平成社会の探索


ー第90回知恵の会資料ー平成21年12月20日ー

<「知恵の会」への「知恵袋」>


(その34)課題「まい(舞)」
「僧正の節会舞」
ーーーーー  目     次  ーーーーー
1.「天つ風」の百人一首歌 2.節会と五節の舞 3.舞楽殿 4.舞姫絵図
ーーーーー  参考メモ  ーーーーーー
(その1)百人一首歌の解釈事項 (その2)僧正遍昭歌碑
(その3)良岑宗貞・僧正遍昭 (その4)宝塚の舞姫「天津乙女」

<1.「天つ風」の百人一首歌>

 百人一首第12番歌の僧正遍昭の作品は、次の古今和歌集の一首です。
  ー五節の舞姫をみてよめる
「あまつ風雲のかよひぢ吹きとぢよ乙女の姿しばしとどめむ」(古今集・巻17・雑上・872)
   (天空を吹き渡る風よ、雲をたくさん吹き寄せて、天上の通り路を塞いでしまっておくれ。
    天女の美しい姿を、もうしばらく引き留めたい。
    舞姫たちが退出する道を閉ざしてしまってくれ。もう少しその姿を見ていたい」

 「五節」とは、宮中行事の一つで、十一月中頃行われる「豊明節会」という舞の公事の事です。宮中に於いて
新嘗祭の翌日、天皇が舞楽殿で新穀を召し、諸臣にも賜り、賜宴の後、舞楽や賜禄あるいは叙位などの儀が
行なわれたものです。
 もともと「五節」とは、遅・速・本・末・中声の五声の節のこと(広辞苑)(2.項(参考メモ)参照方)。
そういえば下鴨神社で平安遷都千二百年祝祭定期刊行バスツアーで、見物した「平安貴族舞」の節は、この五節の
「緩く、早く、太く、細く、音に節をつけて奏されていた」ようで、ゆったりした宮中雅楽には聞えていても、
そこには五節があるわけです。平安貴族の物事は全てゆったりした運び方であることの理由の一つには、優雅な
仕草以外に、想像するところ、人々の服装や衣装の問題も併せて考えざるをえないと思います。
 「平安貴族舞」の解説によれば、小うちかけ姿や十二単衣は重さが十二キログラム程度有り、自分自身の体重の
四分の一から五分の一程度にもなるわけで、纏っているだけで肩が凝るような重量物です。これで闊達な動きの舞を
舞うとなると、大変な労力が要りますから、どうしても緩やかな動きの舞に成らざるをえないのではないでしょうか。

  表向きの歌の解釈は上述のようになるのが一般的ですが、僧正遍昭の詠んだ歌は、なかなか意味深長なもの
(参考メモ・その3)が多いようです。
 当該「天津乙女」歌の評論(吉海直人「百人一首の新考察」世界思想社(1993年9月))の一例として、
(1)大げさな見立ての技法(「あまつ風」とか「雲の通ひ路」)には若き作者の弾むような気持ちが看取される。
(2)天女の舞を惜しむ背後には、しばしもとどめえぬ時間という悟りの観念を読み取る事も可能。
(3)華麗な宮廷生活の懐古・回想(家郷隆文「百人一首・隠された主題」桜楓社)、五節舞姫の天武天皇起源説を
   提示している(古注)などから、壬申の乱(672年)も透視できる。
などを提言されている中で、(2)および(3)項に関心が行きます。これに具体的に展開すると、
「親しくお仕えしたご親戚の仁明天皇(後述系譜参照)とのこの世での関わりを暗示している」のでは
と思いたいところです。
 略歴に示すように、仁明天皇に蔵人としてわずかに一年あまりのお仕えで、あの世へお送りしなければならなかったし、
自身もそれを契機に出家の道へと歩むことになります。天女の舞に見立てた「節会の舞姫の舞台」とは、実は
「仁明天皇の御代の弥栄の世界」を喩えたもので、「はやばやとこの世を去らないでください」、という
不確実な将来の不安を詠んだのではないか、ということです。仁明天皇とのお別れは、歌を実際に詠んだ青年時代からは、
かなり後の世のことになるようですが、若い時になんとなく後々の事を感じたのではないか、という「深読みの解釈」です。

<2.節会と五節の舞>

(1)節会(せちえ)日本の宮廷で節日(祝の日)・大嘗祭や新嘗祭に天皇のもとに群臣を集めて行われる
      豊明節会(とよあかりのせちえ)で、大歌所の別当が歌う大歌にて舞われ、饗宴を伴う。
      (イ)主な種類  奈良時代以前(律令制下)から続いたもの。
          元日節会(正月一日)白馬節会(正月七日) 踏歌節会(正月十六日)上巳節会(三月三日) 
          端午節会(五月五日)相撲節会(七月七日、のち七月下旬)重陽節会(九月九日)
          豊明節会(十一月新嘗祭翌日の辰の日) 釈奠 盂蘭盆 
      (ロ)五節会  平安時代ー元日、白馬、踏歌、端午、豊明が五節会として、特に重んじられた。
         江戸時代ー人日(一月七日)、上巳、端午、七夕、重陽を幕府が式日として定め、五節句として重視した。
                              (インターネット情報・WIKIPEDIAより)
        (参考メモ)最近の大嘗祭(昭和の大嘗祭と大饗)(「皇室事典」角川学芸出版・平成21年4月)
         昭和3年11月(1928)11月16日、天皇の勅語に続いて、首相と在日外国大使代表の
         奉対文が奏上され、その後、中央舞台で「久米舞」、悠基および主基地方の「風俗舞」、続いて
         舞姫(旧堂上公家の令嬢)による「五節舞」が披露された。
         *堂上家(とうしょうけ):攝家、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家など、藤原・源・平・清原・
          菅原各氏族より別れた家々の計65家。
      (参考メモ)五節とは(「日本音楽大事典」平凡社・1989年3月)
         「袖を五度翻すこと」または「五節声」(遅・速・本・末・中声) 
(2)舞姫 4〜5人の舞姫による舞(大嘗祭では5人)。舞姫は、公卿の娘2人、受領・殿上人の娘2人という風に選ばれ、
      選ばれた家は名誉であった。(女御が選ばれることもあった)
(3)予行 選ばれた舞姫は練習に明け暮れ、直に、
      (イ)新嘗祭の前々日・丑の日の夜に宮中へ参上
               ー「帳台試(ちょうだいのこころみ)」:常寧殿にて天皇に練習を披露、
      (ロ)前日の寅の日ー「御前試(おんまえのこころみ)」:清涼殿にて天皇に練習を披露。
      (ハ)当日の卯の日ー「童女御覧(わらわごらん)」:舞姫に付き従う童女を清涼殿にて天皇が御覧になる。
(4)歴史 天武天皇の時代、吉野に天女が現れて舞ったとの伝説に依拠している。五度、袖を振って舞う。袖を振るのは
      呪術的であり、新嘗祭の前日に行われる鎮魂祭とも同じ意味があると考えられる。
(5)中国故事 『春秋左氏伝』昭公元年条に「先王之楽、所以節百時也、故有五節。遅速、本末以相及。」とあり、
      これを晋の杜預が「五節=五声」として先王が5つの音調を用いて楽を作って民衆を教化したと解している。
      天武天皇は大陸の礼楽思想を取り入れる意図をもって五節舞を考案したとする。
      (なお、聖武天皇が元正上皇のために阿倍内親王(孝謙天皇)に五節舞を舞わせた際に、
       天皇が上皇に対して「天武天皇が天下統治のために礼と楽を整備するために五節舞を考え出された」と
       述べている(『続日本紀』天平15年5月辛丑条))。(インターネット情報・WIKIPEDIAより)

<3.豊楽殿>

 平安宮大内裏において朝廷の饗宴に用いられた施設で、豊楽(ぶらく)とは和訓「とよのあかり」で宴会のこと。
 豊楽院はその名の通り、饗宴施設として平安京遷都直後、延暦14年完成した大内裏正庁・朝堂院の大極殿の西に、
延暦18年、造営された建物。東西46メートル、南北23メートル、で、唐風大建造物屋根の両端には、緑釉の鴟尾が、
載せられた。
 四方を築地で囲まれ、南に正門である豊楽門を構えていた。新嘗祭、大嘗祭の宴のほか、正月慶賀、節会(せちえ)、
射礼(じゃらい)、饗応などが行われ、正殿である豊楽殿には天皇列席の際に高御座(たかみくら)が置かれた。
 朝廷の機能が徐々に内裏(天皇の私的住居)へ移行するに従って、朝廷の饗宴は紫宸殿で行われるにつれて、活用の
度合いは低くくなっていった。10世紀には廃墟同然のさまであったといわれ、1063年(康平6年)に全焼したのち、
再建されることはなかったとされる。
 1987年から1988年にかけての発掘調査により、豊楽殿の遺構と遺物が発見され、平成2年2月に国の史跡と
重要文化財に指定された。 (インターネット情報・WIKIPEDIAより)


(右)七本松・丸太町通り付近(左)「豊楽殿跡」地図


「豊楽殿跡」発掘現地と石碑

<4.舞姫絵図>




<(参考メモ・その1)百人一首歌語の解説>

◇当該百人一首歌の古今和歌集での作者名は「よしみねのむねさだ」、遍昭の出家以前の作品。
   ◇五節(ごせち) 新嘗祭の翌日(十一月の中の辰の日)、豊明(とよのあかり)の節会に際して舞われた少女楽。
          公卿・国司の娘より美しい少女を四、五名選んで舞姫に召した。
          天武天皇の創始と伝わり、吉野行幸の際、天皇が琴を弾くと「高唐神女」の如き「雲気」が髣髴として
          曲に応じて舞い、天皇にだけそれが見えた。袖を五回挙げるので五節の名がついた(『年中行事秘抄』など)。
          現在この舞楽は大嘗祭においてのみ行なわれている。
  ◇あまつ風   天つ風。天空を吹き渡る風。乙女が舞う宮廷の庭を天上になぞらえているために、
          そこを吹く風を「天つ風」と言っているのである。◇雲のかよひぢ 天空の通り路。
          「殿上をば雲の上と云へば、そのおりのぼる道を雲のかよひぢとは云也」(『顕註密勘抄』)。
          雲や月、鳥など、空を往き来するものが通ると想定した、天上の道を「雲の通ひ路」と言う。
          宮廷を天上に喩えているので、舞姫の出入りする道が「雲の通ひ路」と見なされるのである。
  ◇吹きとぢよ 「天つ風」に対し、「雲をたくさん吹き寄せて、天の通り道を塞いで」と願っている。
  ◇乙女     五節の舞姫のこと。五節の時に歌われる「天人の歌」、
          「乙女子が 乙女さびすも からたまを 乙女さびすも そのからたまを」に由る。

◇関連歌 乙女子が雲のかよひぢ空はれて豊のあかりも光そへけり    (藤原俊成[玉葉])
     天つ風氷をわたる冬の夜の乙女の袖をみがく月影      (式子内親王)
     あまつ風さはりし雲は吹きとぢつ乙女のすがた花ににほひて (藤原定家)
     しろたへのあまの羽衣つらねきて乙女まちとる雲の通路   (〃)
     ふかき夜にをとめのすがた風とぢて雲路にみてる万代の声  (〃)
     天つ風をとめの袖にさゆる夜は思ひ出でても寝られざりけり (〃)
     天つ風雲井の空を吹くからに乙女の袖に宿る月かげ     (後鳥羽院)
     忘れめや雲のかよひぢ立ちかへり乙女の袖を月に見し夜は  (〃[続古今])
     天津空雲の通ひ路それならぬ乙女の姿いつか待ち見む    (八条院高倉[新勅撰])
     天津袖ふるしら雪に乙女子が雲のかよひぢ花ぞ散りかふ   (藤原家隆[新後撰])
     月のゆく雲のかよひぢかはれども乙女のすがた忘れしもせず (西園寺公経[続後撰])
     天津風雲吹きとづな乙女子が袖ふる山の秋の月影      (津守国夏[続千載])

◇狂歌に江戸川柳のパロディ群
  「吹き閉ぢよ乙女の姿しばしとはまだ未練なる宗貞の主」(太田蜀山人)
  「秋の風雲の通い路吹きとぢよ七夕様をどうぞま一夜」(永田貞柳)
  「旦那風質屋の通ひ路吹きとぢよこぶくめの姿しばしとどめむ」僧正貧僧
  「天津風苦もなく藝をしこなしてお見物人しばしとどめむ」古今四場居百人一首

  「乙女とどめて遍昭はなんの用」「留めたは乙女落ちたは女郎花」
  「百人首落馬した出家をも入れ」「落馬にも懲りず乙女を留めたがり」

 川柳人から、「乙女を留めた」ことで、やいのやいの言われる僧職にある僧正としては、
「しばし留めむ」ものは、佛の姿の方が相応しいわけです。では、代わりに一首:
 「天つ風 往生の道 吹きあけよ 佛の姿 しばし祈らん」

<(参考メモ・その2)百人一首歌碑>

       
歌碑事項元慶寺雲林院
碑文 天津かぜくものかよひちふきとちよ
乙女のすかたしはしとゝめん
天つ風 雲のかよ比千 ふき登ち依 をとめの姿しばしとゝめ無
所在地 京都市山科区北花山河原町13
元慶寺
添付地図参照
京都市北区紫野雲林町
雲林院
添付地図参照
建立年月平成8年6月2日除幕 平成18年5月
揮毫者鷹部屋里子日比野光鳳
石碑寸法110x125cm
岡崎産花崗岩
165x150cm
根府川石
建立者近藤清一氏住職藤田寛
歌碑写真

<(参考メモ・その3)遍昭(良岑宗貞)略歴>

  <官職略歴>
    遍昭(へんじょう、遍照とも表記)、弘仁7年(816年)ー 寛平2年1月19日(890年2月12日))
  平安時代前期の歌人、六歌仙・三十六歌仙の一人。俗名 良岑宗貞(よしみねのむねさだ)。
  官位は正四位下・左少将。花山僧正とも号す。
  桓武天皇の子・大納言良岑朝臣安世の八男。母は光孝天皇の乳母。
      子に男子(弘延、由性、素性(?-910)、椋橋玄理)
  844年(承和11年)正月、蔵人に叙せらる。
  845年(承和12年)従五位下に叙せられ、左兵衛佐となり、左近少将などを歴任。
  849年(嘉祥2年)正月、蔵人頭ー仁明天皇の蔵人となった。
  850年(嘉祥3年)正月、従五位上に叙位。三月、寵遇を受けた仁明天皇の崩御により
     (35歳) 装束司の任を果たさず出家し、
          ー深草のみかどの御時に、蔵人頭にて夜昼なれつかうまつりけるを、
           諒闇になりにければ、さらに世にもまじらずして、ひえの山にのぼりて、
           かしら下ろしてけり。その又のとし、みな人御ぶくぬぎて、
           あるはかうぶりたまはりなど、喜びけるをききてよめる
          「みな人は花の衣になりぬなり苔の袂よかわきだにせよ」(古今集・巻16・哀傷・847)
          比叡山に入り、慈覚大師・円仁より菩薩戒を受け、
          台密の修行に励む。円仁・円珍に師事。
          「たらちめはかかれとてしもむばたまの我が黒髪をなでずやありけむ」(後撰1240)

  868年(貞観10年)創建された花山寺(元慶寺)の座主となる。仁明天皇の皇子常康親王より
          譲り受けた雲林院をその別院とした。
  869年(貞観11年)二月、法眼和尚の位を授かる。花山の元慶寺を建立し、紫野の雲林院の別当を兼ねた。
  879年(元慶三年)権僧正。
  885年(仁和元年)僧正となり、花山僧正と呼ばれるようになる。
          『日本三代実録』によれば、この年の12月18日に宮中仁寿殿において、光孝天皇主催による
           遍昭の70歳の賀が行われていることから、光孝天皇との和歌における師弟関係が推定されている。
  886年(仁和2年)食邑百戸の下賜と、輦車(てぐるま)で宮門出入りを許される。
  890年(寛平二年)正月十九日、七十五歳で死去。花山僧正の称がある。

  <和歌活動歴>
(1)『古今和歌集』仮名序ー「歌のさまは得たれども、まことすくなし。たとへば、絵にかける女を見て
             徒に心を動かすが如し」
(2)歌人仲間ー惟喬親王や小野小町と歌を贈答しているが、小野小町の場合は次の通り。
    石上といふ寺にまうでて、日の暮れにければ、夜明けて、まかり帰らむとて、とどまりて、
    「この寺に遍昭あり」と人の告げ侍りければ、物言ひ心見むとて、言ひ侍りける   小野小町
      「岩のうへに旅寝をすればいとさむし苔の衣を我にかさなむ」(後撰集・巻17・雑3・1196)
    返し「世をそむく苔の衣はただ一重かさねばうとしいざふたり寝む」(後撰集・巻17・雑3・1197)
      (法衣はたった一重、寒さをしのげないでしょう。かと言って貸さなければ冷淡だ。
       さあ、二人で肌を寄せて寝ましょう。)
(3)『古今集』以下勅撰集和歌 36首入集(連歌一首を含む)。
  後世他撰の家集『遍昭集』は、三代集から遍昭作の歌をひいて編集したもの、遍昭の独自性ない。
  「天津乙女」歌以外の代表作品は次の通り。
  代表歌は次のような歌群ですが、よく見ると、「天津乙女」歌での「吹き閉ぢよ!」のように
  「人に呼びかける」「人に頼む」、あるいは強く取ると、「人に命令する」ような歌語が多いことに
  気がつきます。たとえば、
     「名に愛でて折れるばかりぞ女郎花われ落ちにきと人に語るな」(古今集・巻4・秋上・226)
      ーむまより落ちて詠めるーですから、馬から落ちても女郎(花)はしっかり掴んでいたのか。
  「吹き閉ぢよ」にしろ、「人に語るな」にしろ、どうもこの人は、「命令形」の歌語を用いるのが
  お好きなようです。
     「花の色は霞にこめて見せずとも香をだに ぬすめ 春の山風」(古今集・巻2・春下・91)
     「よそに見てかへらむ人に藤の花 はひまつはれよ 枝は折るとも」(古今集・巻2・春下・119)
     「いまさらに我はかへらじ滝見つつ呼べど聞かずと問はば 答へよ」(後撰集・巻17・雑3・1239)
  その他、
  「すゑの露もとのしづくや世の中の おくれ先だつためしなるらん」(新古今集・巻8・哀傷・757)
   (葉末に留まっている露と、根もとに落ちた雫と――人に後れたり、人に先立って亡くなる、
    この世の無常の例なのだろう。「すゑの露」は辛うじて留まっている命の比喩であり、
   「もとのしづく」(根もとの雫)は「末の露」に先んじて消えた命の比喩。
    いずれ消えることに変わりはなく、わずかな遅速の差にすぎない、ということ。)
  「浅緑糸よりかけて白露を玉にもぬける春の柳か」(古今集・巻1・春上・27)    
  「はちす葉のにごりにしまぬ心もてなにかは露を玉とあざむく」(古今集・巻3・夏・165)
  「わび人のわきてたちよる木(こ)のもとはたのむかげなくもみぢ散りけり」(古今集・巻5・秋下・292)
  「我が宿は道もなきまで荒れにけりつれなき人を待つとせしまに」(古今集・巻15・恋五・770)

  「今来むと言ひて別れし朝(あした)より思ひくらしのねをのみぞなく」(古今集・巻15・恋五・771)
  ちなみに、息子の素性法師の百人一首第21番歌は、「今来むと言」う仲。
   「今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ちいでつるかな」

   ー仁和のみかどの親王におはしましける時に、御をばの八十(やそぢ)の賀に、
    しろがねを杖につくれりけるを見て、かの御をばに代はりてよみける
  「ちはやぶる神やきりけむつくからに千とせの坂もこえぬべらなり」(古今集・巻7・賀・348)
  「ちりぬればのちはあくたになる花を思ひしらずもまとふ蝶(てふ)かな」(古今集・巻10・物名・435)
  「秋の野になまめきたてるをみなへしあなかしがまし花もひと時」(古今集・巻19・雑躰・1016)

 <逸話の主人公> 
  桓武天皇の孫という高貴な生まれであるにもかかわらず、出家して天台宗の僧となって
  僧正の位に昇ったこと、また、歌僧の先駆の一人であることなど、遍昭は説話の主人公として
  恰好の性格を備えた人物であった。在俗時代の色好みの逸話や、出家に際しその意志を妻にも
  告げなかった話は『大和物語』をはじめ、『今昔物語集』、『宝物集』、『十訓抄』などに見え、
  霊験あらたかな僧であった話も『今昔物語集』や『続本朝往生伝』に記されている。
  江戸時代に製作された歌舞伎舞踊『積恋雪関扉』では良岑宗貞の名で登場。
                                       (インターネット情報WIKIPEDIAより)

   <系譜>
  桓武天皇ー平城天皇ー阿保親王ー在原一族ー
      ー良岑安世ー僧正遍昭ー素性法師
      ー嵯峨天皇ー有智子内親王
           ー正子内親王
           ー仁明天皇
           ー嵯峨源氏一族
      ー淳和天皇ー恒貞親王(仁明天皇皇太子、承和の変で廃位、大覚寺の始祖)
      ー伊予親王
      ー葛原親王ー平氏一族
      ー万多親王
      ー仲野親王
      ー賀陽親王
      ー伊都内親王(阿保親王妃、子息在原業平)

<(参考メモ・その4)宝塚の舞姫「天津乙女」>

天津乙女(あまつおとめ)
宝塚歌劇団理事でスター。
本名 鳥居栄子(愛称:エイコさん)
生年月日 1905年10月9日
没年月日 1980年5月30日(満74歳没)
出生地 東京府東京市神田区
終焉地 兵庫県西宮市
宝塚歌劇・活動期間
大正七年(1918)-昭和五十五年(1980)
親族 妹・雲野かよ子
受賞歴 紫綬褒章・勲四等宝冠章
(参考)天津乙女に因んで命名された
バラの品種あり。
1960年兵庫県伊丹市で作出。
舞台の舞姿「四つのファンタジア」
(1951年)(添付写真参照)
 天津乙女(あまつ おとめ) 宝塚歌劇団団員(元月組主演クラス・月組組長)。
  最初の東京都出身劇団員(生徒)、日本舞踊名手、女六代目の異名。
  芸名は百人一首歌(僧正遍昭歌)による。
  娘役スターだった妹の雲野かよ子の芸名もこの句からとられた。
  後輩の春日野八千代や神代錦とならんで「宝塚の至宝」と呼ばれた。
  1918年、宝塚音楽歌劇学校に入学。6期生。 
  1948年、歌劇団理事に就任。 
  1958年、紫綬褒章受章。 
  1976年、勲四等宝冠章受章。 
  1980年、在団のまま死去、享年75。谷中霊園に墓があり(墓誌・本名「鳥居栄子」名義) 
  主な舞台作品 宝三番叟 鏡獅子 四つのファンタジア 姫蜘蛛 恋河童 
         舞踊一代 宝寿 宝塚名曲選 宝花集 
   NHK番組 天津乙女の鏡獅子(1994年2月26日  教育 花柳寿楽 一路真輝) 
      昭和55年に亡くなった宝塚歌劇団の天津乙女は、その60年余の舞台生活を通じて
      「宝塚の至宝」とまでいわれた日本舞踊の名手であった。 
      人々を魅了した彼女の数々の舞台の中でも「鏡獅子」は、それまでの宝塚の日本物レベルを
      つき抜けたものと高く評価されている。 
      番組では、昭和38年の溌剌とした舞台と、昭和54年、死の前年の円熟の境地の舞台の
      2種類の「鏡獅子」を鑑賞、合わせてインタビューや、後輩の淡島千景や乙羽信子の思い出話も
      おりまぜて伝える。(司会 山田亜樹アナウンサー)


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平成21年12月1日   *** 編集責任・奈華仁志 ***

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