1.同志の別れー俊寛 2.師弟の別れー忠度 3.夫婦の別れー重衡 4.主従の別れー安徳帝 5.一族の別れー知盛 ーーーーー 参考メモ ーーーーーー (その1)「蛍の光」(その2)和漢朗詠集「餞別」(その3)謡曲「碇潜」 ーーーーー 餘 韻 ーーーーーー (その1)平忠度の歌碑(その2)平重衡の人生 (その3)平重衡縁りの史蹟 |
第一場 出船の涙 |
ほたるのひかり まどのゆき ふみよむつきひ かさねつつ いつしかとしも すぎのとを あけてぞけさは わかれゆく (参考メモ・その1) |
巻第三 足摺 <俊寛僧都> |
既に舟出すべしとて、ひしめきあへば、僧都乗ては下つ、下りては乗つ、あらまし事をぞし給ひける。 少将(丹波成経)の形見には夜の衾、康頼入道(平判官法師)が形見には、一部の法華経をぞ留めける。 纜解て押出せば、僧都綱に取附き、腰に成り、脇に成り、長の立つまでは引かれて出で、 長も及ばず成りければ、船に取附き、 「さて如何に各、俊寛をば終に捨果給ふか。是程とこそ思はざりつれ。日来の情も今は何ならず。 只理を枉げて乗せ給へ。責めては九国の地迄。」 と口説かれけれ共、都の御使如何にも叶ひ候まじとて、取附き給へる手を引きのけて、船は終に漕出す。 |
第二場 馬上の吟詠 |
前途程遠し 思ひを雁山の暮の雲に馳す 後会期遙かなり 纓を鴻臚の暁の涙に霑す (参考メモ・その2) |
巻第七 忠度都落 <薩摩守忠度> |
日頃詠み置かれたる歌共の中に、秀歌と覚きを百餘首書集られたる巻物を、 今はとて打ち立れける時、是を取て持たれしが、鎧の引合わせより取出でて、俊成卿に奉る。 三位是をあけて見て、「かかる忘れ形見を給り置候ぬる上は、努々疎略を存ずまじう候。 御疑あるべからず。さても只今の御渡りこそ情も勝れて深う、哀れも殊に思ひしられて感泣抑へ難う候へ。」 と宣へば、薩摩守悦で、「今は西海の浪の底に沈まば沈め、山野に屍をさらさばさらせ、 浮世に思置く事候はず。さらば暇申て。」とて、馬に打乗り、甲の緒をしめ、西を指いてぞ歩せ給ふ。 三位後ろを遙に見送り立たれたれば、忠度の声と覚しくて、 「前途程遠し、思を雁山の夕の雲に馳。」と、高らかに口ずさみ給へば、 俊成の卿、いとど名残惜しう覚えて、涙を抑えてぞ入給ふ。 |
第三場 護送途次のうめき |
(中納言行平)「立ち 別れ いなばの山の みねに生ふる まつとし聞かば 今帰り来む」 (蝉丸)「これやこの ゆくもかへるも 別れては しるもしらぬも 逢坂の関」 (百人一首第16番および第10番歌) |
巻第十一 重衡被斬 <本三位中将重衡卿> |
「餘りの御姿のしをれてさぶらふに、たてまつりかへよ。」とて袷の小袖に浄衣をそへて 出されたりければ、三位中将是を著かへて、元著給へる物どもをば、「形見に御覧ぜよ。」とて置かれけり、 北の方、それもさる事にてさぶらへども、はかなき筆の跡こそ、永き世の形見にてさぶらへ。」とて、 御硯を出されたりければ中将泣々一首の歌をぞ書かれける。 せきかねて涙のかかる唐衣、のちのかたみにぬぎぞ替ぬる。 北の方ききもあへず。 ぬぎかふる衣も今は何かせん、けふを限りの形見と思へば。 「契りあらば、後世にては必ず生あひ奉らん。一つ蓮にといのり給へ。日もたけぬ。 奈良へも遠う候、武士の待つも心なし。」とて、出給へば、 北の方袖にすがりて、「如何にや如何に、暫し。」とて、引き留め給ふに、 中将、「心のうちをば唯推量給ふべし。されども終には、遁れ果つべき身にもあらす。 又来ん世にてこそ見奉らめ。」とて出で給へども、誠にこの世にてあひ見ん事は、是ぞ限りと思はれければ、 今一度立ち帰り度おぼしけれども、心弱くては叶はじと思ひきてぞ出でられける。 北方御簾の際近く伏しまろびをめき叫び給ふ御声の、門の外まで遙に聞えければ、 駒をば更に疾め給はず、涙にくれて行く先も見えねば、中々なりける見参かなと、 今は悔しうぞ思はれける。 |
第四場 水底の都へ |
<”耳なし芳一”掻き鳴らす平曲琵琶がうなる!むせび泣くは平氏の亡霊か> 「壇ノ浦の合戦の段をお語りなさいーあれが一番哀れ深うござりますゆえ」 そこで、芳一は声を張り上げ、艱難を極めた海戦の模様を語り出しました。 ー琵琶を巧みに掻き鳴らして、櫂をあやつる音、軍船が波頭を切って進む音、 弓矢のひゅうひゅうと飛び交う響き、つわもの共の雄叫びの声や足を踏みならす音、 兜に打ち当たる太刀の鈍い音、打たれた者が海中に落ちる音などを、 それはものの見事に表現してみせました。 演奏の合間に、芳一の耳には右からも左からも賞賛のつぶやきが聞こえてきます。 もはや周囲は感嘆のあまり、じっと沈黙して聴いております。 さて、いよいよ女子どもという、 美しい人、か弱き者たちの悲しい最後を語る段にさしかかりますと、 とりわけ二位の局が幼帝を胸にかき抱いて、海中に飛び込む件にさしかかりますと、 聞く者は誰も彼も、おののき震えんばかりに、長い長い苦悶の叫びをあげました。 そうして、ひどく声高に狂おしくむせび泣きますので、盲人はみずから引き起こした あまりに激しい悲しさに、我ながら恐ろしくなったほどでありました。 (出典:小泉八雲原作・舟木裕訳・さいとうよしみ絵「耳なし芳一」小学館(2006・3)) (参考メモ・その3) |
巻第十一 先帝身投 <先帝(安徳帝)> <二位殿(清盛室)> |
「・・・先づ東に向はせ給ひて、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、 其後西方浄土の来迎に預らむと思食し、西に向はせ給ひて御念仏候ふべし。 此國は栗散辺地とて、心憂き境にてさぶらへば、 極楽浄土とてめでたき處へ具し参らせさぶらふぞ。」 と泣々申させ給へば、山鳩色の御衣にびんつら結はせ給ひて、御涙におぼれ、 小さく美しき御手を合せて先東を伏し拝み、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、 其後西に向はせ給ひて御念仏有りしかば、二位殿やがて抱き奉り、 「浪の下にも、都のさぶらふぞ。」と慰め奉て千尋の底へぞ入給ふ。 |
第五場 平氏一族の幕引き役 |
平家の公達艫舳にまはり 平家の公達艫舳に立ち渡り矢先を揃へ、切先を並べて寄せ来る敵を待ちかけたり。 中にも知盛進み出て、大長刀を、茎長に取りのべ、 左を薙ぎては右を払ひ、左を薙ぎては右を払ひ、多くの敵を亡ぼしけるが、 今はこれまで沈まんとて、 鎧二領に兜二はね、猶もその身を重くなさんと、遙かなる沖の碇の大綱えいやえいやと引き上げて、 兜の上に、碇を戴き碇を戴きて、海底に飛んでぞ、入りにける。 (謡曲「碇潜(いかりかづき)より) |
巻第十一 内侍所都入 <新中納言知盛卿> |
新中納言、「見るべき程の事は見つ、今は自害せん。」とて、 乳人子の伊賀平内左衛門家長を召て、 「いかに日比の約束は違まじきか。」と宣へば、「子細にや及候。」と申。 中納言に、鎧二領著せ奉り、我が身も鎧二領著て、手を取組で、海へぞ入りにける。 |
1 ほたるのひかり、まどのゆき。 書よむつき日、かさねつつ。 いつしかとしも、すぎのとを、 あけてぞ けさは、わかれゆく。 2 とまるもゆくも、かぎりとて、 かたみにおもう、ちよろずの、 こころのはしを、ひとことに、 さきくとばかり、うたうなり。 3 つくしのきわみ、みちのおく、 うみやまとおく、へだつとも、 そのまごころは、へだてなく、 ひとつにつくせ、くにのため。 4 千島のおくも、おきなわも、 やしまのうちの、まもりなり。 いたらんくにに、いさおしく。 つとめよ わがせ つつがなく。 (『小学唱歌集(初編)』明治14年11月) (注1)当初の題名は「蛍」。原曲はスコットランド民謡「久しき昔」。 Auld lang syne (久しき昔) Should auld acquaintance be forgot, And never brought to mind? Should auld acquaintance be forgot,And days o'auld lang syne. For auld lang syne,my dear,For auld lang syne, We'll tak' a cup o' kindness now, For auld lang syne. (注2)歌詞の作者について (1)当時音楽取り調べ掛かりに関与した稲垣千頴(東京師範学校教員で「蝶々」の作詞者)、 加藤厳夫、里見義などであろう。 (堀内敬三・井上武士 岩波文庫「日本唱歌集」岩波書店(昭和40年12月20日) (2)野村秋足(1819〜1902)愛知県生まれ。愛知県師範学校教員。 1874年(明治七年)、愛知県師範学校校長伊沢修二(後に音楽取調掛長)が、同校の 教員野村秋足に作詞を依頼したのではないか、と推測される。 なお、野村は、尾張地方のわらべ歌を元に小学唱歌「蝶々」を作詞したといわれている。 (石井昭示「唱歌の散歩道」ー日本人の心のふるさとー(2006年12月20日) 清流出版株式会社) (3)「蛍の光」「窓の雪」ー中国出典「晋書車胤伝」 車胤青年は、家が貧しいので、夜書を読む灯火の油がないので、夏は蛍を袋に包み その明かりで勉学に励んだ結果、中央政府の役人に登用される。 孫康青年は、家が貧しいため、冬は窓の雪明かりで書を読み、努力の結果、官庁の 長官に登用された。
(1)藤原公任の撰になる「和漢朗詠集」巻下・餞別の項における第632番歌・大江朝綱の名句。 (2)現代語訳例(川口久雄「講談社学術文庫325・和漢朗詠集全訳注」1994年5月) 「私の前途はまことに遠い旅路で、雁がその門より飛び立つという雁門山にたなびく夕べの 雲を思いやることです。君とこの後、再会することができるのは何時のことになりましょうか。 この鴻臚館の夜明けの別れに、私は冠の紐を涙で濡らしております。」 (3)当時七条朱雀にあった外国人接待迎賓用宿舎鴻臚館から、渤海国使が帰国の途につくとき、 大江朝綱が作文した「鴻臚館に於いて北客に餞する詩序」で、『本朝文粋』に採られている。 (4)大江朝綱(886-957):大江音人(811-877)・江相公大江家家学の祖の孫。 正四位下参議に任じ、備前守。学才に長じ、「新国史」うぃ撰修、書、詩文が巧みであった。 百人一首歌人・大江千里は、叔父さん(父玉渕の弟)にあたる。 (参考)「もみじ葉を風に任せてみるよりも儚きものは命なりけり」(大江千里の辞世句) 和漢朗詠集では、29首も入集している。
「さる程に壇ノ浦の合戦、今は頼みもなかりしかば
新中納言知盛、二位殿に向ひ宣ふやう。今はこれまで候、御痛はしながら行幸を。波の底に なしまゐらせ。一門供奉し申すべしと。
涙を抑へて宣へば、二位殿は聞し召し、心得て候とて、しづしづと立ち給ひ、今はの出立と おぼしくて、白き御袴の、つま高う召されて、神璽を脇に挟み、宝剣を腰にさし、大納言の 局に内侍所を戴かせ、皇居に参り跪き、いかに奏聞申すべし。この國と申すに、逆臣多き 所なり。見えたる波の底に、竜宮と申して、めでたき都の候行幸をなし申さんと、泣く泣く 奏し給へば
さすが恐ろしと思しけるか
竜顔に御涙を浮かめさせ給ひて、東に向はせおはしまし、天照大神に、お暇申させ給ひ、その 後西方にて、御十念も終わらぬに、二位殿歩み寄り玉体を抱き目をふさぎて波の底に入り給ふ。」 (謡曲「碇潜(いかりかづき)より)
平忠度の「さざなみ歌」に関係するメモ書きを引用します。 (1)俊成卿と忠度の平家物語逸話および謡曲「忠度」など (敷島随想第247話) (2)平忠度の人生 (敷島随想第246話)
1157(保元2年) (0歳)平清盛五男として誕生。(母・時子、兄弟・ 重盛、基盛、宗盛、知盛、徳子、など) 1162(応保2年)(6歳)12月23日:従五位下 1163(応保3年)(7歳)正月24日:尾張守(頼盛の後任) 3月29日(改元,長寛元年) 1166(永万2年) 8月27日(改元,仁安元年) (10歳)11月18日:従五位上(中宮・藤原育子御給)12月30日:左馬頭(宗盛の後任) 1168(仁安3年)(12歳)正月6日:正五位下(女御・平滋子御給)8月4日:従四位下 1171(嘉応3年)(15歳)正月6日:従四位上(建春門院御給)4月21日(改元,承安元年) 1172(承安2年)(16歳)2月10日:中宮亮(中宮・平徳子)2月17日:正四位下 1178(治承2年)(22歳)12月15日:春宮亮(東宮・言仁親王)。左馬頭如元。中宮亮を辞任 1179(治承3年)(23歳)正月19日:左近衛権中将 12月14日:左中将を辞任。春宮亮如元 11月、清盛はクーデターを起こして院政を停止する(治承三年の政変)。 後白河法皇への奏上使者。 1180(治承4年)(24歳)正月28日:蔵人頭 2月21日:新帝(安徳天皇)蔵人頭。春宮亮を辞任 5月 以仁王と源頼政が平氏打倒の挙兵(以仁王の挙兵)。 早期に鎮圧されたが、その後も反平氏の挙兵が各地で相次いだ。 8月 源頼朝が伊豆国で挙兵 10月 富士川の戦いで平維盛の追討軍を破り、関東を制圧してした。 さらに後白河と密接につながる園城寺や、関白・基房配流に反発する興福寺も 公然と反平氏活動を始めた。 12月11日 重衡は清盛の命により、園城寺を攻撃し寺を焼き払うと、 12月25日 大軍を率いて南都へ向かった。興福寺衆徒は奈良坂と般若寺に垣楯・逆茂木を 巡らせて迎えうつ。河内方面から侵攻した重衡4万騎は興福寺衆徒の防御陣を 突破し、南都へ迫った。 12月28日 重衡の軍勢は南都へ攻め入って火を放ち、興福寺、東大寺の堂塔伽藍一宇 残さず焼き尽し、多数の僧侶達が焼死した。この時に東大寺大仏も焼け落ちた。 放火は合戦の際の基本的な戦術として行われたものと思われるが、 大仏殿や興福寺まで焼き払うような大規模な延焼は、重衡の予想を上回るもので あったと考えられる。この南都焼討は平氏の悪行の最たるものと非難され、 実行した重衡は南都の衆徒からひどく憎まれた。 1181(治承5年) (25歳)5月26日:左中将に還任。従三位 (非参議) 閏2月4日、清盛は死去する。 3月 墨俣川戦で源行家・義円撃破、源氏の侵攻を止む。 7月14日(改元,養和元年) 1182(養和2年) (26歳)3月8日:但馬権守兼任 5月27日(改元,寿永元年) 1183(寿永2年)(27歳)正月7日:正三位(建礼門院御給) 5月 倶利伽羅峠の戦いで維盛の平氏軍が源義仲に大敗し、 平氏は京の放棄を余儀なくされた。重衡も妻の輔子とともに都落ちした。 重衡は勢力の回復を図る中心武将として活躍。 8月6日:解官 10月 備中国・水島の戦いで足利義清を、 11月 室山の戦いで再び行家をそれぞれ撃破して義仲に打撃を与えた。 1184(寿永3年) (28歳)正月 源氏同士の抗争が起きて義仲は鎌倉の頼朝が派遣した 範頼と義経率いる鎌倉源氏軍によって滅ぼされた。この間に平氏は 摂津国・福原まで進出して京の奪回をうかがうまでに回復していた。 2月 一ノ谷の戦いで平氏は範頼・義経の鎌倉源氏軍に大敗を喫し、敗軍の中、 重衡は馬を射られて捕らえられた。(梶原景季と庄高家、または梶原景時と庄家長) 重衡は京へ護送され土肥実平が囚禁にあたった。後白河法皇は藤原定長を 遣わして重衡の説得にあたるとともに、讃岐国・屋島に本営をおく 平氏の総帥・宗盛に三種の神器と重衡との交換を交渉するが、これは拒絶された。 3月 重衡は梶原景時が護送して鎌倉へ送られ、頼朝と引見した。 頼朝は重衡の器量に感心して厚遇し、妻の北条政子などは重衡をもてなす。 侍女の千手の前を差し出し重衡を慰めるために宴をもうけている。 4月16日(改元、元暦元年) 1185(元暦2年)(29歳)3月 壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡。この際に平氏の女たちは入水したが、 重衡妻輔子は助け上げられ捕虜になる。 6月9日、焼討を憎む南都衆徒の強い要求により、重衡は南都へ引き渡し。 源頼兼護送のもと鎌倉出立。22日東大寺使者に引渡さる。 <第三場ー夫婦の別れ>一行が輔子が住まう日野の近くを通った時に、 重衡が「せめて一目、妻と会いたい」と願って許され、輔子が駆けつけ、 涙ながらの別れの対面をし、重衡が形見にと額にかかる髪を噛み切って渡す。 23日、重衡は木津川畔にて斬首、奈良坂般若寺門前で梟首。享年29。 妻の輔子はうち捨てられていた重衡の遺骸を引き取り、南都大衆から首も もらい受けて荼毘にふし、遺骨を高野山に葬って日野に墓を建てた。 その後、隠棲した建礼門院に仕える。夫婦の間に子は無かった。 「平家物語」灌頂巻・女院大往生 「かくて年月を過させ給ふ程に、女院御心地例ならず渡せ給ひしかば、 中尊の御手の五色の糸を引へつつ「南無西方極楽世界教主阿弥陀如来 必ず引攝し給へ。」とて御念仏有りしかば、大納言佐局阿波内侍左右に 候て、今を限りの悲しさに声も惜しまず泣き叫ぶ。・・・」 8月14日(改元、文治元年) 後日談 *重衡死去3年後、鎌倉の「千手の前」若死。亡き重衡を恋慕して憂死と噂される。 *京都府木津川市木津宮ノ裏の安福寺に重衡の供養塔あり。 *東大寺盧舎那仏像は重源の大勧進にて再建、建久6年(1195年)大仏殿落慶法要挙行。 戦国時代、松永久秀により再度焼亡、現在のものは江戸時代の再建。 人物要約*別名 三位中将 官位 左近衛権中将、蔵人頭、正三位 妻 正室:藤原輔子 主君 二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇、および後白河院 容姿 「なめまかしくきよらか」と牡丹の花に例えらる。 墓所 安福寺、高野山 武将人生*平氏の大将の一人として各地で戦い、南都焼討を行って東大寺大仏や興福寺を焼亡させた。 墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利して活躍するが、一ノ谷の戦いで捕虜になり鎌倉へ護送された。 平氏滅亡後、南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首された。 その将才は「武勇の器量に堪ふる」と評される。 人柄逸話*ちょっとした事でも人のために心遣いをする人物であり、いつも冗談を言い、怖い話で 女房を怖がらせたり、退屈していた高倉天皇をなぐさめるために、強盗のまねごとをして 天皇を笑わせたというエピソードが残されている。 都落ちの際、常に遊んでいた式子内親王の御所に武者姿で別れの挨拶に訪れた際には、 親しんだ女房たちが大勢涙にくれたという。(「建礼門院右京太夫集」ほか) *頼朝との対面で「囚人の身となったからには、あれこれ言う事もない。弓馬に携わる者が、 敵のために捕虜になる事は、決して恥ではない。早く斬罪にされよ」と堂々と答えて 周囲を感歎させた。(『吾妻鏡』など) *千手の前と工藤祐経との遊興では、朗詠を吟じて教養の高さを見せ、その様子を聞いた頼朝が、 立場を憚ってその場に居合わせなかった事をしきりに残念がっている。 辞世の音声 「伝聞く、調達が三逆を作り、八萬蔵の聖教を焼滅したりしも、終には天王如来の記?に 預かり、所作の罪業誠に深しといへども、聖教に値遇せし逆縁朽ちずして却て得道の因となる。 今重衡が逆罪を犯す事、全く寓意の発起に在らず、唯世に随ふ理を存ずる計也。命を保つ者 誰か王命を蔑如する。生を受くる者誰か父の命を背かん。彼といひ是といひ、辞するに所なし。 理非仏陀の照覧にあり。抑罪報たち所に報い、運命唯今を限りとす。後悔千萬悲しんでも 餘りあり。但し三宝の境界は、慈悲を心として、済度の良縁区々也。唯縁楽意、逆即是順、 此文肝に銘ず。一念弥陀仏、即滅無量罪、願わくは逆縁を以て順縁とし、唯今最後の念仏に 依て、九品託生を遂ぐべし。」 (・・・重衡が大罪を犯したことは、前々私の考えて発起したのではない。ただ世間に随うと いう道理を考えただけである。・・・ ・・・王命といい、父命といい、どちらにしても断ることはできない。事の善悪は仏が お見通しである。・・・ ・・・後悔すること限りなく、どんなに悲しんでも悲しみきれない。・・・ ・・・どうぞ願わくは逆縁をもって順縁とし、只今の最後の念仏によって九品の浄土に 生まれられるように」)
(その1)一ノ谷の合戦に於ける囚われの地 神戸市須磨区内、山陽電鉄「須磨寺駅」北口に隣接して「重衡とらわれの遺蹟」の石碑が 建立されている。 捕らえられた重衡が松の下で、無念の涙を流していると、村人が濁り酒を勧めてくれたので、 「ささほろや なみここもとを うちすぎて すまでのむこの濁りさけなれ」 と詠んだと一首まで、語り継がれている。重衡の優しき人柄を伝えるたとえ話か。
(その2)木津川の右岸にある「重衡供養塔」 (敷島随想・第246番) 奈良東大寺によって処刑された河原の場所から近い「安福寺」に供養塔がある。
(その3)日野薬師(法界寺)近くの「重衡卿墓」 重衡北の方大納言佐局が壇ノ浦の入水から戻され、身を寄せていたところ。一ノ谷の合戦で とらわれの身になり、鎌倉から奈良へ護送される夫重衡と今生の別れを交わしたところとされる。 木津川河岸で処刑された重衡の遺骸は引き取られ、火葬後、当地に埋葬されたという。