平成社会の探索


ー第93回知恵の会資料ー平成22年5月9日ー

<「知恵の会」への「知恵袋」>


(その38)課題「かさ(傘)」
「傘と笠の旅」
ー広重東海道五十三次ー
ーーーーー  目     次  ーーーーー
広重浮世絵に見る東海道旅路の笠と傘の風景
ーーーーー  参考メモ  ーーーーーー
(その1)広重絵に見る日本橋の傘
(その2)京と江戸の和傘
(その3)安藤(歌川)広重の略歴
宿場名広重絵構図傘と笠参考絵
江戸
(日本橋)
(行列振出)早朝の日本橋、太鼓橋を二人の箱持ち、 毛槍持ちが先陣を切り、 渡り始める大名行列、魚売り、野菜売り、子供、商人、花屋、おかみさん、町娘、など庶民の姿あり。 左端の白装束姿は南蛮渡来人のよう。貴人に傘を差し掛けている。 その1
品川品川の旅籠を大名行列がまさに通りすぎようとしている。 茶店の女たちが店先で見送っている。行列の武士が三人菅笠を被り、 道路脇の見送っている群衆にも三人ほど笠を被っている。
川崎六郷渡し場から出発した客を乗せた舟が、まさに川崎側に着岸する図。 岸には荷を積んだ馬が待っている。船上に菅笠の客が一名。船着き場には、 荷駄と共に三人の客が菅笠を被って待っている。
神奈川神奈川台の景。宿場は海に面し風光明媚な地として有名。 茶屋前で、客引き女が旅人を強引に呼び込み、あとに親子連れの巡礼が続く。 呼び込みに遭っている旅人が一人、巡礼の親が一人、菅笠を被っている。
保土ヶ谷新町橋(帷子橋)から宿場町の家々を望む。橋上に駕籠、編み笠が宿場へ向かう。 橋の袂に蕎麦の看板が見え、街並みを抜けて新町橋を渡ろうとする集団の先頭が見える。 橋上の旅人四人、新町橋袂に六名の菅笠の旅人が見える。
戸塚吉田橋の袂の宿場風景。柏尾川に橋が架かり、道標は「左かまくら道」、 鎌倉道と東海道との分岐点。茶屋の店先でまさに馬から降りようとしている旅人が描かれている。 馬から下りた男の旅人一人、茶屋前の女の旅人一人がそれぞれ笠を被っている。
藤沢江ノ島道入り口鳥居、遊行寺橋、時宗本山遊行寺を描く。 藤沢の観光拠点を集めて紹介した図。江ノ島にはたびたび弁天が開かれ参詣人で賑わった。 四人の座頭が鳥居をまさに通り過ぎようとしている。(菅笠の旅人は見かけない。)
平塚くの字に曲がった東海道を飛脚が松の脇を走り、空の駕篭かき二人が ぶつかりそうだ。後ろの丸みを帯びた山は高麗山、すぐ隣に対照的に鋭い稜線で描かれているのは大山。 真ん中に雪の富士が背景に見えている。(笠、傘とも見えず。)
大磯「虎ヶ雨」図。大磯の宿場を抜けると化粧坂(けわいざか)。 曽我十郎の恋人・虎御前の化粧井戸が今に残る。右の山は大山。左には相模湾を望む。 街道を蓑笠、合羽姿の二人の旅人が、大磯の宿場を目前にする。 宿場内に菅笠の旅人が二人見える。
小田原酒匂川(さかわがわ)を渡る図。小田原城、京方向を見る。 幕府は警備、防衛上、酒匂川に橋を架けなかったので、旅人は渡し場から川越人足に頼らなければならなかった。 駕籠は大勢の人足が担ぐ。右上部隅に、小田原城が見える。川を渡っている旅人四人、川岸で待つ 一人の菅笠を克明に描いている。
箱根岩肌を見せる急峻な山中を大名行列らしき一行が進む。 左遠方には雪の富士が見えている。大名行列の笠が十数ほど連ねて見える。
三島三島朝霧の図。ぼかし、影絵、あるいは シルエット画法を用いる。ぼかしは手前から、駕籠かき、馬上の旅人、右端の5本の木、次の背景として 三島神社鳥居、人物の真後ろの木々など、さらに遠景になって、黒でぼかされた二人の旅人、右端の 神社建物らしきシルエット、背景には幽かに見える家並み、木々。 馬上と駕籠中の旅人は菅笠を、同道する荷担ぎ三人は菅笠を被り、 後姿で霧の中へ消えてゆく旅人三人は簑笠を附けている。
沼津黄昏時、狩野川沿い街道を母娘の巡礼と天狗の面を 背負った金刀比毘羅参詣らしき行者が沼津の宿を目指す図。満月が出る時刻にしては、 景色が明るく、家々の白壁までくっきりしている。昼間のような景色と大きな満月の取り合わせが妙。 母娘の旅人は菅笠と簑笠を、先の沼津宿に入りかけている旅人の一団に三人ほど菅笠が見える。
枠外へ出した富士は、その憧れ、畏敬の像として表現している。 旅姿女二人と供の男が休む。湿地・浮島が原に番いの鶴が仲良く餌をついばむ。 富士山の右斜面は朝焼け。「北斎の赤富士」と並ぶ富士の雄姿。右の険しい山に比し 富士山のやわらかな美しいラインを際立たせる。 煙管で一服する女、富士を仰ぐ女、共の男一人、 三人が菅笠を被っている。
吉原左富士図、しかも赤富士(京へ進むと富士山は右手に見えるのが普通)。 馬に乗る子供三人の後姿。どっしりとした馬が道幅いっぱいに往来している馬の一方通行の強調図。 街道沿いには松並木が続き、前方に旅人が見える。 先行く旅人一人は菅笠を被っている。
蒲原広重の代表作とされる有名な作品。夜の雪の景色と街道を行く三人三様の姿、 しかも人物だけに配色を施している。奥には雪の家並み、山々が静かにたたずむ。空からはやわらかく 静かに雪が降る。 坂を下る人は傘をすぼめ、坂を登る人は、蓑を纏う人と菅笠を押さえて雪を踏みしめている。 その2
由井さった峠の切りたった断崖絶壁から旅人二人が富士山を眺めている。 旅人は突然視野に入る富士山に感動している。脇を富士を見ることなく樵人が薪を担いで登る。 切りたった絶壁、中央の岩の景色とは対照的に、ゆったりと富士山と海を描く。 富士を眺める旅人二人は菅笠を被っている。
奥津勧進相撲のために相撲取りが駕籠と馬で興津川を渡る図。 四人の駕籠かきの淡々とした表情とあんこ型の関取の穏やかな表情とが印象的。 河口周辺の松林、穏やかな相模湾の海。対岸の大きなせり出す岩山が印象的。 (笠やかぶり物は見えない。)
江尻宿場に寄る人、街道を歩く人は描かれていない。唯一の風景画。 手前に清水港の家々の屋根。湊に停泊している帆を降ろした舟、湊に入ってくる帆船、 三保の松原を中景として配し、奥には伊豆の山々。海の中央から帆船の帆だけを だんだんに小さく描く。(笠やかぶり物は見えない。)
府中安部川渡り。対岸の山は賤機山(しずはたやま)。顔の白さが目立つ 女性三人三様の渡り方が面白い。手前から、肩車、駕籠、梯子状の輦台(れんだい)。 対岸から積み荷馬と三人の人足、手紙を入れる箱を持つ飛脚、客の荷物を頭に載せる人足と旅人、 手引きの人足と旅人。手前から渡る男二人は笠を被っている。
丸子茶店風景で、立看板に丸子「名物ぶつとろろ汁」。旅人はとろろ汁を食べて 精をつけたという。右端の障子に「御茶漬け」「酒さかな」文字、左端に「御ちゃつけ」文字。 店に二人の旅人がとろろ汁と酒を味わっている。店先には梅の花が咲く。 ひだりの山道を蓑と菅笠を差した棒を担ぐ農夫が歩いて行く。
岡部急斜面に挟まれて真ん中を岡部川が三段の段差で流れる。 川の流れも帯のように描く。坂道の上から降りてくる大きな薪を背負った木こり。 川に沿った山道が、急坂であることがわかる。 坂を登っていく旅人一人は菅笠を被っている。
藤枝人馬継立図。問屋場で人足と馬が交代して荷物を積み替える。島田宿からの 荷物を藤枝宿で中継ぎして岡部宿まで運ぶ。右端には高床に問屋場の役人、監視役の黒の羽織の武士、 記録帳を持った男が見える。左側に荷物を運んできて汗を拭いたり、煙草を吹かしたりしている人足など、 継立の準備に忙しい人足を描く。 羽織の武士が菅笠を被り、伴の者は菅笠を手に持っている。
島田大井川川越の俯瞰図。大井川は川幅もあり、急流で危険が伴ったので、 旅人は川渡しの人足の助けを必要とした。先頭の肩車に乗る三人の武士、梯子状輦台(れんだい)に 乗った武士、岸に待つ大勢の大名一行、その後を一般庶民が続く。大勢の人々の隊列を俯瞰的に、 小さく描いて大井川の大河を表現した。 約80名ほどの人物の内、13名ほどが、菅笠を被っている。
金谷大名行列が嶋田側から大井川を渡り終え、山すその金谷宿を目指す図。 岸の砂地にすぐ降ろされる者、陸地まで梯子状の輦台(れんだい)で運ばれて行く大名。 菅笠を被った人物が三人ほど見受けられる。
日坂急坂な難所で有名な小夜の中山。地元の木こりと編み笠の旅人との 対比が妙。中央大きな丸石「夜泣き石」と呼ばれ、妊婦がこの石のそばで殺されたが、 赤ん坊は産まれて、死んだ母の霊がこの石に乗り移り、子を慕うあまり夜泣き石となる。 急坂に向かう旅人四人、坂を下りてくる旅人一人が菅笠を被ったり、持っている。
掛川秋葉山を遠望し、二瀬川に架かる大池橋の人々の様子を描く。上部にはみ出した赤い凧。 糸が切れて秋葉山に向かって飛ぶ凧。橋上に僧侶が大きな扇子を持って渡ろうとしている。その僧にお辞儀を する旅人が渡る。手前には凧を飛ばしてしまったらしい子供の手が印象的。田圃では農夫たちが田植えに 精を出している。笠を被った僧侶一人、行き交う二人の旅人も菅笠を被り、一人は手に持っている。 田中の七人の農夫も笠を附けて田植えをしている。
袋井のんびりした街道の田舎風景。街道筋には旅人が一休みする簡素な茶店が 大きな木陰を利用してあった。土盛りかまどに大きな薬缶が木からぶらさげられている。 店番の女が火を見ているそばで、駕籠かきが煙草に火をつけて、一人は草履に手をやって休んでいる。 縁台に腰を下ろして旅人が一服している。牛を引く農夫が見える。 (笠やかぶり物は見えない。)
見附天竜川渡し。手前に客を運び終わった高瀬舟船頭と長い竿を川底に差して 持っている助手、中州に舟を待っている客と荷を載せた馬、川面には客を乗せた舟、遠くには靄に煙る 木々がシルエットで描かれている。天竜川は、中州で小天竜(手前)と大天竜(向こう側)に 分かれ、手前から二艘の高瀬舟、中州の人々と馬、人を乗せた川舟、遠景の木々のシルエットと 描く。手前の船上に二人の船頭、中州に旅人四人、大天竜船上に二人と四人が、それぞれ笠を 被っている。
濱松街道脇大杉根元で焚き火で暖を採る図。杉左に四人の駕籠かきらしき男が休んでいる。 合羽、菅笠の旅人、赤ん坊をおんぶしている女を描いている。立ち昇る煙は実に大きい。遠くに見えるのは 浜松城。円味のある街道が描かれている。画面右に地名ゆかりの松がある。 菅笠は旅人がひとりだけ。
舞坂嘗て浜名湖は舞坂と荒井まで砂州で繋がっていたが明応大地震で砂州が決壊、遠州灘と 海続きになってしまい、「今切」と言う。富士山まで続く山々は、広重の創作に依るもの。 舞坂と対岸の新居までは約4キロの海岸線風景。 海上に11隻の船が浮かぶが、二隻の船頭は笠を被っている。
荒井舞坂から荒井(新居)への今切の渡し。前を行く帆かけ船に大名が乗っている。 幕の囲い、二本の白い槍、勢いよくはためく吹き流し等、特別のしつらえである。手前の舟には船頭と 赤い上着の助手が、一所懸命に漕いでいる。荒井の船着き場の右は厳しい関所。 手前の船上に船頭と船客四人が笠を被っている。
白須賀画面は摺り鉢状の構図で、その底の汐見坂を大名行列が通る。 遠州灘の真っ直ぐな水平線がすり鉢状の汐見坂と対照的。水平線の上には帆掛け船の帆だけが描かれ、水平線を うまく表現している。手前の浜に防砂林の松が描かれ、地引き網を三角形に干しているのが見られ、 漁師町で有名な白須賀。大名行列の武士約三十名の編み笠だけが点々と続く。
二川(猿ヶ馬場)物寂しい原っぱに小松が点々と描かれ、「名物かしは餅」看板の 茶店が描かれ、一人の客が柏餅を買っている。草の斜面を三人の女旅芸人が登ってくる。 荒涼とした原っぱが画面の大半を占め、茶店、二本の松、三人の旅女を添える。 柏餅の客人と旅芸人の一人が笠を被っている。
吉田(豊川橋)右端の吉田城では足場を組んで二人の左官が壁塗りをしている。 細い足場に乗って手をかざして、豊川橋を渡る大名行列を見ている鳶の男。手前にある右端の城と、 豊川橋と奥の山の遠景との対比が絶妙。足場を組んだ吉田城、手前の松が遠近感を持たせるのに効果的。 壁塗りをしている左官二人が笠を附けて仕事をしている。
御油(旅人留女)夕暮れの御油旅籠屋街風景。御油の客引き女は強引で、 留女のすさまじい客引きに旅人は首を締め上げられ苦しそう。後ろの旅人は体をよじらせ逃げの格好。 両肘を木枠につけて飯盛女が外を見ている。道の奥には先を急ぐ三人の旅人を描く。 客引きされている二人の旅人や先を行く旅人三人は、笠が見える。
赤坂旅籠屋内部の様子が描かれている。縁側には一風呂浴びた男が 片肌脱いで手拭を肩にかけ、部屋では煙草を吹かしながら男が寝そべり、女中が食膳を運んでいる。 隣で按摩が声をかけ、赤い提灯が見える。「御用」とあり、郵便屋さんが休んでいる。 右手の部屋では飯盛女が化粧に忙しい。中庭には青い万灯籠と蘇鉄。 (旅籠中の風景のため、笠やかぶり物はない。)
藤川(棒鼻ノ図)宿場の出入り口。左には関札、右手の行列の黒と茶の馬に御幣が立て られ、幕府から朝廷へ献上する馬の「八朔御馬献上」の行列。左手に一行を宿場の役人が平伏して出迎え。 何か用向きを伝えにきた男に、右端の役人が顔を上げた一瞬を捉えている。三匹の犬がじゃれ合っている。 行列の一向に笠の波が15見える。
岡崎矢矧(やはぎ)橋を渡る長い大名行列の一行を描く。東海道で一番長いとされ、 二百八間(374メートル)。渡った橋の左には岡崎城及び岡崎の宿が描く。 行列に笠は二十数名を描く。
池鯉鮒
(ちりゅう)
現在の知立市。4月から5月に野原で馬市あり。 野原に多くの馬が杭につながれ、二人の農夫が馬を杭に繋いだり、馬を引っ張る農夫も小さく見える。 画面中央の松の大木には大勢の馬飼、馬喰達が馬の商談・談合松を進める。 この松を目指して弁当らしきものを売る商人二人が近づいている。 馬を扱う人夫が二人、物売りが一人、馬の商談を進めている集団に数名の人間が笠を被っている。
鳴海(名物有松絞)鳴海から約1里のところの有松村は有松絞の産地。鳴海絞りとも言われ 全国的に有名。有松絞を商う染物屋が二軒描かれている。手前の店には客が店のものに藍色の染め物を 勧められている。街道に女性ばかりの旅人描いている。徒歩、駕籠、少し離れての馬と旅の三様を網羅している。 有松絞にちなんだ松が多く描かれている。 徒の二人、駕籠の一人、および馬上の一人の三人の女性とも笠を携行。
(熱田神事)日本武尊の草薙の剣が祀られている熱田神宮では五月五日に馬を奉納する 神事に続いて荒馬を競わせる行事が行われた。手前の赤地の半纏組と、向こう側の藍色の半纏組が 競っている。手綱を持つ村人達の走る手足の動き、表情がよく描かれている。 左上部には旅人や店の人達が焚き火で見物している。焚き火の近くで見物している人物のみ 笠を被っている。
桑名(七里渡口)宮宿から桑名へは海上七里を船で渡った。桑名は港町・宿場町・城下町として 栄え、海に囲まれた桑名城が見えた。渡し口の近くは揖斐川河口。二艘の船が帆を下ろし揖斐川河口まで櫓を 漕いで行く。海上には帆船が浮かぶ。帆と城の壁が白。 帆の間から船頭の顔や三人の船客の笠が覗く。
四日市(三重川)強風に菅笠を飛ばされた旅人が慌てて追いかけている。転がるように 飛ぶ菅笠めがける追っ手のあわて振りが伝わってくる。橋上で旅人が合羽を吹き飛ばされないように 懸命に菅笠の紐とを押さえている。合羽裾が長く靡いて、柳の木も風に吹かれて大きく舞っている。 左側には、帆柱と家々の屋根が見える。 二人の菅笠と強風が主題
石薬師(石薬師寺)秋のもの静かな田園風景。田中に秋の収穫を終えた農夫が、何か 後片づけの農作業をし、稲叢(いなむら)が点々と見える。あぜ道を天秤棒で荷を運ぶ人足が、石薬師の 山門を目指している。山門の前を馬に乗った旅人、馬子、徒歩の旅人が過ぎようしている。 右手には宿場の家並み家並みが点在する。 (笠やかぶり物は見あたらない。)
庄野(白雨)広重の有名な浮世絵傑作の一枚。空がかき曇り庄野に激しいにわか雨が襲う。 坂道での人々の様子が描かれている。坂に垂直に当たる白と黒を織り交ぜた雨脚が幾筋にも微妙に角度を変えて、 巧みに描かれている。雨脚とは反対方向に強風でなぎ倒される木々を描く。 民家の脇の木々は実景、後ろの木々は、二層のシルエットで風雨の激しい臨場感を出す。 三島、見附でも使われたシルエット画法が用いられている。坂、木々、雨の傾斜の組み合わせが巧妙。 坂道に吹きつける強雨が画面に緊迫感を持たせている。 坂を駆け上っていくのは菅笠に筵(むしろ)で雨を防ぐ農夫。 後に続く駕籠かきは客が濡れないよう合羽を駕籠に被せている。客の左手は強く握られていて懸命に ふり落とされまいとしている。一方坂を下るのは、菅笠に蓑姿の村人。対照的に隣には風に飛ばされない ように傘をすぼながら藍色の脚絆の旅人がゆっくりと坂を下りている。その3
亀山灰色と黒のみ近い雪景色世界下の亀山城及び斜面の下にたたずむ家並みを描いている。 左端の淡い朝焼けのピンクが空に映えて鮮やか。斜面を登る大名行列をわずかに覗かせている。 直立した中央の松、亀山城を注目させるように描く大胆な構図である。家並み、ピンクに染まる空などの 穏やかさと対角線右半分の急峻な斜面の景色が対照的。 坂を登っていく一行の中の八名が笠を見せている。
(本陣早立)参勤交代大名達が本陣を早朝出発するところ。白地と赤字の幕が大きく 張られ、奥で足軽が大名の出を待っている。提灯を持って足軽が待機。左手前には縁側に立つ侍と 御用の提灯を持った宿の主人が話している。三人の足軽が菅笠をかぶり待機している。緊迫した朝の出立の 直前を描き込んでいる。手前と奥の二手に場面を分け巧みに描き分けている。 足軽が縁側で菅笠を附けながら、大名の出を待っている。縁側には菅笠が五着積まれている。 足軽の持った提灯を持って菅笠を着した足軽が縁側に待機。奥の入り口では、 三人の足軽が菅笠をかぶり待機。
阪之下(筆捨嶺)鈴鹿峠東麓の宿場。左の山が岩根山、岩石で覆われ険しい山。 滝が二筋流れ落ち、岩肌には松が所々に見られる。室町時代狩野派絵師が山を描こうとしたが、 うまく描けず筆を捨てたので筆捨嶺(山)と呼ばれる。茶店ではこの景勝の山を旅人が思い思いに眺めている。 茶店に向かって、子供連れの農夫が荷物を運ぶ牛を引いて近づいてくる。下の川は八十瀬川(やそせがわ)。 坂をあがる農夫が一人笠を被っている。
土山(春之雨)田村川の橋を大名一行の先頭が渡るところ。 かなり強い雨にうつむき加減に渡る。二本の槍も傾いている。奥には田村神社が控えている。 大名行列を先頭だけ見せることによって後の長い行列を想像させる。 「坂は照る照る 鈴鹿は曇る 間(あい)の土山雨が降る」で有名な地。 大名行列の先頭九名の菅笠のみ描いている。
水口(名物干瓢)干瓢作りに精を出す農家の主婦と二人の娘の様子を描いている。 主婦は筵を敷いて大きな夕顔の実をまな板の上でむいている。赤ん坊をおんぶした娘は母に渡すため 手に夕顔の実を持って待っている。もう一人は干瓢を干している。反対の民家でも 垣根を利用して干瓢を干している。 街道を行くひとりの旅人のみ笠を被っている。
石部(目川ノ里)旅人や駕籠かきの一休みする大きな茶店・伊勢屋を描いている。 目川は菜飯と田楽豆腐が名物。女中が注文品を運ぶ姿が見える。 街道には踊りの集団と、それを振り返り見入る三人の女連れの旅人、 先を行く米俵を背負った農夫達が、描かれている。 街道上の六人の旅人が笠を被っている。
草津(名物立場)立場とは宿場間距離が長い場合の休憩所。「姥が餅」を食べさせる 有名な茶屋の風景を描いている。腰掛けくつろいで餅を食べている旅人、着いたばかりの旅人など。 通りに四人の人足が大きな荷物を担ぐ。反対方向へ早駕籠総勢5人。奥は琵琶湖畔の矢橋。 休憩所の周辺の旅人三人が笠を被っている。
大津(走井茶店)茶店前を荷物を積んだ牛車が通り過ぎる。先頭には米俵が積まれ 、後に続く二台の牛車には薪が積まれている。勢いよく水が流れ出している湧き水(走井)が描かれ、 脇で魚の行商人が魚を冷やしている。茶店では、奥の座敷に今着いたばかりの旅人が腰を下ろして 荷物を降ろそうとしている。入口に女性二人連れの巡礼。 (笠やかぶり物は見あたらない。)
京師
(三條大橋)
五十三次最終図。日本橋から長い東海道の旅も京都、三條大橋で終着。 下を鴨川、背後には東山の山々。山の中腹には清水寺、その右下には八坂の塔、画面真ん中には青い屋根の双林寺、 ずっと左端には知恩院が見え、麓に京都の街並みが密集。一番後ろの茶色の山は、比叡山。橋の上を人々の 行き来が描かれる。橋上の行商らしい旅人、一人は菅笠に手をかざしている。 番傘をさしている裃姿の武士、日傘を伴の下女に持たせる女性、被衣(かずき:顔を覆うベールの一種)を かぶった女性三人、欄干から川面を覗く菅笠の旅人。その4
(参考資料:WIKIPEDIAインターネット情報
大林克真氏の優れた広重浮世絵解説に依っている)


(上左)日本橋「行列振出」(上右)蒲原「夜之雪」
(下左)庄野「白雨」(下右)京師「三条大橋」

<(参考メモ)(その1)「広重絵に見る日本橋の傘」>

 広重の残した浮世絵で見る日本橋の風景には、いろいろの構図があるようです。
 先に見た参考絵・その1は「東海道五拾三次之内 日本橋 行列振出」で、
 (後摺)とされるもの。では、(初摺)の構図は、「朝之景」として、
 次の様になって、貴人の差し掛け傘と南蛮渡来人の集団は消えてしまいます。
 参考までに、広重の「行書東海道」での日本橋風景は次のようにあっさりした
「曙旅立の図」となります。

(左)日本橋「朝之景」(右)日本橋「曙旅立ちの図」(行書東海道)
 広重の描く日本橋の風景はいろいろな構図があり、大名行列ではなく
庶民の行き交う風景の一例が次のような「日本橋雪晴れ図」となります。
  雪がやんで、差していた傘をたたんだ人々が橋上を行き交っています。

(左)広重・東海道五十三次之内(行書東海道)日本橋(再刻)
(右)広重・新撰江戸名所・日本橋雪晴図 大判錦絵
 参考までに、広重の「東海道五拾三次」の売れ行きがよくて、二番手として
出版された「木曾街道」の出発地日本橋の風景は、次のようになっています。
  この絵にも変わり図があり、朝日を省略した図柄もあるようです。

英泉・第壱 木曽街道続ノ壱 日本橋・雪之曙(左)朝日有り(右)朝日無し

<(参考メモ)(その2)「京と江戸の和傘」>

 日常生活に於いて傘は必需品の一つです。一般には折りたたみ式の携帯雨傘を
持っておき、忘れても雨が降ってきたら、百円ショップやコンビニエンスストアなどで、
安価に手に入る。しかし、今日のように物が有り余るぐらいにあふれかえっている時代と
違って、傘が一種の重要な日常品であった頃、日本では一体どのくらい傘が作られていたのでしょうか。
 洋傘が一般化する以前は、和傘が日常の雨傘の主流を占めていた時代であり、
それは昭和の中頃まででしょうか。
 明治時代以前、特に江戸時代では、傘と云えば和傘しかありませんでした。
 その頃は、どこで傘が製造されて一般に行き渡っていたのでしょうか。
一家に一本以上が必要なわけですから、大変な本数が製造されていたでしょう。
 現在、その和傘を製造しているところは、和傘産地として有名な岐阜県(美濃傘)をはじめとして、
京都、金沢、徳島(美馬傘、往時は200軒近くあったというが、現在は2軒)、
鳥取(淀江傘、淀江傘伝承者の会)などに限られた和傘の製造店が残るだけとのこと。

 現在でも和傘は、舞踊、茶道、歌舞伎の芸事の分野で、あるいは、地方毎の伝統行事や
寺社の催し物などには、必要なものとして存続しています。
 (蛇の目傘、番傘、羽二重傘、舞踊傘、野点傘など)
 以下に、生き延びている和傘の老舗を京と江戸でのぞいてみます。

(京の都の京和傘の老舗)ー日吉屋ー
 日本三大和紙製造ち越前和紙に京都の竹や漆などの選りすぐりの材料で京和傘を作っている
 創業百余年の和傘の老舗。
 住所:京都市上京区寺之内通堀川東入百百町(西陣・宝鏡寺前) 

(花のお江戸の和傘の老舗)ー浅草仲見世・西島商店ー
 和傘を各種取りそろえ、伝統的な和傘を専門に取り扱っている。職人の手作り品もあり仕上がりに
 時間を要すること有り。産地から直接仕入れ品揃えする。役者や踊り子に用足しする専門店。
 住所:東京都台東区浅草1−30−1(浅草仲見世)

<(参考メモ)(その3)「歌川広重」略歴>

歌川 広重(寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後浮世絵師となる。
安藤広重(あんどう ひろしげ)名のらず、浮世絵師歌川広重。

寛政9年(1797)江戸の下級武士・八代洲河岸火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子として誕生、
          幼名徳太郎、のち鉄蔵、重右衛門また徳兵衛。
文化6年(1809)数え13歳の時、2月に母を亡くし、同月父が隠居、広重が同心職を継ぐ。
               同年12月父も死去。幼い頃から絵心が勝る。
文化8年(1811)15歳頃、はじめ初代歌川豊国の門に入ろうとしたが、門生満員でことわられ、
        歌川豊廣(1773年?-1828年)に入門、
文化9年(1812)師と自分から一文字づつとって歌川廣重の名を与えられた。
文政6年(1823)家業の火消同心を辞め、絵師を専門の職業にした。
天保1年(1830)一幽斎廣重と改め、花鳥を描いていた。
文政11年(1828)師豊廣死後、風景画を主に制作。
天保3年 (1832)一立齋(いちりゅうさい)と号を改めた。
安政5年 (1858)  没。享年62。死因はコレラだったと伝えられる。法名は顕功院徳翁立斎居士。
               友人歌川豊国(三代目)の筆になる「死に絵」に辞世の歌が遺る。
              「東路へ筆をのこして旅のそら 西のみ国の名ところを見ん」
            (WIKIPEDIAインターネット情報より)


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平成22年4月1日(エイプリル・フール)*** 編集責任・奈華仁志 ***

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