平成社会の探索


ー第89回知恵の会資料ー平成21年11月15日ー

<「知恵の会」への「知恵袋」>


(その34)課題「うり(瓜)」
「京のうり」
ーーーーー  目     次  ーーーーー
0.まえがき 1.狛のうり 2.京近郊の瓜生産現況 3.真桑瓜保存活動
0。まえがき
 ウリ科(野生種を含め、約100属850種あるとされる)の果菜類としては、メロン、スイカ(西瓜)、
カボチャ(南瓜)なども含まれているようですが、それらの品種の内、ヨーロッパ系の品種群を「メロン」、
それ以外の東アジア、あるいは中国西域の範囲で栽培されている品種群を「ウリ」と呼ばれているようです。 
 日本では甘くて食したとき清涼感が味わえるマクワウリ(真桑瓜・甜瓜)などの品種群がある一方、
キュウリ(胡瓜)やシロウリ(白瓜)のように熟しても甘みが少なく、野菜として食したり、未熟なうちに
漬物にされる品種群もあり、さらにはへちま(糸瓜)やとうが(冬瓜)、あるいは夕顔なども含まれるようです。
  
 万葉集・巻8−802番歌で山上憶良は、次のように詠っている「うり」は「マクワウリ」のこととされ、
かなり古く縄文期(紀元前8000〜7500・鳥浜貝塚遺蹟)から人々の口に食されていたとのこと。

  子等を思ふ歌一首
 釈迦如来、金口(こんく)に正に説きたまはく、等しく衆生を思ふこと、羅喉羅(らごら)の如しとのたまへり。
 又説きたまはく、愛(注、かわいいこと)は子に過ぎたりといふこと無しとのたまへり。至極の大聖すら、
 尚し子を愛(うつく)しぶる心あり。況や世間の蒼生(あをひとくさ)、誰かは子を愛(うつく)しびざらめや。
 (802番歌)瓜食めば 子ども思はゆ 栗食めば まして偲はゆ 何処より 来りしものぞ
        眼交(まなかひ)に もとなかかりて 安眠(やすい)し寝(な)さぬ
  反歌(803番歌)銀も金も玉も 何せむに 優れる宝 子に及かめやも

 憶良が「子」ー「愛(かわいい)」ー「瓜」の連想を万葉集に残したものですから、清少納言はその枕草子の
「物はーづくし」の「うつくしきもの」(第146段、または155段など)の段に「瓜に描きたるちごの顔」と
記したのではないでしょうか。ここでの「うり」は、真桑瓜の一種「ひめうり」とされます。
 姫瓜について「「雍州府志」第六土産門上・雑菜部」に
 ○姫瓜 出自九条田間 其大如梨其色至白 故以姫称之女児求斯瓜 少留茎
     傳白粉於其面 以墨画髭髪眉目口鼻 以水引結其茎 提携為玩具
  墨で人の目鼻立ちを書き込んで、茎に水引を結び、おもちゃとしてもて遊ぶという。

 古くから食されてきた「うり」も現在では、奈良漬に垣間見るぐらいですし、スーパーマーケットの店頭に
並んでいるという「真桑瓜」も昔ほど頻繁には食していないようです。

<1.狛のうり>

 「催馬楽」<山城>歌として狛の瓜作りに求婚された女性の気持ちを読んだ歌として
  ○「山城の狛のわたりの瓜つくり な なよや らいしなや うりつくり うりつくり はれ
    瓜つくり 我を 欲しといふ いかにせむ な なよや ・・・・」」と詠われており、山城の狛地区が
瓜の名産地であったことを詠み残しています。
  (田中淳一郎「狛のわたりの瓜作り」JA京都やましろー歴史の中の農作物@(2003年))

 次のような歌謡や和歌も引用できます。
  ○「清太が造りし御園生(みそのお)に、苦瓜(にがうり)甘瓜(あまうり)のなれるかな、
    紅南瓜(あこだうり)千々に枝させ生瓢(なりひさご)、ものな宣(のた)びそ鹸茄子(ゑぐなすび)」
                  (「梁塵秘抄」巻第二・371)
  ○「瓜植えし狛野の里の御園生の 繁くなりゆく夏にもあるかな」
                       (曽祢好忠集・夏中・五月はじめ・第130番歌)
  ○「音に聞く狛のわたりの瓜つくりとなりかくなりなる心かな」(拾遺集・巻九・雑下・557・朝光)
    返し「定めなくなるなる瓜のつつみてもたちやよりこんこまのすきもの」
  ○「山城の狛のわたりを見てしかな瓜つくりけむ人の垣根を」(平兼盛集)
 和歌の世界での瓜の産地は「山城の狛」が多く詠まれ、その昔京の近郊での瓜の主要な所であったことが
わかります。

 近世京都案内冊子(新修京都叢書・第九巻 巻二夏部 堀川の水ほか 光彩社 昭和43年8月)には、
京の産業物産としての瓜が次のように言及されています。
 「瓜  越瓜(しろうり)甜瓜(まくわ)西瓜(すいか)青瓜(あをうり)
     胡瓜(きゅうり)姫瓜(ひめうり)冬瓜(かもふり あこだ)
  ○瓜を作る所々は 狛里(こまのさと)(山シロ井堤(ゐでの)里ノ南) 上賀茂 吉田 西郊(にしのをか)
           川勝寺(せんしょうじ)村 谷川 九条 東寺
  ○狛里は瓜茄子ともに。他所よりはやく都に出して売り侍る。九条東寺の瓜は。美濃の真桑瓜の核(さね)を
   もちひてつくり侍る故に。その風味他に異なり。その中にも。猶優れたる黒印をおして。これを判の瓜と
   いふ。また川勝寺。谷川瓜。これまた東寺をあざむくほどの風味をそなへて。西郊(にしのをか)の名物
   なり。又賀茂田瓜といふあり。これは上賀茂辺につくりていだし侍る。瓜の形大きにしてここちよく見侍れ
   ども其の風味、東寺谷川瓜などには遙かに劣りて覚へ侍る。
  ○姫瓜は九条村より出し侍る。その大きさ梨のごとくにして。至りて白なり。都のうなひをとめ、この瓜を
   求めて、面に紅粉をほどこし、眉をつくりなど、艶なるもてあそび物とす。この他大和の梵天瓜。泉州の
   舳松瓜。武蔵の葵瓜。いづれも世にかれなき名物なり。」

 越瓜(しろうり)と称される桂瓜について、黒川道祐「雍州府志」第六土産門上・雑菜部に「甜瓜」「越瓜」
「乾瓜」「冬瓜」「西瓜」「絲瓜」「姫瓜」などとともに次のように紹介しています。
 「しろうりはいたる所で作っているが、特に山城の狛のあたりでたくさん作って京都へ売りにいっている。
  しろうりの風味となると賀茂川の東の吉田あたりでつくっているものにおよぶものはない。」
  江戸時代には京都のあちこちで越瓜が栽培され、特に吉田地区のものの風味が良かったようです。

<2.京近郊のうり生産現況>

 嘗ての瓜の名産は如何になっているのでしょうか。
(1)山城の狛地区(京都やましろ農業協同組合・本店総合企画部の情報)
   「当JAでは狛地区の瓜の取引がなく、営農担当に確認したが、古すぎてわからない」とのこと。
(2)桂地区(林義雄「京の野菜記」昭和50年11月(ナカニシヤ出版))
   「江戸時代には京都のあちこちで越し瓜が作られていて、・・・桂で作る越し瓜だから
    桂瓜という名がついたのだが、それがいつごろからかはわからない。・・・
    江戸時代には桂村の中桂付近が桂瓜栽培の中心であったが、・・・
    明治中期には桂村の全域で作られるようになった。
   (「越瓜二万本」、下桂村119戸ー菊池昌治「現代に生きづく京の伝統野菜」成文堂新光社(2006年10月))
    昭和初期には桂だけでなく、川岡、松尾の二村にも栽培がひろがった。・・・
    戦時中は上桂でわずかに作られていたにすぎなかった。戦後、上桂、向日町寺戸、久世村へと移っていったが、
    市街地のひろがりとともに工場ができたり、住宅地になったりして、桂瓜の姿は再び消えていった。」
   「桂瓜は、・・・奈良漬けの材料としては最高の物だと言われている。・・・
    昔は桂瓜を農家が塩漬けにしてから京阪神の漬け物商に予約販売した・・・・
    桂瓜を奈良漬け材料に使っているのは一軒だけ(田中長漬け物店)(烏丸通綾小路西入)」

(3)下狛地区(精華町内)(精華町立図書館情報)
   「精華町立図書館には適当な情報がなく、精華町役場産業振興課に問い合わせの結果、
    現在ほとんど栽培がなく、データがない。」ただし、関連情報としては、
   「瓜生の里 狛市」という催し物市場あり。しかし特に瓜は販売していないとのこと。

 これらの瓜が一般に出まわらなくなっていく事情は、上述の作付け田畑の減少もさることながら、
 「桂瓜は忌地(いやじ)の関係で、一回作ると同じ場所にはその後五年から七年ぐらいは作らない。」ことにもよる。
 桂瓜を作ろうと思うと、必要作付け面積の5倍から七倍もの広い畑が必要になる。かといって、四年ぐらいで
作付けにかかるとできが悪く、くずのような物が多く作られ、良好な瓜はごくわずかしかとれないという。したがって
桂瓜を奈良漬け材料にする漬物商は大変で、ある特定の栽培先を選定しなければならない。店によっては
他府県(徳島県の旧吉野川流域の藍住町辺り)に委託栽培しているという。
 伝統の名産品を維持していくのも伝統的な野菜作りが前提になる。

<3.真桑瓜保存活動>

 日本での真桑瓜を生んだ岐阜県真桑村(現本巣市真正地区)にも瓜の生産は見られなく、もっぱら真桑瓜の伝統を
保存する運動としてつながれているという。
 「真桑瓜は嘗て西瓜とならぶ夏の水菓子としてよく食されましたが、現在ではメロンに押されて一般に流通しなく
  なりました。」(真桑瓜の歴史はメモ書き参照方)
 日本での発祥の地、岐阜県本巣市真桑地区では昔はほとんどの農家が栽培していましたが、70年代以降忘れられた
果物となっていきました。そこで、「真桑の名がつく伝統の果物をなんとか復活させたい」という農家が中心となって
1992年(平成4年)に発祥の地真桑地区で「マクワウリ研究会」(21人)結成され栽培が復活しました。 
 真桑瓜の収穫時期は7月下旬から8月初旬ですが、量が増えたとはいっても、まだ中央市場に回るほども無く、
 地元の「JAもとすフレッシュセンター」などで、一個2〜300円(予定)の販売されるそうです。
 岐阜県では県内の伝統栽培されている野菜や果樹等を、『飛騨・美濃伝統野菜』として認証されていて、
第一期(平成14年)は16品種の13番目として真桑瓜が認証されています。

 ちなみに韓国では瓜はチャメと呼ばれて、現在もブドウやスイカと並ぶ夏場のポピュラーな果物の一つで、
各地で盛んに栽培され、郊外や農村には直売所が設けられているそうです。 

<参考メモ<真桑瓜の歴史>

(1)真桑瓜の起源
 真桑瓜は嘗ての夏の典型的風物。果実は丸、楕円、円筒形、果皮は白、黄、黄緑、緑など様々。
上品な控えめな甘さが軽やかで、歯ざわりがよく、中味の種の周りほど軟らかくて美味。
 植物の分類は、ウリ目 Cucurbitales ウリ科 Cucurbitaceae キュウリ属 Cucumis マクワウリで、
学名Cucumis melo var.makuwa、英名オリエンタルレモン(Oriental Melon)日本名は
 アジウリ(味瓜)、ボンテンウリ(梵天瓜)、ミヤコウリ(都瓜)、アマウリ(甘瓜)、テンカ(甜瓜)、
カラウリ(唐瓜)といった様々な名称あり。 
 真桑瓜原産地はアフリカ、もしくは中近東・インド付近原産の野生種から発達し、メロンとルーツを同じ。
中国へ渡り、韓国を経て、三世紀頃第15代応神天皇の御世に我が国に渡来。

(2)日本での真桑瓜の栽培
 日本では既に五世紀頃、多くの品種が育成されていたといわれ、弥生時代の遺跡からも種子が発見。
 真桑瓜の名産地は岐阜県の真桑村(現在の本巣市)。本巣に伝わっている古文書では、この瓜が伝来したのは
鳥が種をくわえて運んできたとのこと。その昔、時の朝廷に献じたところ大変に賞味され、「清暑の霊品なり」と
「真久倭布里」の名を賜り、皇室の御菜園にも作付けされ、全国に知られるようになり、夏の高級果として
珍重さる。 
 岐阜城主となった織田信長は地元名産品として朝廷献上し、大変に喜ばれる。
 清涼殿内御湯殿に仕えた女官の日記『御湯殿上日記』(宮廷の日常を知る好史料で文明9年(1447)から
文政9年(1826)残存)に「天正三年六月廿九日のふなかよりみののまくはと申す名所のうり二つしん上」と
言う有名なくだりあり。つまり信長が美濃真桑の名産の瓜(マクワウリ)を天皇に進上したという。
 
(3)江戸時代の栽培
 江戸時代"水菓子"として真桑瓜が武家・町民を問わず人気を集め、江戸城の宴会でも使われる。
 遠い美濃の国から瓜を取り寄せるには手間もお金もかかるので、寛永年間(三代家光の頃)、幕府は武蔵国
多摩郡府中町・是政村と、新宿の成子坂付近に幕府直轄の「御瓜おうり畑」を設置したが種を取り寄せ、
いざ栽培しようとしたところ、江戸の農家ではうまく作れなかった。
 そこで将軍家では、タネと一緒にベテランの農民三人を下真桑村から呼び寄せ、栽培にあたらせ、やがて府中の
後前栽畑からは数千個の真桑瓜が江戸城に運ばるようになり「幕府の御用瓜」として、徳川家の家紋にちなんで
「葵瓜」の名までつけらる。葵瓜は"御用瓜"の立て札をかかげて街道の人びとを土下座させながら城内まで
運び込まれたという。
 
(4)明治時代
 明治期にはマクワウリは「メロン」として販売。
 真桑瓜の形のメロンパンができたり、主に兵庫県姫路市周辺で亜種の「網干メロン」が栽培され、そこから派生した
「ペッチンウリ」「女鹿メロン」「加古川メロン」など多くの亜種も派生して現在に至る。
 
(5)昭和時代の衰退
 真桑瓜は「マッカ」と呼ばれ、スイカと共に庶民の水菓子として親しまれる。
 1962年(昭和37年)頃、マクワウリとネット系メロンを交配させた甘い"プリンスメロン"が登場。 
 昭和34年のロイヤルウェディングにあやかって、その名も「プリンスメロン」となり、サカタの種が開発した
西洋のネット系メロン系と、真桑瓜系品種の融合した東西メロンの交配品種で、小型メロンの革命あり。
 プリンスメロンは、高級メロンの中で一時はメロンのシェアの50パーセントを超える人気が集中しましたが、
やがて高度経済成長、家庭の急速な電化と生活レベルの向上と共にアンデスメロン、アムスメロンなどをはじめ、
様々な品種の開発・登場する中、徐々に片すみに追いやられ姿を消す。
                            (「大阪本場青果協同組合・今月の旬たより」より)


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平成21年10月22日   *** 編集責任・奈華仁志 ***

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