平成社会の探索

<「知恵の会」への「知恵袋」>

ー第123回知恵の会資料ー平成26年6月8日ー


(その67)課題「け(毛)」ー二人の<毛人(エミシ)>ー
                                 目     次

       <まえがき>「毛人」とは  <1>佐伯今毛人の人生 <2>小野毛人の人生         
               <参考メモ・その1>佐伯今毛人と大伴家持の昇進略歴および自筆署名
              <参考メモ・その2>小野毛人の墓所
                            <参考メモ・その3>石川年足の墓所
       

<まえがき>「毛人」とは

 「毛人」と書いて「えみし」と呼ぶ。歴史上の人物で、「毛」を名前に取り込んだ例は、ほとんどない。
 小野妹子の子息の「毛人」、その息子の「毛野」、あるいは、「佐伯今毛人」ぐらいではないか。
  大陸においては、毛沢東のごとく、普通の氏姓であるのだろうが。
 (一例、片山敬三「日本歴史上の人脈」(株)新聞印刷 平成元年には、ざっと3000人の名前が
  引用されているが、上述の人物以外見あたらない。ただし、毛利一族の氏族名は別にする。)
  敢えて「毛人」と名付けるには、それなりの思いがあったはずだが、「毛」にいかなる意味合いを
含めているのだろうか。
  以下に二人の「毛人」、一人は七世紀の小野氏のひとり、もう一人は八世紀の佐伯氏のひとり。
  いずれもその時代の高級官僚として活躍した歴史上の人物である。

<1>佐伯今毛人の人生

佐伯氏族と今毛人(いまえみし)

 大伴家持の人生は、養老二年(718)から延暦四年(785)の68年間。
 万葉集時代に、唐朝の官人で終わった阿部仲麻呂は、文武二年(698)から宝亀元年(770)に渡る
73年の人生であった。家持より丁度20年の開きがある。仲麻呂は遣唐使と共に大陸の唐朝に学生と
して渡り、官人になり、ついに帰国することなく、73年の人生の内55年が、大陸での人生になった。
 他方、家持は日本国中、北は多賀城から、南は薩摩守まで、地方政治に尽力する官人で生涯を終えた。
 彼の場合は中央政庁に戻ってきても、新興氏族勢力としての藤原氏に主権を取られた古代豪族の
末裔でしかなかった。

 同じ古代豪族で、同世代人にして、家持とほぼ同じ時代を、これまた同じ官人として活躍した人物がいる。
 佐伯氏族の今毛人で、養老三年(719)生まれ、延暦九年(790)72歳で亡くなる。
 彼は家持に勝るとも劣らない官人として活躍した人生を送ったが、家持ほどには一般に知られていない
万葉時代の歴史上の人物。
 彼の略歴を家持と比較しながら抜粋すると次の一覧表のようになる。

  参考資料(その1)角田文衛「人物叢書ー佐伯今毛人」吉川弘文館(昭和63年・1998年7月)    
        (その2)橋本達雄「王朝の歌人2−大伴家持」集英社(昭和59年・1984年12月10日)
      (その3)桜井満監修「年表ー万葉文化誌」おうふう(平成7年・1995年6月20日)

佐伯今毛人(○)と大伴家持(●)の官位昇叙歴比較グラフ
 上記の今毛人と家持の略年表を比較すると、二人の官歴と官位の昇進に差があることが分かる。
 これを図式化すると、(参考資料・その1)佐伯今毛人(○)と大伴家持(●)の官位昇叙歴比較 
の通り。
 佐伯今毛人と大伴家持の官位昇叙歴比較グラフで、官歴のスタートを父親の極位と対比して示すと、

    官人名   年齢   初位       父親の極位
   佐伯今毛人  22歳 正八位上と推定  外従五位下(右衛士督ー衛府の長官に相当)
          31歳 従五位下
   大伴家持   17歳 従六位上と推定  正三位(大納言)
          28歳 従五位下     

 蔭位の制が活かされたとして、今毛人の場合、従八位上相当で、正八位上で官位をスタートできたのは
順当と見なされる。しかし、少初位(上、下)、大初位(上、下)従八位(上、下)と下から数えても、
7番目の位で、あまり蔭位の制のお陰はない。
 因みに家持の場合は、従六位上相当で、従五位下は順当な出発。

 家持の官人としてのスタートはまずまずとしても、その後の昇進が遅滞している。これは多分に
中央政界での所属する立場の影響を受けているとされる。すなわち、橘諸兄を主家とする立場では、
対立する新興勢力である藤原氏、特に仲麻呂が実権を掌握し始めた頃から、家持の主たる官歴が
始まるから。

 初の国守としての越中国赴任も、諸兄一派としての中央政界からの隔離と見なされなくもないわけで、
赴任地へ諸兄の使者田辺福麻呂が訪問したことも何らかの政事的行動であったと推測されよう。
 749年従五位上に昇叙されてから、770年正五位下に一階級昇進するのに21年かかっている。
 この間大伴氏族の長として、嫌疑を掛けられるいろいろな事件が起こっているわけで、昇進の
機会が殆ど与えられなかったということにになる。

 天平勝宝八年(756)5月2日に聖武上皇が56歳で崩御され、その一週間後、5月10日に
大伴古慈斐、淡海三船の朝廷誹謗事件発生。「一族を諭す歌」を自らの戒めに詠う。
これで、確実に藤原仲麻呂に睨まれて、要注意官人に挙げられたはず。

 案の定、天平宝字二年(758)因幡国へ飛ばされる。
 天平宝字七年(763)藤原宿奈麻呂の乱(仲麻呂排除工作)に佐伯今毛人、石上宅継と連座して、
翌年、薩摩守に左遷され、4年の任期が過ぎても、中央政界にもどれず、神護景雲元年(767)
太宰少弐に留まるといった調子で、官位の昇進の条件は全く出てこない。あれこれとこれらの事件に
係わっている間に21年が経ってしまったというところ。

 家持が事件に連座して地方官廻りしている間に、今毛人は技術官人として、着々と実績を積み重ねて
いた。もっとも佐伯氏族は、今毛人の頃、既に古代氏族のころの勢力も衰退して実力を有していないし、
有能な官人も輩出していなかったため、藤原氏族より大伴氏族ほどには睨まれていなかったかもしれない。
 特に天皇や藤原氏族が注目している当時の国家プロジェクトともいうべき、東大寺大仏事業に尽力して
いたことが今毛人の昇進を早めた。

 今毛人と家持が「同僚」的立場で、行動を共にしているのは、次のような動きがある。

 (その1)天平宝字六年(762)因幡国から帰京してのち、元の上司に当たる石川年足の葬儀に
     揃って参列。(石川年足 参考メモ・その3 参照方)
 (その2)天平宝字七年(763)藤原宿奈麻呂、石上宅継らとともに、恵美押勝暗殺謀議に係わる。
     家持は薩摩へ、今毛人は太宰府へ、飛ばされる。

 天平宝字年間が彼ら二人にとって志を同じくする「同僚」として、一番密接に行動を共にした時期で
あった。

 今毛人は、延暦八年(789)71歳で致仕することで、官人を全うでき、翌年平穏に永眠できたが、
家持は、延暦四年(785)陸奥多賀城で死去しても、間が悪くも藤原種継事件に連座したと見なされ、
官位剥奪、遺骨も埋葬ならず、息子と共に隠岐へ流罪となるという、生涯運に恵まれない人生であった。

 こういう逆境にあればこそ、「万葉歌」という文学が生まれ、彼の名を日本人の心の中に
記さしめたのかもしれない。その証拠に、大伴家持を知っている日本人は多いものの、佐伯今毛人なる
人物を認識している人は、極少数の知識人だけ。
 いずれが幸せなのか。自らの人生を犠牲にして永遠の名前を残すか、自らは安穏な人生を送るか、
いずれにも答えはない。
 
 参考として、二人の自筆署名を連署する。(参考資料・その1)


<2>小野毛人の人生

 小野一族の系譜は次のようになる。

  小野妹子 生没年不詳。推古朝の廷臣。姓(かばね)は臣。推古十五年(607)遣隋使。大礼冠
             (十二階冠位の第五階)。隋使裴世清を伴って帰朝。再度渡海時、僧旻(そうみん)、
              南淵請安ら学問僧・留学生を伴い、十七年(609)
       帰国。大徳冠(十二階冠位の第一階)に昇進。

 *小野毛人 妹子の子、毛野の父。遣隋使小野妹子の子で、天武朝に太政官兼刑部大輔(小錦中)
       (「続日本紀」和銅七年(714年)四月条)(大徳冠、中納言)
                               (太田亮「姓氏家系大辞典」S.60)。
             墓所は山城国愛宕郡小野郷(京都市左京区修学院町、崇道神社裏山)に、
       天武天皇六年(677年)造営されたらしい。(参考メモ・その2)参照方。
       慶長十八年(1613年)、石室から銅板墓誌を発見。

  小野毛野 毛人の子。毛人の墓誌は毛野による持統朝期の追納。
       (中務卿、大貳、従三、中納言、和銅七年(714年)四月一日薨)
                              (太田亮「姓氏家系大辞典」S.60)
       (後述、「小野毛人の墓誌」の項、参照方。)

  小野永見 毛野の子。(陸奥介、征夷副将軍)(太田亮「姓氏家系大辞典」S.60)
  小野岑守 778−830。永見の子。参議、太宰大弐、刑部卿。詩文に巧みで「凌雲集」などを
       撰し、「内裏式」編纂にも関与。
  小野 篁 802−852。岑守の子。参議、野相公。詩、和歌、書に長じ、「古今和歌集」
      「和漢朗詠集」に名を残す。小倉百人一首第十一番歌人。
       「わたのはらやそしまかけてこぎいでむとひとにはつげよあまのつりぶね」
       篁の系譜は、俊生ー美材、葛絃ー好古・道風、良真ー小町などに分かれてゆく。

 小野毛人の墓誌 寸法:長さ59cm 巾5.6cm 厚さ0.3cm
         刻字:(表)飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上
            (裏)小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬 
                        (注)丁丑:天武天皇六年(677)
       延宝元年(1673年)銅製墓誌函が作製され、宝永年(1705年)発見に関する文書が記された。
       元禄十年(1697年)再び埋納され、大正二年(1913年)墓所調査時、再度発掘され、
       昭和三十六年(1961年)「金銅小野毛人墓誌」として国宝に指定された。

<雑記帳・その1>

             佐伯今毛人(○)と大伴家持(●)の官位昇叙歴比較一覧
<
邦暦元号西暦年度佐伯今毛人大伴家持参考事項・関連事項
養老 二年718父中納言大伴旅人(54歳)誕生(1歳)養老律令完成
養老 三年719父人足、誕生(1歳)第八次遣唐使多治比県守ら帰朝拝謁
神亀 五年728太宰帥旅人に同行して赴任
天平 三年731大學に学ぶか。(13歳)父大納言旅人(67歳)薨去(14歳)藤原宇合ら6名参議とする
天平 六年734官人見習い(無位内舎人)
天平 九年737父人足・外従五位下・右衛士督・喪うか(19歳)疱瘡が流行,藤原氏族(房前・麻呂・武智麻呂・宇合)死亡
天平十二年740舎人任用。(正八位上か)(22歳)天皇の東国行幸に従駕藤原広嗣の乱、山背恭仁京遷都
天平十四年742主典、造甲賀宮司(24歳)紫香楽宮造営
天平十六年744大仏造顕に従事(26歳)難波京に遷都
天平十七年745従七位下昇叙、大倭金光明寺(東大寺)造営に関与(27歳)従五位下に昇叙(官職無し)(万葉集第一部編纂に従事)行基大僧正叙任、平城京復都、玄ム筑紫左遷
天平十八年<\/td>746従七位上昇叙、大倭少掾任用、金光明寺造物所(禄物賜下)・優婆塞司出向(28歳)宮内少輔。越中国守赴任。東大寺造営着工。
天平十九年747今毛人に改名(29歳)年初大病を患う。大伴池主との交遊東大寺大仏鋳造開始
天平二十年748造東大寺次官補任、大倭少掾兼任(30歳)越中国内巡行、橘諸兄使者田辺福麻呂を迎える造東大寺司設置(市原王知事)
天平勝宝元年749大倭介兼任、従五位下昇叙(七階越階)(31歳)従五位上に昇進 行基寂滅、東大寺行幸、陸奥より黄金届く、孝謙天皇即位、東大寺大仏鋳造完成、藤原仲麻呂・紫微中台長官任命
天平勝宝二年750正五位上昇叙(32歳)巻十九の秀歌を多く詠む。藤原清河遣唐大使・大伴古麻呂副使任命
天平勝宝三年751少納言に遷任、帰京途上、越前で池主に会う「懐風藻」成る
天平勝宝四年752橘諸兄邸宴歌大仏開眼、藤原仲麻呂政権確立
天平勝宝六年754太皇太后崩御・造山司(36歳)兵部少輔 遣唐副使大伴古麻呂ら帰国、鑑真和尚来朝
天平勝宝七年755造東大寺長官に昇任(37歳) 防人の検閲に当たり、防人歌を記録 東大寺講堂竣工
天平勝宝八年756聖武上皇崩御・造山司(38歳)天皇・上皇の難波行幸に従駕 橘諸兄左大臣辞任、聖武上皇崩御
天平宝字元年757従四位下昇叙、大膳大夫に転補か(39歳)兵部大輔ー右中弁前左大臣橘諸兄薨去、橘奈良麻呂の変(奈良麻呂、古麻呂、池主ら獄死)
天平宝字二年758因幡守に左遷淳仁天皇即位、仲麻呂専制体制・恵美押勝名乗る
天平宝字三年759摂津大夫転補(41歳)因幡国庁で万葉集最後の歌を詠む
天平宝字四年760皇太后崩御・山作司(42歳)紫微内相(太政大臣)恵美押勝太師となる。光明皇太后崩御
天平宝字六年762石川年足薨去・家持と弔問(44歳)因幡国守より信部(中務)大輔として 帰任。今毛人と石川年足弔問孝謙上皇,淳仁天皇を非難
天平宝字七年763造東大寺長官再任、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・大伴家持などとともに恵美押勝暗殺謀議、藤原良継の変により、解任(45歳)今毛人らとともに恵美押勝暗殺謀議鑑真和尚寂滅、道鏡少僧都に補任
天平宝字八年764営城監任命、太宰府赴任、 肥前守兼任(46歳)薩摩守へ左遷恵美押勝の乱、道鏡大臣禅師、孝謙上皇重祚(称徳天皇)
天平神護元年765太宰大弐補任、怡土城專知官兼任(47歳)道鏡太政大臣禅師となる
神護景雲元年767造西大寺長官補任、左大弁(49歳)太宰少弐西大寺造営本格化
神護景雲三年769因幡守兼任、従四位上昇叙(51歳)西大寺行幸、和気清麻呂大隅国配流(道鏡皇位事件)
宝亀 元年770播磨守兼任、天皇崩御・作山陵司、三度造東大寺長官兼任(52歳)民部少輔として帰京、左中弁兼中務大輔 正五位下昇叙称徳天皇崩御、道鏡下野へ配流
宝亀 二年771従四位下昇叙(54歳)
宝亀 三年772造東大寺長官辞任、左大弁、造西大寺長官兼任(54歳)左中弁兼式部員外大輔西大寺西塔竣工、道鏡没
宝亀 五年774播磨守解任(56歳)相模守ー左京大夫兼上総守
宝亀 六年775遣唐大使任命(57歳)衛門督(58歳)前右大臣吉備真備薨去
宝亀 七年776兄真守と佐伯院敷地購入、遣唐使渡航延期(58歳)伊勢守(59歳) 大伴駿河麻呂没
宝亀 八年777遣唐大使再出発するも、病のため、摂津職に滞留、左大弁辞し、散官静養(59歳)従四位上(60歳)遣唐副使進発、内大臣藤原良継薨去
宝亀 九年778正四位下昇叙
宝亀 十年779太宰大弐再補任(61歳)
宝亀十一年780参議昇進兼右大弁
天応 元年781正四位上昇叙員外帥藤原浜成にかわり、執行の勅命(63歳)右京大夫兼春宮大夫、正四位上、左大弁ー従三位昇叙(64歳)、光仁天皇崩御・山作司となる
延暦 元年782左大弁再任大和の守兼任、従三位昇叙(64歳)氷上川継謀反に連座して京外に移される、陸奥按察使鎮守将軍兼任、多賀城へ赴任氷上川継事件、藤原種継参議
延暦 二年783皇后大夫兼任(65歳)中納言(従三位)拝命
延暦 三年784長岡遷都視察使、造長岡宮使、参議補任(66歳)時節征東将軍、息大伴永主従五位下山背国長岡に遷都
延暦 四年785正三位(大納言)昇叙、民部卿兼任、佐伯院伽藍 完成(67歳)中納言家持多賀城で薨去、没後種継ぐ事件に関係して、永主とともに遺骨として隠岐に配流 藤原種継暗殺
延暦 五年786皇后大夫、民部卿、大和守解任、太宰帥兼任(68歳)佐伯真守造東大寺長官より転出
延暦 七年788空海上京
延暦 八年789致仕(71歳)佐伯真守従四位上昇叙
延暦 九年790薨去(72歳)長岡京の造営遅滞

佐伯今毛人と大伴家持の自筆書名の筆跡(いずれも名前の部分のみ自署)


<雑記帳・その2>小野毛人の墓所

(その1)(京都市の案内板)小野毛人墓
      天武朝の官僚であった小野毛人は、最初の遣隋使小野妹子の子で、天武6年に没したと
      される。慶長18年(1613)、崇道神社境内の上高野一帯を見渡す山腹の墓から鋳銅製の
      墓誌が発見され、この墓が小野毛人を埋葬したものであることが明らかとなった。
      大正三年(1914)、墓誌は国宝に指定され、現在京都国立博物館に保管されている。
      墓は大正三年に調査され、その結果、板石で作られた石室は長さ約2.5メートル、
      幅および高さ共約1メートル、当初は封土が施されていたものとみられる。
      この墓は、市内に残る奈良時代前期の数少ない遺跡であり、当時の墓制を知る上でも
      貴重なものであることから、昭和59年6月1日京都市指定史跡に指定された。
(その2)小野神社 小野毛人墓所への山道の参道入り口右手にある。祭神は、小野妹子、小野毛人。
(その3)小野毛人朝臣之塋
      小野毛人朝臣墓在山城愛宕郡高野村崇導神  社後山林中壙内舊有金銅墓誌一枚云飛鳥浄
      御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿  位大錦上小野毛人朝臣之墓營造歳次丁丑年
      十二月上旬即葬慶長年間始出土既復蔵諸舊(?)大正三年官(完)墓志為國寶*掩而尓不復蔵
                       (雨+匁)   (ウ冠+之)   (口+ユ)
      志村民恐遺跡之或煙滅建石墓上以識之四年  三月成

                               <添付 写真集三葉 参照方>

<雑記帳・その3>石川年足の墓所

 今毛人と家持が「同僚」的立場で、行動を共にしたのは、前述のように、天平宝字六年(762)
 因幡国から帰京してのち、元の上司に当たる石川年足の葬儀に揃って参列したことでしょう。
 石川年足は佐伯今毛人と同じように、墓誌を遺した点でも共通しており、当時、かなり名を成した人は、
 誰しも墓誌を埋設したのでしょうか。

(その1)石川年足の略歴
     688 (朱鳥三年) 石足(いわたり)の長子として誕生。
     740 (天平十二年)従五位上(藤原仲麻呂傘下に入る)
     748 (天平二〇年)参議叙任
     753 (天平勝寶五年)従三位兼太宰帥
     757 (天平宝字元年)兵部卿兼神祇伯 (橘奈良麻呂の乱)中納言叙任
     759 (天平宝字三年)中納言兼文部卿神祇伯
     760 (天平宝字四年)御史大夫兼大納言
     762 (天平宝字六年)75歳で死去。

 *石川年足の官僚人生は、藤原仲麻呂の昇進と共にあり、二つの幸運あり。
  (イ)藤原南家武智麻呂の兄弟(兄豊成・大納言、弟仲麻呂・参議)が朝廷で勢力を伸ばし
     始めた時期に参議に成れたこと。
  (ロ)藤原仲麻呂失脚、天平宝字八年(764)斬殺2年前、前に他界したこと。
     (死亡が2年遅れていたらどんな連座の罪をかぶせられたか)
  石川年足は、仲麻呂から羽振りの良いところばかりを頂戴して、生涯を終えたということで、
  誠にうまく時流に乗れた「ついていた官人人生」であった。
 *父石足、本人年足、子息名足と「足」を継承している。
  蘇我馬子ー倉麻呂ー牟羅子(連子)ー安麻呂(安丸)ー石足という系譜で、安麻呂の妹・賀茂は、
  藤原不比等室で、藤原房前母となっている。すなわち、石足の出世もおばさんのお蔭というわけ。

(その2)石川年足の人物想定

 年足の性格は「続日本紀」や「河内名所図会」など、如何にも実際に会ってきたかのような人物説明
 「卒性廉勤にして、治体に習ひ家を興し、少判事に補す。」
 「公務の間、ただ書を見ることを悦ふ」しかし、「故居さだかならず」と。

 「続日本紀」の上司と部下の関係を伝える。
 「・・・石河朝臣年足薨時、年七十五、詔遺摂津大夫従四位下佐伯宿禰今毛人、信部大輔従五位上
  大伴宿禰家持 吊賻之、・・・」
 「吊賻」とは、「吊」は、「弔」の俗字で、同じ「ちょう」と読み、「賻」は「喪主を助けるために
  金品を贈って弔うこと」で「ふ」と読む。現代で云う「香典」を持って弔問した、と。
  (現代の風習と全く変らない日本人の行動。現代と同じように、黒い喪服を着て、弔問したか。)
  (家持はどんな気持ちでかっての上司年足を偲んだのか。)

(その3)石川年足の墓誌                          <添付 参考地図と写真 参照方>
  (イ)墓所
     天平宝字6年(762)亡くなった後、摂津国嶋上郡真上光徳寺村(現在の大阪府高槻市
     真上町内)の丘陵に葬られた。
     何故奈良の都の高級官人が摂津国の村里に埋葬されたのか、この摂津の地は、古くから
     開かれた郷であったことが周囲の数々の歴史的遺跡群より推察することが出来る。
     すなわち当地から約500mほど南側は、東西に西国街道が走っており、芥川を介して
     対岸には今城塚古墳、或いは継体天皇三島藍野陵が連なり、陵の前方後円墳の中心線を北へ
     延ばした所にある阿武山古墳には大職冠藤原鎌足公廟が確認されている。
     石川年足が埋葬された頃は、奈良の都からは離れているものの、藤原氏族の勢力が十分に
     及んでいたところで、年足は藤原仲麻呂の勢力下にあって、この地の何かに縁故があったか。
     (仲麻呂の所領地の管理をしていたか、自分に自由に出来る領地がこの地に認められていたか)
  (ロ)墓誌
     没後1058年経った江戸期文政三年(1820)正月庄屋田中六右衛門屋敷の裏山から
     墓誌が発見された。
     墓誌(銅板に鍍金、縦29.6cmX横10.3cmX厚0.3cm)の銘文に、年足の
     略歴刻字あり。
     「武内宿禰命の子宗我石川宿禰命の十世孫にあたる左大弁石川石足の長子で御史大夫神祇伯を
     歴任して、天平宝字六年九月没し、摂津国嶋上郡白髪郷酒垂山を墓地とした」
     この墓誌は発見後高槻藩領主永井飛騨守の目付に取り上げられましたが、明治三年永井家より
     田中録十郎氏に下付されたので、小祠を建て年足の霊を祀り社宝としたとのこと。
      明治44年4月17日国宝に指定。
     (出典:大阪府学務部「大阪府史跡名勝天然記念物・第二冊」(昭和49年9月)清文堂出版)

(その4)石川年足の万葉歌 
 「仲麻呂卿」一途に官途に励んだ年足も、「公務の間、ただ書を見るを悦ふ」と云いつつも
 作歌の気力も示したようです。式部卿石川年足朝臣として
 「天にはも 五百(いは)つ綱延ふ(はう)萬代に国しらさむと 五百つ綱延ふ」(巻19・4274)
 何となく民間歌謡を借りてきてそのまま自分の歌にしたのでは、と思われるような歌語の節回し。
 実直な文書管理官僚の面影が浮かんでくるようです。


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平成26年5月25日  *** 編集責任・奈華仁志 ***

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