平成社会の探索

<「知恵の会」への「知恵袋」>

ー第116回知恵の会資料ー平成25年6月9日ー


(その61)課題「くだもの(果物)」ー常世国・あの世への橘ー
(<ときじくのかぐのこのみ>(非時香果)を求めて)
                                 目     次

                               <まえがき>「常世のくに」への旅立ち

   <1>「果物」あれこれ <2>万葉集の「田道間守」歌 <3>果祖「田道間守」を祀る中嶋神社

         <参考メモ1>田道間守の伝承と略年譜 <参考メモ2>各地の田道間守の神様
                  <参考メモ3>小学唱歌「田道間守」<参考メモ4>垂仁天皇陵    

<まえがき>「常世のくに」への旅立ち

 田道間守(たじまもり)(古事記「多遅麻毛里」・日本書紀「田道間守」)は垂仁天皇の命を受けて、不老不死の
霊果を求めて海外に渡った。常世国の非時香果(ときじくのかぐのこのみ)を十年の歳月をかけて持ち帰るが、天皇は
すでにおられず田道間守は悲しみのあまり天皇の御陵の前に非時香果を献じて号泣して殉死したという。
 その跡に生えてきた樹が橘(ミカン)であったことから、明治40年に柑橘や菓子業の祖神として祭られるように
なったという。
 常世の国への旅で得た不老不死の霊果とは、結局あの世への旅立ちの切符になったことになる。

<1>「果物」の「たちばな」

  果物「食用になる果実」でフルーツ(英: fruits)、水菓子(みずがし)木菓子(きがし)とも言われるが、
強い甘味を有し、調理せずそのまま食することができるもので、狭義には樹木になるもののみを指し、多年草の
食用果実を果物とする場合もある。
 果物は大別すると、1.落葉性果樹 2.常緑性果樹 3.熱帯果樹になり、
 1.仁果類 :カリン、ナシ、リンゴなど。 
   核果類:アンズ(杏、杏子、アプリコット)ウメ(梅)サクランボ、スモモ、モモなど。 
   殻果類:アーモンド、クリ、クルミ、イチジク、カキ、キウイフルーツ、グミ、ザクロ、ナツメなど。 
 2.常緑性果樹
   ミカン科のミカン属、キンカン属、カラタチ属などに属する植物の総称。カラタチ以外は常緑性。
   オリーブ、ビワ、ヤマモモなど。 
 3.熱帯果樹 
   トロピカルフルーツ。亜熱帯から熱帯に分布する常緑性果樹。
 ここでは、常緑性果樹としてのミカン属(カンキツ属)の総称・柑橘類を取りあげるが、日本では「ミカン」や
「タチバナ」に代表されるミカン科ミカン亜科のミカン連(カンキツ連)のことである。

 タチバナ(橘、Citrus tachibana)は、ミカン科ミカン属の常緑小高木で、別名はヤマトタチバナ、ニッポンタチバナ。
 日本に古くから野生していた日本固有のカンキツで、和歌山県、三重県、山口県、四国、九州の海岸に近い山地に
まれに自生し、静岡県沼津市戸田地区(旧戸田村)に、国内北限の自生地が存在する。
 その実や葉、花は文様や家紋のデザインに用いられ、1937年制定された文化勲章のデザインに採用されている。
 
 樹高は2ー4メートル、枝は緑色で密に生え、若い幹には棘がある。葉は固く、楕円形で長さ3ー6センチメートルほどに
成長し、濃い緑色で光沢がある。果実は滑らかで、直径3センチメートルほど。キシュウミカンやウンシュウミカンに
似た外見をしているが、酸味が強く生食用には向かないため、マーマレードなどの加工品にされることがある。

 日本では固有のカンキツ類で、実より花や常緑の葉が注目された。マツなどと同様、常緑が「永遠」を喩えると
いうことで喜ばれた。古事記や日本書紀には、垂仁天皇期、田道間守の話が記されている。
 常世の国に遣わされた田道間守は「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」と呼ばれる不老不死の力を持った
(永遠の命をもたらす)霊薬を持ち帰ったという話が記されている。

 奈良時代、紫宸殿前の「右近の橘」を元明天皇が寵愛し、宮中に仕える県犬養橘三千代に、杯に浮かぶ橘とともに
橘宿禰の姓を下賜し橘氏が生まれた。
『古今和歌集』「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」(夏、よみ人しらず)以後、橘は懐旧の情、
特に昔の恋人への心情と結び付けて詠まれることになる。
 1937年に制定された文化勲章は橘をデザインしている。

<2>万葉集の「田道間守」歌

 万葉集巻18−4111番歌に大伴家持が天平感宝元年(749)閏五月二十三日「橘の歌一首ー短歌を并せたり」の詠。

  かけまくも あやに畏(かしこ)し 皇神祖(すめろき)の 神の大御代に 田道間守 常世に渡り 
  八矛持ち 参出来し時 時じくの 香の果実(このみ)を 畏くも 残したまへれ 国も狭に 生ひ立ち栄え
  春されば 孫枝(ひこえ)萌いつつ ほととぎす 鳴く五月には 初花を 枝に手折りて をとめらに 
  苞(つと)にも遣りみ 白たへの 袖にもききいれ 香ぐはしみ 置きて枯らしみ あゆる実は 玉にぬきつつ
  手にまきて 見れど飽かず 秋づけば しぐれの雨ふり あしひきの 山の木末(こぬれ)は 紅に 
  にほひちれども 橘の 成れるその実は ひた照りに いや見がほしく み雪ふる 冬に至れば 霜置けども
  その葉は枯れず 常磐なす いや栄はえに 然れこそ 神の御代より 宜しなへ この橘を 時じくの 
  香の果実と名付けけらしも
  
 反歌一首 4112番歌
  橘は花にも実にも見つれども いや時じくになほ見が欲し
  (橘は花としても実としても観賞したけれども、いよいよいつという時なく一層見たいものだ。)

 家持はどうしてこの時期に橘の花を詠んだのか。
 万葉集に詠まれた植物としては、橘歌は大変多く69首(65首)収録され、その大半は花橘として花が詠まれている。
 家持は橘を好んで詠み、26首(25首)も残している。その背景には、多分に敬慕している橘諸兄のことを意識して
いるという考えも提示されている。

 この歌を大伴家持が詠んだ時期は、いろいろの出来事が記されて、一年に二度も改元されている。
 天平21年   家持と池主の和歌の贈答 家持と坂上郎女との歌のやりとり 
        陸奥国より黄金が献上される。
 天平感宝元年 四月改元。四月十四日、天皇東大寺行幸。左大臣橘諸兄正一位授位、大納言藤原豊成右大臣昇任。
        五月十二日、家持、陸奥国より金を出す詔書を賀ぐ歌。
        閏五月二十三日、家持、田道間守の非時香果の歌。
 天平勝宝元年 聖武天皇譲位、七月改元される。阿部内親王即位。藤原仲麻呂大納言。           

 (注)橘姓の誕生:天平八年(736)十一月、葛城王(橘諸兄)・佐為王等が上表して、外家の姓橘宿禰を
          賜るように願い出た。
    聖武天皇詠「橘は実さへ花さへその葉さへ 枝も霜降れどいや常葉の樹」(万葉集・巻6ー1009)

<3>菓祖「田道間守」を祀る中嶋神社

 兵庫県豊岡市三宅にある式内社で「果祖・菓子の神」として製菓業者の崇敬を受け、全国(福岡県・佐賀県・愛媛県・
京都市・愛知県・岐阜県)に分社がある。(参考メモ2.各地の田道間守の神様 参照方)
 主祭神は田道間守命。現在地に居を構え当地を開墾し、人々に養蚕を奨励したことから養蚕の神としても崇拝される。
 推古天皇15年(606年)田道間守命の7世子孫三宅吉士が祖神として田道間守命を祀った事に創まると言う。
 「中嶋」とは田道間守命墓が垂仁天皇陵の池の中に島のように浮かんでいるからという。
 田道間守は垂仁九十年の十年後、西暦71年に非時香果を持ち帰り、殉死した日は4月19日とされるので、
平成25年は田道間守命1943年祭になり、例祭は4月第三日曜日、菓子祭・橘花祭(きっかさい)と呼ばれ、
全国の製菓業者が参列し、業界の繁栄を祈願する。
 菓子祭の記念式典には例年通り、地元の神美(かみよし)小学校児童が戦前の小学唱歌「田道間守」を合唱するとのこと。 
 (唱歌「田道間守」はCD音源参照方)    

(左)例祭時の参道に賑わい(右)中嶋社の拝殿

 参 考 メ モ 

<参考メモ1>果祖「田道間守」の伝承

(その1)田道間守の伝承文献:
     (1)古事記垂仁段
      三宅連等が祖、名は<たじまもり>を常世の国に遣はして<ときじくのかくの木の実>を求めしめたまひき、
      ・・・・遂にその国に到りてその木の実を取りて、<かげやかげ、ほこやほこ>をもち来つる間に、
      天皇既に崩りましき、ここに<たじまもり>、<かげよかげ、ほこやほこ>を分けて、大后に献り、
      ・・・・天皇の御陵の戸に献り置きて、その木の実をささげて、さけびおらびてもうさく、
      「常世の国の<ときじくのかくの木の実>を持ちまゐ上りて侍らふ」とまをして、遂にさけびおらびて
      死にき、その<ときじくのかくの木の実>は、これ今の橘なり、」
     (2)日本書紀垂仁紀九十年二月および九十九年の明年三月 
      九十年二月に「遣常世国、令求非時香果」 その十年後の九十九年の明け年、「至常世国」にて
      「非時香果」を得て帰ってきたが、「天皇既崩、不得復命」となる。
(その2)田道間守の系譜:
      新羅国主の子・天日槍(天之日矛)の四世の末裔で、大陸との交渉に関係の深い氏族・三宅連の始祖と
      される。
(その3)橘という植物の起源説話の意義
            常世の国からもたらされた「不老長寿」に繋がる「めでたい果物」として、一種の神秘性をもって、
      神仙思想ないし道教における「仙薬の観念」とも関連つけられる。
      「非時」(ときじく)とは、「その時節でない、時を限定しない」ことで、橘は冬も葉が枯れることなく、
      かつその実は他の果実と異なり、寒い冬にも美しく香り実っている。その橘の果実の色彩と芳香が生命の
      不死を願う古代人の心に適った物であったことによろう。
      常世国からもたらされたため「この世ならぬ不思議な生命力」を感じさせるので、これを死者に捧げることは、
      死者の生命の持続を願う気持ちの表れとなる。
      奈良時代人の橘に関する表現の例。和銅元年(708)十一月、元明天皇詔文の一節
      「橘者果子之長上、人之所好、柯凌霜雪而繁茂、葉経寒暑而不彫、与珠玉共競う光、交える金銀以逾美」

(出典:日野昭「共同研究ー古代に於ける社会と宗教ー 田道間守の伝承ーその宗教的思想史的意義ー」
       龍谷大学仏教文化研究所紀要 20集 (昭和57年)

<参考メモ2>各地の田道間守の神様

  「田道間守・タヂマモリ」は、菓子の神として中嶋神社(兵庫県豊岡市)に祀られている。中嶋神社の分霊は
(1)太宰府天満宮(福岡県太宰府市):菓祖中嶋神社九州分社
   昭和29年7月、九州菓子業の守護神として奉祀するため、太宰府天満宮本殿東側、天神の森の畔に社殿を建立して勧請。    
(2)吉田神社(京都市):菓祖神社
   御祭神は田道間守命と日本で初めて饅頭をつくったとされる林浄因命の2神を菓子の祖神として祀る社。
   京都菓子業界の総意により菓祖神社創建奉賛会が結成され、昭和32年11月11日 兵庫県 中島神社、
   和歌山県 橘本神社、奈良県 林神社の祭神を鎮祭された社。春季大祭  4月19日  秋季大祭 11月11日 
(3)伊万里神社(佐賀県伊万里市):菓祖中嶋神社佐賀県分社
   常世国から帰国した田道間守が上陸した地という伝承がある。
(4)久和司神社(岐阜県高山市):
   明治12年創建の飛騨護国神社内に菓子の神を祀る。
(5)湯神社(愛媛県松山市):中嶋神社四国分社
   昭和32年(1957)四国四県の製菓業者によって、製菓・柑橘の祖神中嶋神社御分霊を迎えて創建された。 
(6)橘本神社(和歌山県海南市):
   旧下津町内の九十九王子のひとつで、所坂王子の旧址。現在地の北、元の鎮座地「六本樹の丘」は、田道間守が
   持ち帰った橘の木が初めて移植された地と伝えられる。
   創建年代不詳。永享9年(1437)神社棟札あり、白河法皇の熊野行幸で、当社で一夜を明かし
   「橘の本に一夜の仮寝して入り佐の山の月をみるかな」と詠じられた。
   例祭は10月10日「みかん祭」で、みかん生産者、果物屋、青果会社などからみかんや果物などがお供えされ、
   4月3日は「全国銘菓奉献祭(菓子祭)」で、全国から約150社より和菓子、洋菓子、飴菓子などがお供えされる。

(左)拝殿(右)みかんの原木
(7)中嶋神社(愛知県豊橋市):菓祖中嶋神社。
      元は兵庫県・中嶋神社を勧進したもの。戦後、名古屋で博覧会が有ったとき、豊橋市菓子協会の人々が勧進したもので、
   現在では羽田八幡宮の末社になっている。(豊橋市中央図書館情報)
(8)中嶋神社(徳島県徳島市):中嶋神社徳島分社。

など、田道間守は全国に祀られて、菓子業者の信仰を集めている。さらにお餅や菓子の関係神社として
(9)小野神社(滋賀県大津市小野):御祭神ー天足彦国押人命(第五代孝昭天皇第一王子)およびその七代目
                  米餅搗大使主命小野一族の祖にして、餅および菓子の匠・司の始祖とされる。

(左)小野神社拝殿前には鏡餅が両脇に供えられている。
(右)小野神社由緒書に
「後裔の小野道風が菓子業の功績者に匠、司の称号を授与することを勅許されていたことを
  知る人は少ない。菓子の匠、司の免許の授与は現在は絶えているが、老舗の屋号に匠、司が
 使用されることは現在もその名残として受け継がれてきている。」

<参考メモ3>小学唱歌「田道間守」



出典:「日本教科書大系 近代編」第二十五巻 唱歌  講談社刊(昭和四十年九月十五日)
     第三期国定唱歌教科書 初等科音楽  (昭和17年国民学校第三学年用)

<参考メモ4>垂仁天皇陵

 不死への願望を仮託された長寿の天皇、垂仁天皇(活目入彦五十狭矛・いくめいりびこいさち・天皇)の在位期間は
九十九年で、歴代の天皇中最長寿の153歳(古事記、日本書紀では、140歳)で崩御し、田道間守が持ち帰った非時香果を
見ることが出来なかった。在位中には、起源譚の性格が強いいろいろの事蹟が列挙されている。
 倭姫命に天照大神の鎮座する場所を探させ、五十鈴川の畔に伊勢神宮を創建させたこと、日葉酢媛命が亡くなると
野見宿禰に土偶を作らせ、殉死するひとのかわりにしたこと、そして田道間守を常世の国へ「非時の香菓」を求めに派遣した
ことなど。妃には、かぐや姫のモデルとされる迦具夜比売(かぐやひめ)が記される。
 「この天皇に係けて田道間守伝承が物語られるのは、仙道に基づく長生不死の理想追求の思想が基盤となっていることを
  示している。・・・・田道間守伝承の場合には、その背景に人間の長死・不死・永生への願いが強く流れている。
  そしてこれが道教的な神仙思想、すなわち仙道によることは否めない。」
(出典:日野昭「共同研究ー古代に於ける社会と宗教ー 田道間守の伝承ーその宗教的思想史的意義ー」
       龍谷大学仏教文化研究所紀要 20集 (昭和57年)

 第11代天皇の陵所は菅原伏見東陵で、現在奈良市尼ヶ辻西町の宝来山古墳(前方後円分、全長227m)に比定される。
 この濠の中、東南部に田道間守の墓とされる小島がる。しかしこの位置は嘗ての濠の堤上に相当し、濠を貯水のため
拡張して島状になったと推測されている。

(左)垂仁陵正面(右)参道入り口(濠の中央に田道間守の小島が見える)

(左)濠の東側からみた田道間守の小島(右)濠の外縁部にある田道間守参拝のための鳥居
 田道間守伝承を別の観点から見ると、「橘が不死をもたらす菓物でありえなかった事実を漂泊している」ことになる。
 「それゆえ、この説話は人生の意の如くならない実態をつよく訴えている」ということになる。
 「香菓が彼の異郷から故人によってもたらされたことによって、眼前の香菓に寄せられた古代人の無限に広がる願望と
  憧憬がこの悲話になごやかな夢を与えている。・・・・悲痛な現実世界の中にあって、ひとつの彼岸世界が想念される
  ことによって、ほのかな救いが暗示され、その世界に連なる物が現実に存在するという事実を通じて、一片の悲話も
  いつしか縹渺とした世界感覚の中に昇華されてゆく。」

 田道間守は橘の木を持って死者・天皇に従って黄泉の国へ旅立った。
 「これはこの木が夜見の国へ行くになくてはならぬものであり、いわばあの世へゆく通行手形の役割をもつもので
  あったことを意味しているとみるべきではなかろうか。
  ・・・・この木は遠い常世国からもたらされた、いわば長生不死、すなわち永遠不変に通ずる、この世ならぬ
  呪力をもつ木であると解されるからである。死者はこの木を持つことによって、この世で果たし得なかった
 「永生」の旅を続けることが出来る、とする信仰的表象がこの伝承の背後にひそんでいる」と。
(出典:日野昭「共同研究ー古代に於ける社会と宗教ー 田道間守の伝承ーその宗教的思想史的意義ー」
       龍谷大学仏教文化研究所紀要 20集 (昭和57年)

ホームページ管理人申酉人辛

平成25年5月27日 (百人一首誕生778年記念日)*** 編集責任・奈華仁志 ***

ご感想は、E-mail先まで、お寄せ下さい。
なばなひとし迷想録目次ページ に戻る。 磯城島綜芸堂目次ページ に戻る。