義親  康和四年(1102)鎮西を横行
 (6)後鳥羽上皇 承久三年(1221)承久の変の当事者
 (7)後醍醐天皇 正慶元年(1332)元弘の乱の当事者

いずれも日本歴史上の重大事変の数々です。
 (注)「新修島根県史」昭和43年・通史編に天平十二年(740)藤原田麻呂から、承安三年
    (1173)僧長暁まで、24名の流人一覧が挙げられている。(参考資料(2))

 承和六年(839)正月、遠流の地隠岐へ向かった篁は、「岸伝いに船で行ったか、それとも
陸路を利用したかは定かでない。但し「和漢朗詠集」・・・によれば、・・・隠岐へは出雲千酌駅
より出ていた郵船(宿駅間の定期船)・・・を利用したようである。」(参考資料(1))
 (注)篁詠「行旅」所収の漢詩 渡口郵船風定出 波頭(たく)処日晴看
 「出発地は難波ではなく大宰府とみなされ・・・大宰府から出雲国千酌駅に辿り着いた篁が、
同駅で詠んだ離別歌」が、古今和歌集の、さらには百人一首の当該歌であると推定されています。、

 一方、船出場所の推定地は古来いろいろで、一例次のようになっています。
 *「今昔物語集」(巻二十四 第四十五)篁が明石の浦に着く以前に詠出されていたとしている。
 *「顕昭注」万葉集では備後国水調郡(課題2.3613番歌)豊前国下毛郡
  (課題2.3651番歌)を指すが、天皇の御代の始めに「八十島の使い」神事があり、
   摂津国八十島で禊ぎをする、ということに注目しています。
 *契沖「古今余材抄」「けふなにはのうらより舟だちしてこぎ出でぬ・・・」として、
  「難波の浦の出船を想定」している。(参考資料(2))
   契沖説を踏襲しているもの:
   (イ)百人一首註釈類「香川景樹・百首異見」、久保田正文・峯村文人・小高敏郎・犬養廉ほか
   (ロ)古今和歌集註釈類 金子元真・松田武夫・竹岡正夫など  
 *吉海直人「百人一首の新考察」(参考資料(3))
  「当時、隠岐へは難波から出帆して、瀬戸内海を通って、日本海へ出る遠回りなコースをとって
   いた。(帰りはその逆)。・・・もっともこの歌は難波ではなく、出雲の千酌駅で作られた
   歌とする説も有力である。その方が隠岐へ向かう郵船を詠んだ彼の漢詩と響きあうことに
   なる。」    

(1)千酌駅について(参考資料(2)による)
 当駅は、現在の八束郡美保関調千酌(現在の境港の東)で、
 「出雲国庁・墨田駅付近の十字路から北に向かって行くと、千酌駅に至り、
  そこから舟で隠岐に連絡するようになっていた。」(前出「新修島根県史」)
と推定されています。
 「・・・篁詠は、・・・難波の浦などにおいてではなく、おそらく千酌駅を出船して隠岐に向かう
  海路の途次において詠まれたのである。・・・「八十島」が隠岐をさすことは言を俟たない。
  篁は配流さるべき隠岐の「八十島」を遠くに望み見て、「わたのはら」の一首に所懐を託した
  のである。」
と結論されます。更に加えて、承久の変で隠岐に配流された後鳥羽院も千酌駅から船路で隠岐に
渡られた記録が有りとして、定家と後鳥羽院の関係を篁に連想しています。
 「この篁詠を「百人一首」を撰入する定家の脳裏には、篁が隠岐に向けて出船する風景に重ねて
  近き世の後鳥羽院の姿が描かれていた、と想像することも、・・・可能ではあるまいか。」

 千酌駅の風景を探索してみましょう。

(左)律令体制下の山陰道「駅路」(右)現在の千酌湾周辺の地図

(左)現在の千酌湾の風景(右)現在の千酌湾の地図
(2)契沖の「八十島」について
  契沖の言う難波津に絡めて、篁が船出したとするなら、その難波津の場所とは、現在の大阪市内
中之島地区で、旧淀川に架かる天満橋から堂島川に架かる渡邊橋の辺りまでの「渡邊」の浜になった
のではないかと想像します。
 「顕昭注」では「風土記」では、摂津の堀江の東にある澤を「八十頭島」といっていると言及して
います。(参考資料(2))

<参考メモ4.小野篁略歴>

 延暦21年(802) 1歳 誕生
 天長9年 (832)31歳 従五位下
 天長10年(833)32歳 東宮学士、弾正少弼 
 承和元年 (834)33歳 遣唐副使 
 承和2年 (835)34歳 従五位上 備前権守
 承和3年 (836)35歳 正五位下 

 承和5年 (838)37歳 流罪 無位無冠

 承和8年 (841)40歳 正五位上 刑部少輔
 承和9年 (842)41歳 東宮学士 兼式部少輔
 承和12年(845)44歳 従四位下
 承和13年(846)45歳 兼権右中弁・左中弁
 承和14年(847)46歳 参議 弾正大弼
 承和15年(848)47歳 左大弁 兼勘解由長官
 嘉祥2年 (849)48歳 従四位上
 嘉祥3年 (850)49歳 正四位下
 仁寿元年 (851)50歳 近江守
 仁寿2年 (852)51歳 従三位 薨
 
 略歴で見る限り官位昇進は、すこし遅れただけで、流罪が許されて旧に復した時の官位は
落とされていません。3年ほど道草を食ったという程度でしょうか。

 流罪地への船出のときは、上述のような毅然たる姿勢の歌を詠んだものの、さすがに実際罪に
服する日々をおくると、気持ちも弱まって次のような詠みとなりました。

  ー隠岐国に流され侍りけるときに詠める
 「思ひきやひなの別れに衰へて海人の縄たき漁りせんとは」
   (古今集・巻十八・雑歌下・961 篁朝臣)

(参考1)漢籍才能の逸話
    (イ)嵯峨帝での落書き 「無悪善」(さがなくてよし)
    (ロ)「子子子子子子子子子子子子」
       (猫の子の仔猫獅子の子の仔獅子)

(参考2)名前ー篁(コウ)
    (イ)たけやぶ、「幽篁」
    (ロ)竹の一種。質が高く笛や船を造る。

<参考資料>

参考資料(1)上野英子「小野篁考(四)」ー実践国文学ー第三十八号
参考資料(2)川村晃生「八十島かけて」考ー三田国文8ー昭和六十二年十二月号所収
参考資料(3)吉海直人「百人一首の新考察ー定家の撰歌意識を探る」世界思想社(1993年9月)

平成18年6月6日   *** 編集責任・奈華仁志 ***


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