平成社会の探索

<「知恵の会」への「知恵袋」>

ー第108回知恵の会資料ー平成24年5月27日ー


(その53)課題「かげ(影・陰・蔭)」
ー地名『みかげ』の由来は?ー
 目     次 
<1>地名『みかげ』由来諸説
<2>諸説の関連情報
(1)神功皇后の「澤之井」
(2)御影の松
(3)鏡作部の銅鏡
(参考メモ・その1)武庫の「神功皇后」
(参考メモ・その2)清酒の「灘五郷」 
(参考メモ・その3)石作連の「御影石」

<1>『みかげ』の由来諸説

旧兵庫県武庫郡御影町は、明治22年(1889)御影村ほか、5村が合併して菟原郡に所属。
明治29年(1896)武庫郡に編入し、昭和25年(1950)年まで存続した。
現在、神戸市東灘区内の旧御影村地区に相当する「御影」の町名は、
御影本町・御影中町・御影石町・御影町御影・御影塚町・御影西平野・御影山手・御影浜町
などで、現在の「御影」地区を形成しています。
御影町町章(昭和4年1月制定)
「世にあらばまた帰り来む津の国の御影の松よ面変りすな」
古歌に詠われる「御影の松」に因んで三本の松葉を組み合わせたもの
 地名「御影」の由来は何か。地名辞典(注1)に依りますと、次の諸説が引用されています。
  (注1)「角川日本地名大辞典28・兵庫県」昭和63年10月)

 (1)神功皇后が此の地の泉の水に姿を写した事による(出典:「御影町誌」)
 (2)河内国魂(くにたま)神社(現在の神戸市灘区国玉通三丁目)の古い祭神・天御影命の名に因む。
    (出典:「西摂大観」)
 (3)摂津国菟原郡覚美(かがみ)郷から名が現れ、古く鏡作部の集団が居住した所で、御影山と
    呼ばれた地は近年まで小字名として残った。(鏡とは、影を見る「カゲミ」、それが「ミカゲ」になった。)
        (出典:源順「和名類聚鈔」(和名抄))

 さらに、神や仏の尊影(ミカゲ)が現れた(「影向(ようごう)」:神様や仏様の姿が幻のように
人の目に映る)ことによるとして
 (4)聖徳太子の母后が難波で、西に向かって佛を拝したところ、山嶺から弥陀の尊影が現れた。
   (出典:「摂津名所図会」)
 之に類する地域の史跡伝承に「御影の瀧」がある。(出典:「御影町誌」、参考メモ・その1参照))
  
 (5)大昔、松の大樹(御影の松)があり、神様がお姿(御影)を現されるのを待つ(まつ・松)
    祭祀の場が地名となる。(出典:宮崎修二朗「文学のおもかげ東灘」人文書院・昭和61年10月 または
     神戸市民文化振興財団)

 「影」は視覚的概念の世界が大変広いので、上述のような種々の「御影」の由来が引き出されたのであろう。
 <1>景(日光)に通じ、ひかりそのもの、日・月・灯火・燈・・・「月影」「日差し」「ひかげ」など。
 <2>ひかりによって現れる物体そのもの、姿・形・真影・・・鏡像、絵姿・肖像・写真像など。
 <3>ひかりを受けた物体の反対側に生ずる暗いもの、見えないところ、本物でないこと
    (光の当たらない暗い部分の「かげ」:「陰」「蔭」) ・・・陰影、虚像、影法師、影武者など。
 <4>心に思い浮かべる姿、面影
 <5>儚いものの譬え、また影のように薄いやつれた姿や寄り添って離れないもの・・・幻、幻影など。
 <6>「たすけ、よりどころ、恩恵、庇護」として、身を寄せたり隠れたりすることの出来る物陰、
    かばってくれるものや守ってくれるもの。
 <7>「おかげ」として、故人の名声、霊、肖像など。

<2>諸説の関連情報>

(1)神功皇后の「澤之井」
  「御影町誌」(昭和11年9月)には、次のように史跡案内されている。
  「阪神電車御影停留所のすぐ西、高架下にある。往昔神功皇后三韓に出兵し給ふた時、摂津芦屋の浜辺より
   遠征の御船をお出しになり、住吉大神を勧請せられて征途の平安を祈らせ給ふた。其の後凱旋御参拝の節
   此の泉の水を御化粧に召させられたのに、皇后の御姿鮮やかに映ったので、是が御影の名の起源だと伝え
   られて居る。後いつの頃よりか此の霊泉を澤の井と称へ里人の汲むに任せた。
   後醍醐天皇の御時、此の泉の水で美酒を醸し之を献上した。天皇深く御嘉納あらせられたので、無上の
   栄誉とし遂に嘉納を以て氏族の名としたの言ひ伝へられて居る。」
  「泉は御影町有である。大正六年に左の条件で嘉納治郎右衛門氏が借り受けた。現時池面の埋没せるを浚渫し、
   水源の部分に浄水槽を其の下部に雑水槽を設けて湧き出る水を貯湛する。各槽に湛へた水は公衆の使用に
   任せる。此の面積四十六坪、借り受け期限は大正六年十二月より向ふ二十ヶ年間である。」
  「昭和四年阪神電鉄が高架線になった時、此の井を改修した。井の左側に「澤の井」と記した標石があって、
   「菊正宗本嘉納建之」と刻してある。其の西側に水神の小祠があり東側に稲荷の小祠がある。共に改修の
   際本嘉納家の建立にかかる。井の後方に一標石があって表面に「澤の井改修記念」裏面に「阪神電気鉄道
   線路を高架に改築のため茲に之を改修す」とあり、右側に昭和四年七月阪神電気鉄道株式会社、大林組、
   嘉納治郎右衛門と刻してある。今も尚此の泉は、四時絶ゆることなく、清澄の水滾々として湧き、千古に
   枯れぬ霊泉である。」

(左)御影地区(右)阪神電車御影駅周辺の地図

(左)阪神電車のガード下にある「澤の井」史跡(正面の喫茶店は「沢の井」)
(中)「澤の井」の由来解説板と阪神大震災後の改修記念碑
(右)「澤の井」とその標石群(上述の御影町誌参照)
  「神功皇后に関わる史跡として「澤の井」の南方約一丁、元御影市場付近に「枳殻御殿」があった。
   往昔神功皇后三韓より凱旋の御途次、此の地に上陸せられ、暫く御滞在あらせられた時、枳殻の垣を繞らし、
   内に御殿を作らせられたと言はれてい居る。爾来その変遷は詳らかではないが、明治維新の頃までは、枳殻の
   垣があって其の広さ約三百坪あったと伝へて居る。」

   明治維新まであった「枳殻御殿」に代わって現在では、阪神電車御影駅北口広場に兵庫県警東灘署の派出所
   「澤の井交番」があり、その前に「澤之井の地」史跡碑として水を湛えた石鉢が建立されている。

阪神電車御影駅北口広場「澤の井」石鉢と「沢ノ井交番」
(2)御影の松
  「御影町誌」(昭和11年9月)には、次のように史跡案内されている。
  「往古は当町の海浜一帯は松原であった。此の松原を御影の松、または御影の杜と言ったのは文献に徴して
   疑いないやうである。伝説によると当町字上中に在る圓福寺観音堂の側らに御影の松があったと言って
   今も其の植え継ぎがある。西側に一つの石碑があって二首の歌が刻してある。
    世にあらは又帰りこむ津の国の 御影の松よ面かはりすな 藤原基俊
    よみ置し松のことはの散うせす ふたたひ千代のかけそ榮む 権中納言藤原正房しるす
   (中略) 藤原基俊(1056〜1142) 藤原正房(****〜****)
 
   御影の松の歌は続古今集第十九雑歌下にあって「御影の松を」と題してある。此の歌は藤原基俊家集下にも
   出てゐる。歌の前に「日頃煩ふこと侍りて塩湯あむとて津の国のかたにまかりて湯あみはててのぼり侍り
   しかど猶やまひやみ侍らざりしかば心細く思ひなん侍りしに松の木あまた立てる處をすぎ侍りしにここは
   いづくぞと問ひ侍りしかばみかげの松となむいふと人の申ししかば」とある。
   (注2)基俊は文永二年(1126)病気療養のため摂津国へ塩湯の入湯に来て、御影の松原を通過した。

   之に依っても御影の松は、一本の松を指したのではない事が明らかである。
   藤原正房、勅命を奉じて観音堂に来たり拝した時、碑にある二首の歌を書いたと言い伝へて居る。
   (中略)
   昔は観音堂あたりは海浜で松も多く御影の松の代表的な場所として此処を選んだものであらう。」

  「源平盛衰記」巻17(上洛事)徳大寺実定(1139〜1191)が福原から京へ
  ・・・千代に変わらぬ翠は雀の松原、「みかげのまつ」、雲井にさらす布引は、我が朝第二の滝とかや・・・ 

   名所「御影の松」は明治17年頃枯れ、その木片も明治25年の大火で焼失し、今は若い松が碑の脇に植樹され
   現在、御影本町6丁目西方寺(影松寺)境内に藤原基俊の歌碑と共に継承されている。
   また西方寺周辺の旧西国街道沿いには、松並木の名残りが認められる。(一例)御影中学校西門付近。
   さらに、阪急電車御影駅周辺整備事業に伴い、北口広場には、基俊と正房の歌碑の写しが壁面に
   取り付けられている。

(左)西方寺境内の「御影松碑」(右)旧西国街道沿いの松

(左)御影松碑文(中)阪急電車御影駅北口広場(右)壁面の歌碑文
(3)鏡作部の銅鏡
   覚美郷(かがみのさと)は、鏡に関係し、銅鏡を製作する集団・鏡部が存在した。
   御影石町の綱敷天満神社の社宝は銅の塊という。 (源順「和名類聚鈔」(和名抄))   

   綱敷天満神社は、後堀河院の御宇、菅原道真公の末裔が太宰府の神官に任ぜられ筑紫に筑紫に
   赴く道すがら、この地を訪れた際、菅公が讃岐に下向されたときや太宰府に左遷されたとき立ち寄った
   縁り深い地として、社を建立した、とされている。
   また菅公の子孫で、時の東宮侍従長従二位子爵菅原修長の漢詩石碑が明治35年(1902)三月菅公一千年祭に
   当たり奉納されている。

      当社の神事で、1月8日に行われる綱打神事は、全国的にも大変めずらしい行事とされています。
   文治二年(1186)に始まるもので、小綱36本を12本ずつの三束にして練り合わせ、大綱を作り、
   海中に沈めて清めた上神前に奉納し、注連縄に大綱を巻くように張りわたし八本の矢を突き刺し、
   多くの榊葉を束ねて下に吊し、御幣と麻の緒を取り付ける。この注連柱全体が祓えの具であり、
   これをくぐり抜けると一年間無病息災で暮らせるという。

 因みに、地名「御影」の由来の一説になっている(2)項に言及された河内国魂神社の御祭神は大己貴命
(おおなむちのみこと、大国主命の別称)、少彦名命、菅原道真となっており、凡河内氏の祖神である
天津彦根命や児とされる天御影命(あめのみかげのみこと)は祭られていない。
 東方2.5kmの東灘区御影町石屋の綱敷天満神社(御影1−22−25,旧町名:御影町石屋字八式岡)の
背後に広がる丘陵地帯を御影山というらしい。
 また、菅原道真公の関連地として、「綱敷天満神社の御旅所境内には、「菅公船繋ぎ松」が旧跡として遺されている。
菅公が筑紫に左遷せられ此の地を通られて時、船を寄せて此の松に繋がれたので爾後此の松を船継ぎ松と称し、
今ある枯れ木は三代目だと伝えられて居る。」と言及されている。
                    (「御影町誌」の史跡案内による)

<(参考メモ・その1)武庫の「神功皇后」>

  神功皇后(じんぐうこうごう)(成務40年(170年)ー 神功69年4月17日(269年6月3日))仲哀天皇の皇后
 『紀』:気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・『記』:息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)
  父:開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)
  母:天日矛裔・葛城高?媛(かずらきのたかぬかひめ)
  彦坐王(ひこのいますのみこ)の4世孫、応神天皇母。三韓征伐を指揮。

 祭神として、住吉大神一柱、また応神天皇とともに八幡三神一柱(祭神)。
 大阪府大阪市の住吉大社をはじめ、いくつかの神社の祭神となっている。
 神戸周辺でも関係地としては、甲山、廣田神社、長田神社、生田神社、三石神社(神戸)、二宮神社(神戸)、
 あるいは弓弦羽神社などが挙げられる。甲山(かぶとやま)は、十四代仲哀天皇の皇后神功皇后が
 国家平安守護のため山頂に如意宝珠及び兜を埋めたことによるという説あり。

 神功皇后縁の史跡については、「御影の瀧」がある。「御影町誌」によると、
 「西平野大仏ヶ平にある御影の瀧は、往古神功皇后三韓より御凱旋の際、此の瀧壺から白金の仏体現れ、
  それが薬師如来であったと伝へられて居る。始め音無の瀧、平野瀧といひ、後薬師如来を祭ったので
  薬師の瀧といったのを薬師瑠璃光如来といふ處から瑠璃の瀧と呼んだ。」


<(参考メモ・その2)清酒の「灘五郷」>

  神戸市東灘区・灘区と西宮市の大阪湾沿岸の地域で、酒造りに適した上質の米(山田錦)と
上質のミネラル水(宮水)が取れ、製品の水上輸送に便利な港があったことから、日本酒の名産地となる。。
  以前は伊丹・池田が摂津の代表的な酒どころであったが、江戸に向かって酒の品質を落とさずに
江戸まで酒を輸送するのには、伊丹・池田よりも輸送所要日数にして2・3日は短縮可能な灘地区が、
江戸時代中期以降の上方酒の主流となった。
  江戸時代の灘五郷 今津郷(西宮市今津周辺)、東郷(魚崎郷)(神戸市東灘区魚崎・本庄地区 )、
    中郷(御影郷)(東灘区御影地区)、西郷(神戸市灘区西郷地区)、下灘郷(中央区ならびに兵庫区) 
  明治中期以降の灘五郷の清酒の銘柄
    今津郷(西宮市今津周辺):大関・白雪(伊丹へ集約)・扇正宗・金鹿(大関に醸造委託) 
    西宮郷(西宮市西南部):日本盛・白鹿・富貴(富久娘酒造に灘の生産拠点を集約)・徳若 など
    魚崎郷(神戸市東灘区魚崎・本庄地区):道灌・松竹梅白壁蔵・金正宗・桜正宗・大東一・菊千代など 
    御影郷(神戸市東灘区御影地区):白鶴・菊正宗・剣菱・福壽・灘泉・泉正宗・大黒正宗・酒豪など 
    西 郷(神戸市灘区西郷地区):沢の鶴・忠勇(白鶴酒造へブランド譲渡)・富久娘など

 灘五郷の一つ「御影郷」には白鶴、菊正宗、剣菱などの造り酒屋があるが、造り酒屋に深く関係し、かつ
御影の地名の由来になっている「澤ノ井」は神功皇后が三韓征伐の帰途に姿を写したという泉とされ、
その質と豊富さに優れた六甲山系地下水は、その後南北朝時代に酒を醸して後醍醐天皇に献上(嘉納)したところ、
大層喜ばれ爾来付近の酒造家は「嘉納」を名乗り始めたという。

<(参考メモ・その3)石作連の「御影石」>

 花崗岩は、特に石材としては御影石とも呼ばれる。「御影」は、兵庫県神戸市の地名(旧武庫郡御影町、
現在の東灘区御影石町など)に由来し、御影の北に位置する六甲山地に花崗岩が産出したことによる。
切り出した花崗岩を大阪湾に面した海岸から石船に積載し、古くから各地に出荷していた。
 御影の名前は各地の産地にも転用されている。代表的な例が、福島県伊達市を中心とした「吾妻御影」、
茨城県笠間市の稲田地区を中心とした「稲田御影」、同じく茨城県の桜川市(旧真壁町)を中心とした
「真壁御影」など。(注)墓石などに使われる「黒御影」は、花崗岩ではなく閃緑岩や斑れい岩。

 石町は、旧村名の石屋に由来する町名で、石屋とは古代に石作連(いしつくりのむらじ)という豪族が
住んでいたことに由来する。


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平成24年5月27日 更新:平成25年6月20日
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*** 編集責任・奈華仁志 ***

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