平成社会の探索

<「知恵の会」への「知恵袋」>

ー第117回知恵の会資料ー平成25年7月28日ー


(その62)課題「こおり(氷)」
「函館氷」の中川嘉兵衛と「龍紋氷室」の山田啓助
ー本邦初の天然氷販売ー
                                 目     次

                               <まえがき>「夏氷」への渇望

         <1>「天然氷」あれこれ <2>「函館氷」の歴史と特徴 

         <参考メモ1>中川嘉兵衛の略年譜 <参考メモ2>山田啓助の略年譜
              <参考メモ3>明治天皇御集より  <参考メモ4>「かき氷」あれこれ
              

<まえがき>「夏氷」への渇望

 近世社会文化レベルを評価するための一つの指針として、「暑さや寒さに生活環境が如何に対応出来て
いるか」ということが挙げられる。「暑さ」への対応としては、冷房設備があり、冷蔵機器類の普及度合いが、
その社会の文化レベルを評価することになろう。これらの設備や機器類によって現代社会の生活環境は拡大し、
より快適な環境を体験できるようになった。

 日本では、昭和30年以前、これらの環境はほとんど存在しなかった。「夏場の冷たい環境」として、
一般庶民はせいぜい木製保冷箱を自転車の荷台に積んだ「アイスキャンデー」売りの風景を眼にするぐらい
であったろう。
 
 家庭用電気冷蔵庫の普及の歴史を辿ると、まず1930年に東芝の前身芝浦製作所製の米国GE製品コピー物が
あったが、高価なため普及せず、1950年代までは「氷式冷蔵庫」と称された上部に納めた氷塊で冷やす
木製保冷箱が主体であった。

 1950年代後半(昭和30年代)の高度成長時代に「電気冷蔵庫」は、白黒テレビ受像機・洗濯機と共に
三種の神器の一つとして爆発的に普及した。1970年代以降は、電気冷蔵庫の機能も徐々に高度化し、
自動霜取り機構付きの2ドア式冷凍冷蔵庫が一般化し、ひいては冷凍食品の普及を促した。
 さらに、1980年代からはマルチドア化して野菜室、製氷機、チルド室(氷温室)などを備えたり、
脱臭や急速冷凍などの付加機能が多様化した電化製品メーカー各社の商品が性能を競った。

 夏場に氷が自由に手にできることが如何にありがたいことか。電気冷蔵庫が手元になかった時代の不自由さを
思うと、現代は「暑さ環境」に対して豊かさと贅沢さが溢れている最高の生活環境といえよう。
 もはや「夏氷」に対する渇望さえなくなり、「氷があって当たり前」という、誠に横柄な感覚であり、
文明に鈍感になっている証拠。
 先人の「夏氷」を求めた涙ぐましい努力の一端を「函館氷」の歴史に振り返ってみた。

<1>「天然氷」あれこれ

1.天然氷の歴史
 今から1600年ほど昔の古墳時代に奈良市郊外の都祁村の地で猟をしていたある皇子が当地に氷室を発見し、
氷室の氷を天皇に献上して喜ばれたので、以来、古代律令国家では「蔵氷」と「賜氷」の制度ができたという。
 「延喜式」主水司には、氷室は21カ所(山城、大和、河内、近江、丹波の計五カ国)記されている。

 平安貴族社会での事例としては、清少納言が「枕草子」に「削り氷の甘いものをかけて食した」とあり、
また紫式部が「源氏物語」に氷塊で涼を取る風景や振る舞う記述を残している。(<参考メモ3>参照方)

 その伝統は、江戸幕府へも引き継がれ、氷室の氷が将軍に献上される儀式に繋がっている。
 幕末頃はアメリカからはるばる輸入された高価な「天然氷」が治療分野で使われていた。
 日本人による国産の天然氷は、北海道函館・五稜郭での天然氷を始めた中川嘉兵衛の事業を待たねば
ならなかった。彼は天然氷から機械製氷の事業も創業している。
 ちなみに現代のコンビニエンスストアの前身は、米国南部における夏場の製氷販売業であるという。

2.天然氷の販売
 *横浜で外国人相手に牛肉商を営んでいた中川嘉兵衛は、米国人ヘボン氏から、氷は食料品保存と医療用に
  不可欠であり、事業として将来性が大きいことを聞かされ天然氷を事業とすることを決意したという。
  (<参考メモ1>参照方)
 *1861年(文久元年)富士山麓、諏訪湖、日光、東北で採氷を試みたが失敗した。
 *1869年(明治二年)函館五稜郭視察、天然氷採氷に有望地であることを確認した。五稜郭外濠には
             亀田川清流が大量に流入し、良質の氷ができた。
 *1870年(明治3年)北海道開拓使より五稜郭外濠17000坪を7年間の使用権を獲得。600噸の
             氷を船便で横浜に送る。東京永代橋開拓使倉庫を借用し、貯氷庫を造り、
             「五稜廓氷」または「函館氷」として一般に販売。
 *1878年(明治11年)善良にして飲食に適する」(東京司薬場水試験表)、好評を博する。
             後に宮内庁御用達にもなる。米人商社がアメリカボストンから帆船で半年かかって
             輸入していた「ボストン氷」、中国からの「天津氷」と激しい販売合戦の末、
             勝利を収める。
             京都の山田啓祐氏が氷室販売店『龍紋氷室』の営業開始。(<参考メモ2>参照方)
             函館北方七飯村(ななえむら)大沼付近で採氷し、関西方面で販売開始。
 *1883年(明治16年)機械氷製造会社設立、人造氷が販売されるようになる。
 *1887年(明治20年)天然氷の採取が各地で行われ、全盛期を迎える。
 *1892年(明治25年)山田啓祐氏は中川嘉兵衛が放棄した五稜郭採氷権を得て、関東方面に販売活動を広げる。
 *1897年(明治30年)天然氷の地位は徐々に後退していく。
 *1898年(明治31年)山田啓祐氏も「天然氷の命脈の永からざるを察知し」機械製氷に進出。

3。天然氷の値段
  1886年(明治19年)当時、45キロ当たりの産地別価格
  上等 五稜郭氷 90銭   中等 日光氷 75銭   下等 玉川氷 60銭
   (白米小売価格 45キロ 2円70銭) お米の三分の一から四分の一の価格相当

(出典:北陸冷蔵株式会社「北陸冷蔵70年のあゆみ」より、『京都氷業史』参照。)
 

<2>箱舘の歴史と「函館氷」の特徴

(1)「ボストン氷」
  安政六年・1859年5月、神奈川・長崎とともに箱舘開港と同時に、主として米国ボストンから天然氷が
 輸入され始め、当初は居留外国人の飲料品や食肉保存用あるいは、外国人医師の治療用に用いられていた。
 しかし長路の航海輸送で氷の目減りが激しく、非常に高価な品物であった上に、外国居留商人が独占して
 暴利をむさぼっていた。
  こういう状況下で、国内採氷業に注目したのが、愛知県出身中川嘉兵衛であった。開港した横浜へ
 やってきて、英国公使館の雑役を行いながら、やがて居留外人の食料や牛乳販売で、財を成していった。
 キリスト教布教のために来日した米国宣教師から衛生や食品に関する知識を得て氷の将来性を認識する。
 元治元年・1864年横浜で氷室建設許可を得、富士裾野採氷に着手している。
  以降、甲斐国鰍沢、秩父山陰、赤城山下流、日光・釜石・宮古・青森・秋田各地で採氷し横浜へ
 搬入したが、品質がボストン氷に劣り、事業としては失敗した。

(2)五稜郭の採氷
  函館における採氷は、文久年間(1861ー63年)に池から切り出されたという記述があり、さらに慶応年間
 (1865ー68年)に居留英国人によって近隣の河川を利用した事例があるという。箱舘開港とともに採氷は
 有る程度箱舘近辺で行われていたと見なされる。
  一例、明治三年柳田藤吉は、東京への生魚の輸送に願成寺川の天然氷を利用したという。
  中川嘉兵衛は明治3年・1870年冬、五稜郭の天然氷に着手し、箱舘の居留外国人の助けを得て、翌年の
 厳冬期に良質の結氷をみて、豊川町に氷室を建設することによって、事業着手8年目にして、亀田川を水源と
 する好水質五稜郭氷を事業化することに成功した。

(3)函館氷の販売
  明治4年・1871年夏、五稜郭産天然氷が京浜市場に登場。1871年・670噸、1872年・1061噸と倍増し、
  横浜や東京で販売。
  明治6年・1873年、ボストン氷を扱っていた外国人商社・ボルベッキ商会へ500噸売りつけ、太平洋郵船会社へ
  1000噸の売買約定が成立し、ボストン氷を駆逐することに成功した。

(4)氷専売の出願
  中川嘉兵衛は、明治6年・1873年専売願書を開拓使函館支庁へ提出し、五カ年の専売許可が下された。
 拠点を東京へ移し、東京箱崎の開拓使用地に氷室を建設し、五稜郭周囲の外堀私有地化も申請まで画策している。
 以降、明治22年・1889年にその使用権を失うまで五稜郭の採氷事業は続いたことになる。

(5)販路の拡大
  函館氷の東京や横浜での販売量の推移   
    明治年  5年  10年   15年   19年
    数量トン 756 1407 3026 3802

  明治13年・1880年頃から「龍紋氷」ブランドの販売で名を成した山田啓助が直接函館で買い付けて
 関西方面へも出荷しだし、明治10年代末では販路も関東市場の東京、横浜を始め、横須賀、浦賀、名古屋、
 京都、大阪、神戸、下関と全国の主要都市へ広がっていった。
  この間の関連市場事情
  *国内海運網の整備 *氷の需要増と採氷高の順調な増加 *東京上野勧業博覧会出品と龍紋褒章受章

(6)同業者の出現
  明治11年・1878年、中川の氷専売期間が満了し、以降函館市中や近郊で採氷業を試みる者が続出した。
 さらに本州各地でも製氷業者が続出し、東京・玉川、栃木・佐野と今市などであったが、粗悪品の販売も
 氾濫し、法律での取り締まり強化がなされた。
  明治16年・1883年には、遂に東京で機械製造による人造氷の会社も登場した。


(左)「龍紋氷室」の宣伝ビラ(明治15年頃)(出典:長塩哲郎「京都氷業史」全国事業新報社(1939年1月))
(右)五稜郭の氷切り作業風景(出典:佐藤勘三郎「函館市誌」函館日日新聞社(昭和十年十二月二十日))

 *函館氷の採氷作業               (参考資料:函館市史 第2巻 
  明治11年・1878年の採氷作業例               第4編 箱舘から近代都市函館へ
  伐氷時:一日約100人、氷室までの運搬:一日約800人     第9章 産業基盤の整備と漁業基地の確立
  一人当たりの賃金:一日につき24銭            第1節 諸工業の始まり
                                   3.採氷業と中川嘉兵衛  より)
 *中川嘉兵衛の「函館氷」事業に係わった人物
  「中川嘉兵衛は東京周辺で製氷に取り組みましたが、なかなか思うようにいかず、資金にも困り、
   協力者を募りました。そのときの一人が岸田吟香でした。岸田は日本で最初の新聞を発行したほか、
   運送業や売薬業などに手広く活躍した人でした。画家岸田劉生の父でもあります。岸田はヘボンの助手を
   していた関係から、この二人の結びつきがうまれたのでした。ちなみに、大隈重信宛に提出された
   中川・岸田連名の氷献上についての資料が早稲田大学図書館に保管されています。
   岸田のほか、東京にいた河津祐邦も有志として加わっています。中川は、東京周辺での失敗の後、
   適地を求めて北上しますが、明治二年の青森での試みは、河津の周旋によっています。
   最終的に中川が函館に目を向けたのは、元箱舘奉行所組頭であった河津の助言によったのではないかと
   思われます。」 (「市政はこだて」No.533 1984.2 菅原繁昭)

 (7)山田啓助氏以降の函館氷事業
   「五稜郭の製氷は中川嘉兵衛之を継続して来たが、明治二十三年外濠借り入れが入札となった結果、・・・・
    二十五年山田啓助之に代わり爾後継続し、・・・・
   (明治)四十二年の区内製氷産額壱萬壱百噸、價額弐萬六千圓で、内七千噸を道外に移出し、三千百噸を
    道内に販売した。
    また亀田、湯ノ川等近村に製氷所を設ける者増加しその数二十余箇所に達し、其の製氷は多く函館を
    経て各地に販売された。」(出典:佐藤勘三郎「函館市誌」函館日日新聞社(昭和十年十二月二十日))

 参 考 メ モ 

<参考メモ1>中川嘉兵衛略伝

中川 嘉兵衛(なかがわ かへえ)(1817年〜1897年)製氷事業の略歴 
 国内で初めて採氷を試み、失敗を重ねながらも五稜郭の外壕で天然氷「函館氷」を採氷した製氷家。
 
 文化14年(1817)  三河国額田郡伊賀村(現愛知県岡崎市)生まれ。
  天保 4年(1833)  京都で厳垣松苗翁に漢学修学。横浜開港時、江戸に出、英国公使厨丁となる。
         牛乳店や衛生・食品など洋式新事業を手がけ、製氷事業も有望であると着眼。
         当時の氷の用途:横浜居留外国人の飲料品や食肉保存用として利用され、
         外国人医師が治療用に利用。主にアメリカ・ボストン周辺の天然産のもので、
         長時間航海輸送品で目減りが激しく非常に高価であった。
 文久元年(1861)  国内初の採氷を富士山麓において試み失敗。
 文久 3年(1863)  信州諏訪湖、元治元年日光山中、慶応元年奥州釜石、2年青森県堤川と試みた。
 慶応 3年(1867)  箱館・上磯の有川に採氷池を設けたが失敗。
 明治元年(1868)  ブラキストンの忠告に随い英国人ジョージを雇い入れ、五稜郭の外壕で
                  初めて天然氷約500トンの採氷に成功。
                  五稜郭外壕水は水質が極めて清冽で運搬に便利であった。
  明治 4年(1871)  夏,五稜郭産氷(函館氷)が京浜市場に登場しはじめ、年移出量670トン。
 明治 5年(1872)  1061トン、産出量倍増。イギリス、アメリカの外国商船で横浜に輸送された。
         新池の開削費や京浜地方への運賃、市場でのボストンアイスカンパニーとの販売競争、
         暖冬、大風などの自然条件による被害で企業的には辛酸をなめた。
         しかし、開拓使の資金援助をとりつけ、米国から伐氷機を購入し、品質の向上を計り、
         ついにボストン商会の駆逐に成功。
 明治14年(1881)  内国勧業博覧会出品し賞牌を受けた。その賞牌の表面に龍の紋章を附したことから
        「龍紋氷」と呼ばれ、函館名産に成長。(京都氷業・山田啓助の事業に係わる)
 明治23年(1890)  五稜郭外壕貸与規則が変更され競争入札になる。亀田郡神山村製氷池を新設、事業を拡張して
         晩年までこれを継続した。
 明治29年(1896)  北原鉦太郎に事業を譲り東京に居を移した。
                 嘉兵衛は性篤実で、人に対して謙譲かつ慈善を好んだ。
                  着手した事業は製氷の外、苹果(へいか、りんご)の栽培、鱈肝油の製造などであった。
                  また明治12年開拓使庁より物産大取次を命じられ、専心一意他を顧みなかった。
 明治30年(1897)  東京越前堀の自宅において歿。享年80歳。 


(出典:「ステップアップ」vol.95(1997.2)より
(写真・資料/「函館市史」第2巻、「北海道史人名辞典」第3巻、「北海道歴史人物事典」)

(左)中川嘉兵衛(出典:佐藤勘三郎「函館市誌」函館日日新聞社(昭和十年十二月二十日))
(右)山田啓助(出典:長塩哲郎「京都氷業史」全国事業新報社(1939年1月))

<参考メモ2>山田啓助の略年譜

山田 啓助(やまだ けいすけ)(1844年〜1912年)の略歴 
                   (出典:長塩哲郎「京都氷業史」全国事業新報社(1939年1月))
 中川嘉兵衛の五稜郭外壕の天然氷採氷事業を継承し「龍紋氷」を販売した製氷家。
 
 弘化元年(1844)  近江国蒲生郡馬淵村(現滋賀県近江八幡市)生まれ。宮村平太夫五男。
         9歳で父に死に別れ、叔父山田家に引き取られる。
         12歳で伊勢松阪へ丁稚奉公に出る。22歳まで伊勢伊賀間の行商人を手伝う。
  慶応 3年(1867)  兵庫開港の時勢に応じて、神戸へ乗り込に、製茶貿易商の元に住み込む。
         新式銃・ゲーベル筒を輸入し、某藩への売り込みに成功し、三百両の利益を得、これをもとに
         貿易のブローカーとなった。

         伯父の親戚筋にあたる京都有栖川宮家の家臣山田奉膳家の養子となり、京都に移住する。

         京都市内寺町通二条上ルで洋灯(ランプ)屋を開業する。さらに貸洋灯の制度も創業した。

 明治4年(1871)  28歳の時妻女を迎える。有栖川家関係者で舎蜜局長の明石博高氏より新飲料水の知識を得る。	
         「リモナード」という果汁エキスの元祖・レモン水の缶詰卸売りを始め、清涼飲料水販売の
         嚆矢となる。
 明治9年(1876) 函館天然氷が大阪を経由して京都に入ってきた。
 明治10年(1877) 天然氷を扱うようになるが、上手く商売にならなかった。
         京都市内の同業他社(奥田・樋口)と共同で、寺町通り六角に天然氷貯蔵倉庫を設営する。
 明治11年(1878) 京都府庁職員で化学者の池田正三氏より、氷の有用性(夏場の人命救助にかかわる)を聞かされ
         氷を重要な商品と考え、氷に生涯を捧げんと考え始める。
 明治12年(1879) 神戸で氷を仕入れる。
 明治13年(1880) 函館に赴き、三百噸余り買い入れ、船運で神戸の弁天浜に陸揚げ、運送店の倉庫を改造して、貯蔵。
         京都へは神戸より大津まで開通した鉄道便で送氷した。冬期貯蔵物は淀川から高瀬船便によった。
         爾来、明治37年まで毎年五六百噸の氷を函館から買い入れ、製氷池の探検をなし、販路拡張に
         尽力する。
 明治16年(1883)  家号「龍紋氷室」と制定。(生まれが弘化元年「たつ」年のため)
 明治17年(1884) 三年間の間に、京都・神戸・大阪・大津へ支店を出し、貯氷倉庫を建てた。
 明治23年(1890) 大阪凍氷株式会社買収し、河内・生駒山地区の製氷権を掌握。京都では小野郷・八瀬地区の
         氷池を経営。
 明治25年(1892) 陸軍省所轄函館五稜郭外濠水面使用権領有し、函館支店を設置、大貯氷庫8棟建設。
 明治26年(1893) 東京支店設置、石作大貯氷庫建設。「龍紋氷」大躍進。
 明治27年(1894) 機械製氷の機運が勃興する。
 明治31年(1898) 京都市上京区岡崎町に米国製一昼夜二十噸(一カ年七千噸)能力の機械製氷工場建設。
         各地に貯氷庫を建設。
 明治40年(1907) 大阪支店に一昼夜五十噸(一カ年壱万七千五百噸)製氷工場建設。
 明治44年(1911) 東京支店に一昼夜六十噸(一カ年弐万一千噸)製氷工場建設、その後、神戸支店、京都支店にも、
         増設した。
 明治45年(1912) 2月、西須磨別邸にて六十九年の生涯を閉じる。
         9月、龍紋氷製造第一期計画完了。一カ年機械製氷生産高:九万八千噸。その他、天然氷は、
         五稜郭・大沼湖、内地各地の産額は約五万噸で、「龍紋氷」の明治四十五年の生産能力は
         十五万噸に達した。

 全盛期の「龍紋氷室」体制
      本店 京都市上京区寺町通り二条南  支店 東京、大阪、京都、神戸、大津、奈良、函館
    機械製氷工場 東京・大阪・京都・神戸  分店 東京6店舗、大阪6店舗、京都3店舗、神戸2店舗

 山田翁の製氷以外の事歴 材木業、倉庫業、海運業などにも、一時尽力している。
 

<参考メモ3>明治天皇御集より

「夏しらぬこほり水をばいくさ人つどへるにはにわかちてしがな」
(明治天皇御集 巻中 明治三十七年)
炎熱の日、出征軍人の労苦をおぼしやり給へる御製。この大御心を承りて、誰か感激せざらむ。
[謹解]夏のものとも思はれぬこの氷水をば、一滴の水だに乏しいと云ふ戦場にある軍人達に分けて    飲ませたいものである。    氷をご覧ぜさせられて直に炎天にさらされて敵と対抗しつつある出征軍人の労苦をおぼしやり給へる、    ご同情のあふれた御製にてこれを拝誦するもの誰かは感泣せざらむ。                     (千葉胤明「明治天皇御製集」大正11年9月5日 大阪毎日新聞社) 明治37年頃になると、天然氷は衰退の一途を辿っていた頃であることより、明治天皇が召し上がられた「夏氷」は、 多分「機械氷」の近代文明品であったと推測する。  氷を詠むことによって当時日露戦争の戦地で戦っている兵士へ思いやったのであろう。夏氷が兵士を勇気付ける ことになれと。

「明治天皇御集」より「夏氷」のかるた絵

<参考メモ4>かき氷・あれこれ

(その1)清少納言の「かき氷」ー「枕草子」第四十二段より、「あてなるもの(上品なもの、良いもの)」として。
     「上品なものと言えば、薄紫の袿(うちかけ)の上に着た白のかさねの上着。鳥の卵。

      削り氷にあまずらを入れて、新しい金属製の碗にもったもの。
    (けつりひ)(蔓草の一種、あまかづら、蔦の樹液または甘茶蔓の茎の汁)
      水晶の数珠。藤の花。梅の花に雪がふりかかった光景。たいへんかわいい子どもが、
      いちごなどをたべている様子。」
     
     何とも贅沢な食べ物で、宮廷ならではの風景でしょう。にっこりしている清少納言の様子が浮かぶところ。
     ちなみに、橋本治「桃尻語」訳では、つぎのようになっている。
   
      「カキ氷にシロップ入れて、新しい銀のカップにいれたの!」
     
(その2)紫式部の「かき氷」ー「源氏物語」
   (1)常夏巻(二十六巻)冒頭部分で、光源氏宅では、炎暑の日に取り巻きの若い人々が集まって
     「いと暑き日、・・・・氷水(ひみづ)召して、水飯など、とりどりに、さうどきつつ食ふ。・・・」
     (氷の水、水飯などを大騒ぎして食べた。)

     (2)蜻蛉巻(最後から三番目の巻)より
     「蓮の花の盛りの頃」かつ「いと暑さの耐へがたき日」に法華経八講の法事が終わり、
      後片付けをいる女房達は、持ち込まれた氷(ひ)を「もて騒ぐ」風景が、
      それらを垣間見る薫の目から見た風景として描写されている。

     「氷を物の蓋にをきて割るとて、もてさはぐ人々、大人三人ばかり、童(わらは)といたり。
      唐衣(からぎぬ)も汗袗(かざみ)も着ず、みなうちとけたれば、御前とは見給はぬに、
      白き薄物の御衣(おんぞ)着かへ給へる人の、手に氷(ひ)を持ちながら、かくあらそふを
      すこし笑み給へる御顔、言はむ方なくうつくしげなり。」

      与謝野晶子訳文を引用しますと、(与謝野晶子「全訳源氏物語」蜻蛉より)
     「氷を何かの蓋の上において、それを割ろうとする人が大騒ぎしている。大人の女房が三人ほど、
      それと童女がいた。大人は唐衣、童女は袗(かざみ)も上に着ずくつろいだ姿になっていたから、
      宮などの御座所になっているものとも見えないのに、白い羅(うすもの)を着て、手の上に
      氷の小さい一切れを置き、騒いでいる人達をすこし微笑みをしながらながめておいでになる方の
      お顔が、言葉では言い表せぬほどにお美しかった。」

(その3)現代の巷の「かき氷」風景
      (1)日本の夏の風物詩、「かき氷」あるいは「夏氷」は、「ぶっかきこおり」「みぞれ」「こおりみず」
     「かちわり」「かちわりごおり」などと呼ばれる。
   (2)その昔はガラスの器に細かく削った氷を盛りあげ、シロップや飴あるいはコンデンスミルクを
      かけた物であったが、最近では、アイスクリーム用カップと同じようにカップ入のもの、
      あるいは袋入りの商品もある。
   (3)銘柄としては、砂糖をふりかけた「雪」、砂糖蜜をかけた「みぞれ」、「小豆餡をかけた「金時」、
      いちご・レモン風味のシロップをかけたものなど。
   (4)盛り上げる器も、和風の透明ガラスや切り子広口器、洋風の細い脚がついたガラス器、発泡スチロール、
      紙コップやプラスティックカップまで、多様化している。

   (5)*明治二年(1869年)横浜馬車道の氷水店で発売され始め、明治四年(1871年)中川嘉兵衛の
       「函館氷」が京浜市場に出回りだした。
      *明治十一年(1878年)より衛生検査に合格した氷の生産地・販売者名を明示した幟や看板を
       掲示することが義務づけられた。その名残りが現在の店頭に見かける幟の色々か。
       定番は「氷」字が千鳥と波の上に躍っている図柄である。
      *明治二十年(1887年)氷削機発明(村上半三郎特許取得)
      *明治三十年(1897年)天然氷に代わって、機械製氷が主流となる。
       天然氷供給元:秩父(阿左美冷蔵)、日光(四代目氷屋徳次郎・松月氷室・三ツ星氷室)、
              軽井沢(渡辺商会)
      *昭和初期(1930年頃)氷削機普及し、「かき氷」一般化。
   
    (6)*「かき氷の日」:7月25日ーな・つ・ご・おりー(日本かき氷協会)


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平成25年7月1日 *** 編集責任・奈華仁志 ***

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