平成社会の探索

<「知恵の会」への「知恵袋」>

ー第104回知恵の会資料ー平成23年10月30日ー


(その49)課題「はちまき(鉢巻)」
ー「鉢巻と仇討ち」ー
芥川宿の仇討ち
 目     次 
まえがき
(その1)「鉢巻」と「戦闘ないし競争する姿」
(その2)「仇討ち」の世界
(その3)芥川宿の「仇討ち」

<まえがき>

 「はちまき・鉢巻」といえば、小学校の運動会、三島由紀夫の自衛隊乱入、さらには講談本の世界へ
飛んで、荒木又右衛門の「鍵屋の辻」仇討ち世界、などが連想されます。現在でも映画やテレビなどの
映像世界の中にも、「忠臣蔵」などをはじめとする、いろいろの「鉢巻姿」を探せます。
 これまでに見聞きできた「鉢巻姿」世界の中で、西国街道沿い地元芥川宿で起こった「仇討ち」を
探ってみました。

<(その1)「鉢巻」と「戦闘ないし競争する姿」>

 鉢巻とは、昔、烏帽子の上に兜をつけるとき、烏帽子の縁に巻いた布が、起源とされ、また頭の鉢を
布で巻くことから、文字通り「鉢巻き」ということになります。その実用的な目的の鉢巻も、使っていく
うちに「精神統一」や「気合いを入れる」為に用いられていると解釈されるようになったのでは。
 まずは、果たし合いや仇討ちの状態の武士は、一般に鉢巻をしているものというイメージがあります。
 宮本武蔵と佐々木小次郎がその典型でしょうか。仇討ち関係は(その2)参照方。

 昔は個人の使い勝手の鉢巻も、だんだん集団の活用という方向に利用されだし、その典型的な集団は、
映画や芝居でおなじみの「忠臣蔵」ということになりましょう。本当に、四十七士は芝居や映画で再現されて
いる戦闘姿で、仇討ちに臨んだのかどうか。討ち入りの翌朝吉良上野介の館から、浅野内匠頭の墓所である
泉岳寺へ引き揚げる赤穂義士の集団を見た江戸庶民の見聞録で確認する必要がありましょうが、先ず
映画芝居で再現されている通りと想定されます。

(左)浮世絵・堀部弥兵衛と安兵衛(歌川国貞)(中)仮名手本忠臣蔵(右)映画「忠臣蔵」
 ではどうして、赤穂義士は討ち入りの時に全員鉢巻をした戦闘姿となったのか。鉢巻の目的とする
ところの「精神統一」や「気合いを入れる」こともさることながら、狭い屋敷内や暗い室内での討ち
合いになったとき敵味方を区別しやすいためではないか、とも思われます。
 さらには、近代や現代の見せ物興行としての「忠臣蔵」で、討ち入りする武士集団が、江戸町内を
歩いている武士と同じ格好では、「戦闘態勢に入った武士の集団」として「格好が付かない」ので、
見栄えのする「戦闘姿の集団」に模様替えしたとも言えましょう。

 現代の日常で見かける「鉢巻姿」は、まずは学校での運動会の風景でしょう。これも「競争する集団」を
区分するためで、競争しておりながら、どちらがどちらかわからないようでは、面白みがありません。
 選手を紅組と白組に区別してこそ、競争の意味合いがあります。この場合、常に「紅」あるいは「白」で
或必要はなく、鉢巻は、一面を「紅」地に、その裏面を「白」地にする活用方法です。
 また、競技会の選手もさることながら、それらを応援する集団も鉢巻姿で、競い合うということに
なります。
 流用している事例としては、集団のデモ行進やイベントでの催し物でしょうか。その昔の労働争議や
メーデーなどの集団威示行動は、どうも暗いイメージにつながりそうです。
 暗いイメージのついでに、先の大戦での神風特攻隊などは、「戦闘姿の集団」としても、「忠臣蔵」とは
かなり違った世界の鉢巻になっています。

 なお現在実用的な目的での鉢巻として、テニス試合などの選手や調理場の板前は、額の汗を吸収させる
目的から使用しているものもあるようです。


<(その2)「仇討ち」の世界>

 さて仇討ちの時、鉢巻は「戦闘の定型」と仮定して、代表的な仇討ちの歴史を追ってみますと、
次のようない事例が挙げられています。
 一般に縁起の良い諺として「一富士、二鷹、三茄子」というのは、江戸時代に「日本三大仇討ち」の
ことを言ったのだという説明もみられ、
(1)曾我兄弟の仇討ち:「富士」の裾野での巻狩り時の仇討ち
(2)赤穂浪士の討ち入り:播州赤穂藩浅野家の家紋が「丸に違い鷹の羽」
(3)伊賀越えの仇討ち:伊賀国は「茄子」の産地
という符合によるというもの。

 これら以外に知られている仇討ちとしては、源実朝の暗殺、天下茶屋、浄瑠璃坂、亀山、高田馬場、
高野、郡上、等の各地であり、さらに明治六年仇討ち禁止令が出てから、”最期の仇討ち事件”として
東京の旧藩邸内で起きた臼井六郎の仇討ち(明治13年・1880)なども挙げられる。

 特殊な事例としては享保八年(1723)奥州白鳥明神前の敵討ちは姉妹で、妹は13歳であったという。
 また赤穂浪士の討ち入りは、47人の集団での行動である点も、大石主税が15歳であったことなど、
特殊なものであり、(その3)に記す芥川の敵討ちの松下助三郎は、14歳という若者であった点も
何となく悲惨な感じを受けるところ。 

 筆者の周辺には仇討ち関係の事例が多い。ここでは(3)伊賀越えの仇討ち、すなわち、故郷の
近隣・伊賀国上野で起きた荒木又右衛門による「鍵屋の辻」仇討ちについて、概略を<参考1>に
記しておきます。


<(その3)芥川宿の仇討ち>

 高槻市史によって「芥川宿や山崎通り芥川近辺を舞台とした」「仇討ちに関連した」話題を紹介します。
 (注)井原西鶴「武道伝来記」巻二および巻七などは<参考2>参照方。

 『摂州芥川之駅薦僧之敵討実録』(芥川岸田家所蔵文書)あるいは 『続近世畸人伝』『寄合文集』などに
より、史実とされる仇討ちの話とは、
 「寛文十一(1671)年三月二十日、芥川宿からそう遠くない、芥川右岸堤防を山崎通りから南へ下った
  五百住道で、起こった仇討ちは、討ったのが弱冠十五歳の少年、討たれたのが虚無僧姿の屈強の中年浪人と
  あって、たちまち北摂中の話題となった。」(高槻市史)という。
 「郷土史研究会 中西七丘」氏が昭和五十二年四月に誌した説明版は以下のとおりです。

  「当芥川宿の仇討は今から凡そ三〇〇年まえ江戸時代初期の出来ごとである。 石見国吉永(島根県大田市
  南部)の城下で二人の若侍が同藩の美しい稚児の争奪からその意趣遺恨で果合をしたのが発端である。
  ことにその経緯の仔細は盡くせないが要するに下手人の侍は自分の邪推からもう一人の藩士を江戸表で
  殺した。殺された藩士の子息助三郎という若殿は、秀吉の臣で文禄慶長の役の水軍の将であり賤ヶ岳
  七本槍の一人でもあつた加藤左馬之助嘉明の曾孫という貴公子であつた。親の仇討を深く心に決めた彼は
  京の剣客について日夜剣を学びすこぶる上達した。 助太刀の剣士と若党を従え敵を求めて諸国を遍歴する
  こと二年有半、虚無僧に身をやつし一管の尺八で門付けする敵が当芥川宿の旅籠に入るのをついに見届けた。
  初秋のもう肌寒い夜明け、敵が宿を立ち去るところをこの辻で助三郎少年は声高々と名乗りをあげて踊り
  かかり不倶戴天の敵を討ち取りめでたく本懐をとげた、時に弱冠十四才であつた。 討たれた八之丞の
  懐中から一通の書状が出てきた、それには自分は二人も殺した人間であるため討たれて当然であり旦、
  討つ方に咎はないとあつた。この仇討は双方が当時の武士道のモラルを貫いた美談として広く全国に
  喧伝されまた風俗史の上からも貴重な資料として『続近世畸人伝』などの諸書にも取り扱われた。
  因にいえば大通寺の中興の名僧南谷はこの助三郎の実弟である。」

 ちなみに「大通寺」とは清和源氏の祖経基の霊廟に由来する大通寺遍照心院(京都市南区大宮通九条下ル)。
 鎌倉三代将軍実朝夫人(本覚尼、坊門藤原信清女)により現今の寺号などがさだめられ、元禄頃
「僧南谷」により現在の六孫王神社などが建てられたので、「中興の名僧」とされる。
 なお、寺内には、源実朝の座像が安置されている。

(左)芥川宿付近の地図(一里塚から芥川橋)(明治前期)(右)現在の旧芥川宿付近の地図


(左上)芥川に架かる芥川橋(右上)一里塚角(仇討ち解説板あり)
(左下)芥川橋下流右岸の風景(右下)一里塚の跡地

(参考資料)

<参考1>「伊賀越えの仇討ち」(鍵屋の辻の決闘)
  寛永11年11月7日(1634年12月26日)渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である
 河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討った事件。事件の概略は次の通り。

  寛永7年(1630年)7月11日、岡山藩主池田忠雄が寵愛する小姓の渡辺源太夫に藩士河合又五郎が横恋慕して
 関係を迫るが、拒絶されたため又五郎は逆上して源太夫を殺害。又五郎は脱藩して江戸へ逐電、旗本の
 安藤次右衛門正珍にかくまわれた。激怒した忠雄は幕府に又五郎の引渡しを要求するが、安藤次右衛門は
 旗本仲間と結集してこれを拒否し、外様大名と旗本の面子をかけた争いに発展してしまう。
  寛永9年(1632年)、忠雄が疱瘡のため急死。死に臨んで又五郎を討つよう遺言する。子の光仲が家督を継ぎ、
 池田家は因幡国鳥取へ国替えとなる。幕府は、喧嘩両成敗として事件の幕引きをねらい、旗本たちの謹慎と
 又五郎の江戸追放を決定。源太夫の兄・渡辺数馬は仇討ちをせざるをえない立場に追い込まれた。
  剣術が未熟な数馬は姉婿の郡山藩剣術指南役荒木又右衛門に助太刀を依頼する。数馬と又右衛門は又五郎の
 行方を捜し回り、寛永11年(1634年)11月に又五郎が奈良の旧郡山藩士の屋敷に潜伏していることを突き
 止める。又五郎は危険を察し、再び江戸へ逃れようとする。数馬と又右衛門は又五郎が伊賀路を通り、江戸へ
 向かうことを知り、道中の鍵屋の辻で待ち伏せする。又五郎一行は又五郎の叔父で元郡山藩剣術指南役
 河合甚左衛門、妹婿で槍の名人の桜井半兵衛などが護衛に付き、総勢11人。待ち伏せ側は数馬と又右衛門
 それに門弟の岩本孫右衛門、河合武右衛門の4人。
  11月7日早朝、待ち伏せを知らず、鍵屋の辻を通行する又五郎一行に数馬、又右衛門らが切り込み、決闘が
 始まる。孫右衛門と武右衛門が馬上の桜井半兵衛と槍持ちに斬りつけ、半兵衛に槍が渡らないようにした。
 又右衛門は馬上の河合甚左衛門の足を斬り、落馬したところを切り伏せた。次いで、又右衛門は孫右衛門と
 武右衛門が相手をしていた桜井半兵衛を打ち倒す。このとき武右衛門が斬られて命を落としている。
  又五郎を倒すのは数馬の役目で、この二人は剣術に慣れておらず、延々5時間も斬り合い、やっと数馬が
 又五郎に傷を負わせたところで、又右衛門がとどめを刺した。 俗に又右衛門の「36人斬り」と言われるが、
 実際に又右衛門が斬ったのは2人である。
 
  また、決闘地の領主である津藩藤堂家が又五郎一行の情報を提供したり、兵を密かに配置し、決闘が始まると
 周囲を封鎖し、又五郎の逃走を阻止するなど、数馬、又右衛門らを支援していたともいわれる。支援の理由は
  この事件を外様大名と直参旗本との争いとみなしたためと見られる。
  見事本懐を遂げた数馬と又右衛門は世間の耳目を集めた。特に、実質仇討ちを主導した荒木又右衛門は
 賞賛を浴びた。数馬と又右衛門、孫右衛門は伊賀上野の藤堂家に4年間も預けられ、結局、3人は鳥取藩が
 引き取ることになった。
  寛永15年(1638年)8月13日、3人は鳥取に到着するが、その17日後に鳥取藩は又右衛門の死去を公表。
 又右衛門の死があまりに突然なため、毒殺説、生存隠匿説など様々な憶測がなされている。

 さて、「仇討ちと鉢巻」や如何に。以下に三人の名優による「鉢巻姿の荒木又右衛門」を引用します。

三名優の荒木又右衛門:(左)尾上松之助(中)嵐寛寿郎(右)里見浩太朗
<参考2>「山崎通芥川近辺の仇討ち二話」(いずれも実話とは考えられていない)

(その1)井原西鶴「武道伝来記」(貞享四年・1687・刊)巻七
 「新田原藤太 百足枕神に立つ事」
 薩摩国鹿児島藩で、ある夜城中で宿直をしていた沖浪大助が百足を切り落す。この刀自慢の手柄を
 成り上がり重役南郷主膳に街角であったとき、冷やかされたことに立腹し、弟善八と主膳宅に
 乗り込み、打ち果たしてのち、逐電する。切られた主膳の一子善太郎(16歳)は仇討ちの旅に
 出て、四五年後、四国阿波磯崎での一夜の夢に「仇は摂津国古曽根(古曽部)」と知らされ、
 西国から居住したという家をたづねあて、立ち入ると、
 「年頃四十あまりの女がこたつの櫓に腰をかけ、<<鉢巻>>をして、独りで出産の最中。
  火急のこととて、善太郎は、腰を抱えて介添えをしてやる。産後、女が語るには、不慮のこと
  ありて、七ヶ月前になくなったが、その息子大七は「罰当たり」で、親の百ヶ日も立たぬに
  芥川近辺で殺生に明け暮れているという。沖浪大助はなくなったので、代わりに息子を殺せば
  仇の種は尽きると思い、芥川で川狩りをしている大七を討ち果たす。」
 という話の展開だが、「西鶴好みの趣向が随所に散見する」ところから、話の域をでないとされる。

(その2)井原西鶴「武道伝来記」巻二
 「身体破る落書の団扇」
 四国徳島蜂須賀家中千塚林兵衛一子林太郎が、同藩奥田忠右衛門の入り婿篠田文助に水掛け祝いの
 行き違いで切られた父の仇を討つ話で、場所は、芥川宿の北方山際の成合金龍寺での話。

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平成23年10月10日 *** 編集責任・奈華仁志 ***

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