平成社会の探索


ー第94回知恵の会資料ー平成22年6月27日ー

<「知恵の会」への「知恵袋」>


(その39)課題「くすり(薬)」
「本邦近世薬事史上の人物三閑話」
ーゲールツ・小林・武長ー
ーーーーー  目     次  ーーーーー
(その1)御雇い外人ゲールツとソプラノ歌手
(その2)三重県人発明王の「オブラート」
(その3)大阪道修町の武田長兵衛

<(まえがき)課題「くすり」と本邦薬事史>

 「くすり」といえば、だれしも「不老不死の薬」を思い、その摂取を願うところです。
 まず思いつく事例は、秦の始皇帝に下命された徐福の薬探索の旅と云うことになりましょう。
 「東海の仙郷蓬莱島」を訪ねて本邦紀州新宮の地まで遠征しながら、目的を果たせなかった
ようです。日本最古の物語という「竹取物語」でも「不死の薬」が富士山の上で燃えてしまいました。

 「不老不死」という難しいことを云わずとも、せめて「長寿の薬」ということになれば、
百薬の長・お酒は非常に現実的です。昔はお酒は貴重な薬の扱いであったようです。
 古くは中国の故事に「彭祖の菊水」が伝えられていて、本邦では美濃国養老山の「養老滝孝子伝説」が
伝わり、霊亀三年(717年)奈良朝に元正女帝が当地で霊泉を用いてご病気が全快したので、
年号を養老と改められました。これは親孝行の昔話(古今著聞集)として、美濃国の樵(源丞内)の
話が伝わります。丞内が岩間の泉から山吹色の水がわき出ているのを見つけて、親孝行にと老父に
飲ませると若返ったという。元正女帝は当地の人々に幾多の恩賜を与え、樵を美濃国守に任命しました。
正にお酒さまさまです。
 謡曲「養老」では「薬と菊の水」と謡われています。

 史実に基づいた薬事史上の事例として、我が国最古の医学書で全三十巻「医心方」を著した
平安朝十世紀の鍼博士丹波康頼の功績が挙げられます。彼の末裔は日本の近代薬学の基礎を築いた
丹波敬三につながっているという。(その孫は映画俳優の丹波哲郎とは驚き!)
  鎌倉・室町時代に医療や薬を支えた「近世の医聖」と称されるのは僧侶たちで、15世紀末には、
武州川越の田代三喜とその弟子・曲直瀬道三、さらに甲斐の永田徳本などが伝えられています。
 (参考資料:米田該典「大阪とくすり」大阪大学出版会(2002年2月28日))

 以下では、19世紀から20世紀にかけて、日本の近代薬事世界の黎明期に於ける薬事話題を
三人の人物に当たってみました。

<(その1)御雇い外人ゲールツとソプラノ歌手>

 幕末から明治維新頃の医学分野、特に薬学関係はどのように近代化を図っていったのでしょうか。
 薬事史の参考資料(注)によりますと、当時の「御雇い外人」には、次の人物が活動。
    (注)船山信次「毒と薬の世界史」中公新書1974 中央公論新社(2008年11月)
 *ポンペ(1829〜1908,在日期間1857〜62)長崎で講義し、医学所を設立。
 *ボードウィン(1822〜85、在日期間1862〜70)ポンペの後任。(ポンペの恩師)
 *ハラタマ(1831〜88,在日期間1866〜71)大阪舎蜜局建設。「日本近代科学の父」
 *マンスフェルト(1832〜1912,在日期間1866〜79)ボードウィンの後任。
          長崎精得館赴任。長崎府医学校、熊本医学校創設。京都府療病院(後の府立医科大)
          大阪病院の教壇に立つ。
 *ゲールツ(1843〜83、在日期間1869〜83)
      1843年 オランダ・オヴテンデーグの薬業家に生まれ、オランダ陸軍薬剤官となる。
            ユトレヒト陸軍軍医学校理化学教官として、薬学、理化学、植物学に精通。
      1869年 長与専齋に招かれ来日し、マンスフェルトが教頭を務めていた長崎府医学校で
            予科の物理、化学、幾何学を担当する。
      1873年 長崎税関委嘱の輸入キニーネ分析を行い、薬品試験所設立を建議。長与専齋は
            薬品検査機関として「司薬場」を設置。
      1874年 東京日本橋に「司薬場」開設。ドイツ人ゲオルク・マルチンが指導者。
      1875年 「京都司薬場」に任用される。(すぐに薬業中心地の大阪司薬場に取って代る)
            長与専齋衛生局長より「日本薬局方」草案作成の内命下る。
            「第一版オランダ薬局方」(1851)を参考に、立案作業にかかる。
      1877年 「横浜司薬場」開設し、転任。
      1883年 8月30日急性の病で横浜で40年の生涯を終える。
            後任者はオランダ人エイクマン(1851〜1915、在日期間1877〜85)
      1886年 日本最初の薬局方が交付される。(世界で21番目に交付された。)

  ゲールツは、日本に薬草学の基礎を植え付けただけでなく、日本人を妻にし、横浜でその生涯を終え、
  横浜の外人墓地に永眠しています。加えて、彼の孫「喜波貞子」はオペラ歌手として、祖父の出身地域
  欧州大陸で活躍しました。典型的な明治時代の「コスモポリタン」家系というべきでしょう。

<参考メモ・その1:日本の薬草学の学祖「ゲールツ博士」とその末裔>

(1)日本薬学界の祖「ゲールツ博士」Anton Johannes Cornelius Geerts(1843.3〜1883.8)
 オランダからやってきたお雇い外国人で日本の薬学界の基礎作りをした功労者である。
 オランダ・ウーデンタイクの薬局の息子として生まれた。ユトレヒト大學薬学科に学び、ユトレヒト
陸軍医学校化学教官となる。1869年(明治二年)26歳の時、日本政府に招かれ、長崎医学校
(初代校長は長与專斉で長崎大学医学部の前身)理化学教師に就任した。(太政大臣月額800円の
時代に月給400円という高給取りであった。
 1875年(明治八年)まで在職し、その間に10歳年下の長崎の女性山口きわと結婚した。
 粗悪な輸入薬品の取締官庁である京都司薬場の初代監督として赴任し、続いて横浜司薬場
(横浜試験場の前身)の主任となった。
 1880年(明治13年)から、長与專斉の推薦で日本薬局方編纂委員に選ばれ、薬局方の起草を
担当した。多忙の中でも日本に関する著述を10冊ほど遺している。特にフランス語で書かれた
「新撰本草項目」は、評価が高い。「日本鉱泉記」や種痘や流産に関する著述もある。現在ライデン
大學の博物館に保管されている。
 来日以来15年間、日本の理化学教育、製薬事業に貢献し、神奈川県令の依頼で、検疫消毒の
実務を指導し、消毒所、避病院の建設や発展に貢献した。
 薬局方の成立を見ることなく、横浜で40歳の生涯を閉じた。政府は勲四等旭日小綬章を贈った。
 横浜外人墓地に妻きわと共に永眠している。
 
 東京上野谷中霊園に没後八年、頌徳碑が建立された。また、1974年(昭和49年)国立衛生
研究所創立百周年を記念して、国立衛生試験所構内に移設され、1976年(昭和51年)の命日に
神奈川県薬剤師会より墓地に、横浜司藥場監督就任100周年記念として顕彰碑が建立された。
 (参考資料:山崎幹夫「薬と日本人」歴史文化ライブラリー67 吉川弘文館(1999年5月))

(左)ゲールツ(中)きわ(右)喜波貞子
(出典:松永伍一「蝶は還らずープリマドンナ喜波貞子を追って」毎日新聞社(1990年3月)
(2)日本人ソプラノ歌手「喜波貞子(きわていこ)」
 孫娘に当たるオランダ国籍の日本人ソプラノ歌手<喜波貞子>なる人物の概要を追ってみます。
 本名 レティツィア・ジャコバ・ヴィヘルミナ・クリンゲン
         (芸名「喜波」は、祖母「山口きわ」の名前を用いているか)
 生涯 1902年(明治35年)11月20日横浜市生まれ。
    1983年(昭和58年)5月29日 フランス・ニースにて没。
 家系 祖父はオランダ人薬学者アントン・ヨハネス・コルネリウス・ゲールツ
    (1843〜1883)で、本邦薬学界のお雇い外国人で、横浜で病没。
    母方の祖母は長崎出身の山口きわ(1853年・嘉永六年9月9日長崎生まれ
    父峰吉・母江口サヲ〜1934年昭和9年11月16日没・81歳)。
    父ヘルミナス・レンデルト・ジャン・フレデリック・クリンゲンもオランダ人で
    商人(オート・クチュールのモード店「ビ・ド・パリ」の経営)で、1892年
    (明治25年)ごろ、ゲールツの娘と結婚、1917年・大正6年没。
    母つるはクリンゲンと離婚後、男子2人、女子2人を育てる。貞子は末っ子。
    一見西欧人の顔立ちだが、どこか「宝塚歌劇女優の雰囲気がある」のは、
    日本人の血筋を受けているためであろう。
    芸名の「喜波」は、祖母・きわを継いでいるとのこと。
 経歴上、日本語、英語、イタリア語、ドイツ語、ポーランド語、フランス語を話すという
 典型的な戦前の国際人であったようです。第二次世界大戦が彼女から「プリマ・ドンナ
 蝶々夫人」と「日本語」を奪っていったのでした。


<(その2)三重県人発明王の「オブラート」>

 くすりの形はいろいろです。のみ薬(内用薬)、注射剤、坐剤、軟膏剤など、病気とその症状に応じて、
薬を使用する人の違いに応じた処置で、薬を使用しやすく、効果が発揮できるようにとの工夫の結果でしょう。
 のみ薬でも、錠剤、カプセル剤、粉薬(散剤)、顆粒剤、シロップ剤など、さまざまです。
 カプセル剤はゼラチンの容器に入れた薬で、1833年にフランスの薬剤師が発明したとのこと。ゼリーや
ババロア菓子の原料になるゼラチンですから、仏蘭西産というのも理解できます。
 一方、オブラートという粉薬の服用には必須ののみ薬材料もあります。これはなんとフランス製ではなく
日本人の発明品なのです。

 オブラート(オランダ語: oblaat)は日本ではデンプンから作られた水溶性半透明薄膜のこと。
 薬品や菓子などを包み、飲めばそのまま体内摂取される。ラテン語オブラトゥス(oblatus、楕円形)に由来。
 オブラートはデンプンを糊化させたものを急速乾燥して作られる。水分10〜15%まで急速乾燥させると、
デンプンが老化せず糊の状態が保たれる。菓子用オブラート厚40μm、薬用は20μm。

1. 歴史 
 オランダ語、ドイツ語のオブラートは、キリスト教の儀式で使用されているウエハースに似た無発酵の
 薄焼きパン(聖餅)のこと。これに薬を包み水に浸して柔らかくした上で服用していた。
 これは現在見られるような薄くて柔らかいものではなく、硬質オブラートと呼ばれるせんべい状のもの。
 このオブラートは日本に明治初期伝わる。
 1902年 三重県の医師小林政太郎(参考メモ・その2参照方)「柔軟オブラート」発明。
     寒天とデンプンから「柔軟オブラート」を生成する。
 1910年 「柔軟オブラート」は日英博覧会で金牌を受賞、世界に広まる。
     この頃の「柔軟オブラート」は柔軟剤を添加していた。
 1922年 乾燥機を用いた生成法が編み出され、柔軟剤が不要となり大量生産が可能になった。
 戦 後 しばらくは薬用よりも菓子向けの需要が多く、水飴、キャラメル、ゼリー等の包装に使われていた。
     近年では包装技術の進歩により、オブラートを使用した菓子は少なくなっている。 
     最近オブラート包装は少なくなっている。

2. 薬用のオブラート
 苦味のある薬や散剤など、そのままでは飲みづらい薬を内服する際に用いる。オブラートを広げて薬を
 包み込んだ後、端に少量の水をつけて口を閉じると中身がこぼれにくい。口腔内に張り付きやすいため、
 コップ1杯程度の水またはぬるま湯で服用する。一部の薬(苦味健胃薬、消化薬など)は、オブラートに
 包んで飲むと効果が弱まるので注意が必要である。円形、三角形、袋状などの形状のものが市販されている。
 イチゴ味その他のフレーバーつき製品もあり、2007年現在では、ゼリー状やペースト状の薬用オブラートも
 開発されている。

<参考メモ・その2:三重県の三大発明王「小林政太郎」>

 三重県近代史における三大発明王とは、真珠の御木本幸吉、電気の田中善助、オブラートの小林政太郎、と
される。

 小林政太郎(こばやし・まさたろう)(1872〜1947)略歴
  明治から昭和前期の医師、発明家。
  明治 5年 11月22日生まれ。三重県出身、済生学舎卒。
  明治35年 良質で柔軟性のある小林柔軟オブラートを発明。
        医薬・食料品に広く使用された。日英米独仏特許を得る。  
  大正 2年 自動汽力製造装置を完成させ、オブラートの大量生産に成功。
  昭和22年 12月6日死去。76歳。

 1872年に度会郡田丸(現玉城町)の医師小林藤十郎の長男として生まれ、医師をめざし1883年に
創立された東京の医学校・済生学舎に学んだ。弱冠18歳にして医師開業試験に合格し、郷里田丸に帰り
医師となった。1902年、柔軟オブラートを発明し、特許を得て、合名会社小林柔軟オブラード製造所を
設立してその製造を開始。日本・イギリス・アメリカ・ドイツ・フランスで特許をとり、1904年
セントルイス開催の万国博覧会で銅牌、1910年ロンドンの日英博覧会で金牌受賞、柔軟オブラードが
世界中に広がった。1911年度に農商務省商務局員が出張して三重県など数県の「重要商品ノ状況」を
調査した『各府県重要商品調査報告』には、特に「柔軟オブラート」の項を設け、
「創業以来一般ノ好評ヲ博シ、逐年其需要ヲ増加シ」と記す。1910年の産額は「約七十万個
(一個ハ百枚乃至二百枚入リ)ニ達シ、殆ント注文ニ忙殺セラルノ盛況ナリ」とし、工員(特に女子)が
97人いたことや販売・運搬方法も報告している。このように需要が続き、1913(大正2)年には
「自動汽力製造装置」を考案、特許を得て製造能力を増大し、工場の拡幅なども行う一方、品質についても
改良を重ねていったが、1920年代には他にもオブラートの製法を種々研究開発する事業者が現れた。
小林製造所の製法は寒天とデンプンを混合していたが、デンプンだけで製造できるようにもなった。
こうした競争会社の出現などによって、小林製造所の生産も1935(昭和10)年頃までで、その後は
工場の閉鎖に至ったという。(三重県生活文化部文化振興室・県史編纂グループのホームページによる)

<(その3)大阪道修町の武田長兵衛>

1.道修町と少彦名神社

(1)道修町の成り立ち
   豊臣秀吉の大坂城(1583)と共に船場の一画に町つくりが始まり、長崎からの輸入品を扱う
   商人の町が誕生し、江戸初期(1600)には100を超える薬種商の町に発展し、「くすりの町」の
   基が形成されていったようです。
   なお、町名の由来は、*「道修寺」の存在*上町台地と州島の谷間で「道修谷」*長崎からやってきた
   医師「北山道修」の医院*本願寺教如上人の渡辺御堂の堂衆による、等の説有り。
(2)薬種の総元締め
   江戸時代までの薬の原料としては長崎に輸入される「唐薬種」と国産の「和薬種」あり。
   道修町の薬種仲買仲間は江戸幕府公認の株仲間として「唐薬種」の一手に買い付け、薬種の検査、計量、
   および全国販売管理を行うようになった。享保七年(1722)には「和薬種改め会所」も設立され、
   道修町は唐薬種・和薬種全ての品質と目方を保証し、適正価格を定め、全国に薬種を供給する総元締め的
   役割を果たしてきたようです。
(3)くすりの守護神・少彦名神社(道修町の神農さん)
   祭神:少彦名命、神農氏ー薬・医療・温泉・国土開発・醸造・交易の神。
   創建:1780年(安永九年)薬種中買仲間の伊勢講が薬の安全と薬業の繁栄を願い、
      京都五条天神宮より分霊を勧請し、仲間会所に祀ったことによる。
      鎮座地:大阪市中央区道修町二丁目一番八号
   

(上左)くすりの道修町資料館(上右)少彦名神社の入り口
(下左)少彦名神社の参道(下右)由緒説明板
(4)西洋医学に対応した製薬業
   明治になり西洋医学が取り入れられると共に、西洋薬(洋薬)の取扱量も急激に増加し、道修町の
   薬種問屋は輸入に力を入れ、共同の薬品試験所や薬学校を設立(明治37年・1904)し、
   洋薬の知識が深まるとともに、洋薬製造も手がけるようになります。明治10年(1877)薬学教育を
   始めてからほぼ100年経った1975年以降、日本企業の新薬開発は活発となり、2006年現在、
   世界で20億ドル以上の売り上げを示す医薬品は、47品目あるうち、日本品が8品目あるとのこと。
    (参考情報:「くすりの道修町資料館」インターネット情報より)

2.道修町の御三家
   江戸時代創業の商店を今日に引き継いでいる企業は、
    (1)田辺製薬 (田辺三菱製薬)田辺屋 延宝六年(1678年)創業 田邊屋五兵衛 
            商標:マルゴ(漢数字「五」に○でかこむ)略称:タナゴ
            元禄期に江戸堀に在住し、享保期に道修町へ移住。明治10年(1877)に道修町に
            製薬会社を設立し、アルコールやエーテルを販売。
    (2)武田薬品 近江屋 天明元年(1781年)創業 近江屋長兵衛
            商標:ダキヤマ(漢字「本」を山形で上下囲ったもの)略称:タケチョウ
            初代長兵衛は寛延三年(1750年生まれ)天明元年(1781)薬種中買として
            開店。
    (3)塩野義製薬 明治11年(1878)創業 塩野屋 塩野義三郎
            商標:ヤマダイ(漢字「大」の上に山形をかぶせたもの)略称:シオノギ
            和漢薬個人商店開店。
   その他、小野薬品 伏見屋 享保二年(1717年)創業 伏見屋市兵衛

   分家や別家から発展した企業としては、藤沢薬品 (アステラス製薬)など。
   なお、明治から大正にかけて、東京日本橋薬種問屋の「御三家」とは、
    (イ)小西新兵衛商店(現武田薬品工業東京支店)
    (ロ)鳥居徳兵衛商店(鳥居薬品株式会社)
    (ハ)田辺元三郎商店(東京田辺製薬)
     (引用資料:三島佑一「船場道修町ー薬・商い・学の町」和泉書院(2006年1月20日))

3.武田家の襲名・長兵衛
 (1)初代  大坂は江戸時代に「天下の台所」といわれ、大坂の商人は「天下の商人」として、
        信用を重んじ分限を守り、地道の商売で利益をあげ、家業の事業を営んできた。
        大坂道修町に天明元年(1781年)6月、近江屋(現、武田薬品工業)を創業した
        近江屋長兵衛は薬種仲買いとして和漢薬の暖簾を掲げた。
 (2)二代目 薬種仲買のかたわら大名貸しをして財をなした。
 (3)三代目 人間道と商道との真実を追求した「仕法書」、「取締書」や「十ヵ年倹約之事」を定めた。
 (4)四代目 幼名亀蔵、弘化元年(1844年)、三代の代判近江屋長三郎の三男として道修町に生まれた。
        10歳のとき、京都二条の薬種商松屋喜兵衛方へ丁稚奉公にあがった。
        本家三代長兵衛が跡継ぎなく病死、亀蔵を後継者に選び四代目長兵衛を襲名させた。
        幕末の混乱期で、経営維持は困難だったが、得意先をふやしている。御用金や上納金の
        徴収があり、経営ははなはだ苦しくなっていた。
        明治維新、長兵衛25歳のとき、しだいに洋薬を取り扱うようになり、和漢薬と洋薬の
        二本建てからついに洋薬一本に切りかえた。
        明治4年(1871年)5月「戸籍法」公布により、近江屋長兵衛は武田姓を名乗る。
        長兵衛は困難な時期に家業をよく保ち堅実を旨とし、積極的に洋薬の輸入に
        着目し今日の基盤を確立。
 (5)五代目  明治3年四代目の長男として生まれ、13歳のころから薬品の荷揃えや荷造りなどの仕事に
        たずさわり、かたわら漢字や英語を学んだ。
        19歳のとき、横浜・東京へ出張し外国商館を歴訪し、薬種貿易についての見聞をひろめた。
        その外国商館との交渉経過を「約定帳」に克明に記載している。和漢薬種商から
        洋薬商への発展に早くから努力し、明治28年には大阪市北区の内林製薬所を武田専属工場と
        して経営し、その念願であった医薬品の国産自給への第一歩をふみだした。
        明治37年12月、五代目を相続したころは、ちょうど日露戦争の最中で、家業は次第に
        発展、40年には武田薬品試験部を創設、優秀な医薬品を提供することに努めた。
        大正3年(1914年)武田研究部と翌4年武田製薬所を創設して、日本薬局の製造や
        新薬の創製研究に全力をつくし、武田の基礎を築き、大正14年には株式会社武田長兵衛商店を
        創立して、大きな発展を続け、昭和18年武田薬品工業と改称。
        長兵衛を長男に譲ると、和敬という隠居名に代え、和敬翁と呼ばれた。
        昭和34年8月4日、90歳で逝去した。
        五代目はその家業を大いに発展させた人で、必要な事業研究には巨費を惜しまず、
        また文化的事業にも浄財を分かち、多くの事績をのこした。
 (6)六代目 (1905年4月29日-1980年9月1日)は、五代目の長男。
        1943年(昭和18年)武田長兵衛商店が武田薬品工業に改称し、社長に就任し、
        六代目長兵衛を襲名した。在任中は経営の多角化・近代化を推進し、1954年(昭和29年)
        発売のビタミンB1主薬製剤「アリナミン」などでの成功によって武田薬品工業を
        業界トップに押し上げた。
        1974年(昭和49年)、創業以来初めて武田家以外の者(小西新兵衛)に社長職を譲り、
        自身は会長に就任した。
 (7)七代目 六代目の長男の彰郎(当時副社長)が社長就任とともに七代目を襲名する予定であったが、
        就任予定の前年の1980年(昭和55年)2月に急逝した(六代目長兵衛も同年に亡くなっている)。
        当時の社長の小西新兵衛は六代目の三男の國男を後継者として指名した。
        1993年に國男は社長に就任したが、長兵衛の名は襲名していない。
   (出典:インターネット・WIKIPEDIA)

(左)道修町通りの風景:手前のビルは大日本住友製薬、奥のビルが武田薬品工業発祥の地にあたる。
(右)道修町通りの地図

<参考メモ・その3:「武田薬品工業」>

 会社概要
 大和国広瀬郡薬井(現・奈良県北葛城郡河合町薬井)から道修町に出てきた長兵衛が薬種仲買商の
近江屋喜助の下で奉公したあと「のれん分け」によって独立し薬種商「近江屋」を開いたのが始まりで、
1781年(天明元年)に、現在に至るまで本社を置く大阪市中央区道修町に店を構えた。
 当主は代々長兵衛を襲名し近江屋長兵衛として薬種問屋を営んだ。四代目から武田姓を名乗り、
五代目武田長兵衛が1925年(大正14年)に「株式会社武田長兵衛商店」を設立して法人となる。
その後、医薬品の製造・販売によって業績を伸ばし、1954年(昭和29年)発売のビタミン剤
「アリナミン」などで、日本の一般消費者に広くその名を知られるようになった。
 日本の医薬品企業では売上高ナンバー1であり、世界の医薬品企業の中では連結売上高16位である。
利益率はトップクラスを誇る。2007年(平成19年)3月期決算では連結売上高1兆3千億円超、
連結純利益3千億円超。連結従業員数は約15,000人。
 医療用医薬品の売上が連結売上高の約9割を占め、糖尿病治療剤、高血圧症治療剤、消化性潰瘍治療剤等を
主力製品とする。
  主要製品としては、(1) 医療用医薬品(2) 一般用医薬品・医薬部外品 ( ビタミン剤、 栄養ドリンク剤、
滋養強壮保健薬・漢方製剤、目薬、痔疾用薬、禁煙補助剤、風邪薬・鎮咳去痰薬・鼻炎用薬、胃腸薬、
整腸薬・下痢止め薬・便秘薬、鎮痛解熱薬・鎮うん薬、水虫薬・外皮用薬・内服肩こり薬、医薬部外品・化粧品、
コンタクトレンズ用剤(3)その他の製品(ビタミン強化米、調味料、清涼飲料水、殺虫剤、塗料・しろあり
防除剤、体温計、家庭園芸薬品・用品、農薬)など。
 研究開発においては、生活習慣病領域、癌・泌尿器科疾患領域、中枢神経系疾患領域、消化器疾患領域の
4領域を重点疾患領域としている。かつては、農薬、ウレタン樹脂、動物用医薬品、調味料およびビタミン・
バルクといった事業も手がけていたが、これら非医薬品事業は、2000年頃から、それぞれ、住友化学、三井化学、
シェリングプラウ、キリンビールおよびBASFとの各合弁会社に移管し、現在は、それぞれ合弁相手の完全子会社と
なっている。(出典:インターネット・WIKIPEDIA)

ホームページ管理人申酉人辛

平成22年5月27日
(百人一首かるたの日および海軍記念日)*** 編集責任・奈華仁志 ***

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