平成社会の探索

<「知恵の会」への「知恵袋」>

ー第98回知恵の会資料ー平成22年12月23日ー


(その43)課題「せ(瀬)」 ー「瀬をはやみ」の世界ー
 目     次 
まえがき
(その1)<瀬をはやみ>の「瀬」とは
(1)百人一首の「瀬」
      (2)万葉集・勅撰和歌集での
「瀬をはやみ」
      (3)枕草子での「瀬」
(その2)「七瀬川・ななせかわ」と
「水無瀬川・みなせかわ」
(1)京都市伏見区の七瀬川の「瀬」
(2)「七瀬祓え」
  (参考1)「崇徳院」の落語世界
  (参考2)新作落語「崇徳院」
(参考3)「瀬を早み」の百人一首
パロディ集

<まえがき>

 「せ・瀬または湍」とは、一般的な用語としての「浅い流れやはやせ」以外に、「ある物事に出会う時」
という意味で「年の瀬」などが用いられます。さらに語義の世界は広く、ある物事の特定の「箇所や接点」
「場所や居所」さらには「境遇や立場」まで、活用されている用語です。
                (「日本国語大事典」第二版・第七巻 小学館 (2001年7月))
 歌に詠まれた場合は、これらの色々の意味合いを含めながら、意味深長な詠いとなります。
 「こころみになほ下り立たむ涙河嬉しき瀬にも流れあふやと」(後撰集・恋二・612)
 「世の中は何か常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬になる」(古今集・雑下・933)
 「人知れぬ仲の柵かけたれや恋しき瀬にも逢ふよしのなき」(古今六帖・3・6135)
 「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ」(詞花集・恋上・229)

 本来年末の時節柄、「年の瀬」を取りあげるのが相応しいところですが、
 以下では、「瀬」に関係した「崇徳院の世界」を覗いてみましょう。  

(その1)<瀬をはやみ>の「瀬」とは

(1)百人一首の「瀬」
 百人一首歌で、「瀬」の歌語を含む歌は次の三首です。
 「朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あれはれわたる 瀬ゝの網代木」(64番 権中納言定頼)
 「憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを」(74番 源俊頼朝臣)
 「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」)(77番 崇徳院)

 64番歌は宇治川の「瀬々」で、74番歌は長谷寺の「初瀬」という地名ですが、77番歌の「瀬」は
特定の場所か、あるいは普通名詞か、判然としない詠みです。
 百人一首の歌は自ら撰集を命じた「詞花集」巻七ー229番歌で、その原典は「久安百首」とされながら、
初句は「ゆきなやみ」で、三句が「谷川の」と本文異同があります。「ゆきなやみ」より「せをはやみ」の
方が歌の勢いが感じられ、恋の激情がより的確に歌い上げられていると読み取ることができます。
 又この歌の中には「せ」が二箇所も詠み込まれていますし、縁語としても「瀬」「岩」「滝川」があり、
「われて」の反語的な歌語としての「あはむ」が詠み込まれているとも言えましょう。
崇徳院は詠歌の時、いずこの「瀬」を頭に描いていたのでしょうか。
因みに百人一首歌も初句の「瀬をはやみ」を流用して、
替え歌に詠み込むことが出来ましょう。
(参考3)「瀬を早み」の百人一首パロディ集 参照方。

(2)万葉集・勅撰和歌集での「瀬をはやみ」

 (万葉集関係)8首(巻2,巻7,巻10、巻11)ほどあり、いずれも本来の「浅い流れやはやせ」の
        景観を詠んだ歌ではなく、恋情に関わった詠みになっているようです。
        思う人に逢う「せ」と、逢いたいがなかなか逢えない「塞かるる場所や時点」という
        意味合いです。
  「芳野川逝く<瀬のはやみ>しましくも淀むことなくありこせぬかも」(巻2−119)
        (吉野川の早瀬のように、とどこおることなくあってくれないものかなあ。)
  「泊瀬川流るる水尾の<瀬を早み>井堤越す波の音の清けく」(巻7−1108)
        (泊瀬川の流れる水脈の瀬が速いので、堰を越して流れる波の音がさやかに聞こえてくる。)
  「さひのくま檜隈川の<瀬を早み>君が手とらば言よせむかも」(巻7−1109)
        (檜隈川の瀬が速いので、あなたの手を取って渡ったならば、人がうわさをするであろうか。)
  「妹が門出入りの川の<瀬を早み>吾が馬つまづく家思ふらしも」(巻7−1191)
        (妻の家の門を出入りするではないが、入り川の瀬が速いので、わが馬がつまづいた。
         家の者が私を思っているに違いない事よ。)
  「天の川<瀬を早み>かもぬばたまの夜は更けつつ逢はぬ彦星」(巻10−2076)
        (天の川の瀬の流れが速いから、夜は更けるのに、まだ織女に逢わない彦星よ。)
  「<瀬を早み>落ち激ちたる白浪にかはずなくなりあさひごとに」(巻10−2164)
        (瀬の流れが速いので、激しく流れ落ちている白波に河鹿が鳴いている、朝夕ごとに。)
  「千早ひと宇治の渡りの<瀬を早み>逢わずこそあれ後も我妻」(巻11−2428)
        (宇治川渡しの流れが速く渡れないように今は逢わずにいるが、行く末は私の妻である事よ。)

 (勅撰和歌集関係)11首(後撰集、拾遺集、詞花集、続後撰集、続千載集、新千載集、風雅集、
              新後拾遺集、新続古今集)で、詞花集以前の後撰集と拾遺集の三首を引用します。
  「せきもあへず涙の河の<瀬を早み>かからんものと思ひやはせし」(後撰集・巻14・恋六・1058)
  「<瀬を早み>たえず流るる水よりもたえせぬものは恋にぞありける」(後撰集・巻14・恋六・1059)
                               および(拾遺集・巻15・恋五・964)
  「<瀬を早み>岩にせかるる滝川のわれてもあはむとぞ思ふ」(詞花集・巻7・恋・229)
   因みに、当歌の出典である「久安百首」を見ると、初句が「ゆきなやみ」、三句が「谷川の」と
   本文異同が生じている。(吉海直人「百人一首の新考察」世界思想社(1993年9月10日))        

(3)枕草子での<ものはづくし>ー「川は」より「瀬」とは

 第75代天皇「崇徳院」の生涯は1119(元永二年)〜1164(長寛二年)(46歳)で、
ご在位期間は1123(保安四年)〜1141(永治元年)となっています。
 百人一首歌の初度本たる詞花集が撰者藤原顕輔に依って10巻413首が勅撰されたのが
1151(仁平元年)とされますから、12世紀の中頃になります。その頃、どのような「瀬」が
人々の頭の中に描かれていたのでしょうか。
 崇徳院の歌の「瀬」を普通名詞とせずに、敢えて特定の所、名所あるいは旧跡、さらには歌枕と仮定して
みました。そのためには12世紀までに著名な「瀬」を引用する必要があります。
 一つの手段として、「枕草子」(成立時期は1001・長保三年から寛弘年間・1004〜1012)の
言うところの「瀬」を引用してみました。「枕草子」の伝本は三巻本・伝能因所持本・堺本・前田本などに
分類されているようです。「枕草子」に「ものはづくし」の「せ・瀬」が欲しいところですが、
「ふち・淵」しか挙げておりませんので、「かは・川・河」から引き出してみました。

     ************    引用文献類  ***********

(出典1)日本古典文学大系19 校注者・池田亀鑑・岸上愼二・秋山虔 岩波書店 
               (昭和41年7月25日)第八刷
     *岩瀬文庫蔵本三冊
     「河は、飛鳥川、淵瀬もさだめなく、いかならんとあはれなり。大井河。おとなし川。
      七瀬川(ななせがは)。」
     (注)七瀬川ー所在未詳。瀬が多い意の普通名詞か。

(出典2)角川文庫 黄 二六 枕草子上巻付現代語訳 訳注・松浦貞俊・石田穣二 (昭和50年12月)
     *三巻本 
     「河は 飛鳥川、淵瀬も定めなく、いなならむと、あはれなり。大井河。音無川。七瀬川。」
     (注)七瀬川ー山城國(能因歌枕)。
       「能因歌枕」で山城国内の歌枕として、「みなせ川」「ななせ川」「ななせの池」などを挙げる。
        (佐佐木信綱・日本歌学大系・第壱巻・風間書房・昭和53年5月)

(出典3)新潮日本古典集成 枕草子上 校注者・萩谷朴 (株)新潮社 (昭和53年4月10日)
     *三巻本系統(陽明文庫本・尊経閣本)
     「川は、飛鳥川。「淵瀬もさだめなく、いかならむ」と、あはれなり。大堰川。音無川。七瀬川。」
     (注)七瀬川ー七瀬祓を行う川の意。即ち賀茂川。
            『簾中抄』「川合・耳敏川・松崎・石影・東滝・西滝・大井川
                  これは霊所とするなり。常には賀茂川の七瀬にてあり。」

(出典4)日本の文学 古典編 枕草子上 市古貞次・小田切進編 校注・訳 鈴木日出男
               株式会社ほるぷ出版(昭和60年7月1日 初版)
     *三巻本系統(日本古典文学大系本・岩波書店)
     「川は、飛鳥川。淵瀬もさだめなく、いかならんとあはれなり。大堰川。音無川。七瀬川。」
     (注)七瀬川ー山城。七瀬祓を行う川か。

(出典5)新日本古典文学大系25 校注者・渡辺実 岩波書店(1991年1月18日)第一刷
     *底本:陽明文庫蔵本、内閣文庫蔵本
     「河は 飛鳥川、淵瀬も定めなく、いかならんとあはれ也。大井河。音無川。水無瀬川。」
     (注)飛鳥川ー古今集・雑下「世の中はなにか常なる明日香川きのふの淵ぞ瀬になる」

(参考出典)新修京都叢書(名所都鳥・第14−8)
      紀伊郡・第十 七瀬川 深草の西南にあり。七瀬淀の名大和にもあり。肥前にも名同じあり。
      言及されている河川:七瀬川・賀茂川・宮川・羽川・月輪川・御手洗川・大井川

            ***************************

 以上の出典のうち、(出典1)〜(出典4)では「七瀬川」が記述されていますが、それぞれの注釈は
まちまちです。山城國と七瀬祓が関係している川という概念が引用できます。
 (出典5)では、水無瀬川となっていて、「ななせ」と「みなせ」、すなわち「な」と「み」の違いで、
書き写しの時の問題かとも考えられます。

 書き間違い、言い間違いのついでに、「ななせ川」に似通った名の、次のような川があります。
 (1)「いなせかわ・稲瀬川」:通称は『白浪五人男』(しらなみ ごにんおとこ)の「稲瀬川勢揃いの場」。
                『青砥稿花紅彩画』(あおとぞうし はなの にしきえ)は、
                文久2年(1862年)江戸市村座で初演された、二代目河竹新七(黙阿弥)作の
                「白浪物」の歌舞伎の演目。
 (2)「つな(の)せかわ・綱ノ瀬川」: 宮崎県西臼杵郡日之影町〜延岡市北方町地区の河川名。
 (3)「はなせかわ・花瀬川」:鹿児島県肝属郡錦江町田代川原花瀬 (旧田代町)を流れる河川名。
 (4)「やなせかわ・柳瀬川」:埼玉県および東京都を流れる一級河川で、荒川水系の支流。

 以下では、山城国内(京都市内)での「七瀬川」を現在の地名にしたがって探索しました。

(その2)「水無瀬川」と「七瀬川」

 「伊勢物語」での惟喬親王と在原業平の思い出の名所・旧跡である「水無瀬離宮」、また 後鳥羽院や
藤原定家の思い出の名所・旧跡でもある大阪府島本町の「水無瀬殿」「水無瀬離宮」「水無瀬川」
などは、「せ」の有る著名な場所ですので、ここでは主として、上述各種解説書で挙げられた「七瀬川」を
探求してみましょう。

(1)「水無瀬川」の紹介
  吉田金彦著作選3「悲しき歌木簡」明治書院(平成20年7月25日)より
   第七章 笠女郎、空閨の怨歌  3.水無瀬川に託す思い 抜粋
  「ミナセ川は、紀伊・相模・羽後・摂津の四例があがっているが、この歌の水無瀬川は、摂津国島上郡
   島本村大字広瀬の地である。山城国の大山崎村に接する所にある小さな川である。川が小さいのは
   うしろに天王山塊が迫っており、前は木津川・宇治川・桂川が合流しているからである。東の対岸に
   石清水八幡宮の山があり、紀貫之がここから嵐山を目掛けて桂川を遡り、平安京に入ったところで、
   山城・摂津二国境界の水陸交通の要衝であった。ここ三島の地は、六世紀前半から三島県主がおり、
   継体天皇の葬地でもあって、奈良時代には聖武天皇によって東大寺へ施入された荘園があった。」

  因みに、笠女郎の「水無瀬川」を詠み込んだ万葉歌は
  「恋にもぞ人は死にする 水無瀬河下ゆ吾痩す、月に日にけに。」(巻4−598)
   (私は水無瀬川のように、水が川底の下を潜ってしまい痩せ細ります。)


(2)京都市伏見区の「七瀬川」
(その1)歌枕としての七瀬川の歴史
  京都市伏見区を流れる川。北側を名神高速道路が通じる。伏見区深草谷口町に源を発し、南西流して
  竹田狩賀町で東高瀬川に合流する延長3.3km、流域7km平方の農業用水路として利用されている。
  (出典:角川日本地名大辞典26京都府上巻「ななせがわ」項)
  「東山連峰最南端、大岩山西麓を源流とし、伏見市街を北から西に流れ、棒鼻北で竹田街道を横断し、
   高瀬川に合流しているので、文禄三年(1594)、豊臣秀吉の伏見城造成の総外堀の役目を担っていた。
   七瀬川の名は、七曲がり七瀬があるからとか、川筋に七つの橋(笹谷橋・谷口橋・谷口西橋・筆坂橋・
   直違橋・七瀬川橋・蓮心橋)が架けられていたという。
   七瀬の祓に由来するものであろう。七瀬川は歌枕で、「能因歌枕」「八雲御抄」に言及される。」
   恆明親王生まれて始めて七瀬のはらへし侍るとてよみ侍りける 賀茂在藤朝臣
   「君がため七瀬の川にみそぎして八百万代を祈りそめぬる」 (玉葉集・巻第七・賀歌)
  (出典:日本歴史地名大系27京都市の地名 平凡社(1979年9月10日))

  因みに、「ななせ」を詠み込んだ歌は、万葉集に3首、勅撰集には上述の歌以外に4首詠まれていて、
 そのうち、3首はすべて「明日香川」との関わりで詠んでいます。
  (万葉集関係)
   「松浦川七瀬の淀は淀むとも吾は淀まず君をし待たむ」(巻5・雑歌・860)
   「明日香川七瀬の淀に住む鳥も心あれこそ波立てざらめ」(巻7・寄物陳思・1366)
   「・・・ぬばたまの黒馬に乗りて川の瀬を七瀬渡りて
           うらぶれて夫は会ひきと人ぞつげるる」(巻13・相聞・3303)
  (勅撰集関係)
   「明日香川七瀬の淀に吹く風のいたづらにのみゆく月日かな」(続後撰集・巻16・雑上・1018)
   「明日香川ひとつ淵とやなりぬらん七瀬の淀のさみだれのころ」(風雅集・巻4・夏・362)
   「さえくれぬ今日ふくかぜに明日香川七瀬の淀やこほりはてなん」(続古今集・巻六・冬・628)
 
(左)「七瀬川」流域地図(右)七瀬川町付近の地図
(その3)最近の河川改修事業
 京都市建設局河川整備課では、都市基盤河川改修事業の一環として、平成4年から17年かかって、
 七瀬川流域を「潤いと安らぎのある水辺」に改修しています。嘗ての歌枕も現代の生活環境に見合った
 親水河川地区に変貌しているわけです。

(左)二層式河川断面図(右)深草加賀屋敷町付近・近鉄京都線南の親水水路風景
(2)「七瀬祓え」(出典:「国史大事典10」吉川弘文館(平成18年12月))
  平安時代、毎月天皇が罪や穢れをなすりつけた人形(なでもの)を陰陽師や公家らが七瀬にて出て行った
  流した禊ぎの行事。
  *七瀬:川合・一条・土御門・近衛・中御門・大炊御門・二条末。
  11世紀になると、隔月に七瀬で行われた行事で、平安時代の内裏近くの地点が、洛外にまでのびた。
  *七瀬:耳敏川・河合・東滝・西滝・松崎・石影・大井川。
   (耳敏川や大井川は「枕草子」に挙げられている。)
  さらに臨時の大規模行事として、河臨祓となり、七箇所で行うようになる。
  *七瀬:大島・橘小島(山城)・佐久那谷・辛崎・難波・農太・河俣(摂津)。
  鎌倉時代になると、鎌倉幕府でも七瀬祓を近郊の地点で元仁元年(1224)修している。
  *七瀬:由比浜・金洗澤・固瀬河・六連(むつうら)・鼬河(いたちかわ)・杜戸(もりと)・江ノ島。

  

<(参考1)「崇徳院」の落語世界>

 古典落語「崇徳院」は上方落語の中興の祖といわれる桂派創始者初代桂文治(1773〜1815年頃)で
 彼は「崇徳院」のほかに、「竜田川」「道具屋太平記」など多くの創作と改作を造り落語本も多く残す。 

(その1)上方落語の構成 (出典:笑福亭松鶴「上方落語」(株)講談社出版研究所 (昭和62年10月)
   天下茶屋の大旦那の倅で、若旦那の作治郎が、仁徳天皇を祀った高津神社へお参りし、絵馬堂の茶屋で
   「今小町」と界隈きっての別嬪の娘さんに一目で好きになる。娘さんは別れ際に崇徳院さんの歌を
   書き残して帰ってしまってつてがない。恋煩いになった若旦那の病気を治すため、その娘を捜し出す
   役目を仰せつかったのが、主家(おもや)に出入りしている熊さん。
   人の多く集まるところ(床屋38軒、風呂屋28軒など)を周り、「瀬をはやみ」と唸ったが
   反応がなく探し出せない。捜索の期限が迫った頃、とある床屋で、知り合いの「源さん」に会い、
   お嬢さんは源さんの本家のお嬢さんとわかる。実はお嬢さんの側の源さんも旦那から探し出せと
   仰せつかって、彼はなんと住吉、堺、岸和田、和歌山、紀州熊野浦まで、探し回っていた。しめたとばかり、
   熊さんと源さんは、どちらも「いますぐに俺の主家へこい」と大喧嘩になる。そこで、床屋の亭主曰わく、
   「おたくの主家の若旦那ちゅうひとは、どれだけええ男かしりまへんが、こちらの本家のお嬢さん、
    そらなかなかの別嬪さんでっせ、その別嬪さんに恋患いさすとは、よっぽどおたくの若旦那、人徳の
    あるお方でんなあ」
   (おち)「ニン徳のあるはずや、見染めたんが高津さんや」
   尚、上方落語の古い語りは、舞台を京都清水観音堂にとり、若旦那とお嬢さん双方が連れてきた小僧
   どうしがけんかになり、仲裁に入った若旦那にお嬢さんが一目惚れ、お礼を言い、センスに上の句を
   達筆ですらすらと書いて渡すのが、きっかけとなっている。

(その2)東京落語の構成 (出典:飯島友治「古典落語」第一巻(株)筑摩書房(昭和43年6月)
   桂三木助の演出による「崇徳院」は次のようになっている。
   上野の清水様(観世音)へお参りし、茶見世で隣同士に腰掛けた、熊さんの主屋の若旦那と
   お嬢さん風の人が一目惚れ。お嬢さんが茶袱紗(ちゃぶくさ)を忘れかけたところを若旦那が拾い上げて
   渡す、その御礼にいましも桜の枝から舞い降りてきた「崇徳院の歌の上の句の短冊」をそっと渡して
   わかれた二人。恋の病におちいり、両家ともお互いを探すのに必死。
   大旦那から三軒長屋を懸賞として、捜索を依頼された熊さん。お湯屋へ18軒、床屋へ35軒、36軒目の
   店で、一方の若旦那捜索を依頼されている鳶頭(かしら)とばったり会う。ご大家の一人娘の為に
   こちらも毎日かけずり回っている。事情が同じとわかった二人。お互いの胸ぐらを掴んで放さない。
   床屋の亭主「・・・そんなところでとっくみあいなんぞしちゃァ危ないよ。・・・話をすればわかる
   からね、取ッ組み合い・・・わァッと・・・・ほら、言はねえ事ちゃァねえ、鏡をこわしちまって、
   しょうがないじゃねえか。」
   (おち)「いやァ親方、心配しなくってもいいよ。『割れても末に買わん{逢はむ}とぞ思う』   

 なお、東京にも「皿屋」「花見扇」の同工異曲の落語があるという。


<(参考2)新作落語「崇徳院」>

 古典落語の「崇徳院」のあらすじは上述のように、上方と江戸では、少し違っていますが、
大凡は似たり寄ったりです。
 この「崇徳院」の企画を基に、「ちはやぶる」式落語世界の展開を試み、新作落語を創出しました。

*******************「新崇徳院」**************************

 新年が近づいてお正月の「かるた遊び」に備えるべく、準備に余念のない長屋の八っあんと熊さんは、
 「せをはやみ」の歌の解釈が出来ないと、ご隠居に尋ねに行きます。日頃「天地の間に知らぬ事はない」と
 大見得を切って嘯いているご隠居のこと、多分明快な説明が得られるものと楽しみに出かけました。
 ご隠居の説明は次の通り。

 「せをはやみ いはにせかるる たきかはの われてもすゑに あはむとそおもふ」
  「せをはやみ」とは、瀬尾家のお嬢さん「瀬尾早美」さんのことで、絶世の美女。若衆の噂は「今小町」。
  「いは」とは、伊波という大商屋の跡取り息子で遊び好きのだらしない若者。
  「たきかわの」とは、滝川儂(君)という瀬尾家に出入りしている腕の立つ簪細工職人の若者。
   要は、早美さんを中心にした男女の三角関係を詠んだ歌だ。
   早美さんと滝川の恋仲に横恋慕した伊波が二人の縁談をご破算にする横やりを入れたので、
   たまりかねた滝川が、如何に二人の仲を「(この世で)塞かれても」、また二人の仲が
  「われ(破れ)ても」「すゑ(来世)」には必ず「添い遂げるぞ」と悲痛な気持ちを絶叫した歌だ。

(おち)ご隠居が歌解釈に必死に知恵を振り絞った「迷答落語」だからと、<落語家協会>へでも持ち込むかと
   勢い込んだが、周りの者は「よく世間にある色事の一種(一首)のもめ事にすぎない」と
   つれなく、<「せ」のない反応>でした。
 (作った本人にすれば「せ」っ「せ」と作った割に「それじゃ、『せ』がない<ぜ>よ!(竜馬流ぼやき)」)

***************************************************

 落語「ちはやふる」でのご隠居の説明は、百人一首の第13番・陽成院御歌と第17番・在原業平歌の
二首に及んでいる。
 (1)第13番歌「筑波嶺の峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる」
   「昔、京の陽成院というお寺で、大相撲が開かれた。筑波嶺とみなの川という角力取が取り組み、
    筑波嶺が肩から背負ってみなの川を投げ落とした。見物人の声が京中にひびき渡り、天子様の
    お耳にも達して永代扶持を賜ったという歌だ。」
 (2)第17番歌「ちはやふる かみよもきかず たつたかは からくれないに みずくくるとは」
   「竜田川は廃業した相撲取り、千早は竜田川を振った遊女の名前、諸々有って最後に千早は井戸へ
    身を投げて死ぬ。「とは」の説明まで問い詰められたご隠居の苦渋の解釈
    「とはとは、千早の本名だ。」」

<(参考3)「瀬を早み」の百人一首パロディ集>

(1)天の川たぎつ恋路の「瀬をはやみ」船人濡れぬ櫂のしずくに
   (一番 秋の田の刈り穂の庵の<苫をあらみ>我が衣手は露に<濡れ>つつ)
(2)夏過ぎて秋来にけらし白妙の天の川「瀬」を渡る船人
   (二番 春<過ぎて>夏<来にけらし白妙の>ころもほすてふ<天の>香具山)
(3)ひさかたの天河の津をこぎいでてながながしき「瀬」をひとりかもゆく
   (三番 あしひきの山鳥のおのしだり尾の<ながながしき>夜を<ひとり>かもねむ)
(4)天の河浅「瀬」ふむまにふくる夜をうらみぞ渡る鵲の橋(続後撰集・秋上・247・藤原行能)
   (六番 <かささぎ>のわたせるはしにおくしものしろきをみればよぞ<ふけ>にける)
(5)つくばねの激つ恋路の男女川「瀬」音とどろき淵となりぬる
   (十三番 <筑波嶺の>峰より落つる<男女川>恋ぞつもりて<淵となりぬる>)
(6)山川の「瀬々」のしがらみ彩るは流れも敢へぬ紅葉なりけり
   (三十二番 <山川>に風のかけたる<しがらみ>は<流れもあへぬもみぢなりけり>)
(7)雲間より星合ひの空を見渡せばしづ心なき天の河の「瀬」(新古今集・秋上・317・大中臣輔親)
   (三十三番 ひさかたの光のどけき春の日に<しづ心なく>花の散るらむ)
(8)「瀬をはやみ」渡る船人梶をたえ行方もしらぬ恋の道かな
   (四十六番 由良のとを<渡る船人梶をたえ行方も知らぬ恋の道かな>)
(9)「瀬をはやみ」岩打つ波のおのれのみ砕けてものをおもふころかな
   (四十八番 風をいたみ<岩打つ波のおのれのみ砕けてものをおもふころかな>)
(10)「瀬」の音は絶えて久しくなりぬれど「みなせ」の流れなほ聞こえけれ
   (五十五番 滝の音は<絶えてひさしくなりぬれど名こそながれてなほきこえけれ>)
(11)風をいたみ三室の山の紅葉ばは竜田川「瀬」の錦なりけり
   (六十九番 嵐吹く<三室の山の紅葉葉は竜田の川の錦なりけり>)
(12)七夕の逢ふ「瀬」絶えせぬ天の川いかなる秋か渡りそめけむ(新古今集・秋上・324・待賢門院堀河)

京都・嵯峨野・長神の杜内「崇徳院歌歌碑」(左)巨大な腰掛け椅子型の歌碑全景(右)歌碑全面の刻文

ホームページ管理人申酉人辛

平成22年11月25日 *** 編集責任・奈華仁志 ***

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