平成社会の探索

<「知恵の会」への「知恵袋」>

ー第106回知恵の会資料ー平成24年2月19日ー


(その51)課題「はこ(箱・函)」
ー大阪・泉南の「箱作」ー
 目     次 
<「はこ」の地名>
(その1)箱作の由来 (その2)箱作の文芸
(参考・その1)「箱」の歌枕 (参考・その2)加茂神社 (参考・その3)淡輪の紀氏

<「はこ」の地名>

 「はこ」の漢字には、「箱」「函」「筺」「筥」「匣」など、いろいろに用いられています。
 日本の地名の中にあって「はこ」が用いられている例は、北は北海道の「函館」があり、東には東海道の要衝
「箱根」があり、西では博多の「箱崎」が著名です。
(1)「函館」も元は「箱舘」と呼ばれ、1454年(享徳三年)蝦夷地に渡った河野政通が函館山の麓に
   築いた館が箱に似ていたために箱館と呼ばれるようになったという。
(2)箱根(古くは「函根」とも)は、神奈川県南西部の一帯で、おおむね箱根町に当たる。
   古来東海道の要衝であり、神奈川県(相模国)と静岡県(伊豆国)境の「天下の険」と謳われた難所
   箱根峠のふもとには箱根宿(江戸から数えて10番目)・箱根関が置かれた。
   近代以降は保養地・観光地として、箱根温泉、芦ノ湖、大涌谷、仙石原など有名。
   1936年「富士箱根国立公園」(現・富士箱根伊豆国立公園)に指定されている。
(3)「箱崎」は本来は「筥崎宮」の「筥崎」とすべきところ、地名や駅名には「筥崎八幡神」を憚って
   「箱崎」を用いているという。

 「函館」「箱根」「箱崎」は、いずれも全国に名の知れた所ですが、

(4)大阪・泉南地区の「箱作」も中世の庄園名としては、「筥作庄」であったという。

 以下では、最寄りの「箱」の地、箱作の由来を訪ねてみます。


<(その1)箱作の由来>

 大阪府阪南市の箱作は、市の西部大阪湾に面した地域に当たります。
 「箱作」の地名の由来の一説に、京都賀茂別雷社の改修の際、古い神体の「奉安箱」を川に流したところ、
当地の海岸に流れ着いたところから、「箱着里」の地名となったという。
 その「奉安箱」を祀ったことを起源として、当地の加茂神社が、弘仁四年(813)造営されている。
 また、箱作庄は鎌倉時代初期に、賀茂別雷社領の荘園であったとのこと。
 一方、箱作から貝掛にかけての海岸と比定されている「箱の浦」の地名も阪南市南部岬町に隣接した地域に
認められる。昭和47年(1972)南海町と東鳥取村が阪南町に合併したとき、箱作・山中・淡輪の一部を
併せて新に設けられた新しい地名でありながら、「土佐日記」承平五年(935)二月一日条に言及されている。
        (以上、堀田暁生編「大阪の地名由来辞典」東京堂出版 2010年8月)

 大阪府全志(井上正雄著 大正十一年一月 大阪府全志發行所)には、大字箱作の事項にその由来を
次のように言及している。
 「村名は往時石作氏の居りて御大喪に石棺を調達し、石棺は石の箱なるを以て箱作の地名をなしたるもの
  ならん。石作氏は姓氏録左京神別に、「石作連、火明命六世孫建眞利根之後也、垂仁天皇御世奉為皇后
  日葉酢媛命作石棺獻之、仍姓賜石作大連公也」と見え、同和泉國神別に、「石作連、火明命十五世孫
  古利命男天香山命之後也」と見ゆるもの是れなり。由来本地及び鳥取郷の諸村落は石を出だして、世に
  泉石を以て称せらる、其の色青白にして質の緻密なるを以て名あり。今に石匠多し、是れ石作氏の遺風を
  傅ふるものならん。
  海浜は謂はゆる箱の浦にして、深日の浦と共に風光の美を以て称せらる。」

  (補足)「和泉名所図会」によると、箱作村には名産和泉石の切り出しや細工に関係する石工が多くおり、
       その活動は全国的であったらしい。
      「和泉石ハ其性細密にして物を造る事自在也、鳥取荘箱作に石匠多し。」
       (「大阪府の地名U」日本歴史地名体系28 平凡社 2001年7月)  

 続いて、同地区内の加茂神社の項において、「箱作」の地名由来を次のように説明する。
 「加茂神社は字下松にあり、玉依比賣命・・を祀れり。社記に依れば、玉依比賣命を勧請したは弘仁四年なり、
  (中略)又玉依比賣命は、山城國加茂神社の社殿造営に際し、御神體を奉安せる御霊箱を新に作替へたるを
  以て、其の舊箱を加茂川に流したるに、淀川を経て難波浦に出で、海に浮かび波に揺られて本地の海岸なる
  岸上に漂着せしを以て、里人開き見たるに中に加茂神社の神體たる金幣を存しければ、之を報じて加茂神社
  と崇敬し、此の時より本地を箱着里と云ふ。」

 (注)筑前国「箱崎宮」(祭神:応神天皇・神功皇后・玉依姫命)
  
(左)大阪府阪南市箱作付近(右)箱作地区の加茂神社
  

<(その2)箱作の文芸>

  
(1)「土佐日記」における「箱の浦」
   土佐の國府を出帆して、海賊出没を気にしながら、かろうじて紀淡海峡を横切り、和泉國南端の海岸に
  たどりつき、帰任の旅を続ける紀貫之は、二月に入って
   「和泉灘といふところより出でて漕ぎ行く。・・・黒崎の松原をへて行く。
    ・・・この間に、今日は箱の浦といふところより、綱手ひきて行く。かく行く間にある人のよめるうた
    <玉くしげ 箱の浦なみ たたぬ日は 海をかがみと たれかみざらむ>
 
   海も凪いで帰路の海路も「風浪みえず」、すこしずつ都へ近づける気持ちになったのでしょう、和泉國の
  地名の「箱の浦」に早速「玉櫛笥」なる枕詞を引き出して、歌をものしています。流石貫之です。貫之の
  縁りの地は淡輪周辺ですから、当然地名は知っていたのでしょう。(参考・その3)参照方。

(2)和泉國の「能因歌枕」
   能因法師の挙げた和泉國の歌枕としては、「くらはしの橋」「おほとり」「 まきのを」「のだの杜」に
  加えて「はこつくり」が言及されています。例歌があればいいところ。彼であれば「はこ」は大いに関心を
  もつ歌語とみていたはず。(編集子注:「のだの杜」は「しのだの杜」ではないか。)

(3)源重之の家集での「箱の浦」
   <箱の浦に あけくれ遊ぶ あし田鶴の 千年の影そ ともに見ゆらん>
       
(4)「はこつくり」を詠み込んだ勅撰集での歌として、「伊勢集479番」歌あり。
   「はこつくり せなかあわせに なりぬとも おなじこころに むすばれぞせん」


加茂神社境内の「和泉名所図会」解説碑

<(参考・その1)「箱」の歌枕>

(1)「箱潟の磯」:陸奥、
          <白川の関より内ののどけくて今箱潟のいそがるるかな>(『名寄』三十四)
(2)「箱の池」:武蔵、
         <冬深み箱の池辺を朝行けば氷りの鏡見ぬ人ぞなき>(『夫木』二十三)
(3)「箱根」「箱根路」「箱根の海」「箱根の嶺・峰・山」:相模、
          <旅衣紐ゆふかけて足柄の箱根飛び越え雁ぞ鳴くなる>(『夫木』十二)
          <はこねぢや山風そよぐ笹竹のしのに乱れて霰降るらし>(『夫木』二十八)
          <玉櫛笥箱根の海はけけえあれや二国かけて中にたゆたふ>(『夫木』二十三)
          <足柄の箱根の山に粟撒きて実とはなれるを逢はなくも奇し>(『五代』上)
(4)「箱作」「箱の浦」:和泉、(『能因』、九十三)
          <箱の浦に明け暮れ遊ぶ葦鶴の千歳の影ぞともに見ゆらん>(『夫木』二十五)
(5)「箱島」:安芸、(『能因』、九十九)
(6)「箱崎」「箱崎の松」「箱崎の宮」:筑前、(『初学』二三三)
          <箱崎や千代の松原石畳崩れん世まで君はましませ>(『名所』五)
          <その上の人は残らじ箱崎の松ばかりこそ我を知るらめ>(『五代』下)

<(参考・その2)加茂神社>

  上賀茂神社改修の際、御霊箱を加茂川に流したところ、泉南の箱作海岸に漂着したので箱着里(はこつくり)と
 言われ、その地に加茂神社が建立された。
  当地下荘地区は古代末から中世にかけ上賀茂神社荘園箱作荘であった。社伝では813年・引仁4年に建立され
 明治5年村社となる。
  京都上賀茂神社を模して創建された檜皮ぶきの本殿は安土桃山時代の建立で昭和45年2月20日に大阪府文化財
 条例によって建造物第1号指定を受けた。
  祭神は玉依比売命を勧請し、祭神・高?(雨冠に龍)(オカミ)神の勧請については不明。
  本殿は流造,桁行2間,梁行2間半,5坪,檜皮葺、拝殿は桁行4間,梁行2間,8坪
  所在地は箱作1655番地

加茂神社境内風景

<(参考・その3)淡輪の紀氏>

 土佐守の任を終えた紀貫之は、承平四年(935)12月21日に土佐國府を出立し、1月9日に土佐湊
大湊を出帆し、室戸崎から阿波国海岸沿いに北上して、淡路島南端沼島を過ぎて紀淡海峡を、幸いに海賊に
遭うことなく通過し、漸くにして紀氏の在所である和泉灘に入ることが出来、泉南地区「黒崎」や「箱の浦」に
たどり着くことが出来た。

(左)「土佐日記」航路(右)紀氏縁りの「黒崎」・淡輪近辺
 黒崎には紀貫之五代遡った先祖大納言紀船守を祀る「船守神社」が鎮座している。貫之の渡海には、ご先祖の
ご加護があったのでしょう。船守神社の御旅所には、貫之の「歌日記碑」が建立されています。
  土佐日記には、貫之独特のユーモアも含めているようです。
 「黒崎の松原を経てゆく。所の名は黒く、松の色は青く、磯の波は雪の如くに、貝の色は蘇芳に、五色に
  今一色ぞ足らぬ。」
などと、無事紀淡海峡を切り抜けた安心からか、ユーモアを出せる余裕が出ています。足りない色とは
「き」ですが、「紀」氏のご先祖の船守のことを言及したかったのでしょう。船守の時代に引き替え、
貫之の当世の「き」氏の衰え振りやなげかわしい、というのが本音の弁でしょう。

(左)船守神社御旅所鳥居(右)貫之歌日記碑

(左)船守神社(右)境内の大楠
 (参考)紀船守および船守神社参考資料 「敷島随想」第39回 第35番(その3)紀貫之ー紀氏在所


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平成24年1月28日 *** 編集責任・奈華仁志 ***

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