平成社会の探索

<「知恵の会」への「知恵袋」>

ー第107回知恵の会資料ー平成24年4月1日ー


(その51)課題「うそ(虚事)」
ー野口英世の「偉人になるための虚構の実学」ー
 目     次 
(その1)野口英世の虚構の実学
(その2)野口英世の略歴
<(参考メモ・その1)「虚」と「実」比較表> 
<(参考メモ・その2)後藤新平>
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(左)小泉丹「野口英世」(1925年9月)
(岩波新書43)(昭和14年7月刊行)より
(定價五十錢)
(アフリカ・アクラに斃れる3年前)
(1925年9月)
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(右)千円紙幣(野口英世肖像のE号券)
(平成16年・2004年より)
生前は決して金が身につかなかったが、
死して終に自ら千円札に化ける
(アフリカに斃れて79年後)
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生涯の内、少なくとも前半生では、嘘と借金の踏み倒しで終始したため、ほとほと金銭に苦労した野口英世も、
それから約79年後、天国ではもはや金を使うのは面倒だとばかり、ついには、「嘘でなく本当に」、
自分が金になってしまった。
平成の日本人にとって、野口英世は一日たりとも一緒にいてくれないと生活していけない、無くてはならない
日本人でもある。

<野口英世の虚構の数々>

 児童文学の偉人伝に必須の野口英世の生涯を渡辺淳一「遠き落日」で追ってみると、
    (注)集英社文庫「遠き落日(上)(下)」(1990年5月25日)
どうしてこのような人物が子供の偉人の代表なのか、首をかしげてしまいます。
どうみても「偉人」ではなく「異人」もしくは「奇人」の部類に入りましょう。
  
 読んでいてうんざりし、もう後は読みたくない、という気分になる。 
 彼の言動において、嘘は意識して、敢えて使っていたとは思えない、
彼独特の処世術のひとつであった。
 自分がその時置かれている情況から判断すると、彼の発言は「嘘のでまかせ」だが、
時間とともに虚が実になる、
またなるように己をかき立てる努力目標である。すなわち未来を引き寄せるための行動プランである。
いい替えれば彼の暦は「毎日4月1日」であった。

 目的達成のためには、まさに手段を選ばない、人の懐具合など考えていられない。
 言い方は誠に痛烈な批判になりますが、「乞金渡世の医学猛者(亡者)」とでも
言いたくなるような借金の踏み倒しと医学的名誉欲の追求人生となっています。
 「嘘つきはどろぼうのはじまり」の格言だけは、野口の哲学に反するが、
他の諺はすべて彼の味方。すなわち
 「嘘から出たまこと」「嘘も方便」「嘘も追従も世渡り」
 「嘘もまことも話の手管」「嘘をつかねば佛になれぬ」など。

 以下に彼が<渡米するまで>の日本社会での前半生における「虚構の実学」を列挙する。

(その1)「小学校から高等小学校にかけて、清作は多くの級友やその親達から、さまざまな施しを受けている。
      ・・・、とくに八子弥寿平(やこやすへい)は、父が猪苗代町の富豪であり、人の好いぼんぼんで
      あったところから、幾度となく清作に無心された。」まだ、17歳の少年が、友人の父親八子留四郎氏
      から、金三円と漢文教科書四冊をせしめ、なおかつ大言壮語の借用証文を氏の前で、すらすらと
      書いたというから、驚きである。「借用証にはっきりと期限が書いてあったが、金はかえさなかった。」
(その2)「高山歯科医学院でも、清作は借金の天才として名を馳せることになる。血脇守之助氏に月々十五円の
      借金を要求する。」
(その3)「医師免許証交付に当たっては、六円、支払うことが必要だったが、その金策がなかなかつかなく、
      また守之助のところに頼みに行く。」血脇恩師閣下宛の大層な借用書を出し、二十円せしめる。
(その4)「順天堂医院では、医師である以上、身形を整えるのが基本である。だが清作は袴まで手が回らない。
      たまりかねた清作は、八子弥寿平に無心する。」八子弥寿平は、「父と妻に内緒で、売上金を誤魔化して
      いわれたとおり五十円を為替で送金した。」
(その5)「医術開業試験に合格し、科学者の殿堂といわれる北里研究所要りが決定し、帰郷する。」「本当の
      目的は、八子弥寿平に会い、新たな金品をせびりとるためであった。」「陛下のお脈を拝し奉るほどの
      名医になるつもり」という大法螺をふいて、八子家に三日泊で、「帽子、懐中時計、・・・紋付羽織、
      ・・・襦袢まで、実に十数点」せしめる。その御礼状にさらに二十円の借金を要求する、ずぶとさ。
(その6)「横浜海港検疫所を辞職し、清国へ出張することになり、かなり高額の支度金(百五十円ちかく)を
      もっていたが、神戸出港の折、一銭もなくなっていた。」「この時の支度金は、ほとんど夜遊びの
      ために消え、実際の借財の返済にあてられたのは、せいぜい三分の一程度であった。」
     「泣き込んだ先は、結局血脇守之助のところだった。」「本当にこれが最後です」が、もう十回を軽く
      オーバーしていた。神戸港行き運賃と支度金十五円を血脇氏の新妻の晴れ着を質にまでいれさせて、
      準備させている。」
(その7)清国から帰国し、渡米資金工作のために、再び無心が目的の帰郷をする。人の好い八子弥寿平に吹聴、
     「五百円有れば、世界の一流学者になふぇんだげどなあ」「その銭、なんとか工面してみっか」。しかし
     恩師小林栄氏の怒りをかい断念するが、別の手立てを考える。婚約相手の家(紀州藩出身の元氏族
     斎藤弓彦氏の姪)から渡米旅費二百円をつくり、「出来るだけ早く帰京して結婚する」ことを条件と
     する。この婚約も、彼が、アメリカのロックフェラー研究所で働いているとき、アイルランド系の
     アメリカ人メリー・ダアジズと結婚し、婚約も無視している。
(その8)血脇守之助氏への無心の挨拶、「渡米の送別の宴で、斎藤家から頂いた金を費ってしまいました。」
     「さすがに懲りた守之助は、すぐ金を英世に渡さず、まず先に船賃を払って切符を買った。さらに必要な
     衣類を、その都度買って渡し、英世に現金を持たせなかった。」

 こういった性癖は、米国の研究生活でも直らず、周囲に多くの被害者を出している。前半生だけでも、うんざり
する行動といわねばなるまい。その拒否反応の一例を彼の後半生から拾い出すと、次の通り。
(その1)4年(1915)39歳 帝国学士院恩賜賞を授与せられ、故郷に錦を飾るときの心境を、
     「故郷のもの達はどうおもっているのか、なかには自分を恨んでいる者もいようし、大嘘つきだと触れ
      まわったり、金を返せと、押しかけてくる者もいるかもしれない。それを思うと、故郷へ帰る気持ちも
      重くなる。」
     八子弥寿平を訪れたとき、「七十に近い弥寿平の母は、上体をきりっと伸ばし、英世を睨み付けると、
     息子の手から時計(英世がおみやげとして弥寿平に渡したもの)を奪い取り、英世の前に投げ捨てた。
     「帰れ、出でげ、泥棒・・・」
(その2)ヨーロッパから招聘され、医学講演の巡旅を重ねて「英世が意気盛んであった」ころ、
     「ノーベル賞など、すでに目前に迫っているかの感さえ有り、」自らも恩師小林栄氏への手紙に
     「多分、一二年のうちに、私にノーベル賞が与えられるものではないかと観測しているようです」と
     書き送っていたが、「ノーベル賞は、英世の前を素通り」していった。
     「後年、東大の青山胤通博士は、<野口にノーベル賞が与えられなかったのは、賞の権威を守る意味から
      して幸いであった>と喝破した。」と記されている。

 とはいえ、「母シカから受け継いだ天性の忍耐力と肉体的なハンディを乗り越え、医学への道」を突き進んだ事は、
「事実」で、「虚構」を重ねたわけではない。生涯を通じて、自らに鞭を打ちつつ、(「人類に尽くしたい」のか、
「自分の名誉欲を満足させたい」のか、判断しかねるが、)病原菌との戦いの戦士として、「二十四時間不眠主義者」
「細菌と同居者」あるいは「人間発電機」(ヒューマン・ダイナモ)の綽名を頂戴した、「偉人」という仮面を被る
「異人」であり、「奇人」であった。つきあった誰もが「人間とは別の怪物を見るような不気味さを覚えるのが常」
だったと。

<野口英世の略歴>

明治 9年(1876) 0歳 出生
  11年(1878) 2歳 左手火傷
  16年(1883) 7歳 三ツ和小学校入学
  21年(1888)12歳 尋常科卒業。温習科入学。
  22年(1889)13歳 温習科卒業。猪苗代高等小学校入学。
  25年(1892)16歳 左手手術
  26年(1893)17歳 高等科卒業。会陽医院の書生となる。
  29年(1896)20歳 九月上京。十月医師開業前期試験合格。十一月高山歯科医学院学僕となる。
  30年(1897)21歳 五月済生学舎入学。十月開業後期試験合格。十一月順天堂病院助手となる。
  31年(1898)22歳 四月伝染病研究所入所、清作を英世と改名。
  32年(1899)23歳 四月フレキスナー教授一行来朝。五月海港検疫官補任命。
               十月牛荘行ペスト防疫班に加わる。
  33年(1900)24歳 六月帰朝。十二月渡米、フィラデルフィア着。
  34年(1901)25歳 フレキスナー教授の助手となり、蛇毒を研究。
               十一月アカデミー・オブ・サイエンスで蛇毒研究の示説をなす。
  35年(1902)26歳 十月ペンシルヴェニア大学助手任命。
  36年(1903)27歳 十月丁抹(デンマーク)留学、国立血清研究所マドセン博士のもとで研究。
  37年(1904)28歳 十月帰米。ニューヨルク・ロックフェラー医学研究所アッシスタントとなる。
  40年(1907)31歳 ペンシルヴェニア大学よりマスター・オブ・サイエンス学位授与。
               研究所アソシエートに昇進。
  42年(1909)33歳 『毒蛇及び蛇毒』刊行。研究所アソシエートに昇進。
  43年(1910)34歳 『黴毒の血清診断』刊行。血清学会会頭就任(1912年迄在任)
  44年(1911)35歳 黴毒トレポネーマの純粋培養。医学博士の学位を授与さる。
  45年(1912)36歳 メーリー・ダージズと結婚。
大正 2年(1913)37歳 麻痺性痴呆および脊髄癆のトレポネーマ検出。欧州諸国巡歴。
   3年(1914)38歳 研究所メムバーに昇任。理学博士の学位授与。
   4年(1915)39歳 帝国学士院恩賜賞を授与せらる。母国訪問。勲四等に叙せらる。
   6年(1917)41歳 チフスを患ふ。
   7年(1918)42歳 黄熱調査団に加わりエクアドルに研究行。母シカ歿す。
   8年(1919)43歳 レプトスピラを黄熱病原体として発表。メキシコに第二回黄熱研究行。
   9年(1920)44歳 ペルーに第三回黄熱研究行。ユカタンに第四回研究行。
  11年(1922)46歳 ブラジルへ第五回研究行。
  12年(1923)47歳 父左代助歿す。帝国学士院会員となる。ジャマイカに於ける熱帯病会議出席。
  15年(1926)50歳 オロヤ熱研究を発表し始む。
昭和 2年(1927)51歳 トラコマの病原体研究発表。十月阿弗利加に黄熱研究行。
   3年(1928)52歳 アクラにて殉学。勲二等に叙し、旭日重光章を賜はる。

(出典:小泉丹「野口英世」岩波新書43 (昭和14年7月24日発行)より)

<野口英世の銅像群>

大阪府最初の自然公園(昭和31年国名勝指定)・箕面公園内の
「野口英世博士像」(写真左)
大正4年(1915)10月10日、アメリカから帰国した野口博士は母を連れ、
箕面を訪れ孝養を尽した。40年後、当地訪問を記念して建立された
野口英世博士銅像の台座には、次のように記されている。
************************************************************
故野口英世博士は科学者として、数々の病原体の発見と絶滅に死を
賭けて闘い、人々を黄熱病から救い、また人として、かつて箕面の風光に
老母を慰め孝養を盡くされた。
これに感激した南川光枝氏の銅像建立の願に、大阪府知事、箕面町長、
箕面町教育委員会は、府下学童や箕面町ゆかりの方から浄財を求め、
博士生前の面影を刻み、廣く人類の恩人として称へ、一世の師範として、
その崇高な人格を慕い、ここに建設の由来を綴り碑文とする。
昭和30年(1955)11月吉日 大阪府知事赤間文三記(吉田三郎製作)
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銅像建立に尽力した南川光枝氏については下注参照方。
因みに、同じ箕面公園内に、当地(三島郡豊川村)出身で、
財団法人日本船舶振興会会長(公益財団法人日本財団)笹川良一氏は
母に孝養した野口英世に倣うかのように孝養の像
(82歳の母を背負い金比羅参りする59歳の良一像)を箕面滝への
遊歩道脇に建立している。(写真右)
大阪市内某中学校校庭の野口英世博士の「野口少年師弟之像」
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箕面公園に野口博士の像が建立された翌年昭和31年(1956)
野口少年とその師・小林栄氏を記念した銅像が建立された。
その台座には、次のように記されている。
「忍耐は辛し されど其の實は 甘し」
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野口英世の銅像は、生地福島県翁島村、修学の地東京、
あるいは殉学の地、さらには阿弗利加などに建立されているが、
全て野口英世博士一人の立像や胸像であるため、野口英世個人の
顕彰になっている。
しかし、当該銅像は、その野口を支えた師小林栄氏をむしろ顕彰
しているものともとれる。野口博士の顕彰も教育的立場から
「師弟関係」を重要視したものであろう。
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(右)除幕式の様子を伝える生徒会新聞

(注)箕面公園の野口博士像の建立した尽力した南川光枝氏
(渡辺淳一「遠い落日」(下)第四章 帰国 の4項参照)
「当時、この料亭の主人の妹であった南川光枝さんも、英世の母への孝養の姿を目のあたりに見て
感動した一人で、彼女はその感激が忘れられず、これも若かりし頃英世の講演を聴いて感動した
歯科医の戸祭正男氏などと話すうちに、野口英世の銅像を建立することを思い立った。
かくして、資金の大半は光枝氏が負担し、さらに足りないところを、有志の浄財に求め、
これに大阪府、箕面町なども協力して、昭和三十年十一月二十二日に銅像が完成し、除幕式が
行われた。像の建てられた場所は、「琴の家」の上を走る滝道から二十メートルほど上がった
台地で、像は上野の科学博物館前にある、白衣で試験管を握った姿をうつしたものである。」

<(参考メモ(その1)「虚」と「実」の比較表>

                      
分類虚の例実の例
大物野口英世(本文参照)後藤新平(参考メモ)
逸話狼少年ワシントンの櫻
軍情報大本営発表戦果 開戦臨時ニュース
百人一首歌
(その1)
あはれともいふべきひとはおもほえで
身のいたづらになりぬべきかな
(45番・謙徳公)
きりぎりすなくや霜夜のさむしろに
ころもかたしきひとりかもねん
(91番・藤原良経)
ちぎりきなかたみにそでをしぼりつつ
末の松山波こさじとは
(42番・清原元輔)
夜をこめてとりの空音ははかるとも
よに逢坂の関はゆるさじ
(62番・清少納言)
百人一首歌
(その2)
秋の田のかりほの庵のとまをあらみ
わがころもでは露にぬれつつ
(1番・天智天皇)
天の原ふりさけ見れば春日なる
三笠の山に出でし月かも
(7番歌・阿倍仲麻呂)
逢ひみての後の心にくらぶれば
昔はものをおもはざりけり
(43番・藤原敦忠)
大江山生野の道の遠ければ
まだふみもみず天橋立
(60番歌・小式部内侍)
流行歌「うそ」山口洋子作詞・平尾昌晃作曲
歌手:中条きよし
(極めつけの歌詞)
・・・あなたの嘘がわかるのよ
哀しい嘘のつける人
「ほんきかしら」岩谷時子作詞・土田啓四郎作曲
歌手:島倉千代子
(極めつけの歌詞)
・・・ほんきかしら好きさ大好きさ
許してね疑ったりして
東日本大震災原発安全神話津波による電源喪失
詠嘆語ほんと?うそー!

<(参考メモ・その2)後藤新平>

まじめな「法螺吹き」の著名人の代表として、後藤新平を挙げておく。

後藤 新平(安政4年6月4日(1857年7月24日) - 昭和4年(1929年)4月13日)
明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家。
伯爵(明治39年(1906年)男爵、大正11年(1922年)子爵、昭和3年(1928年)伯爵)。
位階勲等は正二位勲一等。台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。
逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。
東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁。拓殖大学第3代学長。

計画の規模の大きさから「大風呂敷」とあだ名された、日本の植民地経営者であり、
都市計画家である。台湾総督府民政長官、満鉄総裁を歴任し、日本の大陸進出を支え、
鉄道院総裁として国内の鉄道を整備した。
関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の帝都復興計画を立案した。

1923年(大正12年)9月1日に発生した関東地震による被害は甚大なものであり、
復興計画は政府主導で行われた。第2次山本内閣の内務大臣に就任した後藤新平は
帝都復興院を設立し、大阪市の港湾計画や都市計画に従事した直木倫太郎を
技監に据えて、自らは総裁を兼務した。

後藤は一人で東京復興の基本方針
*遷都すべからず
*復興費は30億円を要すべし  
*欧米最新の都市計画を採用して、我国に相応しい新都を造営せざるべからず 
*新都市計画実施の為めには、地主に対し断固たる態度を取らざるべからず 
を練り上げる。内務官僚に復興計画策定を指示、あわせて復興組織づくりを進めたが、
事業規模は当時の経済状況をかんがみて縮小され、復興の組織や意志決定も
後藤が思うようにはならなかった。
当初の焦土買い上げという「大風呂敷」は実現せず、農地整序につかっていた区画整理が
展開されることとなった。
当初の帝都復興計画では30億円という予算を計上していたが、さらに財政事情を考慮し、
最低これだけはというぎりぎりの案件約10億円の要求となった。
復興計画審議のために設置された3つの審議機関のうち帝都復興参与会と帝都復興協議会は
無事通過するが、帝都復興審議会では大反対され、特別委員会での大幅縮小で決定、
5億円強になり議会提出の運びとなった。
それでも議会で復興予算費をさらに2割カットと復興院事務費の全額カットで予算修正、
これを忍従して復興計画は確定された。
どんどん規模が縮小されていく帝都復興がようやく動き出した矢先、
今度は翌年1月の虎ノ門事件を契機に山本内閣は総辞職し、後藤自身も失脚することになる。

丁度90年前も現在の東日本大震災の復興事業もどことなく、その進み方に、
共通した日本人独特の「ちまちました気持ちの委縮」がみられ、
「平成の後藤新平」はどこにもおらず、その希有な大望は期待できそうにない。
残念。



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平成24年3月28日 *** 編集責任・奈華仁志 ***

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