平成社会の探索


ー第91回知恵の会資料ー平成22年2月7日ー

<「知恵の会」への「知恵袋」>


(その36)課題「こま(狛)」
「徒然草の狛犬」
ーーーーー  目     次  ーーーーー
1.徒然草の「獅子と狛犬」  2.丹波・出雲大神宮の獅子・狛犬 3.鎌倉時代の木製狛犬
ーーーーー  参考メモ  ーーーーーー
(その1)古典の中の「獅子と狛犬」 (その2)「獅子と狛犬」の区分 (その3)吉田神社の狛犬
ーーーーー 餘  韻 ーーーーーー
  (その1)「唐獅子図」と狩野永徳 (その2)吉田神社

<1.徒然草の「獅子と狛犬」>

 吉田兼好の「徒然草」(参考メモ・その1参照)の中に、丹波国一宮「出雲大神宮」(次項参考方)の
「御前の獅子・狛犬」が言及されています。また清少納言の「枕草子」(参考メモ・その1参照)でも
「さほうししこまいぬ」と記されており、さらに「栄華物語」や「禁秘抄」などにも「獅子・狛犬」が
言及されています。
 現在では本殿や拝殿の前庭に据えられている一対の「神使」は、「ししこまいぬ」と言わず、単に「狛犬」と
呼んでいます。(「獅子と狛犬」については(参考メモ・その2)参照方。)
 
 さて、兼好法師が言及した「獅子・狛犬」は、如何なる形態の置物だったのでしょうか。現在一般に神社の
境内で見かけるような石造「狛犬」の類だったのでしょうか。
 参考資料(ねずてつや「狛犬学事始」(株)ナカニシヤ出版・1994年7月)に随って推測してみましょう。
 「・・・「徒然草」の狛犬は、・・・神殿の階の上に置かれた木の狛犬であったと考えればいいのだ。
  神殿の狛犬だから、社務所からも見えにくく、子供達もいたづらしやすかったのだ。木の狛犬をそれぞれ
  後ろ向きにしておく。神殿の真ん中を拝んでいる人々は気がつかない。神殿をワイドに観察した聖海上人は
  発見する。・・・神官を呼びに行く・・・神官が神殿に「さしよりて」狛犬を簡単に元に戻すのだ。・・・」

 その昔初めて徒然草のこの部分を読んで、「重い石造の狛犬を子供がどうして動かすことが出来たのか?」と
思っていた(読者であった比留根太郎氏の抱いていた)疑問が、この解説文を読んで
「目から鱗が落ちる」思いがしたものでした。それまでの解説書によると、当該徒然草第236段での
「獅子・狛犬」についての一般的解説は次のようになっていたからです。

*昭和初期:「神社の前に獅子の像と(向かって左に)狛犬(高麗の犬の意)の像と(向かって右に)が、
  相対して立ててあるならわしである。」
  文学士内海弘蔵著「徒然草評釈」(明治書院)(昭和二年三月)
*昭和30年代:「神社の神殿または鳥居の両側に立ててある石または金属で造った獣形の置物。
  左がシシで口をあけ、右がコマイヌで口をとじる。」
  橘純一・慶野正次「詳説徒然草の語釈と文法」武蔵野書院(昭和33年3月)
*昭和50年代:「石または木で造った獅子と狛犬(高麗の犬)。悪霊を避ける力があると考えられた。」
  小学館「新編・日本古典文学全集・27」(昭和54年4月)

  獅子・狛犬という一対の獣形の置物を見比べますと、よく似通った形態をしています。
 「獅子」の代表的美術作品としては、狩野永徳筆「唐獅子図」(餘韻その1・参照方)が
思い浮かべます。永徳は40歳の天正10年(1582)年頃織田信長に献上したと
されています。狛犬の形態と変わるところはないように見られます。

<2.丹波・出雲大神宮の獅子・狛犬>

 吉田兼好が徒然草の第236段で記した「丹波に出雲と云ふ処あり」の「出雲」とはこの神社のこと。
  (亀岡市下矢田町にある出雲大社教の出雲大社京都分院や島根県の出雲大社とは別法人の神社。)
  出雲大社との関係は深かったようで、境内に建つ「国幣中社 出雲神社」の社名標は出雲大社の元・宮司で
出雲大社教の創始者であり、唱歌「一月一日」の作詞者でもある千家尊福の筆によるとのこと。
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 所在地 京都府亀岡市千歳町千歳出雲無番地 
 社格  式内社(名神大社)、丹波国一宮。旧社格は国幣中社で、第二次世界大戦後は
        神社本庁などの包括宗教法人に属さない単立神社。旧称は出雲神社。
        「元出雲」の通称があり、背後の「千年山」という神体山より「千年宮」とも呼ばれる。
         いわゆる出雲大社は明治時代に至るまで「杵築大社」を称していたため、江戸時代末までは、
         出雲神社と言えばこの現・出雲大神宮を指していた。
  祭神 大国主命と三穂津姫尊(みほつひめのみこと)を主祭神とし、天津彦根命・天夷鳥命を配祀。
     大国主命については、出雲国の出雲大社(杵築大社)から勧請したとされるが、逆に出雲大社の
     方が当社より勧請を受けたものとする説もあり、俗に「元出雲」とも呼ばれる。
  歴史 創建年代は不詳、社伝では和銅2年(709年)10月21日に社殿を建立したと伝える。
     国史の初見は『日本紀略』の弘仁8年(818年)12月16日条「丹波国桑田郡出雲社、名神に預る」と
     あり、この時すでに有力な神社になっていた。
     延喜式神名帳では名神大社に列している。正応5年(1292年)には神階が最高位の正一位まで昇った。
     明治4年(1871年)5月14日には国幣中社に列せられた。
  社殿  本殿は三間社流造で、現在の社殿は足利尊氏によって貞和元年(1345年)に改修されたものと伝え、
     国の重要文化財に指定されている。かつては36社の摂末社を有していたが、兵火により失われ、
     現在は上の社、黒太夫社、笑殿社、春日社、稲荷社、崇神天皇社の6社がある。
  祭礼  10月21日 例祭 
  重要文化財ー本殿、木造男神坐像 2躯(附木造男神坐像 1躯) 
                         (インターネット情報 Wikipediaより)
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 さて、当社本殿への参道脇には、一般の神社に見られると同じような獅子・狛犬像があります。
 現在「出雲神社」では、
 「・・・なお、現在の「出雲神社」の神殿には、残念ながらいたづら出来る場所に木の狛犬はない。参道には
  石の狛犬がいるが、大正三年に設置されたもので、阿像の体長が六八センチであった。・・・」
  (出典:ねずてつや「狛犬学事始」(株)ナカニシヤ出版・1994年7月)
となっています。


現在の参道脇の「獅子・狛犬」像
 
  さらに本殿前に進みますと、神殿への階上の左右に像高およそ50cmぐらいはあると思われる
木製の獅子・狛犬一対が据えられています。
 「さては兼好法師の言及したかの獅子・狛犬か?」と社務所に問い合わせますと、
 「当時の物とは異なります。約300年前のものと伝えられております。」
との事で、江戸時代初期のものということになりました。(平成21年12月29日)


本殿前の「獅子・狛犬」像

<3.鎌倉時代の獅子・狛犬>

 吉田兼好(1283?〜1352?)が「徒然草」(1331年成立)に記した
かの出雲大神宮の獅子・狛犬と同時代のものが現在拝観できないのでしょうか。
鎌倉時代末期から南北朝時代の神社に伝承されている木製の狛犬を探索する必要があります。
上述の狩野永徳の絵画からでも遡ること約300年、兼好法師の頃の現存する小造り
木製「獅子・狛犬」を参考資料から平安時代・鎌倉時代別に引き出してみます。
 
ーーーーーーーーーーーー <平安時代の木製の狛犬> ーーーーーーーーーーーーーーーー
No  神社名      獅子・狛犬    色彩    像高(吽形)(cm)      
 1.石川県・白山比盗_社 獅子狛犬一対 (彩色)   85.9
 2.滋賀県・御上神社   狛犬一対   (彩色・漆箔)67.7
 3.京都府・藤森神社   狛犬一対   (彩色)   71.8
                            (修理墨書銘 徳治二年・1307年)
 4.奈良県・薬師寺    狛犬一対   (彩色)   52.1
 5.広島県・厳島神社   狛犬14躯  (彩色・漆箔)21.2〜60.4
 6.香川県・水主神社   狛犬一対   (素地)   87.2
ーーーーーーーーーーーー <鎌倉時代の木製の狛犬> ーーーーーーーーーーーーーーーー
No  神社名      獅子・狛犬    色彩    像高(吽形)(cm)
 7。東京都・個人蔵    狛犬一躯   (彩色)   61.5
 8。東京都・大国魂神社  狛犬一対   (漆箔)   72.1
 9。石川県・白山比盗_社 狛犬一対   (漆箔)   95.4 鎌倉後期・南北朝時代
10.滋賀県・白鬚神社   狛犬一対   (彩色)   48.0
11.滋賀県・大宝神社   狛犬一対   (彩色・漆箔)46.7
12.京都府・八坂神社   狛犬一対   (漆箔・玉眼)68.8
13.京都府・高山寺    狛犬一対   (彩色)   30.0
14。京都府・高山寺    狛犬三対   (彩色)   26.4〜27.3 
                            (嘉禄元年・1225年仏師湛慶作。)
15.兵庫県・高売布神社  狛犬一対   (彩色)   63.0 永仁五年・1297年
16.奈良県・手向山八幡宮 狛犬一躯   (彩色・漆箔)93.2
17。和歌山県・丹生都比売神社 狛犬二対 (彩色・漆箔)91.5〜91.7
18。広島県・御調八幡宮  狛犬一対   (彩色)   79.8
19。岡山県・吉備津神社  狛犬三躯   (漆箔)   79.4〜80.6 室町初期
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
              (注)参考冊子:上杉千郷「狛犬事典」戎光祥出版(2002年3月)

以上の中から、代表的な狛犬像を以下に添付します。

平安時代の獅子・狛犬像例(No2)(左:滋賀県・御上神社蔵)(No3)(右:京都府・藤森神社蔵)

平安時代の獅子・狛犬像例(No4)(左:奈良県・薬師寺蔵)(No5)(右:広島県・厳島神社蔵)

鎌倉時代の獅子・狛犬像例(No9)(左:石川県・白山比盗_社蔵)(No11)(右:滋賀県・大宝神社蔵)

鎌倉時代の獅子・狛犬像例(No12)(左:京都府・八坂神社蔵)(No13)(右:京都府・高山寺蔵)
<平安時代の獅子狛犬像>
 No2の御上神社像以外の3対はどことなく似通っているように思います。共通して狼風の体形になっている
のではないでしょうか。
<鎌倉時代の獅子・狛犬像>
 平安時代の像群が狼風であったのに対して、鎌倉時代の獅子・狛犬像は現在一般に神社境内で見かける
獅子風にちかいのではないでしょうか。

 さて、兼好法師「徒然草」での獅子・狛犬を想像してみるに、
 鎌倉時代の獅子・狛犬像例(No9)(石川県・白山比盗_社蔵)は像高が1メートル近くあり、巨像であり、
一方、鎌倉時代の獅子・狛犬像例(No13)(左:京都府・高山寺蔵)では、像高が30cm近くで
神殿の脇では剰り目立ちませんから、鎌倉時代の獅子・狛犬像例(No11)(右:滋賀県・大宝神社蔵)あるいは
(No12)(左:京都府・八坂神社蔵)が丁度ほどよい大きさであり、この程度の木造獅子・狛犬像であれば
少年のいたづらが出来るのではないでしょうか。

<(参考メモ・その1)古典の中の「獅子と狛犬」>

(その1)「徒然草」の「獅子と狛犬」
<第236段>
丹波に出雲といふ所あり。大社を移して、めでたく造れり。しだのなにがしとかやしる所なりければ、
秋の比、聖海上人、その外も、人数多さそひて、「いざ給へ、出雲拝みに。かひもちひ召させん」とて、
具しもて行きたるに、各拝みて、ゆゆしく信おこしたり。

御前なる獅子・狛犬、背きて、後さまに立ちたりければ、

上人いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ちよう、
いとめづらし。深き故あらん」と涙ぐみて「いかに殿原、殊勝の事は御覧じとがめずや。無下なり」と
言へば、各怪しみて、「誠に他にことなりけり。都のつとに語らん」など言ふに、上人なほゆかしがりて、
おとなしく物知りぬべき顔したる神官を呼びて、
「この御社の獅子の立てられよう、定めて習ひあることに侍らん。ちと承らばや」
と言はれければ、「その事に候ふ。さがなき童どもの仕りける。奇怪に候ふことなり」とて、
さし寄りて、据ゑなほして往きにければ、上人の感涙いたづらになりにけり。
(出典:新編日本古典文学全集「徒然草」小学館)

(その2)「枕草子」の「獅子と狛犬」
「枕草子」では、二段(第208段(または212段)・第262段(または267段))に言及されています。
<第208段>見物は臨時の祭。
・・・還らせたまふ御輿の先に、獅子、狛犬など舞ひ、あはれ、さる事のあらむ、郭公(ほととぎす)うち鳴き、
ころのほどさへ似るものなかりけむかし。・・・
 (帝が還御になる御輿の先に、獅子や狛犬に扮した舞人が舞い、ああ思えば、そんな情景に、折しも
  ほととぎすが鳴いて過ぎー、季節から言っても比較する物もない盛儀であったことであろうよ。)
<第267段>関白殿、二月二十一日に、
・・・つとめて、日のうららかにさし出でたるほどに起きたれば、白う新しう、をかしげに造りたるに、
御簾よりはじめて、昨日かけたるなめり、御しつらひ、獅子、狛犬など、いつのほどにか入り居けむとぞ、
をかしき。・・・
 (翌朝、日のうららかにさし出たころに起きてみると、まだ木の香りも新しく、凝った造りである上に、
  御簾をはじめとして、昨日新しくかけた物と見えて、御座所の様子も、御帳台の左右の獅子、狛犬の
  置物など、いつの間に入り込んで座ったのだろうと、おもしろい。)

(左)清涼殿御帳台の獅子狛犬(右)紫宸殿の障子絵
(参考冊子:上杉千郷「狛犬事典」戎光祥出版(2002年3月))

<(参考メモ・その2)獅子と狛犬>

各種解説資料による「獅子と狛犬」

*(イ)狛犬の原型は、エジプト・ペルシャ・インドなどの神殿や門前に置く獅子形による。
 (ロ)中国で唐風獅子となり、日本で狛犬が生まれた。朝鮮半島の高麗(こま)より
    外来の犬の意味。
 (ハ)左右一対にして「獅子狛犬」と呼ばれ、「獅子」も「狛犬」も名称の変化に過ぎない。
    一対は雌雄とは限らない。角を持つ物もある。「開口」「閉口」の阿吽とする。
 (ニ)神殿の縁側や社寺の前庭に置かれる「守護神」。
 (ホ)木造(神殿上)・石造(野外据付け)・金属製・陶製など各種あり。
   (@)木製狛犬(唐形式獅子が和風化された物で、日本の狛犬の基本形となる)
     (*)奈良市薬師寺ー康治元年(1142)平安時代後期(重要文化財)
     (*)栗東町大宝神社ー鎌倉時代初期(重要文化財)
     (*)三田市高売布神社ー永仁五年(1297)(重要文化財)
   (A)石造狛犬(唐獅子が和風化された物)
     (*)宮津市籠神社ー鎌倉時代末期(重要文化財)
     (*)都祁村水分神社ー南北朝時代
   (B)石造狛犬(宋風渡来系)   
     (*)奈良市東大寺南大門ー鎌倉期・建久七年(1196)頃(重要文化財)
        宋人石工4人が大唐から石材を取り寄せ石獅子他を彫ったという。
     (*)福岡県宗像神社ー鎌倉期・建仁元年(1201)頃(重要文化財)
        南宋からの舶来品。藤原友房が奉納。像高:阿形47.3cm・吽形47.3cm
     (*)太宰府市観世音寺ー鎌倉時代(重要文化財)
        像高:阿形60.6cm・吽形62.1cm
     (*)京都鞍馬由岐神社ー鎌倉期・建仁年間(重要文化財)
  (出典:川勝政太郎「石造狛犬の系列」ー「国史大事典6」吉川弘文館(平成9年9月))

*「古代インドで、仏像の両脇にライオンの像を置いたのが狛犬の起源とされ、古代エジプトや
  メソポタミアでの神域を守るライオンの像もその源流とされる。日本には仏教とともに
  中国から朝鮮半島を経て入ってきたために、当時ライオンが生息せず高麗(こま)犬という
  字が当てられ、のちに狛犬に転じたと言う説もあるが、信憑性は薄い。
  一般的には、向かって右側の像は「阿形(あぎょう)」で、角はなく口は開いている。
  向かって左側の像は「吽形(うんぎょう)」で、1本の角があり口を閉じている。両方の像を
  合わせて「狛犬」と称することが多いが、厳密には、角のない方の像を「獅子」、
  角のある方の像を「狛犬」と言い、一対で「獅子狛犬」と称するのが正しいとされている。
   寺社での狛犬には石製や銅製のものが多いが、神社本殿内に置かれたものには木造の場合もある。
   古くは延喜式神名帳巻第46の左右衛門府に、「大儀日にじ像を会員門左に置き終了時に本府に
  返却する。右府は右に置く」と記述されるように平安時代にさかのぼり、当時の狛犬としては、
  奈良・薬師寺の鎮守八幡宮の木像(重要文化財)が著名で、重要文化財指定の狛犬は、
  滋賀・大宝神社、京都・高山寺、広島・厳島神社などのものが著名。
   (インターネット情報・Wikipediaより)

*「左獅子 於色黄 口開   右胡麻犬 於色白 不開口 在角」
  (出典:「類聚雑要抄」(大治年間・1126〜30の歴史資料)

*「御帳ノ前ノ下ニ左右ニ獅子狛犬有」ー清涼殿 「師子コマ犬、御帳ノ外ニアリ」ー紫宸殿
   (上杉千郷「狛犬事典」戎光祥出版(2002年3月)引用の「禁秘御抄」より)

*官制時代の内務省の官国幣社狛犬制作基準
 「獅子は開口にして金箔を押し、毛髪には緑青を塗り、金の毛描を施し、
  狛犬は閉口にして銀箔を押し、毛髪には群青を塗り、銀の毛描をほどこす。
  いずれも州浜型の台に据う。」
   (上杉千郷「狛犬事典」戒光祥出版(2002年3月))

*「獅子」:ライオン、唐獅子、左右の狛犬の内、左の口を開いた方、獅子頭、舞楽の一種。
 「狛犬」:高麗犬、神社の社頭や社殿の前に据え置かれる一対の獅子に似た獣の像。
      魔除けのためと言い、昔は宮中の門扉・几帳・屏風などの揺れ止め用具。
  新村出「広辞苑」岩波書店(昭和35年3月)

<参考メモ・その3 吉田神社の獅子・狛犬>

 吉田兼好縁りの吉田神社(餘韻・その2参照方)境内の獅子・狛犬を拝見いたしましょう。

 (その1)本宮の四社の神殿の階前に獅子・狛犬が鎮座。その様子は、出雲大神宮の本殿に据えられて
      いた獅子・狛犬像同様に、正に「徒然草」の狛犬談を想像させるに足る置物になっています。

 (その2)表参道左脇の「今宮社」前、あるいは、本宮と大元宮との間の「菓祖神社」前の狛犬一対は
      通常よく見かける石造のもの。

(左)「今宮社」前の狛犬一対および(右)「菓祖神社」前の狛犬一対

<(餘韻・その1)「唐獅子図」と狩野永徳>

 狩野永徳筆「唐獅子図屏風」六曲一隻は、16世紀後半(天正10年・1582年頃)秀吉から輝元へ
和睦の験に送られたとも、あるいは秀吉の聚楽第の為に描かれたともいう。
 雌雄一対の唐獅子が岩山を進む様は威風堂々としていて、阿吽の形を為しているようにも見える。
 また先行する獅子(雄か)が後ろの獅子(雌か)を見返っているようにみえるが、実は、中央の三曲目で
山折りされるため、屏風前の鑑賞者には両獅子とも正面を見るようになっていると解釈する事もできる。
 一匹の獅子の大きさは、高さ1mで長さが2m近くなる巨像のため、当時の寺社に見られた「獅子狛犬」の
如何なる石造群よりも、当該絵画の威圧感はそれらを上回るのではないでしょうか。
 狩野永徳は実際に獅子(ライオン)を見たことがない(注)ようだが、想像の神獣としての
唐獅子を描き出せる画才はさすがといえる。
 (注)ライオンの日本への渡来は慶応二年(1866)正月、江戸芝白金清正公廟門前空き地に雌獅子一頭を
    見せ物にした。(上野益之「日本博物学史」)

狩野永徳筆「唐獅子図屏風」六曲一隻 紙本金地着色 224.2x453.4cm
宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 永徳の孫探幽が画面右下に紙中極め「狩野永徳法印筆」と記した。
毛利家に伝来し明治天皇に献上されたもの。毛利攻め秀吉陣屋屏風として用いられていたが、
信長暗殺の報に急遽京へ引き返す必要上、毛利との和睦の験に輝元に届けたという。
<狩野永徳と狩野派の画師系譜>
室町時代中期(15世紀)室町幕府御用絵師となった狩野正信に始まり、以降、元信ー松栄(直信)
ー永徳(州信)と続き、時の権力者である織田信長ー豊臣秀吉ー徳川将軍と結びついた日本絵画史上最大の
画家の家筋で、さらに京狩野派・山楽、光信ー貞信・江戸狩野派(中橋狩野家)、あるいは孝信ー
探幽(鍛冶橋狩野家)と江戸時代末期(19世紀)まで、約400年にわたって活動し常に画壇の
中心的専門画家集団であった。彼らの絵画活動分野は内裏・城郭・大寺院などの障壁画から扇面の小作品まで
いろいろの分野の絵画に活躍した職業集団であった。

<(餘韻・その2)吉田神社>

(1)吉田神社
    京都市左京区吉田神楽岡町の吉田山にある神社。
    祭神 春日神・建御賀豆智命(たけみかづちのみこと)、伊波比主命(いわいぬしのみこと)、
     天之子八根命(あまのこやねのみこと)、比売神(ひめのかみ)
  由緒 貞観元年(859年)、藤原山蔭が一門の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請した。
     後に平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受ける。延喜式神名帳への記載はない
     (式外社)が、永延元年(987年)より朝廷の公祭に預かるようになり、正暦2年(991年)
     二十二社の前身である十九社奉幣に加列された。鎌倉時代以降は、卜部氏(後の吉田氏)が
     神職を相伝するようになった。室町時代末期の文明年間(1469年 - 1487年)には吉田兼倶が
     吉田神道(唯一神道)を創始し、その拠点として1484年、境内に末社・斎場所大元宮を建立した。
     近世始めには吉田兼見が、かつて律令制時代の神祇官に祀られていた八神殿(現在はない)を
     境内の斎場に移し、これを神祇官代とした。
     吉田家は全国の神社の神職の任免権などを持ち、明治になるまで神道界に大きな権威を持っていた。
   祭事 節分大祭・2月2-4日の節分大祭が有名。
  その他 京都大学吉田キャンパスに隣接している。京大志望の受験生が吉田神社に合格祈願に行くと
      必ず落ちるという都市伝説が定着している。
  (インターネット情報・WIKIPEDIAより)

(2)吉田兼好(1283?〜1352?)
   本姓卜部、俗名兼好(かねよし)。鎌倉時代末期〜南北朝の歌人・文人。
   京都吉田神社神職の家に兼顕の子として生まれ、後宇多上皇の北面の武士となったが、上皇没後
   出家して諸国遍歴の後、京都双岡に閑居した。二条派歌人として名声があり、頓阿・慶雲・浄弁と
   和歌四天王と称され、仏教・儒教・老荘思想・有職故実に通じていた。
    (出典:金田一春彦他「ビジュアル大事典・新世紀」学習研究社)


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平成21年12月31日   *** 編集責任・奈華仁志 ***

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