平成社会の探索

<「知恵の会」への「知恵袋」>

ー第109回知恵の会資料ー平成24年7月15日ー


(その54)課題「ただよう(漂流・漂泊)」
ー「由良の門をわたる舟」ー
 目     次 
<1>曽祢好忠百人一首歌の疑問点
<2>「由良」三所
<3>「ただよう」擬態語「ゆら」
(参考メモ・その1)曾根好忠歌歌碑
(参考メモ・その2)曽祢好忠歌の川柳・パロディ

<1>曽祢好忠・百人一首歌の疑問点

 百人一首歌で「漂う三首」とは、
     第32番歌 [山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ紅葉なりけり](春道列樹)
     第46番歌  [由良のとを渡る舟人かぢを絶えゆくへも知らぬ恋の道かな](曽祢好忠)
     第69番歌 [嵐吹く三室の山のもみぢはは龍田の川の錦なりけり]   (能因法師)
 以下に「由良の門を<漂う>好忠」をとりあげます。

 百人一首 第46番歌  [由良のとを 渡る舟人 かぢを絶え ゆくへも知らぬ 恋の道かな]

 歌意 (潮の流れの速い)由良の瀬戸をこぎ渡っていく舟のりが、楫(櫓・櫂)を失って
     行く先もわからずに漂うように、これから先、どうしてよいかわからない(頼りない)
     恋の行く末であることよ。
 技法  上三句の序詞は、速い潮の流れ、楫を失った舟を詠むことによって不安と孤独とを暗示し、
     下二句の頼りない恋の心情に関連しているという「有心の序」とされる。
                  (出典:小町谷照彦「新訂小倉百人一首」(1990年)文英堂)

 疑問点・その1
     由良のと=「由良」は、和歌山県、兵庫県、京都府などにある地名であるが、
           作者の任地(丹後)から判断して、京都府の由良川が若狭湾に流れ込む
           辺りとされる。
     付言:「由良」は序詞の一部として詠われているので、好忠がこの歌を何処で、あるいは
        何処を念頭に置いて詠んだか確定する必要はないが、縁りの地を求める人には
        探索の対象になる。

 疑問点・その2
     かぢをたえ=(1)かぢ(名詞)を(格助詞)たえ(自動詞ヤ行下二段活用連用形)
              「かじをなくして、または 失って」など。(<絶やす>が正しい語法) 
           (2)かぢを(名詞:<楫・舵・梶>+<緒>) たえ(自動詞ヤ行下二段活用連用形)
              「かぢがなくなり、または はずれて」など。
     付言:いつも潮の速い流れのところを往来して海路を知り尽くしている舟人が、そう簡単に舟の操縦を
        間違って楫を無くする、あるいは、楫がなくなってしまうわけでなかかろう。あくまでも
        比喩としての情景を導き出すための詠みで、「楫の無くなった舟は操縦が不可能になり」
        海上を「漂う」状態を引き出す序詞を構成する歌語群であるから、
        「楫のない舟が波間を<漂う>ように、あるいは、ごとくに」と解釈する。

<2>「由良」各所

 <各地の由良>
 好忠の歌に詠まれている「ゆらのと」と称される所は、畿内周辺では、次のような三、四箇所を
引用することが出来ます。

(その1)丹後国与謝郡の<曽丹の由良>
  京都府宮津市に現在編入されている由良川の河口付近です。由良川は川口からかなり上流まで、川底が深く、
 福知山や綾部までの船便に便利であった往時、由良湊と由良川は行き交う舟で賑わいを見せていたのでしょう。
  因みに「由良の湊」は由良川口左岸の商い盛んなところで、森鴎外の「山椒大夫」でも有名な所です。
 現在では、夏場の海水浴場のリゾート地帯として賑わいを見せます。

(左)舞鶴・由良・宮津地区の地図(右)丹後由良駅付近の地図

由良の門の航空写真(左)海上から上流を望む(右)東から西へ海岸線を望む

(左)由良川河口左岸より栗田湾口を望む(右)由良湊風景(現代の船人の渡り舟)
(その2)淡路島由良
 兵庫県淡路島津名郡(現在の洲本市)由良町は淡路島東南端にあって、紀淡海峡の由良瀬戸に面している
湊町として発達。


(上)紀淡海峡付近の淡路島由良周辺(下)南紀由良町付近

各地の「由良」:北より、丹後の由良、淡路の由良、紀伊の由良
(その3)紀伊國日高郡由良
 和歌山県日高郡由良町の由良は、紀伊水道の由良湾に面している。もと海部郡に属し、江戸時代から廻船の
寄港する湊町として栄えたところ。この地区には白崎海岸県立自然公園や興国寺がり、
北側は醤油の発祥地とされる湯浅町です。この「湯羅」あるいは「湯等」には万葉集の歌があり、
歌枕としても歴史の感じられる所です。
 「由良のと」と詠われる時は、紀淡海峡の由良の瀬戸が歌枕となっている。曽祢好忠の曽丹集(11世紀)では、
京都府宮津市由良川河口が歌枕として加わってきたとみるべきか。

 「いもがため玉を拾(ひり)ふと紀伊の国の由良の岬にこの日暮らしつ」(巻七・1220・読人不知)
 「朝開きこぎ出でてわれはゆらのさき釣りする海人を見て帰りこむ」(巻九・1670・読人不知)
 「由良の崎潮干にけらし白神の礒の浦廻をあへて漕ぐなり」(巻九・1671)
 「きのくにや由良の港に拾ふてふたまさかにだに逢ひ見てしかな」(新古今集・1075番)


 以上の三所は、日本海から太平洋まで、日本標準時子午線沿いの地であることは、興味のあるところです。
  (上図右側・近畿地方の地図参照方)
 なお、各地に残る「ゆら(ゆり)」の地名は、風が砂を「ゆり」上げて出来た地の意味であるという。


(その他)伯耆由良
 鳥取県大栄町もと東伯郡由良町で、由良川河口大栄町で、江戸時代は伯耆街道の「由良宿」の
宿場町であったところです。

(左)鳥取県東伯郡大栄町周辺の地図(右)由良宿付近の地図
 以上の「由良の門」の候補地の内、好忠が歌枕としたのは、「丹後掾」の役職名からの渾名「曽丹」
といわれ、丹後との関係が深いため、多分に丹後の由良の詠みであろうとされていますが、この地で
なければならない絶対的な必須の事柄ではありません。他の所でもそのようによみとればいいのでは
とおもいます。曽根好忠自身に問いただしても、異色の歌人だけにあっさりと「それは、どこどこ
です。」とは言わなかったのではと思います。「読む人がそこだと思うところを感じ取ってくれれば
それでいいでしょう。」とでも答えたのではないでしょうか。
 因みに、曽祢好忠の百人一首歌碑は、宮津市由良磯山の脇公園に建立されているとのこと。
 歌碑情報(参考メモ・その1)参照方。。

<3>「ただよう」オノマトペ・擬態語「ゆら」

 百人一首歌は私家集「好忠集」中の百首歌の一首で、「こひ十」の第一番歌です。
 彼は、この歌を詠むとき「恋」の心情と「ゆら」という言葉を結びつけて考えて、歌語「ゆら」に
拘っているように思います。初句「<ゆ>らのと」に対応して四句「<ゆ>くへ」の<ゆ>が
また「ゆらゆらと」反応しているようです。
 次のように「ゆら」を二首に渡って詠み込んでいるからです。

 「ゆらのとをわたるふな人かぢをたえゆくへもしらぬこひのみちかな」(410番歌)
 「わぎもこがゆらのたますぢうちなびきこひしきかたによれる恋かな」(411番)(「国歌大観」)

 まさに「恋」に陥っている当事者間の心の「たま」は、「ゆらゆら」「ゆらら」の状態です。
 
 波間を<漂う>楫の無い舟に乗っている状態に相応しい擬態語は何でしょうか。
 国語辞典(小学館)では、
 (1)ゆらゆらー空中水面などに浮かんで、ゆり動いている状態。
 (2)ふらふら、うろうろー迷い歩く状態。
 (3)ふわふわー不安定な状態。
 
 擬態語・擬音語辞典(「日本語オノマトペ辞典」小学館)では、
 (1)浮く・浮かぶーぷかぷか、ぷかりぷかり、ぶかぶか、ふわふわ、ふわりふわり、ふんわり、
           ぽかり、ぽっかり  
 (2)遅い・遅れるーぐずぐず、だらだら、とろとろ、のろのろ、のたりのたり、そろそろ、
           ふらふら、もさもさ、もたもた、ゆるゆる、ゆったり、ゆるり
 そして、曽祢好忠の「ゆらゆら」「ゆらら」「ゆらり」「ゆらりゆらり」など、さらに
 「よろよろ」「よろりよろり」の関連語となる。
  恋の道に迷いつつ、あちらこちらに漂う不安定な心の状態を言い表すには、やはり「ゆら」や
「ゆらり」が相応しいでしょう。
 
   

「山川に風のかけたるしがらみは 流れもあへぬ紅葉なりけり」(春道列樹)

   

「ゆらりゆら 淀みに浮かぶ枯れ紅葉 行方も知らぬ恋の道かな」(由良舟人)

  

「もののふの八十宇治川の網代木に いさよふ波の行方知らずも」(柿本人麻呂)

 

「ゆらのとに いさよふ舟の ゆらゆらと 恋の夢路を行きつ戻りつ」(由良舟人)

参考メモ・その1「曾根好忠歌・歌碑」

 由良の村落はほんの2〜300戸ほどの地区ですが、若狭湾国定公園の一画に入る海岸地は、
夏場には丹後由良海水浴場となるため、天橋立観光協会由良支部に所属する民宿や十数階建ての
ビルディングの旅館まで姿を見せています。
 駅前の桜並木道から西の方へ旧道をとりますと、由良神社、森鴎外「山椒大夫」で有名な如意寺の
身の代地蔵、山椒大夫首塚を見ることが出来ます。さらに白岩青松の海岸美の奈具海岸方面へと足を
延ばしますと、国道178号線と交わる地点に稲荷神社があり、神社の鳥居前には「由良の門の碑」が
建っています。

稲荷神社と「由良の門」の歌碑(天保六年・1835五月十三日)
(正四位下賀茂県主季鷹)

解説板「由良の戸碑」の解説文
 天保初年、京都の歌人賀茂季鷹が若狭小浜から天橋立へ行く途中、由良の沖を舟で通った。
 曽祢好忠が詠んだ
  由良の門を渡る舟人かぢを絶え ゆくへも知らぬ恋の道かな
を思い出して、
  由良の戸に梶を絶えしは昔にて 安らに渡るけふの楽しさ
と口遊ぶと共に、好忠が丹後椽であったことを思い起こして、そのことを書き記したものが
この碑である。
 付記 裏面には、天保十二年に建立された経緯が明記されている。 由良の歴史をさぐる会

 天保十二年に建立された「由良の戸碑」に対応して、国道178号線の海岸側の公園内に
平成14年同じ「由良の歴史をさぐる会」が百人一首歌碑を建立している。


曽祢好忠の百人一首歌碑(平成14年11月建立)

参考メモ・その2「曽祢好忠歌の川柳・パロディ」

「世間をばわたる皆人中をたえ道理もしらぬ吾が心かな」(犬百人一首)
「世の中を渡る買い手の金は絶え行方も知らぬ恋の道かな」(吉原通い粋人)
「湯島なを参る皆人天神へ文字もしらぬ筆のみちかな」(江戸名所百人一首)
「由良のとを渡る山庄大夫よりからき目をみる安寿不便や」(貞柳翁狂歌全集)
「金はなし年季は長しかけおちはゆくえも知らぬ恋の道かな」(狂歌百人一首闇夜礫)
「書き置きを見れば不憫や二人連れ行方も知らぬ恋の道かな」(どうけ百人一首)


ホームページ管理人申酉人辛

平成24年6月5日 *** 編集責任・奈華仁志 ***

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