平成社会の探索

<「知恵の会」への「知恵袋」>

ー第111回知恵の会資料ー平成24年10月14日ー


(その56)課題「ほし(星)」
ー天の川の鵲橋ー
 目     次 
<1>「百人一首」家持歌の美的世界
<2>藤原定家の家持歌撰定理由
<3>藤原定家の「黒と白のモノトーン世界」
<4>日本人の「見えぬものを見る美学」
 参 考 メ モ 
参考・その1 大伴家持の七夕歌13首
参考・その2 「家持集」の七夕歌
参考・その3 家持歌の各種解釈
参考・その4 家持歌の音韻的特徴
参考・その5 百人一首家持歌の英訳例
参考・その6 家持歌のパロディ集

<1>「百人一首」家持歌の美的世界

    百人一首・第六番歌  「かささぎのわたせるはしにおくしものしろきをみればよぞふけにける」
                          (新古今集・巻六・冬・620番歌)
    中納言家持歌の美的世界、藤原定家の「百人一首」に展開した美的世界とは。

*********** 1−1 「新古今集」での家持歌の位置付け  **********

 「鵲の渡せる橋」は、「七夕」ではなく、天上の「天の川」の情景を「宮中」に見立てた。
 主要歌語「宮中のはし(階)」を敢えて詠歌の世界を拡げるべく天上の風景に言い及んだ。

      (参考1)新古今集・家持歌の前後は一連の「霜」の歌
       「草のうへにここら玉ゐし白露を下葉の霜とむすぶ冬かな」(619番・曽禰好忠)(撰者・定家)
       「しぐれつつ枯れ行く野辺の花なれど霜の籬に匂ふ色かな」(621番・延喜御歌)(撰者・家隆)
      (参考2)新古今集の七夕歌は、巻第四・秋歌上15首で、万葉集から赤人歌を採録。
       「この夕べ降り来る雨は彦星のと渡る舟のかひのしづくか」(314番)(撰者・有家・雅経)
   (参考3)家持歌に似通った歌例              (出典:万葉集 巻十ー2052番)
        「鵲の雲のかけはし秋暮れて夜半には霜や冴えわたるらむ」(巻五・秋歌下 522番・寂蓮法師)
      (参考4)新古今集撰者達の「鵲」とその橋
       「鵲の渡すやいづこ夕霜の雲居に白き峯のかけはし」(新勅撰集・巻五・秋・375・家隆)
       「天河夜わたる月もこほるらむ霜に霜おく鵲の橋」(拾遺愚草員外・3305番・定家)


************* 1−2 歴史的解釈のいろいろ **************

 家持歌は歴史的にいろいろな解釈が展開されている。
                  (<参考・その3>百人一首家持歌の歴史的解釈を参照方。)
 (I)「かささぎのわたせるはしにおくしも」
        (1)霜満天説 (2)七夕橋説 (3)宮中御階説 など。
 (U)「夜ぞ更けにける」
       (1)夜半のこと (2)寒い夜のこと (3)世の衰えの喩え (4)忠勤の心構えの喩え
     (5)人待ちの心情の婉曲表現 など。

 *筆者が納得する妥当な解釈例(堀氏)
  (初句・二句):天漢に冴える鵲の橋に儚い仲といふものを思ひつつ、(具体的人間関係の象徴)
  (三句・四句):その白き景色を霜の置く様かと見、
  (結句)   :そこから一転、地上の吾にかえって、空しく待つ夜の更けゆくをしみじみ思ふ。
 (新古今集では、冬部になっているが恋歌とも見なしうる。全体が象徴であり、それをあらわに
  いっていないところに、この歌の勝れた個性がある。)

<2>藤原定家の家持歌撰定理由

  藤原定家は家持歌の「鵲の渡せる橋」なる幻想的な「黒と白の世界」の展開に魅力を感じた。
 「鵲の橋」の意味する「逢ひがたき男女の人事」が含まれ「恋ひこがれる人を待つ」、
「一年に一度しか逢えない人を待つ」心情をくみ取ることができ、それが定家の百人一首歌
「来ぬ人を待つ」心情に合致した歌で、

    「来ぬ人を松帆の浦の夕凪に焼くや藻塩の身も焦がれつつ」(百人一首第97番歌)

は、家持の淡泊な「恋歌」以上に濃厚な恋歌になっています。
 家持の歌は「七夕の歌」というよりも、定家のねらい所は、あくまでも「恋人をまつ」
「恋歌」の意味合いの方が強いように思われる。
(参考)「長き夜に羽をならぶる契りとて秋待ちえたる鵲のはし」(拾遺愚草・2002番)
    「天の河渡せる浪に風たちてややほどちかき鵲のはし」(拾遺愚草・2027番)

 さらに「夜ぞ更けにける」とは、単に物理的に時間が「夜更けになった」ということではなく
「来ぬ人を待つ」間に、だんだん時間が経ってゆくじれったい気持ち(恋人間の閨怨)を含めて
いる「夜の更けゆく」状況を意味しているものと思われる。

<3>藤原定家の「黒と白のモノトーン世界」

********** 3−1.家持歌の色彩的特徴ー黒と白の世界  **********

 家持歌の歌語「鵲」「鵲の渡せるはし」「霜」「白」「夜」「夜更け」などから描ける
歌の世界は、色彩的には明らかに「黒と白」の情景の世界で、無色の世界に多彩な情景を描く
想像力の大らかさと逞しさでしょう。

 日本の絵画は、平安朝や中世から、洋画の世界を体験する近世に至るまで、各種の
極彩色絵巻物など以上に好まれてきたのは、水墨画ではないか。
 水墨画の手法では、対象物を克明に描写することなく、墨による「黒と白の世界」を
描き分けることによって空白部分の「見えない物」も、見る者に如何ようにも画面を想像させて
「見えるかのように描く」ことができる絵画の世界を日本人は好んできた。
          <家持の歌は、和歌で「水墨画を描いている」ようなもの>


*********** 3−2.家持歌の空間的特徴ー幻想を構築  ***********

 家持歌の情景として、「夜が更けゆく」暗い闇夜のしじまに「黒と白縞」の「鵲」や、
「黒い羽」で「渡された」、しかも想像上の「鵲の橋」は見えるはずはなく、さらには
遠くに離れた「鵲の橋」に「置く霜」まで見ることが出来そうにない。いずれも想像力を
働かせたロマンの情景である。
 <「見えていない物」を「見えるように詠んでいる」のが家持が展開した和歌の世界>

 星空の天空に見えない物を頭の中で創造するロマンの世界は、古来人間の思い描いてきた
ところで、ギリシャ神話に始まるいろいろな星座物語しかり、中国の「牽牛と織女」の
物語然りでしょう。
 日本人に於ける「見えない物を見る美学」はさらに永い歴史を持っている。

 戸田茂睡は「百人一首雑談」(元禄五年・1692刊行)に 「詠歌大慨の抄に云、
 『家持のかささぎのわたせる橋の歌は、くらき夜のなにのあやめもわかぬ事なれば、
  おもしろき景気も色も香もなき事なれ共、歌人の眼は各別にて、こころのいたらぬ
  さかひもなし。此の心にて観念すべし』 といへり。」
 という優れた評釈あり。

<4>日本人の「見えぬものを見る美学」

 家持の歌が展開した「黒と白のモノトーンの世界」は「おもしろき景気も色も香もなき世界」での
「えも言えぬ美的空間」となっている。
 家持より約200年後、平安朝以降の時代に於ける「見えぬ物を見る美学」の例を紫式部以下の
文化人に当たってみると、一例、紫式部の百人一首第57番歌を引用できよう。
    「めぐりあひてみしやそれともわかぬまにくもがくれにしよはのつきかな」
 
 日本人は「月」を詠むのに必ずしも、満月ではなく、三日月などの欠けた状態を趣があると
見たり、見えない月を見ることを月見の一つにするという一種の美学を創り出している。


************ 4−1。源氏物語「すめる月」「見えぬ月」 **********

   「澄める月」の代表的描写(「朝顔」巻、光源氏のことば)
   「時々につけて、人の、心を移すめる、花・紅葉の盛りよりも、冬の夜の澄める月に、
    雪の光あひたる空こそ、あやしう、色なきものの、身にしみて、この世の外のことまで、
    思ひ流され、おもしろさもあはれさも、残らぬ折なれ。」

   「天気が悪くて月が隠れている、あるいは、月がない頃の出来事は「源氏物語」では、
    例外的である。」(林田孝和ほか「源氏物語事典」(大和書房)2002年)ということ
   で、「見えぬ月」をわざわざ言及している所はないという。
    従って物語の中ほど「雲隠」の巻は、衝撃的である。かつ紫式部は、敢えて文章不用と
   見た作家的工作も天才的である。
   因みに、「月は、雪や花と並んで親しまれる風物でありながら、眺めるのを忌むという
   月の俗信があった。」(引用文献:前出)ということで、「見えない月」というより
  「見ない月」ということになる。
   
   因みに、清少納言の月は、「ごく常識的な季節の月が多く採りあげられて
   いる」(枕草子研究会編「枕草子大事典」(勉誠出版)平成13年4月)とのこと。


********** 4−2。鎌倉期の知識人の「見えない物」への拘り **********

    古典文学にその名を残す鎌倉期の知識人達の「見えないもの」へのこだわりは、
   (悪く言えば、<やせがまん>か、あるいは、無い物ねだりをしない<あきらめのはやさ>か、
    <おくゆかしさ>か。)
    定家詠「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」という歌の中に
   「やせがまん」「諦めの早さ」などと言えるところがあるのか。
    定家より少し時代が下がる鎌倉初期の知識人の「月見」の考えを引用してみる。

(イ)鴨長明の「無明抄」
   「・・・霧の絶え間より秋山をながむれば、みゆる所はほのかなれどおくゆかしく、
    いかばかりもみぢわたりておもしろからむと、かぎりなくおしはからるるおもかげは、
    ほとほとさだかにみむにもすぐれたるべし。・・・」
    (出典:冷泉為人「百人一首についてー日本人のこころをめぐってー」
   (財)小倉百人一首文化財団 百人一首ゆかりの史跡を尋ねて 平成18年4月27日 於上賀茂神社

(ロ)吉田兼好の「徒然草」(第137段)
   「花はさかりに、月はくまなきをのみ見る物かは。雨に向ひて月を恋ひ、たれ込めて春の
    行方知らぬも、なほあはれになさけふかし。咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭など
    こそ見所おおけれ。・・・ 
    望月のくまなきを千里の外までながめたるよりも、暁近くなりて、待ち出たるが、
    いと心深う、青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたるに、木の間の影、うちしぐれ
    たる村雲がくれのほど、またなくあはれなり。・・・
    すべて、月・花をば、さのみ目にてみるものかは。春は家を立ちさらでも、月の夜は
    閨のうちながらも思へるこそ、いとたのもしう、をかしけれ。・・・」

 「見えぬ物を見る美学」の典型は、平安期和歌世界の「歌枕」であり、中世の「能」や「狂言」、
また、俳句も見方を変えれば、最小限の言葉を使いながら、より多くの「見えぬ世界のイメージ」を
鑑賞者にふくらませられるかが、句の良し悪しになるのではないか。
 さらにこの考えを拡大解釈して、近代の「落語」も一種の「見えぬ物を見えるように見せる芸術」
ではないか。


************* 4ー3.和歌世界の「歌枕」 ****************

 日本文化の中に於ける「歌枕世界」も見えないものの事例となろう。      
(イ)歌枕の役目 
   「万葉集」やその後の「勅撰和歌集」の年月を通して、日本民族は「やまとうた」の和歌を
   民族の伝統文芸に創り上げ(古今集仮名序など)、「歌枕」という文化伝承のための道具を
   考案して和歌に導入し、「歌枕」に日本の風景を切り取って千年後の現在へ送り込んで
   きた。<「歌枕」は日本民族の知恵の結晶>
(ロ)昔の人々の異郷風物への憧れ
   自由に行動が出来なかった時代の人々の生活空間は誠に狭いものであり、先祖から
   伝承された世界を受け継ぐために「語り継ぎ、言い継」がれてきた口承世界や物語世界が
   主体であった。その環境下で異郷風物への憧れを満足させるに「歌枕」は打って付けのもの。
(ハ)「歌枕」の再評価
   平成時代の「歌枕」を実地体験することによって、そこから嘗ての人々が共有した「歌枕」と
   その提供した空想世界へ思いをめぐらすことが現代人の為すべき事であろう。
   すなわち次のような時間的および空間的思考交差パターンが考えられる。
   中古、中世の歌人達、たとえば、百人一首歌人達は、「歌枕」という乗り物を創出して、
   空間的に移動困難であった「歌枕世界」を逍遥した。
   「歌枕世界」の実景を体感できる現代人は、「百人一首」などの和歌集という乗り物に
   乗って、時間的に移動困難である「百人一首歌人達の歌枕世界」を体験したいところ。
   

************* 4−4。「能」「狂言」世界の舞台芸術  *************

(イ)舞台設定
   中世からの芸術「能」「狂言」の舞台は、四本の柱に支えられただけの六メートル四方の
   「限定された、また切り取られた空間」に過ぎない。役者はこの狭い空間で、ありとあらゆる
   世界を演じ、展開してみせる。
    またこれらの舞台は、西欧の平面的舞台(額縁舞台)と違って三方から観衆が鑑賞している
   よろずの物が創出される「魔法の空間」である。楽屋から舞台への「橋掛り」は、あの世と
   この世の架け橋と見なされている。舞台装置から既にこの世で見えぬ物を見えるように設えている。
   西洋の演劇では見られない舞台設定。
(ロ)空間的・時間的設定
   空間的には、現実の世界はもとより、幻想の世界、夢の世界、天国や地獄、時間的には、
   過去・現在・未来いずれの時間でも演じられる。
   正に、「見られぬ世界」を「見ることが出来る世界」に仕立て直して、観衆の前に「見せる」もの。
   舞台上の演技者が観客に「無限の夢幻的イメージ」が作れるように仕向ける。
   現代の映画手法とは異なり、観衆に数段高度な精神的演技協力を要求する特殊芸術でもあろう。
    

************* 4−5.座して諸世界を演じる「落語の世界」***********

(イ)舞台設定
   「落語」の世界は、「能」「狂言」の演劇舞台よりさらに限定された「座布団一枚」の世界に
   座しての手八丁、口八丁での「笑いの世界創出芸術」である。
   落語は、十七世紀の初め頃、難波と江戸で、興ったとされる。
(ロ)観衆との共同創作世界
   彼らの道具は、扇子に手拭いがせいぜいでこの僅かの演技用道具をあれこれに使い分けて、
   いろいろの笑い世界を「見えるように」また「見てくれるように」時間的および空間的設定を
   こなしていく。観客が充分に対応してくれないと笑い世界は展開しない。
    西欧社会では、これに匹敵すると思われる芸術に「パントマイム」という寸劇が
    伝承されているが、創出できる世界は誠に単純で、「落語世界」のごく僅かの部分にしか
    相当していないではないか。まして、笑いの世界の広さ深さにいたっては、とても
    「パントマイム」が「落語」に対抗できないのではないか。

<参考・その1>大伴家持の七夕歌13首

 *万葉集に家持の七夕歌は13首有り、作者名のある歌中で最多で、家持は重要な七夕歌人になる。
  長歌 1首 巻18-4125番
  短歌12首 巻17-3900番、巻18-4126,4127番 巻19-4163番,巻20-4306〜4313番(七夕歌八首) 
 *万葉集の七夕歌のほとんどは彦星が織女に逢いに天の川を渡っていくのに対して、前述の家持初の
   七夕歌(巻17-3900番)は、唯一織女星が船に載って牽牛星に逢いに行く歌になっている。
 *「家持七夕歌群」の特徴を、研究論文などを参考に、要約する。
  (引用文献:高橋六二「家持の七夕歌」ー神野志隆光・坂本信幸「セミナー萬葉の歌人と作品
        第九巻大伴家持(二)」和泉書院(2003年7月30日))

 (1)歌会や饗宴の場での詠歌ではなく独詠である。(一首予作を含む)
 (2)憶良歌(12首)や漢詩の影響を受けている。ただし、憶良の歌は、織女の立場での詠み歌が
    5首、彦星の立場の歌は1首、他は第三者的な七夕状況説明歌のようになっている。従って
    家持歌の方が、彦星への感情移入の度合いが多い、環境設定が色彩的である、時間的位置付け
   (時系列的詠み)が感じられる、などの相違が認められる。
 (3)日本神話の伝説も念頭にある。
 (4)七夕の伝説そのものを詠むことから、一歩進んで、平安朝の題詠「逢わざる恋(不逢恋)」
    にも通じる「恋人の逢えない嘆きの心情」に焦点が集中している。   
 (5)十六年間(天平十年・738〜天平勝宝六年・754)の時々の詠で、所も4首は越中で、
    残り9首は京で詠まれている。

 特に天平勝宝六年の七夕八首は上述の4項の特徴が見られ、彦星の立場での詠みが八首中
6〜7首を占めています。加えて文献では、「季節の景物を多く詠み込んでいる」点に注目して、
家持は七夕歌において「空想の域から有機的に美化されたものに転換すること」に成功していて、
「七夕によってはっきり秋という季節を意識」し、「その景物を歌うことで自分の歌を成り
立たせよう」と意図している。さらに「それによって好季を招来しようとしたのだ」と推察されている。
「七夕歌八首」は、逢会の時系列的順序に敢えて並べ替えると、次のようになろう。

 (1)4308番 「初尾花花に見むとし天の川へなりにけらし年の緒長く」
 (2)4307番 「秋といへば心そ痛きうたてけに花になそへて見まくほりかも」(彦星の詠み)
 (3)4309番 「秋風になびくかわびのにこくさのにこよかにしも思ほゆるかも」(同上)
 (4)4310番 「秋されば霧立ち渡る天の川石なみ置かば継ぎて見むかも」(同上)
 (5)4313番 「青波に袖さへ濡れて漕ぐ舟のかし振るほとにさ夜更けなむか」(同上)
 (6)4306番 「初秋風涼しき夕べ解かむとそ紐は結びし妹に逢はむため」(同上)
 (7)4311番 「秋風に今か今かと紐解きてうら待ち居るに月傾きぬ」(織女の立場での詠み)
 (8)4312番 「秋草に置く白露の飽かずのみ相見るものを月をし待たむ」(彦星の詠み)

 なお、引用文献では、前半4首(4306〜9番)は立秋前後の牽牛の立場、後半4首(4310
〜13番)は、逢会間際に二星の立場と解説されている。 
 因みに後述「百人一首歌」の趣向に関わる歌語の中で、特に「夜ぞ更けにける」に通じる心情を
籠めている歌は4313番歌ということになろう。

<参考・その2>「家持集」の七夕歌

 新古今集に家持歌として撰歌されている出所は、私家集「家持集」雑歌・268番によっている。
 「家持集」七夕歌、「鵲」「鵲の渡せる橋」などは、どのように盛り込まれているのか。
 318首の「家持集」部立ては、「早春」「夏歌」「秋歌」「冬歌」「雑歌」となっており、
意外と多くの「七夕の歌」が収集されている。

 (1)「秋歌」では97番歌から106番歌まで9首あり、共通の歌語は「あまのかは」である。
    しかしいずれの歌にも「かささぎ」「しも」「しろ」などは歌われていない。ただし「夜更け」は、
    二首(99番、100番)に「夜の更けぬ時」と詠み込まれている。
 (2)「冬歌」の中で「あまのはら」が詠まれている歌あり。
    「いまさらに待つ人こめやあまのはらふりさけみればよもふけにけり」(164番歌)
    言い馴らされた詞群を繋いだだけという感なきにしもあらずで少し陳腐な感じが残る。
 (3)「雑歌」では、195番から218番まで合計24首が「七夕」関係の詠みとなっている。
   「七夕」縁語を拾うと、「あまのがは」16首に、「あまのかはら」3首、その他に
   「ひこぼし」「たなばた」などで、「かささぎ」は次の2首に詠まれている。
    「かささぎのはしつくるよりあまのがは水もひななんかはわたりせん」(206番歌)
    「かささぎのつばさにかけてわたすはしまたもこほれぬこころあるらし」(213番歌)
 (4)第五句に「よぞふけにける」を用いた歌。
    「ひととせになぬかのよのみあふことのこひもつきねばよぞふけにける」(209番歌)

 問題の歌は、これらの一連の「七夕歌」から離れた268番歌として、前後を紅葉の
歌に挾まれて挿入されているので、ますますもって「七夕」の歌とは言いにくい位置付けになっている。
 「かささぎのわたせるはしにおくしものしろきをみればよぞふけにけり」(268番歌)
 さらにそれに続く歌の中にも「七夕」関連歌も散見される。
 「ひこぼしのつまよぶふねのひきつなのそらにたえんとわがおもわなくに」(300番歌)
 「あまのがはあさせしらなみかきたどりわたりはてねばあけぞしにける」(304番歌)
 この辺の「七夕」詠みの歌は、どうも滑稽歌並の詞遊び、歌作にのみ詠んでいるという感あり。
 以上、「家持歌」を順番に辿ってゆきますと、当該百人一首歌は一義的に「七夕の歌」としがたい。

 (注)「家持集」の存疑点
 この「家持集」の歌には次の歌群のように、どこかで聞いたような歌、単なる言語遊戯に
過ぎないのでは、と思われるような歌もあり、確実に全部の歌が家持の作品とは言い難い。
 「あきのたのかりいほつくりわがをればころもでさむしつゆぞおきける」(132番)(万10-2174)
 「ゆふさればころもでさむしみよしののたかまの山にみゆきふるらし」(140番)(万10-2319)
 「わがせこをいまやいまやといでみればあはゆきふれりにはもほどろに」(146番)(万10-2323)
 「あしひきのやまのしろきはわがやどに昨日のくれにふりしゆきかも」(150番)(万10-2324)
 「たちばなのみさへはなさへそのはさへふたさへいれどまさるときなき」(158番)(万6-1009)

 家持の歌で重要な歌語になっている初句の「かささぎ・鵲」なる鳥は、本来大陸から移入された
外来の鳥で、萬葉時代には未だ日本人は殆ど見ていないし、万葉集に鵲は詠み出されていない。
 これは多分に中国文学の影響を受けて、見ていない物でも想像を働かせて描いてみせる和歌の世界
の藝でしょう。日本書紀には、推古帝の御代に新羅王から鵲二羽が献上されたという記述あるが、
近世豊臣秀吉が朝鮮出兵時に持ち帰り、現在は九州北西部にのみ棲息している。

<参考・その3>百人一首家持歌の歴史的解釈

************* (I)「かささぎのわたせるはしにおくしも」 ***********

(1)霜満天説(イ)細川幽斎「百人一首抄」(幽斎抄)(慶長元年・1596):
         「鵲のはしは、ただ天のことなり。」「眼前に降りたる霜にはあらず」
       (ロ)後陽成天皇「百人一首抄」(後陽成抄)(慶長十一年・1606):
         「七夕のことに非ず。唯霜が天にみちたる体也。」
       (ハ)戸田茂睡「百人一首雑談」(雑談)(元禄五年・1692):
         「七夕のことにはあらず。天をさして云也。」
       (ニ)里村紹巴(出典:早川自照編「七家輯叙小倉百人一首」昭和15年12月):
         「鵲橋はあらはしはべらずとあり唯天の事也、七夕に用うるとは相違せり、」
       (ホ)太田白雪「百人一首解」(享保二〇年・1735頃):
         「ただ天の事也。歌の心は霜天満と云義也。」

(2)七夕橋説(イ)北村季吟「百人一首拾穂抄」(拾穂抄)(天和元年・1681):
         「七夕の夜のこと」「天上の鵲のはしにやなどおもひそへて」
       (ロ)下河辺長流「百人一首三奥抄」(三奥抄)(貞亨三年・1686以前):
         「淮南子に、七月七日夜、烏鵲河に填ちて橋と成して、織女を度す、といへる」
       (ハ)契沖「百人一首改観抄」(改観抄)(元禄五年・1692):
         「(三奥抄に同じ)」「歌のならひは、かく冬の夜のことにも用るなり。」
       (ニ)窪田空穂ほか「日本古典文庫12」河出書房新社(昭和51年・1976):
         「鵲が翼を連ねて渡す橋」
       (ホ)大岡信「百人一首」講談社文庫(昭和55年・1980):
         (両説を紹介しながらも、「鳥の群れが大空に架ける橋の幻想味は捨てがたい」) 
       (ヘ)石田吉貞「定家復原百人一首」桜楓社(昭和60年・1985):
         「鵲が渡して男女の星を逢わせてやった橋」
       (ト)田中裕ほか「新日本古典文学大系11」岩波書店(平成4年・1992年):
         「鵲が架けたという大空の橋」
       (チ)久保田淳「新潮日本古典集成I(第24回)」新潮社(平成4年・1992年):
         「かささぎが渡した天の川の橋」
       (リ)有吉保「知識ゼロからの百人一首」幻冬舎(平成18年・2006):
         (両説を採りあげながらも、七夕橋説が定家の撰んだ新古今集時代に相応しいとする)

(3)宮中御階説(イ)栗本英暉「百人一首解」(宝暦六年・1756):
         「宮中の御階にたとへるなり。」
       (ロ)賀茂真淵「宇比真奈備」(明和二年・1762):
         「厳かなる宮中の冬の夜に御橋の霜の白きを見て、夜の更けたる事をしるといふなり。」
         「天に満ちたる霜の事といへど、そは霜の気のさまばかりなり。実の橋の上に
          おきたる霜ならずは白きを見ればと言ふべからず」
       (ハ)衣川長秋「百人一首峯のかけはし」(峯のかけはし)(享和元年・1801):
         「禁中の御橋を天漢の烏鵲橋になずらへいふ事は、詩にも見えたり。」
       (ニ)斉藤彦麿「嵯峨の山ふみ」(文化十三年・1816):
         「内裏の橋の上に霜置きて、しろじろと見ゆれば、さては、いたく夜更けに
          けるよといふのみ也。」
          (ホ)尾崎雅嘉「百人一首一夕話」(一夕話)(天保四年・1833):
           「禁中に宿直して冬の夜に禁庭の御階の辺りに置き渡したる霜の真白なるを見れば、
            誠に夜の更けたるよ」
          (へ)佐佐木信綱「百人一首講義」博文館(昭和5年・1930):
           「禁中の橋の上に、ふりかける霜の真白なるを見れば、夜ははやいたくふけたり」
          (ト)久松潜一ほか「日本古典文学大系28」岩波書店(昭和33年・1958):
           「天上の橋になどらえて、ここは禁中の御階」
          (チ)石田吉貞「新古今和歌集全註解」有精堂出版(昭和39年・1964):
           「禁中の御階に置いている霜が真白なのをみると、今夜はもうだいぶ夜が更けたわい」
           と禁中宿直の時の歌と解される。 

(4)その他 (イ)香川景樹「百首異見」(文化十二年・1815):
         「初二の句はただ霜をおこさん序のみにおけり」 
       (ロ)島津忠夫「百人一首」角川文庫(昭和53年・1978):
         「鵲が翼を連ねて渡したという橋」と現代語訳をしつつ、「宮中の御階に、
          従う説が多く、定説になろうとしている。」と解説を付している。
       (ハ)久保田淳「日本の文学 古典編27ー百人一首秀歌撰」ほるぷ出版(昭和62年・1987):
         「かささぎの橋は直接は宮中の御階を見ながら、想像上の天空の烏鵲橋をありありと
          幻視しているのだと考えておく。」
       (ニ)小町谷照彦「新訂百人一首」文英堂(平成2年・1990):
         (結論を避け、両説並行して紹介している)
       (ホ)安東次男「百人一首」新潮文庫(平成4年・1992):
         (両説を引用しながら、「古様(漢詩の世界など)やら、想像の拡がり(天上の霜の
           発想など)が現れている。」)
       (ト)鈴木日出男「百人一首」筑摩書房(平成4年・1992):
         (宮中の御階を天の川の鵲橋の見立てとしつつも、「地上の階から天の川の橋へと
          視界が広がっていく」)


**************** (U)「夜ぞ更けにける」 *****************

(1)夜半のこと(イ)下河辺長流「百人一首三奥抄」(三奥抄)(貞亨三年・1686以前):
           「此の歌を暁がたの心にいふは誤れり。夜半過ぐる比をいふ。」
          (ロ)契沖「百人一首改観抄」(改観抄)(元禄五年・1692):
           「夜半過ぐる比をいふ。暁がたのこころと思ふべからず。」

(2)寒い夜のこと(イ)香川景樹「百首異見」(文化十二年・1815):
           「夜は更けたりな、ふけにけりと、かへりて思ひさだむるに、寒夜のさま身にしむる歌なり。」
          (ロ)太田白雪「百人一首解」(享保二〇年・1735頃):
           「寒キ夜ハ霜も満ちたるやうにおほゆるの心也。」

(3)世の衰えの喩え(イ)多田義俊講述「龍吟明訣抄」(享保八年・1723):
           「芝山廣豊聞書云。・・・人のいのちもきのふよりけふはつづまり王位も
            次第におとろひ末世になりたるといふ義を含みて・・・」
          (ロ)玉田永教「百人一首夷曇」(江戸後期1836年まで):
           「天地開闢より陰陽の道今に替らさるに人君道を失ひ陰陽を乱り給ふ世の末と
            云を夜そ更けにけりと詠しなり。」

(4)忠勤の心構えの喩え(イ)坂静山光淳「百人一首師説秘伝」(延享四年・1747):
           「君の御側に居て、・・・いつか夜ハ更て霜おくほとになりたると忠心の実を
            はき出したるなり。身を忘れて勤るハ難有心也。」

(5)人待ちの心情の婉曲表現(イ)堀勝博「鵲の渡せる橋に置く霜の」和歌文学研究・第六十号(平成二年四月):
          (@)ただ単なる時刻表示でない。
          (A)逢いたい人に逢えぬままに、いたづらに夜が更けていく。
          (B)七夕に因んで切実に来訪者を待つ人の気持ちを背景に持つ。

(参考文献集)○吉海直人編・解説「百人一首研究資料集」第三巻 注釈二(株)クレス出版(2004年3月25日)
           ○百人一首注釈書叢刊5-20 和泉書院 (1993年2月〜1997年6月)
           ○堀勝博「鵲の渡せる橋に置く霜の」和歌文学研究・第六十号(平成二年四月)など

<参考・その4>家持歌の音韻的特徴 

 家持歌の歌語をローマ字で書き替えると、

  「kaSASAgino wataSEruhaSHIni okuSHImono SHIrokiwomireba yozofukenikeru」

 「さ行」の音が各句に含まれ、「SAewataru SHImoyono」を連想させる。

  家持歌の歌語を更に意図的に「さ行」音に替えると、

    ★「冴(さ)え渡る天の川原に霜(しも)降りて
          深(しん)夜に白(しろ)し鵲(かささぎ)の橋(はし)」
  ★「鵲(かささぎ)の渡せ(せ)る橋(はし)に霜(しも)白(しろ)し
          冴(さ)ゆる静寂(しじま)の深(しん)夜過(す)ぎゆく」
  ★「深(しん)更の鵲(かささぎ)橋(はし)に霜(しも)白(しろ)し
          しのに更けゆき夜寒身にしむ」

<参考・その5>百人一首家持歌の英訳例

 四編の百人一首歌英訳例 (引用資料:吉海直人編「百人一首研究資料集 第五巻 英訳百人一首」
                    (株)クレス出版 (2004年3月25日))
(その1)F.V.Dickens(英国人)の訳(1865・ロンドン)
          Chiu-nagon yaka-mochi
       Upon the bridge where ravens aye,             (ravens:Kasasagi)
        Do love to perch when hoar-frost's sheen,    (perch:come to rest)(sheen:lustre)
        When hoar-frost's whitening film is seen,    (hoar-frost:white frost)
       I trow the break of day is nigh.              (trow:think)(nigh:near)

(その2)F.V.Dickens(同上)(1866・ロンドン)
          Chiu-nagon Yakamochi
       Upon the bridge where ravens,aye,             (aye:ever,always)
        Do love to pass where hoar-frost's sheen,
       When hoar-frost's glittering film is seen;    (glitter:shine brightly)
        I trow the break of day is nigh.

(その3)F.V.Dickens(同上)(1909・ロンドン)
         Now night doth laten,
       for on the Magpie Bridge I                    (Magpie:Kasasagi)
         see hoar-frost's shimmer,                   (shimmer:gleam faintly)
       the wing-wove bridge recalling
       bears lovers o'er Heaven's River.  

(その4)野口米次郎(慶應義塾大学英文科教授)の訳(明治40年・1097・月刊誌早稲田文学)
    Must be done the night;
        Over the Kasasgi bridge in the sky,
        The frost white, I see,
        Is set already.

   野口教授の英訳例のあと引き続いて、明治末に小宮水心(明治41年)や斉藤英三郎(明治42年)が
  新たな英訳例を発表している。 

<参考・その6>家持歌のパロディ集

(1)異種百人一首関係パロディ集
「小倉百人一首」の変則形態としての「異種百人一首」が15世紀頃から出始め、その嚆矢は「新百人一首」
(足利義尚撰文明十五年・1484)で、その後引き続いて「武備百人一首」(天文二〇年・1551)、
「武家百人一首」(万治三年・1660)、「江戸名所百人一首」(寛文三年・1663)など世に出た。
 18種「異種百人一首」より、大伴家持の第六番歌を抽出した。参考:錦生如雪の「異種百人一首」四首。

      1.鴨鷺のむれゐるはたはべんてんの不忍みれば気もはれにけり(上野不忍池の風景)
    2.嬶(かか)が身の沙汰せる恥にあく顔の白きを見れば気ぞ付きにける(女房の浮気噂) 
    3.かざりよく渡せる糸のおく琴は仕立ててみれば良き音〆(ねじめ)なり(琴三味線師)
    4.傘さして渡せる板にほそ飴の白きを見れば粉ぞふきにけり(目黒不道門前川口屋)
    5.傘さして行くとも人にゆき当たるそれば喧嘩のもととなりける(往来の喧嘩)
    6.傘さしてわたせる菓子におこし飴じろりとみれば粉ぞふけにける(4に同じ)
    7.仲人の渡せる橋に置く霜の白きをも見つ又色直し(花嫁のお色直しの艶姿)
    8.鵲の渡せるはしも空に見て年に幾たび逢ふ瀬うれしき(芸妓通い)
    9.蕎麦売りに声細々と行灯の白きをみれば夜ぞ更けにける(夜鳴き蕎麦やの流し)
   10.笠をきて通る娘のおもざしの白きをみれば皆ぬけにける(娘に関心)
   11。行灯の消へかかりたる奥座敷白きをみれば夜ぞ更けにける(寝入った屋敷内)
   12.其儘に置く下の句をかり橋の白きを見ればよぞふけにける(下の句は本歌を借る)
   13.辻君の戻ると見えて白粉の白きをみれば夜ぞ更けにける(夜鷹が夜道を戻る)
   14.大星も光隠して出る城の白きをみれば夜ぞふけにける(大星由良之助「城明け渡し」)
   15.宵の間の狂言してもあんどうの白きを見れば夜ぞ更けにける(時間の掛かる言い訳)
   16.自身番鉄棒絶えて行灯の白きをみれば夜ぞ更けにける(火の用心の夜回り)            
   17.日本橋渡せる橋もつつがなし白木をみれば無難なりけり(安政の大地震)
   18.かささぎの渡せる橋に涼む人の白きを見ればふどしなりけり(鴨川の夕涼み床風景)
   19.行く雁の渡せる橋に掛かる月さやけさいや増し秋は更けゆく(「組み替え百人一首」)
   20.若禿を装ひ包みおく髪の白きを見ればとしふりにけり(「勤労百笑」)
    21.天の河湧きて流るるきらら星空に溢れて光り降り来る(「初学白首」)
   22.秋暮れて雲流れゆく西山の月に渡せる雁の橋(「雑歌百番」)

(出典)1.「江戸名所百人一首」近藤清春撰 (寛文三年・1663)
    2.「犬百人一首」歯双庵撰      (寛文九年・1669)
    3.「今様職人尽百人一首」近藤清春撰 (享保年間)
    4.「どうけ百人一首」近藤清春撰   (享保十年・1725)
    5.「男女教訓百人一首宝蔵」撰者不詳  (天明七年・1787)
    6.「校合道化百人一首」山東京伝    (寛政二年・1790)
    7.「貞柳翁狂歌全集類題」永田善八    (文化六年・1809)
    8.「祇園名妓百人一首」春川五七     (文政三年・1820)
    9.「狂歌百人一首闇夜礫」鱗斉一鱸撰     (文政九年・1826)
   10.「おかげまゐり百人一首」撰者不詳     (文政十二年・1829)
   11.「百人一首地口(じぐち)絵手本」松斉芳宗画  (嘉永五年・1852)
   12.「蜀山先生狂歌百人一首」大田蜀山人(太田南畝)(天保十四年・1843)
   13.「串戯(どうけ)百人一首」戯劇(どうけ)山人  (弘化四年・1847)
   14.「新板しばゐ百人一首」梅廼屋垢山人         (弘化五年・1848)
       「戯場百人一首」諫鼓堂尾佐丸(かんこどうおさまる)
   15.「絵本道化 芝居百人一首」諫鼓堂尾佐丸(かんこどうおさまる)撰(不明)
   16.「教歌(おしえうた)道化百人一首」二世為永春水   (嘉永五年・1852)
   17.「江戸時代落書類聚」
   18.「狂歌机の塵」永田貞竹
 19〜22.「百人一首のかるた箱」錦生如雪(平成十一年・1999)

(引用資料)(その1):吉海直人編「百人一首研究資料集
      (その2):武藤禎夫「江戸のパロディ・もじり百人一首を読む」東京堂出版(平成10年12月30日)
      (その3):西本護「爆笑パロディ百人一首」京都新聞出版センター(2006年1月21日)  

(4)「家持歌」の江戸川柳集

   *「かささぎの橋を越えると天の原」(誹風柳多留)
      この川柳はなかなかのできで、鵲の橋を渡ると廣い宇宙があるということと、家持の歌(第6番)の
      次の第7番歌は安倍仲麿の「天の原ふりさけ見れば・・・」が続くことによる。
   *「中な言いへ持ちと読む新大家」
      大家さんになりたてが「中納言家持」をつい「いへもち」と読んでしまったという。
   *「百人のうちに大家は一人なり」
      百人一首歌人で、「家持ち」は、歌人「家持」だけというわけ。
   *「置く霜の白きは見せぬ日本橋」
      人通りの多い日本橋には霜は降っても踏み消されてしまうという喩え。

 (引用資料:阿部達二「江戸川柳で読む百人一首」角川選書328(平成13年11月30日))

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平成24年10月1日 *** 編集責任・奈華仁志 ***

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