平成社会の探索

<「知恵の会」への「知恵袋」>

ー第95回知恵の会資料ー平成22年8月8日ー


(その40)課題「たま(魂・霊・玉)」 ー三「たま」歴女ー
 目     次 
(その1)璋子(たまこ)(その2)「珠、玉」(玉子)(その3)お玉(おたま)
(参考1)映画女優の中村玉緒(なかむら たまお)
(参考2)動物世界の「たまちゃん」情報
(参考3)ふところ豊になるか「たまひめ」商売
(参考4)未来の乗り物・電気自動車の先駆車「たま」

<(まえがき)課題「たま」の探索>

 課題「たま」に関しては、嘗て第75回「やまと」(平成18年2月10日)課題において
「やまとたましひ(大和魂)」を提示いたしました。
 「やまとたましひ(大和魂)」が1008年頃の紫式部の手になる「源氏物語」用語であり、
かつ「紫式部の言霊」として千年間、日本民族の中で生き抜いてきたのです。
 更に古くは、「たましひ」あるいは「たま」の関連として万葉集にはじまる<たまのを>のテーマが
関心のあるところです。ここでは課題への提言にとどめます。
 
 万葉集に於ける「たまのを」なる歌語は、巻11,12および13を中心として、25首ほどに
詠われていて、万葉人の重要な「歌語のひとつ」であったと思われます。
 この万葉歌語がその後の平安時代以降、主として勅撰和歌集において、つぎのように詠み継がれます。
 古今集(6)、後撰集(3)、拾遺集(4)、後拾遺集(1)、金葉集、詞華集、千載集にはなく、
藤原定家とその子息為家が関係した新古今集(4)、新勅撰集(6)、続後撰集(5)と復活し、
以降、続後拾遺集(5)、風雅集(5)以外、21代集では各集で1〜3首までです。
 結局、万葉集の「たまのを」を定家が主として見直したのではないかと思われる点が窺えます。
中世の和歌に見られる「緒絶えの橋」などとともに、大切にしたい言葉です。今後の課題とします。 

  今回の課題への取り組みは、「玉・霊・魂」を求める「たましひ」がインターネット上の世界を徘徊し、
日本歴史上に「たま女」を求めました。以下、<たま>情報の拾い読みです。

<(その1)璋子(たまこ)>

 待賢門院璋子(ふじわら の しょうし・たまこ、康和3年(1101年)〜 久安元年8月22日(1145年9月10日))
  (注)璋(たま):しるしとして持っているたま。しるしの玉。圭(けい:角の有る玉、上がとがり、
           下が四角の玉)を縦に二分したもの。
  (1)平安後期の国母。第74代鳥羽天皇中宮、第75代崇徳・第77代後白河両天皇母
     女院号:待賢門院(たいけんもんいん)
     閑院流藤原氏出身。父・正二位権大納言藤原公実(1053〜1107)、
              母・左中弁藤原隆方女、堀河・鳥羽両代の御乳母・光子。
     兄弟関係:太政大臣実行(三条家祖)は異母兄、権中納言通季(西園寺家祖)・
          左大臣実能(徳大寺家祖)・大炊御門経実室公子(二条天皇の外祖母)らは同母兄姉。

  (2)七歳で父を失い、第72代白河天皇とその寵姫・祇園女御に養われた。
      長じて摂関家嫡男忠通との縁談が持ち上がったが、璋子の素行に噂があり、忠通父忠実は固辞。
     永久5年(1117年)白河院を代父として、父方の従弟鳥羽天皇に入内、4日後には女御の
      宣旨を蒙り、1ヶ月ばかり経ち、立后され中宮を号す。
     翌2年(1119年)第一皇子顕仁親王(第75代崇徳天皇)を出産。
     大治2年(1127年)第四皇子雅仁親王(第77代後白河天皇)を出産。
     保安4年(1123年)白河院は5歳になった顕仁親王を践祚させ、璋子も翌天治元年(1124年)院号を
      宣下されて待賢門院と称した。

     璋子は鳥羽天皇との間に五男二女を儲け、熊野詣にも同行、白河院在世中であればこそだった。
     大治4年(1129年)77歳の白河法皇が崩御し、待賢門院の人生は暗転。
      鳥羽院が治天を継承し、後ろ盾を持たぬ幼帝崇徳は孤立。
      鳥羽院は白河院によって関白を罷免され逼塞していた忠実を起用し、その娘泰子(高陽院)を
      皇后に立てたばかりでなく、待賢門院に代わって藤原得子(美福門院)を寵愛した。
     保延5年(1139年)8月17日、鳥羽院は得子が生んだ生後三ヶ月の第八皇子躰仁親王を立太子させ、
     2年後の永治元年(1141年)、崇徳天皇から皇位を譲り受けさせた(近衛天皇)。

     近衛天皇即位・得子の皇后冊立と相前後して呪詛事件が発覚し、待賢門院が裏で糸を引いている
      という風説が流される。このころから璋子が鳥羽天皇の第一子崇徳天皇は、白河法皇の胤だ
      とする風説が囁かれるようになる。
     権勢を失った待賢門院は、翌康治元年(1142年)、自ら建立した法金剛院において落飾。
     久安元年(1145年)8月22日、長兄・実行の三条高倉第にて崩じた。

     没後10年目の久寿2年(1155年)近衛天皇が17歳で夭折し、図らずも璋子の生んだ
      四宮雅仁親王が天皇に指名された(後白河天皇)。璋子の長子崇徳上皇はこれを不服とし、
     やがて源平の武士が召集され、保元の乱蜂起。

  (3)璋子の法金剛院
     京都市右京区花園扇野町に現存、平安前期、右大臣清原夏野の山荘だったものを双丘寺とし、
      天安2年(858年)文徳天皇の勅願によって天安寺が建立され、その後荒廃し、
      大治5年(1130年)になって待賢門院が復興。
     女院はここで晩年を過ごし、今も、法金剛院の北、五位山中腹の花園西陵に眠る。
      絶代の美貌を謳われ、信仰心も深かった女院を慕い、法金剛院を訪れる人々の中には、
      かの歌僧西行もいたという。 
     女院に仕えて出家の供をした待賢門院堀河(村上源氏、神祇伯源顕仲の女)は、
      『百人一首』歌人として名高い。


<(その2)「珠、玉」(玉子)>

 細川ガラシャ  明智 珠(明智 玉)(ほそかわガラシャ / あけち たま、俄羅奢)
  永禄6年(1563年) - 慶長5年7月17日(1600年8月25日)
  明智光秀三女、細川忠興正室。諱:「たま」(珠、玉)または玉子(たまこ)。
  キリスト教信徒(キリシタン)子に、於長(おちょう:1579年生前野景定室)、忠隆(1580年生)、
   興秋(1584年生)、忠利(1586年生)、多羅(たら:1588年生稲葉一通室)など。
  明治期にキリスト教徒らが「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でも「細川ガラシャ」と
   呼ばれる場合が多い。

  略歴1.細川忠興に嫁ぐ
    永禄6年(1563年) 明智光秀と妻煕子の間に三女として越前国で生まれる。
    天正6年(1578年) 15歳の時に父の主君織田信長の薦めによって細川藤孝の嫡男・細川忠興に嫁ぐ。
              珠は美女で忠興とは仲のよい夫婦であり、天正7年(1579年)には長女が、
              同8年(1580年)には長男(細川忠隆後の長岡休無)が二人の間に生まれた。
  略歴2.本能寺の変 
    天正10年(1582年) 6月父光秀が織田信長を本能寺で討って(本能寺の変)自らも滅んだため、
              珠は「逆臣の娘」となる。忠興は珠を愛していたがために離縁する気になれず、
    天正12年(1584年) この年まで、丹後の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)隔離・幽閉される。
   略歴3.キリシタン 
    天正12年(1584年) 信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉の取り成しもあって、忠興は珠を細川家の
              大坂屋敷に戻した。これらの人生の変転の中で、珠はカトリックの話を聞き、
              その教えに心を魅かれていった。
    天正15年(1587年) 夫忠興が九州出陣中、意を決してカトリックの教えを聞きに行く。
              教会ではそのとき復活祭の説教を行っているところであり、珠は修道士に
              いろいろな質問をした。コスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断が
              できる日本の女性と話したことはなかった」と述べている。
              教会から戻った珠は大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス
              神父の計らいで密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・
              神の恵みの意)という洗礼名を受けた。
              
              秀吉はバテレン追放令を出し、大名が許可無くキリスト教を信仰することを禁じた。
              忠興は家中の侍女らがキリスト教に改宗したことを知って激怒し、改宗した
              侍女の鼻を削ぎ、追い出した。
              幸いにもガラシャは発覚を免れたが、拠り所を失ったガラシャは「夫と別れたい」
              と宣教師に打ち明けた。宣教師は「誘惑に負けてはならない」
             「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説いた。それまで、彼女は気位が高く
              怒りやすかったが、キリストの教えを知ってからは謙虚で忍耐強く穏やかに
              なったという。
  略歴4.壮絶な最期   
    慶長5年(1600年) 7月16日(8月24日)、大坂玉造の細川屋敷にいた彼女を、西軍の石田三成は人質に
              取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。その翌日、三成が実力行使に出て
              兵に屋敷を囲ませると、ガラシャは家老の小笠原秀清(少斎)に槍で部屋の外から
              胸を貫かせて死んだ(一説に“首を打たせた”の記述あり。キリスト教では
              自殺は大罪であり、天国へは行けないという教えが一般的なため)。38歳。
              辞世の歌「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」
              この後、小笠原はガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を
              点けて自刃した。ガラシャの死の数時間後、神父グネッキ・ソルディ・
              オルガンティノは細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨を拾い、堺の
              キリシタン墓地に葬った。細川忠興はガラシャの死を悲しみ、慶長6年(1601年)に
              オルガンティノにガラシャ教会葬を依頼して葬儀にも参列し、後に遺骨を
              大坂の崇禅寺へ改葬した。他にも、京都大徳寺塔中高桐院や、肥後熊本の
              泰勝寺等、何箇所かガラシャの墓所とされるものがある。


<(その3)お玉(おたま)>

  桂昌院・玉の輿・今宮神社
  (1)桂昌院(けいしょういん、寛永4年(1627年)- 宝永2年(1705年))
     江戸時代の女性。江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室で、5代将軍綱吉の生母。名は玉。
      父北小路太郎兵衛宗正、母鍋田氏娘。兄北小路道芳(本庄道芳)、弟本庄宗資。(『徳川実紀』)
      (関白・二条光平の家司)(一説に八百屋仁左衛門で養父が北小路太郎兵衛宗正『玉輿記』)
     京都大徳寺付近で生まれる。西陣織屋の娘(『鸚鵡籠中記』)とか、畳屋の娘(『御当代記』)
      あるいは大根売りの妹(『元正間記』)などが記されている。
     寛永16年(1639年)御小姓として家光側室お万の方に仕え、その際に春日局の部屋子として家光に
      見初められ、家光の側室となる。
     正保3年(1646年)綱吉を産む。
     慶安4年(1651年)家光が死ぬと落飾して大奥を離れ、筑波山知足院に入る。4代将軍・家綱の死後、
     延宝8年(1680年)に綱吉が将軍職に就くと、江戸城三の丸へ入った。
     貞享元年(1684年)従三位を、元禄15年(1702年)女性最高位の従一位の官位と、藤原光子
      (または宗子)名を賜る。
     宝永2年(1705年)6月に79歳で没。墓所は東京都港区の増上寺。京都府京都市西京区の善峯寺にも
       桂昌院の碑あり。応仁の乱で一部が焼失した京都の善峯寺の再興に尽力。

     *実家の本庄氏は桂昌院の威光により、その一族は高富藩、小諸藩、宮津藩、笠間藩、
       足利藩などの小藩ながら藩主として立身出世を果たしている。
     *男子の生まれない綱吉に対し、帰依していた亮賢に僧の隆光を紹介され生類憐みの令
       発令に関わったという説があったが、現在では否定されている。 
     *綱吉の正室の鷹司信子とは仲が悪かったともいうが、これも確証はない。 
     *「玉の輿」の語源とされるが、俗説に過ぎない。大徳寺塔頭総見院では、「玉の輿」の玉とは
       桂昌院のことと語り伝えていた。
     *京都今宮神社名物(あぶり餅)は玉のような餅を食べ、玉(桂昌院)のようなご利益を
       あやかろうとしたという言い伝えがある。 
     *埋葬された増上寺で遺骨調査(鈴木尚編纂『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』)によれば、
       血液型A型、推定身長146.8センチメートル。 

  (2)玉の輿(たまのこし):女性が金持ちの男性と結婚する事で、自分も裕福な立場になる事。
      男性が金持ちの女性と結婚する場合、俗に「逆玉(ぎゃくたま)」。
      玉の輿をテーマとする作品例:「シンデレラ」「わらしべ長者」あるいは
      「ガラスの靴」(1997年、日本テレビ)、「山田太郎ものがたり」(2007年、TBS系) 

  (3)今宮神社(いまみやじんじゃ)京都市北区紫野にある神社。社格は旧府社。
     別名「玉の輿(たまのこし)神社」。
      祭神 大己貴命 事代主命 奇稲田姫命 
      歴史  現今宮社は、994年(正暦5年)船岡山御霊会後、1001年(長保3年)に神殿が造営されて
         3柱の神が祀られたのが始まり。
         創建年代不明、古くから疫病の神とされるスサノオを祀る社(現在摂社疫神社)が
         あったという。御霊会は今宮祭とも呼ばれる。
         1284年(弘安7年)正一位神階が与えられ、江戸時代には社領として50石が与えられた。
         5代将軍綱吉の生母・桂昌院は氏神である今宮神社の復興にも力を入れ社殿を修復して
         四基の鉾を寄進したと言われている。
      文化財 重要文化財 線刻四面石仏 無形民俗文化財(国指定)やすらい祭(夜須礼祭) 


<(参考1)玉緒(たまを)>

 三「たま」歴女を、天皇の皇后、大名の正室、将軍の後宮と歴史が流れ、現代では、映画女優ということに
辿りつきます。そこで登場するのが、70歳を越えても益々芸能活動に励んでいる「たま」女の
中村玉緒です。

 映画女優・中村玉緒(なかむら たまお、1939年(昭和14年)7月12日 - )
  戦後から現在にかけて活躍中の女優。タレント活動もこなす。旧芸名は、林 玉緒(はやし たまお)。
  本名は林 玉緒(はやし たまお)、結婚後は奥村 玉緒(おくむら たまお)。
  (注)玉緒の命名者は父親か、情報無し。

  (1)京都府京都市出身。父は大映映画の貴重な脇役でもあった歌舞伎俳優二代目中村鴈治郎。
     夫は俳優の勝新太郎、長男は俳優の鴈龍太郎(奥村雄大)、長女は奥村真粧美。また兄は
     歌舞伎役者の四代目坂田藤十郎、その子に五代目中村翫雀・三代目中村扇雀兄弟がいる。
     1953年、本名の林玉緒で松竹『景子と雪江』に映画初出演。
         親戚で大映の重役も兼ねていた長谷川一夫に頼み込み、
     1954年 大映に入社。初年度給料2万円は当時としては破格で、ハイヤーで撮影所通いだったが、
         主役は回ってこなかった。
     1960年代半ばまで幼馴染の市川雷蔵や山本富士子、若尾文子らスターの脇役として大映で活躍。
         当時の玉緒の声は甲高く可愛らしく、純情な娘役として多数の映画に出演した。
     1970年代テレビドラマの脇役として活躍。「不幸な母親を演じさせたら、この人の右に出る人は
         居ない」と言わしめる程、痛々しい母役を得意とし評価を得ていた。シリアスなドラマの
         出演が多かった。
     1994年 明石家さんま司会のバラエティ番組『明石家多国籍軍』などでの、強烈な天然ボケ
         キャラクターで人気を得る。長者番付に名を連ね、主演ドラマや主演舞台もこなすようになる。
  (2)玉緒が夫の勝と知り合ったのは、大映時代。勝が熱烈に求愛し、玉緒もその気になったという。
     大映側もふたりの仲を認めざるを得なくなり、玉緒が撮影中に勝が迎えに来ると、「勝さんが
     来ているから…」と、早めに撮影を切り上げることもあったという。
     勝には「生まれ変わってもあの人と一緒になりたい」というほど一途な想いを貫いている。
     勝の晩年には二人舞台『夫婦善哉』で共演した。

     本職は女優だが、近年はバラエティ番組やテレビCMの出演も多い。1998年にはバンダイの
     たまごっちシリーズのキャラクターにもなり、若い世代からは「玉緒っち」の愛称で人気を得た。
     
     大映の「二枚看板」として常に勝と比較されていた市川雷蔵とは、その前身が父と同じ歌舞伎役者で
     あることから、父の楽屋に出入りしていた頃からの幼なじみで、深い親交があった。早世した
     雷蔵のことを、玉緒は現在でも兄の様に慕っていることで知られる。

<(参考2)「たまちゃん」いろいろ>

           ********  ネコの「たま」への疑問  *******
 どうしてネコの愛称が「たまちゃん」なのか。どうしてネコだけがこのような愛称で扱われるのか。
 人間生活に一番共存している動物だからか、したがって大切に可愛がりたくなるのでしょうか。
 ネコのその他の例としては、「タウザー」「チャトラン」「はっちゃん」「はるみちゃん」「ロッキー」など
 があるようです。因みに犬では、「タロー」「ジロー」、古くは「忠犬ハチ公」など。
 神社の神馬や牛にも愛玩動物としての愛称の例はあるようです。
             ***************************

1.和歌山県・貴志川のネコの「たま駅長さん」
 (1)ネコ(三毛猫) 生誕 1999年4月29日 和歌山県紀の川市 
   「たま」は、和歌山県紀の川市の和歌山電鐵貴志川線貴志駅においてスーパー駅長を勤めている
   雌の三毛猫で、和歌山電鐵の執行役員(エグゼクティブオフィサー)。
   2007年1月5日に和歌山電鐵から駅長に任命されたことで話題を呼ぶ。
   同居する雌猫の「ちび」と、「たま」の母親「ミーコ」も助役に就任。3匹は同駅の売店である
   小山商店の飼い猫で、客招きを主な業務とし、任期はなく終身雇用で、報酬は年俸のキャットフード1年分。
   「たま」は就任1周年の2008年1月5日に課長職スーパー駅長に昇進、2010年1月3日付で和歌山電鐵の
   執行役員(エグゼクティブオフィサー)に任命。
 (2)駅長就任の経緯
   2003年貴志川線を運営していた南海電鉄が路線廃止を表明後、岡山県の岡山電気軌道の子会社として
  「和歌山電鐵」が設立された。
   「たま」達の猫小屋が南海の社有地から紀の川市の公有地となったため立ち退きを迫られ、困った
   飼い主が2006年4月1日に和歌山電鐵開業記念式典後、会社に「猫たちを駅の中に住まわせてほしい」と
   相談。「たまちゃんと目があった瞬間、ピカッとたまちゃんの駅長姿が頭にひらめきました」と「たま」に
   惚れ込んだ社長の発案によって”招き猫”になって欲しいと、以前から駅の利用者に親しまれていた
   「たま」達を駅長などに任命することになった。これは和歌山電鐵移管後に合理化のために貴志駅を
   無人駅化したことも背景にある。猫に駅長を嘱託した例は日本の民営鉄道では初である。
 (3)マスコット「スーパー駅長たま」
   2008年4月の駅長室竣工に併せて、たまをイラスト化したマスコット「スーパー駅長たま」が公表された。
   和歌山電鐵の印刷物に掲載されたり、実写版のたまグッズと併せてイラスト版のたまグッズが発売。
 (4)たま電車とたまバス 
    和歌山電鐵電車「たま電車」「スーパー駅長たまちゃん電車」がお披露目され、電車の車体には
   様々なポーズの「たま」のイラストが描かれるなど<たまづくしの電車>になっており、
   「たま電車サポーター」として寄付を募っている。同じ両備グループ岡山電気軌道にも「たま電車」が
   登場。2010年、両備ホールディングスの両備観光大阪カンパニーに、「たま電車」と同じデザインを
   施した観光バス「たまバス」も登場。

2.他の「変わり種駅長」「名誉駅長」
   たまが「猫の駅長」として話題を呼んだことで駅と関わりの深い動物(ネコや犬)などを
   駅長あるいは名誉駅長として任命し、その駅や路線に注目を集めようとする例が多くなった。
   *会津鉄道芦ノ牧温泉駅の「ばす駅長」 
    2008年4月にこの駅に住む猫の「ばす」が同社より名誉駅長に任命された。この任命式には
    「たま駅長」からも祝電が贈られた。 
   *IGRいわて銀河鉄道奥中山高原駅の「マロン駅長」 
    2008年6月に同駅委託駅員の飼い犬であるヨークシャー・テリアの「マロン」が名誉駅長を委嘱された。
    マロンは生後45日目頃より駅に出ていた。2009年8月に9歳で世を去った。 
   *同和鉱業片上鉄道(廃線)吉ヶ原駅の「駅長猫コトラ」 
    片上鉄道保存会会員の飼い猫が特製の制帽を与えられて、保存会のイベントで活動している。 
   *可部線(廃線区間)安野駅の「猫の駅長・駅員」 
    廃線間際の無人駅に住み着いた野良猫が「猫の駅長」として知られていて、写真集が出されたこともある。 
   *芸備線玖村駅の2匹の猫 
    2008年、2匹の猫が交互に無人駅の自動改札機の上に寝ている姿が動画サイトで話題を呼んだ。 
   *東葉高速鉄道飯山満駅の「みーすけ」 
    1996年の開業以来駅に住み着き、以来駅利用者の人気を得ている[53]。 
   *ひたちなか海浜鉄道那珂湊駅の猫「おさむ」 
    2009年7月より同駅に住み着くようになり、利用者の人気を集めている。駅内には「指定席」という
    サボの専用ベッドが与えられた。 


3.東京都・多摩川のあざらし「タマちゃん」
  (1)タマちゃんは、2002年に多摩川に現れたオスのアゴヒゲアザラシの愛称。
    2002年多摩川丸子橋付近に出現。新聞やニュース等でも取り上げられ、話題となった。
    その後、神奈川県横浜市港北区鶴見川大綱橋付近や西区帷子川の横浜駅近くなどに出没。 
    当時、鶴見川は全国でも屈指の汚染された河川であり、市民から大丈夫かという不安の声も出て、
    市民の関心が薄かった都市河川や東京湾の状況に関心を持たせる効果を生んだ。
    これ以降、宮城県歌津町(現在の南三陸町)に出没した「ウタちゃん」などアザラシ追っかけブームが
    起こり、2002年新語・流行語大賞では、年間大賞に選出されている。
    その後、埼玉県朝霞市の荒川にも出没。2004年7月には「タマちゃん」は海に還ったという。
    鶴見川に現れた頃、横浜市より特別住民票を与えられ西区民となった。登録氏名は西玉夫(にし たまお)。
  (2)タマちゃんが確認された期間と河川 
    2002年8月- 多摩川、 鶴見川、 帷子川 、2002年9月- 大岡川、 帷子川、2003年4月- 中川、荒川 
    最後に確認されたのは2004年4月12日、以後の消息は不明。 
  (3) タマちゃんを題材にした歌
    タマちゃんが来た夏(香取良美、作詞・作曲鍋島呂夢)
    タマチャン音頭(作詞中山のぼる、作曲佐瀬寿一) など

<(参考3)「たまひめ」いろいろ>

  
(1)玉姫様   音楽グループ(ジャンルJーPOP)プロデュース戸川純・飯尾芳史 の スタジオ・アルバムで、
         アルファレコードより1984年1月25日リリース。 
(2)玉姫殿(たまひめでん) 日本全国に所在する結婚式場。運営母体が異なる。 
         現在運営している式場 京阪互助センター 梅田玉姫殿  マリアージュ京都玉姫殿 など
(3)土佐の玉姫 伏見宮邦高親王王女で、土佐一条家第二代房冬の夫人。大永元(1521)年降嫁のため
         土佐に下向。夫房冬は 大永4(1524)年より上洛し、公卿として京都にとどまり、
         天文6(1537)年帰国、玉姫も同行したと推測。天文10年房冬が没した後、
         同16年8月22日中村に没。玉姫の墓所は江戸時代に建立された常照寺跡。
(出典:インターネット・WIKIPEDIA)

<(参考4)未来の乗り物・電気自動車の先駆車「たま」>

  
 去る2010年7月上旬の新聞記事の見出しによりますと、
  <60年の時を越えて「たま電気自動車」再生完了>
と報道されました。記事の概略は次の通りです。
  
 6月26日(土)日産自動車テクニカルセンターで、「たま電気自動車」再生完了式が挙行された。
 「たま電気自動車」は、後に日産と合併することになるプリンス自動車の前身東京電気自動車に
 よって作られた電気自動車である。今から63年前、1947年に生産された。当時は終戦直後で
 ガソリンの値段は高い、一方電気が余っていたため、電気自動車は、非常に人気があり、
 日本での石油供給が安定し始めた1950年まで生産されていた。
 当時東京全体で800台しか自動車がなかった時代に、「たま」は500台の生産許可が出た。

 「日産名車再生サークル」では、極力当時の部材を再生して製造したとのこと。
 「たま」は取り替え式鉛酸バッテリーを使い、出力3.3キロワット、最高時速35km。
 航続距離65kmで、主としてタクシーとして利用され、乗用車の他に小型トラックの型も
 製造された。

 さらに「たま」に関係するニュースとして、
  <日本機械学会が選定する2010年度機械遺産に選定された>
 と以下のように報じられました。

  終戦直後は石油不足だったが、電力供給には余裕があったため、政府は電気自動車の生産を奨励した。
  戦後、自動車メーカーへの転換を模索していた飛行機メーカーの立川飛行機が開発したのが、
  たま電気自動車だ。会社所在地の名前をとって「たま」号と命名された。

  立川飛行機から分離独立した東京電気自動車が後にプリンス自動車工業となり、日産自動車と合併する。
  たま電気自動車は木骨鉄板張りの車体構造で、電動機は36ボルト120アンペア、蓄電池は鉛酸、
  40ボルト162アンペアのものを二分割して車体下部に搭載した。取り替え式だった。最高速度35km/h、
  1充電での走行距離65km。政府の性能試験ではカタログ性能を上回る最高速度35.2km/h、航続距離96.3kmを
  記録した。
  たま電気自動車は順次改良され、51年頃までタクシーなどに使われた。49年に発売された『たまセニア』号
  では1充電200kmの走行が可能で、これは現代の『リーフ』並みの航続性能だ。小型トラックも作られた。
  その後、ガソリンの供給需要が好転し、また蓄電池材料の価格高騰により、一連の開発は中止された。
  保存車両は、2010年にリーフの発表に合わせ、日産社内の有志によってフルレストアされ、走行も可能に
  なった。 一部電気配線が更新されているものの、基本構造は新製当時のままだ。設計資料も多くが
  現存している。保存車両は横浜の日産グローバル本社ギャラリーにある。

  日本機械学会は、過去に一度放棄された技術も再び必要になることもあることや、社会的な受容体制が
  なければ新技術も一時のブームに終わることを示す実物教材である、とたま電気自動車を評価する。
  「機械遺産」とは、07年に創立110周年を迎えた日本機械学会がその記念事業の一環として始めた。
  歴史に残る機械技術関連遺産を大切に保存し、文化的遺産として次世代に伝えることを目的に、
  日本国内の機械技術面で歴史的意義のある「機械遺産」を認定する。
  2010年度機械遺産はたま電気自動車のほか、東洋運搬機製造(現:TCM)の内燃機関式フォークリフト、
  立石電機(現:オムロン)自動改札機、高砂荏原式ターボ冷凍機、としまえん「カルーセル・エルドラド」、
  旧金毘羅大芝居(金丸座)の廻り舞台と旋回機構が選定された。

ホームページ管理人申酉人辛

平成22年8月1日 *** 編集責任・奈華仁志 ***

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