道路数 | 各地の辻例・「辻」名称例 | 道路数関連参考メモ |
四 | 大阪府高槻市内「辻子」(<1>項参照) | 四辻善成(参考メモ・その1) |
五 | 大阪市内生野区「今里ロータリー」 大阪市北区「天神橋六丁目」 京都市中京区「四条大宮」 | 五辻家(参考メモ・その2) 三重県伊賀市「鍵屋の辻」(参考図・その2) (仇討ち当時は三叉路) |
六 | 大阪市住吉区「六道の辻閻魔堂前」 (参考図・その3) 大阪市北区「大淀中交差点」 東京都豊島区「池袋六又交差点」 北海道帯広市帯広駅南部地区一帯 宝塚市伊孑志(いそし)1丁目交差点 |
六道の辻(京都・六道珍皇寺) 埼玉県北足立郡「六辻町」(むつじまち) 仙台藩城下町「六道の辻」 |
七 | 大阪府高槻市真上2丁目「七つ辻」 (<2>項参照) 東京都大田区「七辻(七叉路)」 (参考図・その4) 大阪府河内長野市「本町七つ辻交差点」 (参考図・その5) | 台湾・台南市「大正公園」 |
八 | 東京都東村山市「八坂交差点」 (「九道」の辻)(参考図・その6) 鹿児島市新屋敷町交差点 |
千葉県「八街市」(やちまたし) (参考メモ・その3) 万葉歌「八衢」(参考メモ・その4) |
参考 | パリ・エトワール(星の広場)凱旋門から12本放射状に道路が伸びている。 (参考「辻」図) |
「辻子」とは、十字状の道を意味する平安時代の言葉〈十字〉に由来し,その意を表す国字〈辻〉の分化したもので, 細道,小路,あるいは横町の意味に用いられた。(参考メモ・その4 国字「辻」関連の「創作漢字一覧表) 「十字」,ついで「辻」,「辻子」と書かれ,室町時代以降は「図子」,「通子」,「厨子」,「途子」など。 10世紀の平安京に辻子あり。平安京の北郊の発達にともなって新たに開発された東西の道路であったという。 (「世界大百科事典」 第2版による.) 筆者の在住地域周辺での「辻」を巡覧してみる。まず、地名としての「辻子」の例を一二取り上げる。 その1.辻子(ずし)大阪府高槻市の地名。現行行政地名 辻子一丁目ー三丁目。〒569-0036。 高槻市南部に位置し、国道170号沿い。辻子一丁目に新幹線高架線。辻子地域には中小企業や家電量販店や アミューズメント施設などあり。 辻子地区の中央は辻子井路が流れ、南北道を東へ折れると中小路および野中経由、枚方街道へ行き、 にしに折れると西冠から下田辺経由、大阪街道へつながる。小字は辻ノ内あるいは辻ノ前とされ、 それぞれ周辺は「辻ノ東、辻ノ西、辻ノ南」地区がある。 1696年(元禄9年) 島上郡冠村より分村し、辻子村となる。。 1889年(明治22年)4月1日 町村制施行により、他の11町村と新設合併。島上郡大冠村の大字となる。 1931年(昭和6年)1月1日 編入合併により、三島郡高槻町の大字となる。 1943年(昭和18年)1月1日 高槻町が市制施行、高槻市の大字となる。 近代の地図をみると、地域に道路の十字路が確認できる。(下記地図参照方)
その2.宇都宮辻子 「宇都宮辻子」は、鎌倉時代に鎌倉の鶴岡八幡宮から由比ヶ浜(相模湾)に向かって南北に延びる若宮大路の 二の鳥居の すぐ南側(現鎌倉市小町二丁目付近)にあった小道(辻子)で、若宮大路とその東側の小町大路の間を 東西に結んでいた。 下野国宇都宮社の神職で、平安時代末期に京で左衛門尉を務めるなど鎌倉幕府の有力御家人となった宇都宮朝綱ら 宇都宮氏の鎌倉の居館がこの界隈にあったことからこの名で呼ばれた。 鎌倉幕府(政庁)は第3代執権北条泰時の時、「宇都宮辻子」に南面する北側の地に移転され、「宇都宮辻子幕府」と 呼ばれた。 現在は宇都宮辻子幕府跡に宇都宮稲荷神社が鎮座しその面影を残す。「宇津宮辻幕府舊蹟」石碑建立。 その3.その他の「辻子」 周辺の地名で「辻子」を集めると、 *京都市西京区嵐山谷ケ辻子町 *奈良市今辻子町、不審ヶ辻子町 *東大阪市内の辻子谷など。
四辻は世界中いずこの街の中にもありふれているが、六辻あるいは七辻もさがせば結構各地に散在するようで、 インターネットの情報では「七差路」コレクションというコーナーがあり、ここには、全国から20地点ほどの 「七つ辻」の事例が集められている。その中から大阪府下の二地点を巡覧してみる。 その1.大阪府高槻市内の真上町2丁目(「七つ辻」)交差点 真上地区は古代(奈良ー平安期)摂津国島上郡内の五郷のひとつの真上郷(和名抄)で、中世には真上荘として 荘園化していった地域。十二世紀初頭に真上郷の開発領主であった郷司真上氏は鎌倉時代には西国御家人として 姿を見せ、摂津国における六波羅探題の御使として活動している。 現在、七つ辻となっている真上町二丁目交差点付近は、真上町の公民館があり、郵便局や地域の消防団の詰所があり、 昔の名残りの火の見櫓と半鐘が残っている。昔から高札場的な地域の住民の集合場所であった様子が伺える。 添付した明治初期(17年ー22年頃)すでに当該地点は、真上村の中心で、五叉路になっている。 この地点の東側が字光徳寺で、当地区の旧家田中六右衛門の裏山からは文政三年(1820)石川年足(参考メモ・その6参照) 墓碑銘の金銅板が発掘された。地域の歴史の古さを物語っている。
その2.大阪府河内長野市内の本町(「七つ辻」)交差点 「ほんまち ななつつじ 交差点」は、国道170号(旧道)・国道310号・国道371号(旧道)が交差して、 市道も進入しているため、合計八方向から道路が集まっている。加えて、数メートル外れて河内長野駅よりに 長野商店街があり、総計実に9本の道路が集結している地点となる。なお信号機による交通整理は国道4方向のみ。
<小平市の情報>(案内柱「九道の辻」の解説) 「九道の辻は旧鎌倉街道のほぼ中間で、鎌倉へ十八里(72km)、前橋へ十八里(72km)の地点にあった。 江戸街道、引き股道、宮寺道、秩父道、御窪道、清い戸道、奥州街道、大山街道、鎌倉街道の9本の道が この地で分岐していた。付近に野火止め用水が開通するまで広漠たる原野の中にあった。明治以降の交通 機関の発達に伴う道路の改変は、往時の九道の姿を消してしまった。」 この辻の一角に一本の桜の老樹「迷いの桜」があり、春は見事な花をつけ旅人の安らぎとなった。 「迷いの桜」のいわれは、 「元弘三年(1333)五月、新田義貞が後醍醐天皇から鎌倉幕府討伐の命を受けて、現群馬県の野洲から 兵を起こして鎌倉に攻めのぼる途中、久米川の戦いで北条軍を破り、この「九道の辻」にさしかかった時、 道が九筋に分かれていた。いずれが鎌倉への道であるか迷った。義貞は後日また迷うものがあるだろうと、 鎌倉街道の一角にひと本の桜を植え鎌倉街道への道しるべにしたのが、<迷いの桜>の起源である。 その後、この桜は幾度か植え継がれたのであろう。何代目かの桜が大正のころ枯死して、終戦後まで、 大きな根株が残っていたが、今は全くその跡もない。」 野火止め用水の流れに沿って約1kmに整備された「九道の辻公園」は、緑と水をテーマとした<赤レンガの遊歩道と 赤松並木>の和風公園で、三基のモニュメントとともに憩いの場となっている。欅や樫、60年以上の樹齢を誇る約100本の 赤松群は用水景観と風情を保っています。 住所:小平市小川東町2−3−4 面積:3432平方メートル 道順:西武多摩湖線八坂駅下車 徒歩3分(小平市・水と緑と公園課・ホームページより) <東村山市の情報> 「九道の辻は旧鎌倉街道のほぼ中間で、鎌倉まで十八里(72km)、前橋まで十八里(72km)の地点であった。 江戸道・引股道・宮寺道・秩父道・御窪道・清戸道・奥州街道・大山街道・鎌倉街道の九本の道がこの地に 分岐していたことから、九道の辻の名が付いた。 現在は府中街道・江戸街道・野火止用水が交差している。東村山市の南端にある。 元文五年(1740)の石橋供養塔には、川越道・山口道・青梅道・前沢道・江戸道・八王子道の六方向の道路が 示されていた。 中世は鎌倉街道から近世の江戸街道まで、多くの道が交差し、三軒茶屋と呼ばれる茶屋などもあった。 この付近は野火止め用水が開通するまで、何もない広漠とした原野の中にあった。しかし明治以降の交通機関の 発達に伴い、往時の九道の辻の姿を残すものはなくなってしまった。」 所在地:東村山市栄町3−18付近
<6辻>伊賀市「鍵屋の辻」 (荒木又右衛門仇討ち当時は、三叉路) |
<7辻>大阪市住吉区「六道の辻閻魔堂前」 |
<7辻>東京都大田区「七辻(七叉路)」 |
<12辻>パリのエトワール凱旋門 |
1・四辻善成 南北朝時代から室町時代前期にかけての公家・学者・歌人 順徳天皇の曽孫。尊雅王の子。四辻宮家に生まれる。妹:石清水社祀官・紀通清妻智泉聖通、 その娘・良子が足利義満・満詮の生母となる。 南北朝時代 - 室町時代前期 生誕 嘉暦元年(1326年)ー死没 応永9年9月3日(1402年9月29日) 善成王→源善成→常勝、四辻、清閑寺左大臣、松岩寺左大臣(号) 官位 従一位、左大臣 後光厳天皇→後円融天皇→後小松天皇 四辻宮家→四辻家(順徳源氏) 父母 父:尊雅王 兄弟 志玄、善成、智泉聖通 子 松蔭常宗 歌人・古典学者、若いころに河内流源氏学者二条派歌人丹波忠守の薫陶を受けた。 大臣や将軍をはじめ、地方国人にも古典を講じて人望があったという。 正六位上物語博士源惟良の筆名で、貞治年間に『源氏物語』の注釈書である『河海抄』を 将軍足利義詮に献じている。『河海抄』以前、『源氏物語』の注釈は、一部分のみを注したものしかなく、 規模の大きな『源氏』の古注釈としてもっとも早いもののひとつ。 『河海抄』の注説は、後代に編纂された古注に大きな影響を与える。 勅撰歌人として『風雅和歌集』(1首)、勅撰和歌集に15首が入集。 2・五辻家:半家の家格を持つ公家(堂上家)。 宇多源氏庭田同祖。源時方(ときまさ)を祖とし、鎌倉時代初期の五辻仲兼以降に五辻家を称する。 極官従二位・非参議。家業は神楽。旧家。江戸時代の家禄は200石。 家祖時方は左大臣・源雅信の子、五位少将まで昇進し出家、その後子孫は受領、代々五位止まり。 鎌倉時代初期仲兼は四ヶ国の国司を務め従四位上まで昇進、五辻の家号を称する。 仲兼以降は蔵人や北面武士を務める地下家、室町時代末の天文7年(1538年)に五辻諸仲が従三位に叙せられ、 堂上家に加わる。明治維新後、子爵。 3.六道の辻閻魔地蔵 (ろくどうのつじ えんまじぞう) 場所:大阪市住吉区東粉浜3丁目 閻魔地蔵は戦国時代、天文7年(1538)の作。地蔵が閻魔大王に化身したもので、難波の浜から背負って 運んで来たところ、この地で急に重くなり、一歩も前へ進めなくなった。 冥土の苦界六道の辻が、今では1本増えて七道の辻。
4・万葉歌「八衢」(巻6ー1027番歌)「橘の本に道踏む 八衢にものをぞ思ふ 人に知らえず」 左注には 右の一首は、右大弁高橋安麻呂卿語りて曰はく、故豊島采女の作なりといへり。 但し或本に曰はく、三方沙彌、妻苑臣に恋ひて作る歌なりといへり。然らばすなはち 豊島采女は、当時当所に此の歌を口吟へるか。 (参考)八街市(やちまたし) 千葉県北部、県のほぼ中央に位置している市で、都心から約50km、成田国際空港へ約10kmに位置する。 落花生の町として全国に知られている。近年、東京や千葉市のベットタウンとして住宅地域に 発展している。急激な市街地化の勢いで、周辺の環境整備が遅れがち。交通渋滞も多い。 八街の由来:明治初期、新政府の政策により徳川幕府の放牧地であった小金牧・佐倉牧の開墾に際して、 開墾局が開庁し、明治二年からの開墾順序に従って字名が命名され、 1:初富 2:二和 3:三咲 4:豊四季 5:五香 6:六実(むつみ) 7:七栄 8:八街 ・・・以下、12:十余二(とよふた) 13:十余三(とよみ) 5・「辻」関連創作漢字表
6.石川年足墓碑銘(参考メモ:敷島随想「大伴家持の上司・石川年足」) 石川 年足(いしかわ の としたり、持統天皇2年(688年) - 天平宝字6年9月30日(762年10月21日) 飛鳥時代末期から奈良時代中期の貴族。壬申の乱以降蘇我氏の嫡流となった少納言・蘇我安麻呂の孫、 権参議・石川石足の長男。官位は正三位・御史大夫。勲等は勲十二等。 祖父・安麻呂以降の蘇我氏(石川氏)出身者としては最も高い官職への昇進であったが、 直後の光明皇后の崩御や孝謙上皇の病を直した道鏡の台頭等、仲麻呂の権勢に陰りが見え始めてきた 天平宝字6年(762年)9月30日薨去。享年75。最終官位は御史大夫正三位兼文部卿神祇伯。 薨去の際、淳仁天皇から佐伯今毛人・大伴家持が弔いのために遣わされた。 死後1000年以上経った1820年(文政3年)には摂津国より墓誌が発見され、現在国宝に指定されている。 生まれつき清廉・勤勉な性格で、政治にも習熟していた。公務の合間の読書のみを楽しみとしていたという。 万葉集にも和歌1首残る。式部卿石川年足朝臣として 「天にはも 五百(いは)つ綱延ふ(はう)萬代に国しらさむと 五百つ綱延ふ」(巻19・4274) 何となく民間歌謡を借りてきてそのまま自分の歌にしたのでは、と思われるような歌語の節回しです。 実直な文書管理官僚の面影が浮かんでくるようです。 墓誌(銅板に鍍金、縦29.6cmX横10.3cmX厚0.3cm)の銘文には、年足の略歴が 刻まれていました。 「武内宿禰命の子宗我石川宿禰命の十世孫にあたる左大弁石川石足の長子で御史大夫神祇伯を歴任 して、天平宝字六年九月没し、摂津国嶋上郡白髪郷酒垂山を墓地とした」 ことを誌しています。 この墓誌は発見後高槻藩領主永井飛騨守の目付に取り上げられましたが、明治三年永井家より田中 録十郎氏に下付されたので、小祠を建て年足の霊を祀り社宝としたとのこと。明治44年4月17日 国宝に指定されました。(出典:大阪府学務部「大阪府史跡名勝天然記念物・第二冊」(昭和49年 9月)清文堂出版) 何故奈良の都の高級官人が摂津国の村里に埋葬されたのか不明ですが、この摂津の地は、古くから 開かれた郷であったことが周囲の数々の歴史的遺跡群より推察することが出来ます。 すなわち当地から約500mほど南側は、東西に西国街道が走っており、芥川を介して対岸には 今城塚古墳、或いは継体天皇三島藍野陵が連なり、陵の前方後円墳の中心線を北へ延ばした所にある 阿武山古墳には大職冠藤原鎌足公廟が確認されています。 石川年足が埋葬された頃は、奈良の都からは離れているものの、藤原氏族の勢力が十分に及んでいた ところで、年足は藤原仲麻呂の勢力下にあって、この地の何かに縁故があったものと考えます。 (例えば、仲麻呂の所領地の管理をしていたか、自分に自由に出来る領地がこの地に認められて いたか、など)