平成社会の探索


ー第61回知恵の会資料ー平成18年3月26日ー

「知恵の会」への「知恵袋」


(その5)二月物語

<二月の暦>

 一年の各月日数は「二四六九士」以外の月は31日で、他は30日。ところが二月だけ、「どうして
28日」であったり、四年に一度の閏年に29日になるのか。一年の日数がしわ寄せされている「大変
粗雑に扱われている月」とも言えます。どうしてこういう事になってしまったのか。月の設定の歴史は
ローマ暦まで遡る必要があります。
  (注)正確な閏年の決め方は、「西暦年号が4で割り切れる年で、100で割れて400で割り切れ
        ない年は平年とするもの。
 
(その1)ローマ暦
 ローマ暦は古代ギリシャの太陰暦を元に古代ローマで使われた暦法です。後年使用される「ユリウス暦」
も「グレゴリオ暦」もローマ暦の発展したものと見られています。

 (1)「ロムルス暦」
   紀元前753年(745年説あり)、ローマ建国王ロムルスに因んで「ロムルス暦」が採用され
      ました。この暦での一年は、現在で言う三月から始まり、十二月で終わっています。10の月は、
      当時は次の名称で呼ばれていて、三月〜十二月ではなかったのです。

   Martius(31日)Aplirlis(30日)Maius(31日)Junius(30日)Quintiliss(31日)
   (ラテン語の第五の月)Sextilis(30日)(ラテン語の第六の月)September(30日)
  (同じく第七の月)October(31日)(同じく第八の月)November(30日)(同じく第九の月)
  December(30日)(同じく第十の月)
        (ラテン語の第六の月〜第十の月の名称順になっている。現在の名称とずれている。)

   したがって、一年は、31日X4月=124日、および30日X6月=180日 合計304日
   古代ローマ人の生活環境は、一年が304日有れば良かったのです。では、他の365日ー304日=
       61日 およそ二ヶ月の間はどうしていたか。農耕民族であったので畑仕事が休みになる間の
       約二ヶ月は暦は必要なく、ただ、次の新しい農耕年が来るのを待てば良かったのです。だれか
       決められた人(多分古代ローマの王様)が、「では今日から新しい十カ月が始まります」と
   宣言してくれたら良かったのです。   

 (2)「ヌマ暦」
   紀元前713年ローマ国王ヌマ・ポンピウスは改暦してJanuarius(29日)・Februarius(28日)を
   例年のDecemberの後ろに付け加えましたので、Januariusは現在の一月に相当しなくて、十一月に
   相当することになります。どうして、当初から二月に相当するFebruariusを30日や31日でなく、
   28日にしたのでしょうか。
   当時、一年の日数を355日とする前提で、30日の月の日数は29日にした上で、一年を次の
   ようにしました。つまり、31日X4カ月=124日、29日X6カ月=174日、および29日と
       28日で、合計355日になります。
      (一月日数29日、31日、一年日数355日、いずれも奇数で、偶数を嫌ったらしい)
   また二年に一度Februarius(二月)の日数を23日に少なくし、その翌日からMercedinusという
   27日または28日の閏月を(最高神祇官の職責で)入れました。ますます、後年でいうところの
   「二月」(Februarius)は、惨めな月に扱われています。

   古代ローマ暦での日数の読み方は、現在のように月の第一日から、1日目、2日目、3日目・
   ・・・と呼ばずに、ある「決められた日から何日前」という言い方をしたようです。
   すなわち、基準になる日は、次の3日。
      「ノーナエ」(Nonae):月の第5(小の月),または、7日(大の月)。
      「イードゥース」(Idus):月の第13(小の月),または15日(大の月)。
      「カレンダエ」(Calendae):月のはじめの日(後の世に、カレンダーといわれる語源になって
                   いる。)
   一ヶ月の数え方。
      「カレンダエ。ノーナエの**日前、・・・ノーナエ。イードゥースの**日前、イードゥース。
            カレンダエの18日前、・・・カレンダエの前日。」でその月が終わり、次の月のカレンダエ。」
            が始まる。

 (3)末期の「ヌマ暦」
   紀元前153年、この年の始まりは、「MartiusのCalendae」でなく、「JanuariusのCalendae」を
   1月1日としたもの。このときから、月名と順番は、二つずつずれてしまった。(例えば、
   Decemberは、十月でなく、十二月となった。)

   紀元前46年までの暦では、一年12カ月で、355日で、年始は一月一日。それぞれの月の日数は
      次の通り。
   一月(29日)二月(28日)三月(31日)四月(29日)五月(31日)六月(29日)
   七月(31日)八月(29日)九月(29日)十月(31日)十一月(29日)十二月(29日)
   平年は355日で、二年に一度の閏年では、355+22〜23日=377〜378日
   閏月調整は政治的に行われたので、実状とかけ離れ、末期には90日もずれていたという。

 (4)ユリウス暦
   ガイウス・ユリウス・カエサルは紀元前45年よりローマ暦を廃し、「ユリウス暦」を採用しました。
   紀元前46年の日数を355日+90日=445日とし、人類史上最長の一年を造りました。
   一年を365日とし、4年に一度、閏年として、二月に一日加えて一年を366日としました。
   (平均年の一年の日数を365.25日にしましたが、これでも正確な「一太陽年」(365.24219日)
       に対して4年で44分の誤差が出ます。したがって、24時間割る44分=32.7閏年すなわち、
       131年で、一日のずれになります。)
   紀元前8年以降に使用された暦は、平年の一年365日。十二ヶ月で、その各月の日数は次の通り。
   一月(31日)二月(28日)三月(31日)四月(30日)五月(31日)六月(30日)
      七月(31日)八月(31日)九月(30日)十月(31日)十一月(30日)十二月(31日)
   4年に一度、閏年には二月の日数を29日にして、閏年の日数は366日。ただし、ローマでは、
      1,2,3月でなくローマ神話に基づく固有名を使っていた。七月はこの時より「Jurius」と名称
      変更された。

 (5)アウグスドゥスの改訂
   紀元前8年、ローマ皇帝アウグストゥスはそれまでの閏年の設定誤りに修正をかけ、数年間
      閏年を停止しました。紀元8年からは、毎四年ごとに閏日が挿入されました。さらに八月の
      ローマ名称を自らの「Augustus」に変えました。
   以上で、各月の名前は、現在の名称に落ち着いたようです。しかし、その後もその時々に
      ローマ皇帝は自分の名前への改称を試みたようですが、結局、「Jurius」「Augustus」の二つが
      残りました。

(その2)グレゴリオ暦
 ユリウス暦と太陽年とのずれは、中世イギリスの哲学者ロジャー・ベーコン(1214〜1294)が
指摘してから、300年間も放置されていました。
 (注)Roger Bacon キリスト教の真理と科学の統合を主張し、学問の目的は、人間の自然に対する
        支配権の拡大にあるとし、実験と観察を尊重し、アラビア科学も取り入れて、自然科学の道を
        開いた。拡大鏡を発明し、空中飛行も予見した。「驚異すべき博士」と称された。
                             (金田一春彦「新世紀ビジュアル大辞典」学習研究社)
 (1)改訂の経緯
   ユリウス暦の太陽年に対する誤差は、ユリウス暦施行から、1627年経った1582年2月24日
       グレゴリオ暦が発布され、10月4日(木曜日)の翌日を10月15日と12日間の調整を行い
       ました。すなわち、45年+1582年=1627年。1627年割る131年(24時間誤差)=
       12日の必要な調整日数。
   教皇グレゴリウス13世は、1579年にシルレト枢機卿、天文学者アロイリウス・リリウス、
       数学者クリストファー・クラヴィスらによる改暦委員会を設置し、1582年2月24日に改暦を
       発布させました。平均回帰年365.2422日に対して、グレゴリオ暦一年は365.2425日
       (コペルニクスの提案値)となり、3000年に一日の誤差がありますが、春分回帰年
       365.2424日に十分近い精度があるとされます。
   (端数の0.2425は、分数で400分の97なので、400年間に97日の閏日をいれれば、
        修正できます。)   
   
 (2)グレゴリオ暦の各国に於ける導入の歴史
   1582年2月に発布されてから、各国の導入状況は、次の通り、300年以上かかっています。
       
           1582年〜1587年  イタリア、スペイン、ポルトガル、ポーランド、フランス、
                        ベルギー、オランダ、ドイツ、スイス、ハンガリー
            〜1700年代     ドイツ(プロテスタント諸都市)、デンマーク、イギリス、
                        スエーデン
           1873年(明治6年) 日本
       1912年(民国1年)  中国 

(その3)日本に於ける暦法
 日本でグレゴリオ暦以前に使われた暦法は、太陰太陽暦で、元嘉暦から宣明暦までは中国暦を輸入し
て使い、これを漢暦五伝と言われています。貞享暦から天保暦までは、日本人の手によって作られた暦法
です。中国暦が日本に伝来したのは定かではないが、『日本書紀』欽明天皇14年(553年)に百済に対し
暦博士の来朝を要請し、翌年2月に来たとの記事があり、遅くとも6世紀であろうと考えられています。
この頃百済で施行されていた暦法は元嘉暦です。
 また推古天皇10年(602年)に百済から学僧観勒が暦本や天文地理書などを携えて来日し、幾人かの
子弟らがこの観勒について勉強したとのこと。
 官暦として正式に採用されたのが、平安時代に編集された『政事要略』には推古天皇12年(604年)から
初めて暦の頒布を行ったと書かれていますが、『日本書紀』では持統天皇4年(690年)の条にある「勅を
奉りて始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行う」という記事があり、正式採用は持統天皇6年(692年)からと推定
されています。
 文武天皇元年(697年)8月からは元嘉暦が廃され、儀鳳暦が使用されました。儀鳳暦は唐で施行された
麟徳暦のことです。儀鳳暦以降、大衍暦・五紀暦・宣明暦と唐で施行された暦法が相次いで輸入され
施行されました。宣明暦は貞観4年(862年)より用いられましたが、その後は中国との正式な国交が絶えた
ため、江戸時代まで823年間も施行されたものです。

 江戸時代になると日本でも独自に天文暦学が発展し、明の大統暦や西洋天文学の研究、天体観測が
盛んに行われ、「渋川春海」(参考メモ参照)が最初の自国の暦法である貞享暦を作るのに成功しました。
 貞享暦以後、宝暦暦・寛政暦・天保暦と日本独自に相次いで改暦が行われ、弘化元年(1844年)より
施行された天保暦が日本で最後の太陰太陽暦で、それまで実施された太陰太陽暦のなかでもっとも精密
なものといわれ、当時中国で用いられていた時憲暦を上回ったと評されているものの、当時の世界の流れに
逆行して不定時法を導入するなどの問題点もありました。 

 以上の日本の暦法の歴史を辿りますと、元嘉暦 儀鳳暦 大衍暦 五紀暦 宣明暦 貞享暦 宝暦暦
 寛政暦 天保暦 そして、グレゴリオ暦となります。

<きさらぎ>

(その1)日本の二月
 日本では旧暦2月を如月(きさらぎ、絹更月、衣更月と綴ることもある)と呼び、現在では新暦2月の
別名としても用いています。「如月」は中国での二月の異称をそのまま使ったもので、日本の「きさらぎ」と
いう名称とは関係がないことになります。すなわち、「如月」なる漢字への単なる当て読みということに
なります。
 では、日本語で「きさらぎ」とは如何なる意味なのでしょうか。国語辞書による語源の数々を引用します。
                    (日本国語大辞典(小学館)2001年4月より)
  (1)衣更着(キサラギ・キヌサラギ)あるいは衣更衣(キサラギ) 寒さで衣を重ねる時節への符合
  (2)気更来(きさらき)または息更来(イキサラキ) 陽気が発達する時節、息とは陽気の意味。
  (3)鋤浚(スキサラギ) 田を鋤き、畠を打つ時節の意味。
  (4)葱更生(キサラギ) 去年の秋に黄落した草木が更に変わる月。
  (5)来更来(キサラギ) 前年の旧暦八月に雁が来て、更に燕が来る頃であるから。
  (6)木更月(キサラツキ) 草木更新の意味。
  (7)萌揺月(キサユラギツキ) の略か。
  (8)木栄月(キサカエツキ) の略か。
  (9)城更置(キサラオキ) 苗代に畦をつくり、更に田にも城を置くところからの符合か。
 (10)草木張月(クサキハリツキ) の語義か。
 (11)クミーサラーツキ(月) の意味か。
 (12)気更気(キサラキ) 春になって気持ちがさらりとなるところから。

など、いろいろの言われていて、どれも最もらしく思えるところを見ると何時となく、時節用語になった
ようです。
 他に梅見月(むめみつき)、木目月(このめつき)等の別名もあります。旧暦二月は新暦では三月ごろに
当たり、梅の花が咲く時期です。古い文献にどのように記されていたのか、一例が引用されています。
  (1)日本書紀(720年)「春分(キサラキ)に至りて・・・」
  (2)延喜式(927年)「今年二月(キサラキ)に御年初め・・・」
  (3)源氏物語(1001年頃)「あくるとしのきさらきに・・・・」     
  (4)山家集(1100年代)「ねがはくは花の下にて春しなんそのきさらぎの望月のころ」


(その2)西洋の二月
 欧米に於いては、二月をFebruaryといいます。これはローマ神話に登場するフェブルウス(Februus)に
由来するものです。古代ローマに於いては毎年二月に慰霊祭フェブルアーリア(Februaria)が執り行わ
れていましたが、この祭の主神がフェブルウス(Februus)(贖罪の神)です。
 後にラテン語の二月(Februarius)、英語の二月(February)に変化していきました。この慰霊祭は王政
ローマ第二代の王ヌマ・ポンピウスがサビニ戦争死者を慰霊して、戦争の罪を清めるために始めたものです。

 ちなみにローマ神話におけるFebruusのような神々はどのようなものでしょうか。物の本に寄りますと、
ローマ神は180神も数えることができるのです。すなわち、日本の神話における「八百万の神」と
変わりません。ギリシャ神話と共通する神の名前だけでも54神もいます。ここでは、普段聞き慣れた
神の名前のみ一覧表に示します。
ローマ神ギリシャ名機能ローマ神ギリシャ名機能
アポロアポロン(ギリシャから移入)アモルエロス恋の神
ウィクトリアニケ勝利の女神ウェスタヘスティア竈の神
ウェヌスアフロディテ菜園の女神クピドエロス恋の神
ケレスデメテル豊穣の女神コンセンテース・ディオリンポス12神(ギリシャから移入)
サトゥルヌスクロノス農耕の神ソルヘリオス太陽神
ディアナアルテミス樹木の神ディース・パテルハデス冥界の神
ネプトゥヌスポセイドン水の神ヘルクレスヘラクレス剛勇と知略の英雄
マルスアレス軍神、農耕の神メルクリウスヘルメス商売の神
ユノヘラローマの最高女神ユピテルゼウスローマの最高神
リベル・パテルディオニゥソス生産と豊穣の神リュムパニンフ水の精

<二月の日々>

(その1)2月2日(きさらぎの灸)(きさらぎ二日)
    陰暦二月二日にすえる灸でこの日に灸をすえると一年中息災であるという。(江戸時代)また、
    半年後の八月二日もおなじ効果有りという。なにかの語呂合わせと考えられますが、思い当たり
    ません。半年あるいは一年契約の奉公人が交替した日。このあたりが仕事の区切りがついて
    使用人の切り替えがやりやすかったのでしょうか。
    記念日としては、次のようなものが挙げられます。
     (1)国際航空業務再開日(1954年・昭和29年)
                一番機日本航空東京発ホノルル経由サンフランシスコ行き
     (2)バスガールの日(1920年・大正9年)
                東京の乗合自動車に初のバスガール登場。初任給高給35円。
     (3)頭痛の日(2001年・平成13年)
                (ず・2)(ツウ・2)の日、という誠に頭の痛い語呂合わせ。
     (4)交番設置記念日(1881年・明治14年)
                一警察署管内に七「交番」設置が決められる。
     (5)夫婦の日(毎月22日)
       <毎月夫婦の日があると、夫婦当事者はうんざり。「ふーふー」言わざるを得ない。>

(その2)2月3日(節分:気候の変わる前日ー立春の前の日、元は立夏、立秋、立冬の前日も意味した)
    立春を新年と考えれば節分は「大晦日」に相当することになります。追儺行事としての
    「豆まき」は、疫病などをもたらす悪い鬼を追い払う儀式で、文武天皇慶雲三年(706)に
         宮中で初めて行われて以来、一般庶民にも伝承されてきた習慣です。
    「巻き寿司の丸かじり」「門守り」「修二月会」(修二会)「鬼問答」なども、新しい年の幸運を
    願って行われます。巻き寿司は「福を巻き込み」「縁を切らない」で「恵方」に向かって丸かじり
    するものです。
    東大寺二月堂の「修二会」は、特に「お水取り」として、有名です。儀式に使用される、有名な
    「籠松明」のうち、松明は三重県名張地区の寺から、竹は京都府綴喜郡田辺町(京田辺市)より
    調達されます。

(その3)2月4日(およそ立春)
    二十四節気のひとつ。一月(睦月)の最初の「節」。「気」は半月後の「雨水」。太陽が天球上の
    黄経315度を通過するときで、初めて春の気配が現れてくる日。正月節。この日から立夏の前日
    までが春の時節となる。禅寺門前に「立春大吉」の紙を貼ります。立春を初めとして、初めて吹く
    強い南風を「春一番」、続いて「春二番」「春三番」と吹き始めます。
    88日目が「八十八夜」、210日目が「二百十日」、220日目を「二百二十日」として、
         今も暦に認識されています。旧暦(太陰太陽暦)では、元日は立春前後に置かれるので、
         「年内立春」すなわち、旧年中に春が来ることも暦上はあり、古今集一番歌
            「年の内に春は来にけり一年を去年とや言はむ今年とや言はむ」(元方)
         となるのです。

(その4)2月8日(きさらぎの事納め)
    陰暦二月八日に行った事納めのお祝い。

(その5)2月11日(建国記念日、(建国日ではない)、嘗ての紀元節)
    建国を偲び国を愛する心を養う国民の祝日。昭和41年(1966)制定。嘗て「紀元節」でしたが、
    戦後廃止され、昭和26年頃から復活の動きが出ました。「紀元節」はもと四大節(新年・紀元節・
    天長節・明治節)のひとつで、日本書紀神武天皇即位の日・紀元前660年1月1日として一月
    一日を太陽暦(グレゴリオ暦)に換算したもので、明治六年(1873)より施行され、
         昭和20年まで続いたもの。
    その他、2月11日を記念日とするものは、「文化勲章制定記念日」(昭和11年・1937より)、
    「万歳三唱の日」(明治22年・1889より)など。

(その6)2月15日(きさらぎの別れ)
    陰暦二月十五日の釈迦の入滅。涅槃会の異称。

(その7)2月29日<二月二十九日という誕生日>
    2月29日を誕生日とする人は、4年に一度しか誕生日が巡ってこないので、人より年が4倍
    とりにくい、ということになれば、しめしめというところですが、生物学的年齢は時間に連動して
    います。戸籍上では、誕生日は閏年しか巡ってこないのですが、法律上、それではいろいろ
    問題が有ります
    ので、閏年以外の年は3月1日で誕生日を迎えるのと同等になっているのです。残念でした。
    以下の皆さん!
     1792年  ジオアッキーノ・ロッシーニ(作曲家・料理人) 
     1908年  マキノ雅弘(映画監督) 
     1940年  原田芳雄(俳優)  1948年 赤川次郎(推理作家) 
     1956年  辻畑鉄也(ミュージシャン) 
     1960年  平松広和(俳優) 1964年  藤井留美(翻訳家) 
     1964年  ラリッサ・ペレシェンコ(陸上競技) 
     1968年  飯島直子(女優) 1968年  日下千帆(フリーアナウンサー)
     1976年  ホセ・ビタウ(サッカー選手) 
     1976年  ゾエ・ベーカー(水泳選手) 1980年  井川絵美(タレント)
     1980年  日比谷篤史(ミュージシャン) 
     1980年  松本江里子(タレント) 1984年  今井りか(モデル) 

     2月29日に天国に旅立つと向こうの国では、なにかいいことがあるのでしょうか。
     忌日29日の人々。
     1212年(建暦2年1月25日)(1133年(長承二年)〜) 法然(浄土宗開祖) 
     1968年(1899年〜) ヒューゴー・ベニオフ(地震学者) 
     2000年(1926年〜)  松本英彦(サックス奏者) 
     2004年(1923年〜)  鏡里喜代治(第42代横綱) 

(その8)2月の週間・旬間・月間
    (1)生活習慣病予防週間(2月1日〜7日)
    (2)出稼ぎ労働者福祉推進旬間(2月1日〜10日)
    (3)省エネルギー月間・北方領土返還運動全国強調月間・海外移住推進月間
      ・薬物乱用事犯取締強調月間・職場健康診断推進運動

<江戸の天文方>

(その1)天文学者渋川春海(「国史大事典」
                (吉川弘文館)・フリー百科事典「Wikipedia」などより)

*****    渋川 春海(しぶかわ はるみ)(しゅんかい)    *****

 寛永16年閏11月(1639年) - 正徳5年10月6日(1715年11月1日)77歳で病没。江戸時代前期の天文
暦学者、囲碁棋士 幼名六蔵、字順正(春海)、諱は都翁(つつじ)、通称助左衛門(元禄五年)、
号新蘆。姓は安井から保井、さらに元禄十五年(1702)64歳で渋川と改姓しましたが、先祖が河内国
渋川郡を領し、後に播磨国安井郷に変わり、再び渋川の旧領に還ったためです。
 江戸幕府碁方・初代安井算哲の子として京都に生まれる。1652年、父の死によって2世算哲となりますが、
安井家はすでに算知(安井家2世)が継いでいたため保井姓を名乗ります。
 万治2年(1659年)17歳で御城碁に初出仕し、本因坊道悦に黒番で4目勝ちを果たします。21歳の時、
中国・四国に遊び、緯度を測定、この年より毎年囲碁をもって台覧に供しました。天文の理を応用したと
いう天元の局は有名です。
 数学・暦法を池田昌意に、天文暦学を岡野井玄貞・松田順承に学び、授時暦に通暁しました。山崎
闇斎について和漢の書に通じ、神道の奥秘を受け、諸流を極めました。

 在来の天体観測機器を改良して日夜観測し、自ら新暦を作成しました。日本は貞観4年(862年)に唐
よりもたらされた宣明暦を用いていて、かなりの誤差が生じて、気節に二日の狂いがあり、度々の日食
月食が的中しないことを指摘しました。
 そこで中国の授時暦を日本向けに改良を加えて大和暦を作成し、幕府に上表する事三度目にして採用
されて、貞亨元年(1684)十月改暦宣下あり、「貞享暦」となり、日本初の国産暦となります。
この功により翌年に碁所を免じて、初代幕府天文方に任じられ、禄百俵を賜ります。後二百五十俵に
加増され、宅地を本所に移転し、さらには駿河台に拝領して天体観測を続けます。以降、天文方は
世襲となりました。
 
 著作には、暦書として「貞亨暦」「日本長暦」など、「天象列次之図」「天文分野之図」のほかに、
「天文成象」(自ら新しく制定観測し、息子昔尹(せきただ)名で刊行)、「天文瓊統(けいとう)」
(天文学の集大成)、などあります。
 製作品としては天球儀、地球儀、百刻環(従来の漏刻に変わるもので、周囲を一日百刻に目盛った
赤道環を持った一種の赤道型日時計)、など、本邦最初の天文観測開拓者であったのです。 

 墓所は、品川東海寺、法名は、太虚院透雲紹徹居士。

*****    渋川春海の「貞競暦」   *****
 貞享暦(じょうきょうれき)、初めて日本人の手によって編纂された暦法。渋川春海の手によって完成
したもので、貞享元年(1684年)に採用が決定。翌貞享二年(1685年)から使用され、70年間使用
された後、宝暦六年(1756年)に宝暦暦に改暦。
 渋川春海は、中国の授時暦を元に自ら観測して求めた日本と中国との里差(経度差)を加味して、
日本独自の暦法を完成させ、大和暦(やまとれき)と命名。当時使われていた宣明暦は、800年以上もの
長きに亙って使われたため誤差が蓄積し、実際の天行よりも2日先行していたもの。幕府は、当時明で使わ
れていた大統暦に改暦する予定であったが、渋川春海が採用を願い出た大和暦を採用することとし、
当時の元号から「貞享暦」と命名。渋川春海はこの功により、新設の幕府天文方に任命される。


(その2)江戸時代の天文学者達
           (大阪科学博物館「近世日本の天文学者・人名事典より)

1.麻田剛立 (Asada,Gouryu : 1734-1799)
 日本において、近代的な天文学研究をはじめて行った天文学者が麻田剛立です。享保19(1734)年2月
6日、豊後国杵築藩(大分県杵築市)の儒者綾部安正の第四子として生まれ、幼名庄吉良、名は妥彰、
璋菴と号しました。幼い頃から独学で天文学と医学を学び、明和4(1767)年には杵築藩侯の侍医となり、
安永元(1772)年頃に杵築を離れ大阪に至り、その後は麻田剛立と名のって大阪本町四丁目で医を業と
しながら研究を続けました。
 剛立の学風は漢訳西洋天文書の『崇禎暦書』をベースとし、理論を実測で確認するという近代的なもの
で、やがて多くの弟子が集まり「麻田学派」と呼ばれる一派が形成されます。寛政年間、幕府は改暦の
ために剛立を招こうと考えましたが、老齢かつ脱藩の身ゆえ受ける意志がなかったため、その結果高弟の
間重富と高橋至時が招かれる事となりました。
 剛立は寛政改暦の前後から老衰が加わり、寛政11(1799)年5月22日に没。享年66才。1999〜2000年に
かけて、大分県教育委員会より、麻田剛立の資料集、評伝が出版されています。
 主な著書:『時中法』、『実験録推歩法』、『弧矢弦論解』

2.高橋至時 (Takahashi,Yoshitoki : 1764-1804)
 高橋至時は明和元(1764)年11月、大阪定番同心高橋徳次郎の子として生まれる。通称作左衛門、
字は子春、東岡または梅軒と号しました。幼い頃から算学を学び、やがて麻田剛立に入門し天文学を学び
ます。彼は特に天文学理論の研究に才能を発揮し、寛政年間には師の剛立の実力をも凌駕していたといわ
れます。寛政7年、間重富と共に暦学御用につき江戸出府を命ぜられ、同年11月には幕府天文方に
昇進します。翌年には寛政の改暦事業を命じられ、寛政暦作成の中心人物として活躍しました。改暦後は
江戸で天文学の研究に打ち込んだほか、伊能忠敬の全国測量の指導も行っています。
 享和3年には、フランスの天文学者ラランドの著書『天文学』のオランダ語訳本(『ラランデ暦書』)を
入手・翻訳を行ない、西洋天文学の直接導入の道を切り開きます。
 翌文化元(1804)年1月4日、41才で病没。長男景保が後を継ぎ、また次男景佑は後に天文方渋川家の
養子となって天文方に就任しています。高橋は非常に優れた理論天文学者であり、天文方として活動した
10年ほどの間に、幕末までの日本の天文学の流れを確立したといっても過言ではなく、江戸時代を代表する
天文学者である。
 主な著書:『西洋人ラランデ暦書管見』、『新修五星法』、『増修消長法』、
       『赤道日食法』

3.間重富 (Hazama,Shigetomi : 1756-1816)
 間重富は、宝暦6(1756)年3月8日、間家6代目重光の第6子として大阪に生まれました。兄たちが相つ
いで夭折したため、第7代目を継いでいます。初め姓は羽間でしたが、寛政の改暦の功績により苗字を許さ
れ間と改めます。幼名孫六郎、字は大業、長涯と号し、家業は十一屋という質屋で、通称は十一屋五郎
兵衛といいました。幼い頃から算学や天文学に興味を持ち、麻田剛立に天文学を学びます。入門は天明
7(1797)年の頃とされています。重富は麻田門下の高弟であっただけでなく、特に観測技術面で才能を発揮
し、垂揺球儀をはじめ多くの観測機器を考案・改良し、また私財を投じて工人を養成して機器の製作にあた
らせています。
 寛政7(1795)年、同門の高橋至時と共に暦学御用のため幕府に召され、江戸へ出ました。翌年、寛政の
改暦事業を命ぜられ、江戸で実測等に当たりました。改暦後は大阪で御用観測を行っていたが、文化元
(1804)年に盟友の天文方高橋至時が病死したため、後を継いだ長男景保の後見役として江戸に出府、
文化6(1809)年まで天文方高橋家の指導を行ています。帰阪後は、御用観測のほか古尺取調事業などに
従事していたが、文化13(1816)年3月24日没。享年61才。
 主な著書:『算法弧矢索隠』、『垂球精義』、『星学諸表』

4.間重新 (Hazama,Shigeyoshi : 1786-1838)
 間重新は、天明6(1786)年間重富の長男として生まれました。幼名清市郎(または清一郎)、字は伯固、
確斎または盛徳と号しました。15才の頃には松岡能一に算学を学び、早くから天文暦学の教育を受けたと
思われ、重富が御用観測を始めた寛政10年頃より観測の手伝いをしています。重富没後は間家第八代を
継いで十一屋五郎兵衛を名乗り、幕府の御用観測も同様に勤める様命じられています。
 重新は、特に天体観測の技術に長けており、観測法や観測機器の考案・改良を行って観測精度の向
上につとめています。また著作は大部分が天体観測に関するものであり、天文学理論の著作はほとんどあり
ません。従って、重新は観測天文学の専門家といった印象が強い人物です。天保9(1838)年1月2日、
53才で没し、長男剛之助重遠が後を継いでいます。

5.渋川景佑(Shibukawa,Kagesuke :1787〜1856?)
 江戸時代後期の天文学者。幕府天文方高橋至時の次男として大阪で生まれました。幼名は善助。
1805(文化2)年には、伊能忠敬の全国測量に同行して東海・山陽・山陰地方を実測しています。1808(文
化5)年に天文方渋川正陽の養嗣子となり、翌年天文方に就任、名を助左衛門としました。
 その後、高橋景保や足立信頭らと共にラランデ天文書の訳解に従事し、1936(天保7)年『新巧暦書』と
して大成しました。また『寛政暦書』『新修五星法』等の編集・著述も行なうなど、当時の天文方の懸案
課題を完成させています。
 1841(天保12)年、幕府は天文方・渋川景佑と足立信頭に対して、『新巧暦書』に基いて改暦を行なう
様に命を下し、天保暦法(1845年施行、正式な暦法名は「天保壬寅元暦」)を作成しました。その他、景佑
には『寛政暦書続録』『三統暦管見』等多数の著作があり、江戸時代後期の天文学をまとめあげた役割を
はたしています。
 主な著書:『新巧暦書』(共編)、『寛政暦書』(共編)、『寛政暦書続録』、
       『三統暦管見』

6.渋川春海( Shibukawa, Harumi :1639〜1715)
 江戸時代の天文学者。幕府碁方安井算哲の子として京都で生まれました。14才で父の役職を継ぎ、
安井算哲を名乗ります。のち姓を保井と改め、1702年には本姓の渋川に改名しています。幼い頃から天文
を好み、また山崎闇斎に朱子学・神道を学びました。
 当時行われていた宣明暦は天の運行とのズレが生じていたため、春海は自ら新しい暦法「大和暦」を
作成して幕府に改暦を上奏し、正式な暦法として採用され、名を「貞享暦」と改め1685年から施行されて
います。「貞享暦」は中国の授時暦法を基本とし、日本と中国との経度差等を考慮したもので、我が国初の
国産の暦法です。1684年、改暦の功により幕府の初代天文方に就任しました。 
 主な著書:『日本長暦』、『天文瓊統』、『天文分野之図』

7.伊能忠敬 (Inoh, Tadataka :1745〜1818)
 江戸時代の測量家。日本ではじめて精密な全国地図を作ったことで知られている。貞享2(1745)年、上総
国山辺郡の小関家生まれました。17歳のときに、下総国佐原村の伊能家に入夫しています。
 隠居後の寛政7(1795)年、50歳で江戸に出て幕府天文方高橋至時に入門。天文学を学びます。その後、
寛政12(1800)年の第一次測量を皮切りに、延べ17年間にわたり10回の測量を行い、詳細な全国地図
『大日本輿地全図』(1821年)を作成しました。彼の地図の精密さを特徴づけるものの一つには、天体観測に
よる各地の緯度決定がある。つまり地理的な測量に加えて天体観測によるデータを加味したことにより、
精密な緯度の値を算出することに成功している点です。
 伊能忠敬は、高橋至時のもとで天文学を学んでいます。彼は当時最新の教科書であった『暦象考成後
編』などに基づいて、日月食などの予報計算ができたようですが、いわゆる「天文学研究者」という程の
レベルまでには達していなかったようです。従って、天文学における学問的水準としては、あくまでも
至時の門下生の位置付けるべきでしょう。 
 天文学に関連する主な著作:『国郡昼夜時刻』、『仏国暦象編斥妄』

平成18年2月22日   *** 編集責任・奈華仁志 ***


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