平成社会の探索


ー第62回知恵の会資料ー平成18年5月7日ー

「知恵の会」への「知恵袋」


(その6)清少納言が「聞いた」音の世界

<「枕草子」の音の世界>

 「万葉集」を始めとする詩歌集の中に、あるいは「伊勢物語」や「枕草子」などの古典の世界の中に
展開されている聴覚の世界、すなわち「音の世界」を探索することは大変興味のあるところです。
 (参考メモ:紫式部の展開した音の世界の一例を「笙の不思議な空間」参照方)

 人間は、「文字」を発明して考えていること、訴えたいことを、絵画を工夫して、伝えたい映像を
後世の世界へ伝承してきました。
 ところが、人類は残念ながら音の世界の伝承方法を長らく思いつきませんでした。19世紀になって
はじめて音を記録する手段として「蓄音機」なるエヂソンの発明技術によって「音の後世への伝承」が
可能になったのです。
 では、それまで「蓄音機」に代わるものは何であったか、それは「言葉に直して写し取る」、あるいは
「音符に書き換えての楽譜記録」でしかありませんでした。しかし、音に関しては正しく「百聞は一見に
如かず」ならぬ「百見は一聞に如かず」であったわけです。

 私たちの先人達は「音の世界」へどのように取り込んだのでしょうか。清少納言が「聞いた」音の
世界の一例を拾い上げてみましょう。
 「枕草子」の中で言及されている「音の世界」は、観点を色々に据えれば、色々な「音の世界」が
抽出できると思いますが、ここでは209段(岩波書店「新日本古典文学大系」(陽明文庫蔵本)、
底本によっては212段、226段、248段になっている。)「賀茂へまゐる道に」に述べられている
「清少納言の蓄音機」を聞いてみましょう。

 まず、209段の原文と田中澄江さんの訳文を挙げておきます。

 (原文)岩波書店 新日本古典文学大系
  賀茂へまいる道に、田植ふとて、女の、あたらしき折敷のやうなるものを笠にきて、
  いとおほう立ちて、歌をうたふ。おれ伏すやうに、また、なにごとするともみえで、
  うしろざまにゆく。いかなるにはあらむ、おかしとみゆるほどに、時鳥をいとなめう歌ふ、
  聞くにぞ心うき。「ほととぎす、をれ、かやつよ、をれなきてこそ、我は田植ふれ」と
  歌ふを聞くも、いかなる人か「いたくななきそ」とはいひけん。仲忠が童生ひいひ
  をとす人と、時鳥鶯におとるといふ人こそ、いとつらうにくけれ。

 (訳文)田中澄江 新装版日本古典文庫10 (河出書房新社)(昭和63年2月)
  賀茂へ参詣する途中で田植えを見た。女たちが新しいお盆のようなものを笠にして、
  大勢立ち並び、歌を歌ったり、立ち上がったり、身をかがめたりしながら、何をする
  こともなく、後ろの方へ下がっていく。いったいどういうことか。珍しいと思って眺めて
  いると、郭公をばかにする歌を歌い出したのでがっかりした。
   ほととぎすよ、おのれ、あいつめ、おのれがなくので、おれは田植えをせねばならぬ。
  という意味の歌を歌うのを聞くに付け、万葉集に
   「ほととぎすいたくな鳴きそ独り居て寝(い)の寝(ね)らえぬに聞けばくるしも」
    ((注))(万葉集巻八・夏の雑歌・1484・大伴坂上郎女) 
  と歌ったのはどういうひとか知りたいと思った。私は宇津保物語の主人公仲忠が
  幼いときに賤しく育ったと悪口言う人や、ほととぎすの声は鶯におとるなどと言う人は
  嫌いである。

 この章段における清少納言の目的は、自分のお気に入りとして
  (1)「聞く世界」でのお気に入り「ほととぎす」
  (2)「読む世界」でのおきにいり「宇津保物語の仲忠」
を紹介したかったことでしょう。そのきっかけになったのが賀茂への道筋でふと聞いた田植え歌で、
そこにお好きな「ほととぎす」が歌い出されて、こともあろうに悪くののしっていると聞き取ったことに
あります。田植え歌では、たしかに下卑なことばで「ほととぎす」を歌い込んでいますが、本来の
農民達の思いは、「時鳥が鳴いたので、そろそろ田植えの準備に掛からねば、ならないなあ」と
いう程度の意味合いであったと思われます。時鳥が悪いのではなく、田植えの重労働が思い
出されて辛い、という農民達の気持ちが歌の中に込められているのでしょう。
 
 この章段で清少納言によって二つの「音の世界」が提供されました。
 一つは民謡の聴き取り記録としての「田植え歌」であり、二つめはその田植歌に歌い込まれた
独特の鳴き声の「ほととぎす」です。以下にこの二つの「音源」を採りあげてみます。

************  (その1)「庶民歌謡」としての「田植歌」  *********
(1)「田植歌」について
  一年間の稲作作業の中でも最も重要な田植えの歌で、本来は田の神に秋の豊作を願う神事の
 一種でした。後に、田植え作業のときだけでなく、「田遊び」「御田植神事」「囃子田」「田植踊」など
 にもうたわれているもの。
  その構成を中国地方の「大田植」の解説よりみますと、次のようになっています。
        (引用文献)大塚民俗学会「日本民族事典」弘文堂(昭和47年2月)
               「世界大百科事典 17」平凡社(1988年4月)
  (イ)歌詞 一日の「田植え作業」の段取りに従ってつぎの各種の歌がある。
        「田の神迎え歌」「朝歌」「昼歌」「晩歌」「田の神送り歌」
        「朝歌」例 (音頭)<エーうたいはじめはまずサンバイにまいらしょう>
               (早乙女)<ヤハーレヤレまずサンバイにまいらしょう>
                       (中略)
               (音頭)<イヤサンバイは、ヤーレ今こそ居りゃる宮の方から>
               (早乙女)<宮の方からヤーレ葦毛の駒に手綱よりかけ>
                       (後略)
        「昼歌」例 <京へ上るがつれはないかの、われが元のさいたのも連れて上れかし>
        「晩歌」例 <今日の早乙女は名残惜しい早乙女、洗い川の葦の根で文を参らしょう、
                名残惜しいというては袖を引かれた>
  (ロ)囃子 仕事歌でもあり祝歌でもある田植え歌には、8〜9世紀頃から、笛・鼓・簓(ささら)
        などの楽器を入れて、囃すようになって祭事化し、後に田楽にまで発展したが、この
        囃子入りの田植えの風習は、今日も中国地方の山間部に残っている。
         (引用文献:「大日本事典14」小学館(昭和45年3月 執筆担当:町田佳声)
  (ハ)詞型 五五調・五七調・七七調・七五調など各種あったが、時代と共に変化して、江戸期
         には近世調(七七七五)の詞型が普及し、古い調べは亡くなった。代わりに田の
         草取唄や盆踊り唄などで間に合わせるようになった。
  (ニ)唄  音頭(田の神サンバイの降霊者(サンバイサゲ))による田植え作業の指揮下で
        早乙女(田中で挿苗作業をする女性)の掛け合いで歌われる。
  (ホ)音頭 田植え歌のテンポの緩急や詞・曲の選び方や組み合わせで田植え作業を臨機応変に
         植え方を進めたり、腰を伸ばす手休めの見合いをはかる。田植え能率を左右する
         重要な役目があり、遠くから「名人」が招かれることがあった。
  (ヘ)早乙女 音頭の唄の調子に合わせて挿苗作業を進める。出稼ぎ早乙女もあり、これによって
         田植え歌の伝播や交流が生まれたという。
  (余録)「早乙女」の「さ」は、五月、五月雨、早苗などの「さ」と同じく、稲の実りを象徴する
      「稲穂の精」を表すとされています。

(左)「近世初期の田植え風景「月次風俗図」(重要文化財・東京国立博物館)(右上に囃子の人々がいる)
(右)住吉神社の田植祭「お田植神事」(後方仮舞台で早乙女が田舞を舞ううちに植え付けをするもの。
(2)住吉大社の「田植え神事」について
 清少納言が十世紀末ごろ、平安京の近郊で賀茂への道すがらに聞いた田植え歌は、実際
どのような音曲であったのか、いまではわかりませんが、それに近いと思われるものは、上述の
民謡として残されている「田植え歌」であり、年代的に古いと思われる神社での「田植え神事」で
あろうと思われます。長らく伝承されている住吉大社の「田植え神事」を採りあげてみました。

 「田植神事」は、「田植祭」「お田植祭」とも言われ、古式を残す大社では、今日も行われています。
 大阪住吉の住吉神社では毎年6月14日に、重要無形文化財になっている「御田植神事」が執り
行われます。第一本宮の神田中央に舞台が作られ、田の畔(くろ)で行われる田舞・棒合戦・
住吉踊などの芸能のうちに田植えをする行事です。
 由来は神功皇后が田んぼを設けて、御田を作らせたのが始まりとされています。田植えに際して、
このように音楽を奏で歌を歌い、踊りや舞を演じるのは、田んぼや苗に宿る穀物の力を増やすためで、
稲が生長して稲穂が充分稔る秋を迎えることが出来るように神に祈るわけです。神事の順序は
次のようになっています。
   (イ)八乙女の田舞    神楽女八名による舞
   (ロ)神田代舞(みとしろまい) 御稔女(みとしめ)による舞
   (ハ)風流武者行事 鎧兜をまとった武者による
   (二)男児による源平合戦
   (ホ)女児による田植え踊り
   (へ)約150名の女児による住吉踊り

(左)八乙女(右)早苗の授与儀式

住吉踊りの風景
 これらの一連の行事の中でも特に「住吉踊り」は人数も多く、心の字をかたどって踊る150名もの
女児の多彩な女児の踊りは圧巻でしょう。現在は御田植神事保存会の皆さんが担当されている
とのこと。 
 これらの行事の中で謡われるであろう「田植え歌」はどのような調べと歌詞となっているのでしょうか。
如何に古くからの行事とはいえ、まさか、清少納言が賀茂参道途上で聞いた歌と同じではない
でしょうが、どんな調子でどのように歌われるのか、聞いてみたいものです。

(3)各地の田植民謡について
 全国各地に分布する田植え歌には、田の神や田主を誉める歌、田主を恨む歌、田植えの労働の辛さを
歌った歌、早乙女を誉める歌、など各種の民謡が残されています。
 これらの貴重な田植え歌の記録として次のものが重要です。
  (イ)「田植草紙」(日本古典文学大系・中世近世歌謡集・昭和34)
  (ロ)町田佳声「日本労作民謡集成」(Vレコード解説・昭和39)

 その他、主だった各地の神社における「田植祭」は、次のようなものが「三大お田植え祭」として執り
行われています。
  (イ)伊勢伊雑宮(三重県伊勢市) 6月24日、早乙女と立人(たちうど)が手をとりあって
    苗取りをし、謡いやささらすりに囃されて田を植える。
  (ロ)香取神社(千葉県佐原市) 4月3〜5日、早乙女達の神田での田植え祭が行われる。
  (ハ)住吉神社(大阪市住吉区) 6月14日、上述の通り。
 その他、お田植え祭の元祖的な祭としては、上述の伊雑宮、伊佐須美神社に加えて、夕田の
お田植え祭として名古屋市の熱田神宮が挙げられます。
 さらに、多賀神社(滋賀県多賀町) 7月1日に、また住吉神社(山口県下関市)では6月第二
日曜に、(ロ)の香取神社同様、早乙女達の神田での田植え祭が行われ、阿蘇神社(熊本県)
(7月28日)、伊佐須美神社(福島県會津高田町)、では田人形や宇那利という昼飯持ちが出て、
古い田歌を歌って、神田へ御輿が渡御する儀式が行われます。

 清少納言が賀茂参り道で聞き取って記したのと同じように、現在での田植え歌の歌詞をニ三挙げて
みましょう。
  (イ)飛騨・古川の田植え歌
    大垣藩戸田公による農民に有利な飛騨田畑検地をおこなってくれたことに感謝しての
    歌だそうです。
     天気良ければ大垣様の 城の太鼓の音(ね)の良さよー おい
     やれ番じゃら 城の太鼓の  城の太鼓の 音がするーーぅい
     嫁にやるなよ 気多山本へ  深い田んぼで苦労するーーぅい
     朝のあわ雪ゃあ朝日で溶ける 娘島田は寝てとけるーーぅい
      (注)島田というのは、日本髪のひとつで、おもに未婚の女性の髪の結いかたですが、
         寝て解けるという文句が気になります。

  (ロ)鹿児島県・喜界島の田植え歌
    1. ことしいねがなし しし玉のみなり ヤリガエー ハレ 吾嫁なる加那に ま米たかさ ウレ。
      (タカサウリ)
      (訳) 今年の稲はしし玉のような大粒のみのりだ、私の嫁になる彼女にお米のご飯をたかそう。 
     2. ふずの稲がなし みず不足ャあたんが ヤーリガエー ハレ ことし稲がなし 
      あぶしまくらウレ (マクラウレ) 
      (訳)去年の稲は水不足だったが今年のいねは大豊作だ 。
     3. ゆみとしゆうとなりばあいさのふばさヤーリガエ ハレ石の上にななちや うとちやんごとに
      ウレ(ゴトニウレ)
      (訳) 嫁と姑なら挨拶をするのもきつい、石の上に皿を落とすようにきびしい。 
     4. 元どもとなゆりすらがむとなゆんにやヤリガェ ハレすらがもとなゆうすになしかずらウレ 
      (カズラウレ)
      (訳) 根本が根本になるのであって梢頭は根本にはならない、梢頭は根本になると
         根無しかずらになる。 
     5. 叔父ぴれいもちゅぴれ 叔母ぴれいもちゆびれヤーリガェ ハレいかにくばさあても
      吾親まさりウレ (マサリウレ)
      (訳) 叔父の面倒をみるのも他人をみるのと一緒、叔母をみるのも他人と一緒。どのように
         苦しくても親に勝つものはない。 
     6. 山木やあてもぐさね木やねらぬヤーリガェ ハレめえらびがばうてむ わ加那うらぬウレ
             (訳) 山に木は色々あっても杖になる木はない。娘は沢山いても私の彼女はいない。 

  (ハ)島根県の田植え歌
    1.隠岐島・知夫村の田植え歌  
      田植えの上手はすざるこそ上手よ 今朝うとうた鳥はよううたう鳥だの
      この田に千石もできるようにと呼んだの  
      夕べの夜ばいどぉは そそくさぁな夜ばいどぉ 枕こにつまずいて マラづいたとなぁ

    2.島根県・吉賀町の田植え歌(五七七四調)
      (姑との確執口ずさむ嫁)
      姑(しゅうとめ)は天の雷 小姑(こじゅうと)殿は稲妻 稲妻 小姑殿は稲妻
      ゴロゴロと光り鳴るなら いかなる嫁もたまるまい

      (恋愛中の忍んでくる男性を気遣った娘が、飼い犬に吠(ほ)えないよう言うところを
       うたった歌)
      来い コグロ(犬の名前か)小糠(こぬか)食わしょう 夜来る殿を吠えるな

      (古代調ののどかなもの)
      このマチ(たんぼのこと)は いかい(おおきい)大マチ 今日このマチで 日が暮りょう
      日が暮れりゃ 戸たてまわして 朝田の殿と寝ていのう

    3.隠岐島・海士町の田植え歌
      朝はか ねをやれ トビがやおに 鳴いたとな
      早乙女の上手よ 下がるこそ上手よ
      嫁をしょしるなかいに 縄でワラぁ忘れた
      苗がなけらにゃ とっぱなせ 
      婆の言やるも もっともだ
      馬鍬(まんぐわ)つきよしぇて こぉをあらあらと
      編み笠のちょんぎりが わしに女房に なれと言うた
      腰が痛けりゃ のおさえて のおさえて のおさえて
      日は何どきだ 七つの下がり
      日ぐらし鳥が 笠のはた回る
      上がりとうて しょうがない
       恥のこたぁ思わぬ


*********  (その2)「田植え歌」に歌い込まれた「ほととぎす」  **********

(1)「物はづくし」の「鳥は」を「きく」(清少納言の<うぐいす>と<ほととぎす>の優劣論)

 清少納言が賀茂への参詣道でふと耳にした田植え歌に何故敏感に反応したのか、それはいつに
自分のお気に入りの「ほととぎす」が(悪し様に)歌い込まれていたからに他なりません。ほととぎすが
どれほど好きであったかは、一連の「ものはづくし」の中で、「鳥は」(第39段)として展開されています。
 この文章で採りあげられた「鳥」のうち、主としてどのようにその鳴き声を「聞く」ことができるかを
基準に置いている鳥とその評言は、次のようになっています。
                      (林和比古「枕草子新解」邦進社(昭和28年1月)による)
 (イ)おうむ(鸚鵡) 「人間が物を言えば真似る」から。
 (ロ)やまどり(山鳥) 「友を慕い(鳴く)」から。
 (ハ)つる(鶴) 「鳴く声が天まで届く」から。

 さらに、この章段の主たる「鳥は」<うぐいす>と<ほととぎす>の優劣論ともいうべきものです。
 (ニ)うぐいす(鶯) 「その鳴く声はもちろん、姿かたちも非常に優美で美しいわりに、内裏の中で
             鳴かないのがまことに悪い。」
 (ホ)ほととぎす(郭公) 「郭公はなほほ鶯以上によくて、避難すべき点がない。」(具体的には後述)

ほととぎす
(余談)「鳥の鳴き声」としての「擬音表記」
うぐいすは古来「ホーホケキョ」誰しも聞き違いなく記し取って納得していますが、 欧米人は何と書き取っているのでしょうか。
一方、ほととぎすは誠にむずかしく雄は「テッペンカケタカ」、「ホッチンカケタカ」「トッキョキョカキョク」 「けふはとぎそ」あるいは「ほろ」などと鳴き、雌は「ピッピッピッピー」と鳴きます。ともかくけたたましい かぎりです。
また、鳴き声から鳥名が付けられたとして、「ホトトーナキオス」「ホトケコセ、タスケタマヘ」 なども挙げられています。(小学館「日本国語大辞典」(2001年版))

うぐいす
 清少納言は<うぐいす>と<ほととぎす>を比較して、明らかに<ほととぎす>を好んでいます。
 ところが<ほととぎす>は自分の巣を作りません。その卵は、<うぐいす>の卵と似ているので、
<うぐいす>は、習性としてしばしば<ほととぎす>の卵を孵化して育てる(托卵)のです。
<うぐいす>がばかなのか、<ほととぎす>がちゃっかりしているのか、いずれにしても、<うぐいす>が
かわいそうです。
 この両鳥の習性は万葉歌人も承知の上で、かの高橋虫麻呂は長歌にまでしています。後述の
「高橋虫麻呂のほととぎすの世界」(巻第九ー1755番歌)(ほととぎすを詠む一首ー高橋虫麻呂)を
参照願います。

 因みに、清少納言が言及したその他の鳥は、くいな・しぎ・みやこどり・ひわ・ひた・つる・すずめ・
いかるが・たくみどり・さぎ・おしどり・とび・からす、など。

 さて、ほととぎすが清少納言始め、多くの人々にどうして好まれるのか、清少納言は次のように
理由を挙げています。
 「(初めは忍び音にないていたが、)いつの間にか得意げにも聞こえてくるが、卯の花や花橘などに
  とまって、姿を少し隠してなくのも、妬ましいほど勝れた気立てである。五月雨頃の短夜に目を
  覚まして、どうかして人より先に郭公の音をききたいものだと待ち望む気になっていると、(折良く)
  夜更けに鳴きだした声の艶っぽく愛嬌のあること、すっかり心が魅せられてしまって何ともしょうが
  ない。(そのくせいよいよ)六月になると、郭公はピタリと鳴かなくなってします。(鶯とちがって
  そのおもいきりのよいこと)すべて何ともいいようがなくてすばらしい。
  夜鳴くものはどれもこれも賞すべきである。乳児共だけはそうでないが。」
                                   (引用文献:前出「枕草子新解」)

 清少納言が挙げる「郭公の美点」は次の三点と言うことでしょうか。
 (イ)卯の花や花橘の蔭にすこし身を隠してなくなどは憎らしいほど粋な心掛け。
 (ロ)深夜の艶美で愛らしい鳴き声。
 (ハ)六月になるとピタリと鳴き止める思い切りの良さ。
 引用文献では次のように評論されています。
 「世人の多くは鶯の優美なのをよしとしたのに対し、清少はその常識論を否定して、郭公の超俗性、
  即ち葉陰に身を隠す仕草とか、六月にピタリと鳴き止める淡泊さとか、深夜の妖艶美とかを
  挙げている。おそらくこれが清少の好尚に一致したのである。しかしこの態度が、人から見れば
  勝ち気に、一癖ありげに見えたことになるのである。」

(2)田長のほととぎす
 清少納言が聞いた田植え歌にどうしてほととぎすが言及されているのか、両者に浅からぬ関係が
あるから詠み込まれているわけです。
 ほととぎすは五月から梅雨頃に日本各地に渡来し、夜中に平野の上空を通過しながら、鋭い
声でなく習性があります。このほととぎす固有の「闇の中でなく声」を聞いた古代の人々から強い
印象を与えたものと思われています。
「初音を待つもの」「姿を見せずになくもの」としてさらに人々の関心の的になったのでしょう。
 加えて、平安時代には、「死出の田長(たおさ)」と呼ばれ、田植えを促す勧農の鳥と扱われ、
冥土からの使いの鳥となったり、懐古の鳥とされたり、また中国でも故事(蜀王の霊の化した鳥)を
背景にいろいろの伝説や口碑に取りあげられる話題の多い鳥であったのです。
 「死出の田長」と呼ばれたことは、ほととぎすが南方から来る渡り鳥であるとは認識されず、旧暦の
夏五月になるとどこかわからない山中、すなわち他界・常世の国の死出の山からやってくる田植えの
督促と農事の監督をする役目の鳥と見なされていたようです。   
 
 「五月になると咲く卯の花や花橘(注・万葉歌1、2)は、豊かな実りを予祝する花であり、その花に
  来て甲高い鳴き声をあげるほととぎすが、勧農の鳥とされた。王朝人が雪を愛した心の根源には、
  雪の多い年は豊作になるという呪農の信仰(注・万葉歌3)があるといわれるが、ほととぎすにも
  古代の農耕社会の生活と文化に根ざす感性が働く」 
        (NHK高校講座古典テキスト 稲沢好章「随筆(2)枕草子」 2005年版 79頁) 
 (注)万葉歌1 ほととぎす来鳴き響もす卯の花の共にや来しと問はましものを 
          巻八ー1472・石上堅魚朝臣
    万葉歌2 我が宿の花橘にほととぎす今こそ鳴かめ友に会へる時 
          巻八ー1481・大伴書持
    万葉歌3 新たしき年の初めの初春の今日降る雪のいや重け吉事 
          巻二十ー4516・大伴家持

<古典和歌集の中の「ほととぎす」の一例>

(その1)万葉集
 万葉集の中では色々な鳥が詠まれていますが、最も多く詠まれている(巻二ー113番歌〜巻二十ー
4464番歌)鳥が「ほととぎす」です。特に萬葉後期に大伴家持が好んだ鳥でもあります。この嗜好は
前述の平安女流文筆家・清少納言に受け継がれているところは前述の通りです。
 大伴家持の歌とひと味違った「萬葉のほととぎす」は、高橋虫麻呂の「ほととぎす」の世界ではない
でしょうか。
 
********* 高橋虫麻呂の「時鳥を詠む一首」 ***********
     鶯の かひ卵(ご)のなかに 時鳥 ひとりうまれて 名が父に 似ては鳴かず 
     なが母に 似ては鳴かず 卯の花の 咲きたる野辺ゆ 飛びかけり
     来鳴きとよもし 橘の 花をい散らし ひねもすに 鳴けど聞き良し
     幣(まひ)はせむ 遠くな行きそ わが宿の はな橘に 住みわたれ鳥
                  (万葉集 巻九ー1755番歌)

       (訳例)ウグイスの卵のなかに ほととぎすは一羽だけ生まれて、自分の父に似ては
           自分の母に似ては鳴かない。卯の花の咲いている野辺を飛びかけり、
           来てはしきりに鳴き響かせ、橘の花に止まっては、一日中鳴いているが
           たちばなに止まっては、その花を散らし、一日中鳴いているのが聞こえていて
           いい気持ちだ。贈り物をしよう。どうか遠くへいかないでおくれ。
           私の家の庭先の花橘住みつけよ。

 これだけほととぎすの習性を知っている観点からの「ほととぎす和歌」には素晴らしい世界が展開して
います。この歌に曲をつけることに依ってウグイスの習性を改めて認識したところです。


 上記の曲想(スケッチ楽譜)をもとに知人の楽師によって、演奏された歌曲「高橋虫麻呂の時鳥」を
お聞き下さい。
高橋虫麻呂のほととぎす
原曲:奈華仁志楽徒 編曲並びに演奏:井上楽師
クリックして下さい!
(その2)古今集
 古今集に詠み込まれた「音の世界」での鳥としては十七種ほどありますが、主な鳥は
 夏のほととぎす(43首、内「やまほととぎす」8首)、春のうぐひす(27首)、秋のかり(26首、
内「はつかり」7首)などで、断然「ほととぎす」が多く読まれていることが解ります。
 巻第三夏歌(135番〜168番)34首中数首を除いて全て「ほととぎす」の歌となっているのです。
如何に古代や中世の日本人は「ほととぎす」の音を好んできたのかが分かります。

 因みに古今集の歌人達は、時鳥を初めて聞いたであろう故郷をその音に思い出したり、
  「時鳥啼く声聞けば別れにし故郷さへぞ恋しかりける」(146番・読人不知)
あるいは、そのけたたましい鳴き声にこころの中の思いを絞り出していると聞き取っている事が分かります。
  「思ひ出づるときはのやまの時鳥唐紅のふり出でてぞ鳴く」(148番・読人不知)
   
(その3)百人一首
 百人一首の中で鳥は、5首に歌われています。3番(山鳥)、6番(かささぎ)、62番(とり・鶏)、
78番(千鳥)および81番(ほととぎす)で、定家はやはり忘れずに「ほととぎす」の歌を百人一首に
取り込んでいます。。
 第81番 「ほととぎす鳴きつる方をながむればただ有明の月ぞ残れる」
                                 (後徳大寺左大臣・藤原実定)

************ 後徳大寺左大臣の<ほととぎす何処へ> ****************

 後徳大寺左大臣は歌人としてもその生涯に多くの歌合わせに出詠しており、住吉社歌合、広田社歌合ほか、
何れも「歌の風情は気高く、面白く艶なる様も具したる」歌い振りを評価されています。
 勅撰集には千載和歌集を初出として計79首ばかり入集しているという実力歌人であったことが
分かります。
 主として千載集に17首、新古今集に16首、新勅撰集に9首採られていますから、この三集で、
半数以上になります。「ほととぎす」と「有明の月」を読み込んだ百人一首の歌は、千載集巻三・
夏・161番歌です。
 これら三集の中には「ほととぎす」を詠んだ歌がそれぞれ一首づつ見いだせることも面白いところです。

 千載集  巻三 夏 161番歌 「ほととぎすなきつるかたをながむればただありあけの月ぞ残れる」
      (林下集 71番歌)      
 新古今集 巻三 夏 219番歌 「をざさ吹くしづのまろやのかりのとを明け方に鳴く時鳥かな」
      (林下集 72番歌) 
 新勅撰集 巻三 夏 161番歌 「郭公雲の上より語らひて問わぬに名乗る曙の空」

 林下集における「郭公歌とて」上述の二首に加えて、後三首収録されています。
       林下集 68番歌 「おもひねの夢に鳴きつる時鳥やがてうつつにこえぞきこゆる」
       林下集 69番歌 「時鳥なれも昔のこひしきか花橘の枝にしも鳴く」
       林下集 70番歌 「ながむれば有明の月にかげみえていづちゆくらん山時鳥」

 林下集71番歌(百人一首歌)では、時鳥を見逃しましたが、70番歌では確かに時鳥の姿をとらまえる
ことができたと自慢しています。なにか花札の挿し絵でも見ているような印象を受ける歌い方です。彼は
本当に時鳥を恋いこがれているらしい一連の「郭公歌」です。
 実定卿が詠んだ鳥は外に鶯(千載集・巻一・春上・27番歌)や千鳥(新古今集・巻六・冬・645番歌)
などですが、時鳥はことのほかお気に入りの鳥であったようです。したがって、定家が実定卿の百人一首の
歌として、時鳥と有明の月を選んだのも当を得ていると言うべきでしょう。


(参考メモ)今回の課題「きく」の歌語を含む百人一首歌
 百人一首の中に使用されている動詞の種類とその使用頻度については、既に知恵の会第57回
資料テーマ「見る」で言及しましたように、       
 「思う」19回、「見る」16回、「知る」13回、「有」「出」9回、「逢」「立」7回、「寝」「吹」6回、続いて
5回使用されている動詞として「聞く」「来る」「鳴く」「言う」「絶つ」などがあります。
 百人一首歌人が「聞いた」世界は次の5首で、単なる音響の世界を詠み込んだのではないところが
「ミソ」でしょう。
 第 5番 奥山にもみぢ踏み分け鳴く鹿の声 きく(カ行四段活用連体形) 時ぞ秋はかなしき
 第16番 立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし きか(カ行四段活用未然形)ば 今帰り来む
 第17番 ちはやぶる神代も きか(カ行四段活用未然形)ず 竜田川からくれないに水くくるとも
 第55番 滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ きこえ(ヤ行下二段活用連用形) けれ
 第72番 音に 聞く(カ行四段活用連体形) 高師浜のあだ波はかけじや袖の濡れもこそすれ 


平成18年4月20日   *** 編集責任・奈華仁志 ***


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