平成社会の探索


ー第87回知恵の会資料ー平成21年8月9日ー

<「知恵の会」への「知恵袋」>


(その32)課題「かね(鐘)」
「浪花の<時の鐘>三つ」
ーーーーー  目     次  ーーーーー
1.<江戸時代>釣鐘屋敷の「将軍家光の鐘」
2.<明治時代>四天王寺の「釣鐘饅頭の鐘」
3.<昭和時代>大阪市市庁舎の「澪標の鐘」
 京都の町中で聞こえて来る鐘の音は、当然の事ながら、周辺のお寺からの信仰上の
「時の鐘」でしょう。町中にお寺の鐘が至るところにありますから、敢えて庶民が
「時の鐘」を据え付けなくてもお寺の鐘の音で、十分に時間が分かります。
 (「時の鐘」の歴史は、(参考メモ)を参照願います。)
 ところが浪花の町中では、お寺が京都の町中ほどにはありませんから、庶民が「時の鐘」を
鋳造する必要があります。また、お寺から聞こえてきても、庶民は饅頭を思い出したり、
はたまた市庁舎の屋上から聞こえてくる鐘の音は、子供への「時の鐘」なのです。
 江戸時代、明治時代、昭和時代、それぞれの時世で大阪庶民が造りだした「時の鐘」を
たどってみました。

<1.釣鐘屋敷の「将軍家光の鐘」>

********  摂津名所図会(巻之四)の「大江坂つり鐘」 **********
 (上町釣鐘町釣鐘屋敷にあり。傍らに看街楼(ことみやぐら)ありて、役丁かはるがはる
  勤めて昼夜非常を看る)
 鐘銘から次の設置に至った事情が記されている事が分かります。
 「この鐘は寛永十一年(1634)九月初めて鋳て、大坂三郷町中より掲る所なり。銘文は
  谷町筋寺町西側、禅宗大仙寺竜厳和尚、洪鐘開元供養は、一心寺の住職天誉和尚なり。
  この鐘銘の大意は、寛永十一年甲戌閏七月東関より御上洛の時、御土産として大坂町中の
  地子(じし)御赦免あらせらる。三郷の町中、永世不朽の御仁政を有り難く存じ、高麗橋の
  櫓屋敷にて一統に御礼を申し上げ奉り、御厚恩の為に、町中よりこの鐘を鋳てここに釣り
  置き、二六時中この鐘の音を聞きて、不易の御仁恵を忘却致さざる為といふこころなり。」
********************************************
 
 1634年7月、大坂を訪れた将軍家光が大坂町中地子銀を永代免除してくれた恩沢を
忘れないため、撞鐘を営むことになり、その為の御救銀八十貫が下賜された。下賜銀は釣り鐘の
中に鋳込んだために、鐘は長らく「公儀の鐘」と言われた。また三郷の惣年寄が町奉行所へ
出かける際には、鐘楼脇の十二畳座敷で裃を着したという。
 釣鐘はその後、万治三年(1660)、宝永四年(1708)、享保九年(1724)、
天保八年(1837年・大塩の乱)と焼け落ちているが、音色は変わることがなかった。
 「三郷の時の鐘」は、浪花名所の一所で、明治三年(1870)鐘楼が撤去されるまで、
236年間浪花の町中に時を告げていたことになる。

 釣鐘は、明治三年(1870)府立博物館に移され、大正十五年(1926)大阪府庁舎
竣工時、屋上北東に移設され、昭和60年(1985)、釣鐘屋敷から撤去されてから115年後、
再び元の位置(釣鐘町二丁目現住友生命釣鐘倶楽部敷地内)に里帰りし、鐘楼が建立され安置された。
 (鐘楼設計管理:(株)IAO田中設計 鐘楼建設施工:西松建設株式会社)
 現在でも定時(一日三回八時、十二時、日没午後六時)にコンピューター制御の自動撞木機械で
「旧大坂三郷」の街に時を告げているという。
 その他、6月10日の「時の記念日」での式典、7月25日天神再船渡御の釣鐘供奉船の参加、
12月31日の除夜の鐘うちなど、<大坂町中時報顕彰保存会>が運営している。
 胴径112cm、鐘高191cm、重量3屯で、昭和45年(1970)大阪府有形文化財
工芸品の第一号「大坂町中時報鐘」として指定されている。

釣鐘屋敷の位置(左)釣鐘町(右)時の鐘位置


******** 近松門左衛門が耳にしたか、釣鐘屋敷の鐘の音を? *********
 「世話物」として第一作の人形浄瑠璃名作「曽根崎心中」には、次のように鐘の音が織り
込まれています。
  ーーーーーーーーーーーーーーーー徳兵衛とお初の道行きーーーーーーーーーーーーーーー
  この世のなごり 夜もなごり 死にに行く身をたとふれば あだしが原の道の露
  一足づつに消えてゆく 夢の夢こそあはれなれ
  あれ数ふれば 暁の七つの時が六つ鳴りて 残るひとつが今生の 鐘の響きの聞き納め
  寂滅為楽と響くなり
  鐘ばかりかは 草も木も 空もなごりと見上ぐれば 雲心なき水の音 北斗は冴えて影映る
  星の妹背の天の川 梅田の橋を 鵲の橋と契りて いつまでも 我とそなたは夫婦星
  かならずさうと縋り寄り 二人が中に振る涙 川の水かさも増さるべし
  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 「曽根崎心中」は、元禄十六年(1703)五月、竹本座初演ですから、釣鐘屋敷に鐘が
据えられてから丁度60年後のことになります。心中の現場梅田の露天神社から釣鐘屋敷まで
直線距離にして、1200mほどです。
 七つ時(午前4時ごろの早朝)であり、昔の町では、現代のようにあれこれの雑音は無い
はずですから、多分「平野屋の手代徳兵衛」と「天満屋の遊女初」の耳には聞こえている
ことになりましょう。
 作者近松自身が日頃、作歌活動の日々に耳にしていたことでしょう。近松が聴いたと同じ
鐘の音を我々が耳にすることは誠に感慨深いものがあります。毎日毎日鐘の音を身近に
耳にしている釣鐘町の人々は、まさに歴史の中に生きていると言う感慨でしょう。

<2.四天王寺の「釣鐘饅頭の鐘」>

 四天王寺の鐘楼は古い順番に、黄鐘楼(北鐘堂)、鯨鐘楼(南鐘堂)および頌徳鐘楼などでした。
 頌徳鐘楼は、明治36年(1903)第五回内国勧業博覧会を期に、また聖徳太子一千三百年
大遠忌記念事業(大正11年・1922)として奉頌するために、当時世界一の大梵鐘を鋳造し、
明治39年に大鐘楼も建築しました。(四天王寺の鐘楼については、参考メモ(その2)参照方)
*梵鐘について
頌徳會が聖徳太子偉業奉頌のため
小松宮殿下を総裁に奉戴し、多年の歳月と
巨額費用を投じ、第五回内国博覧会記念として
鋳造された日本一で世界無二の大梵鐘。
明治36年(1903)1月24日、当時最高の
精巧な化学機器を用いて鋳造される。
全高:二丈六尺(約7m88cm)
口径:一丈六尺(約4m85cm)
底部厚:二尺二寸(約68cm)
総重量:四万二千貫(約15ton750kg)
(昭和18年大東亜戦争完遂のため特別供出)
*鐘楼について
五尺八寸高の石壇上に八間四方(約15m四方)
十二間余(約21。7m)高の入母屋造瓦葺
明治39年6月7日木挽式挙行
明治41年5月22日落成、撞初式挙行
撞鐘の機会は、最初の法要と戦争供出法要の
わずかに二回に終わったという。
(釣鐘は戦争で供出され、空になった鐘楼は
戦災を免れ、昭和23年3月平和祈念大霊堂
(英霊堂)に改装される。)
「四天王寺誌」奥田慈応編著(四天王寺事務局)
(昭和13年4月発行)
 創業明治33年(1900)の「総本家釣鐘屋本舗」の名物は、名前の通り「釣鐘饅頭」です。
 この饅頭の由来は、上述のように明治36年に地元の有志から四天王寺へ奉納されて、
大阪商人の心意気を示す快挙として評判になっていました大梵鐘だそうです。
 その奉納記念として釣鐘の形をした饅頭を四天王寺の門前で売り出したのが始まりとのこと。
「四天王寺さん」を参拝する人々の大阪名物となり喜ばれていましたが、肝腎の釣鐘は第二次
世界大戦の際に供出されてしまい、鐘の音を消してしまいました。しかし饅頭だけは大戦後も
生き残り、現在にその名残をとどめているというのは、如何にも大阪商人の「四天王寺さん」への
「親しみ」と「往年への懐かしさ」によるのかもしれませんし、一方では、商売人としての
「しぶとさ」あるいは「がめつさ」を示しているのかもしれません。
  なお、現在総本家釣鐘屋本舗さんの本社は通天閣下(大阪市浪速区恵美須東1−7−11)および
各百貨店のお菓子コーナーの出店販売をしているようです。

大阪新世界・総本家釣鐘屋本舗と創業頃の店頭風景

(左)釣鐘饅頭その他のサンプル(右)釣鐘饅頭
 さて、さて、鐘は「打つ」ものでしょうか、「鳴らす」ものでしょうか。
  日本の鐘は鐘の外側を「打つ」ものですが、西洋の鐘は内にぶら下がった舌を振って、
鐘の内面を「鳴らす」という違いがあります。
 「釣鐘」は「打つ」もので、「半鐘」は「鳴らす」ものということになるのでしょうか。
 いやいや、「釣鐘」は賞味する物であるのです。

<3.大阪市庁舎の「澪標の鐘」>

 昭和30年(1955)5月5日の子供の日に、大阪市役所屋上に「みおつくしの鐘」が
取り付けられました。これは、戦後10年、漸く落ち着きだした社会で問題になり出したのは、
青少年の非行問題でした。太陽族やマンボスタイルなどのことばが乱れ飛ぶ世相に、大阪市地域
婦人団体協議会が中心になって子供達の健全な成長を願う募金運動が始められ、300万円余りの
募金(中井光次市長2万円、村山リウ1。23万円、南海ホークス5千円、中馬薫助役3。7千円
など)が寄せられ、これを基金として澪標の鐘を鋳造して庁舎に据え付けたわけです。

(左)竣工式典当日の風景(中)みおつくしの鐘(正面)(右)同(裏面)
 みおつくしの鐘の表面には銀箔で母子像が浮き彫りにされ、みおつくしの市章が金箔で刻み
込まれました。銘文趣旨は、<子供達よ、この鐘の鳴り響くところ、暖かき愛のさめることなし。
悪しきこころの芽生えを摘んで、わが身元に還れ!>とのお母さん方の願いがこめられて、
  鳴りひびけ みおつくしの鐘よ 夜の街々に あまく やさしく ”子らよ帰れ”と
  子を思う母の心をひとつに つくりあげた 愛のこの鐘
 「ウエストミンスター・メロディ」の鐘の音は大阪の空に鳴り渡りました。ラジオ放送
(NHK,ABC,NJBなど)でも午後十時の時鐘前後に流されました。
 加えて、サトウ・ハチロー作詩、古関裕而作曲「みおつくしの鐘」も記念作製されたのです。
 なお、みおつくしの鐘は、電気装置による音響で、実際に撞かれた鐘の音が放送されたのでは
ありません。(出典:大阪市婦人団体協議会「みおつくしの鐘建設の記録」昭和31年5月5日)
    因みに、みおつくしの鐘が据え付けられた5月5日子供の日から一週間経った5月11日、
     四国では高松港沖合で「紫雲丸事故」が発生し、多くの修学旅行の子供達が犠牲になりました。
 
 昭和32年からは成人の日に成人の代表が打ち鳴らすようになり、昭和57年、大阪市役所庁舎が
建て替えられる時まで27年間、鳴り続けたのです。
 これに併せて、大阪市生野区でも、昭和31年度新庁舎建設に併せて、同じ目的の「みおつくしの
鐘」が昭和32年に設置され、4月10日より鳴り響いています。
      (参考資料:大阪市生野区婦人会「”みおつくしの鐘”建設の記録」)
 新庁舎の屋上に据え替えらえた「みおつくしの鐘」は、嘗ての鐘楼にモニュメントとして取り付け
られていて、毎年の成人式には、成人の代表が鐘を撞く式典を継続しているのです。

(左)「みおつくしの鐘」の鐘楼(中)銘板(右)昭和30年据え付けられた「みおつくしの鐘」

<参考メモ(その1)「時の鐘」の歴史>

 宗教的な観点からの「鐘」の意味は、「あの世とこの世を繋ぐ機能がある」とされる。
   (笹本正治「中世の音・近世の音」(株)名著出版(1990年11月))
 一方現代社会に生きる人々の間では、「鐘」の意味は、宗教的な目的の物から音楽を
初めとする娯楽を求める手段まで多様に取り扱われるようになっているようです。
 それらの中で、近世以降、人間世界の時刻を告げる用具としての「鐘」がかなり重要な
位置を占めるようになっています。すなわち「時の鐘」です。

 「鐘」は当初、人間同士が連絡を取り合う手段であったのが、だんだん時刻の重要性を
認識するにつれて、すこしずつ「時」の刻みに関係するようになったと考えられます。
 日本に於ける「時の鐘」の歴史は次のように整理されています。
    (上述、笹本文献による)
  
1.奈良時代以前
 (1)「日本書紀」舒明天皇八年(636)
  「・・・鍾を以て節とせよ」朝臣の参内時刻を規定した詔勅
  午前六時頃やってきて、十時頃退出せよと命じているもので、
  時刻を鐘の音で伝えている。
 (2)「日本書紀」大化三年(647)(孝徳天皇)
  「・・・正午の鐘を聴いてから退庁せよ。」
 (3)「養老令」養老二年(718)
  ・・・陰陽寮の漏刻博士(水時計)二人が守辰丁二十人を率いて、鐘鼓を打たせる。
  (4)「万葉集」での告時の鳴り物として「鐘」と「鼓」が詠まれています。
   「皆人を寝よとの鐘は打つなれど 君をし思へば寝ねかてぬかも」
      (巻4−607)
    *亥の刻(午後十時)に打つ「四つの鐘」。漏刻による時刻を、陰陽寮所属時守が
     「時」(二時間単位)は「鼓」で、「刻」(十五分単位)は「鐘」で報じた。
   「時守の打ち鳴らす鼓 数(よ)み見れば 時にはなりぬ 会はなくも怪し」
      (巻11−2641)

2.中世での時の観念
 (1)中央官庁における時の観念が、地方の置いて、またいろいろの階層の社会に於いて
    一般化してくるのは、14世紀ごろからと推定されています。
 (2)「戦国大名の行動は、最も時間を意識せざるをえず、時刻が武士だけでなく、
     (・・・戦国時代の寺院には水時計が所有されおり、・・・)
     一般人の日常生活の中にまで入ってきた。」

3.近世における「時の鐘」
 (1)「城鐘として純然たる非宗教的用途の鐘」が鋳造されるようになる。
 (2)城下町の時鐘は1600年代に全国各地に拡がっていく。
     和歌山(1600) 松坂(1605) 小倉(1606)高松(1607)
     高松(慶長十四年・1609)
     長野市松代(寛永元年・1622)尾張・東照宮(元和八年・1622)
     川越市多賀町(寛永年間1624〜1644)
     江戸(1626) 大坂・釣鐘町(寛永十一年・1634)
     静岡・駿府(寛永十一年・1634)盛岡(1648)
     甲府(寛文年間1661〜73)肥前国・長崎(寛文五年・1665)
     岡山(1666)福井(寛文十年・1670)磐城市(寛文十一年・1671)
     小田原(1686)など
  (3)「人々の生活の隅々まで時間の観念が入り込むようになり、時間を知らせることが
     重要になってくる中に、鐘の音も一般人の日常生活の中にまで浸透していった」
     その結果、「鐘に対する神秘的な感情も後退し、やがて明治以降、小学唱歌の
     「夕焼けこやけ」の様な形での鐘の音の世界へと変貌していった」ことになる。

<参考メモ(その2)「四天王寺の鐘楼」>

 四天王寺には、上述の頌徳鐘楼以外に、北と南に鐘楼があります。

************ 北鐘堂(黄鐘楼) **************
<鐘楼>創建は推古天皇元年(593)、文化九年(1812)10月建立。
    現在の建物は昭和24年に施工。講堂西南裏手に当たる。
    阿弥陀仏、観音菩薩、勢至菩薩を安置している。
    桁行四間半、梁行五間二尺弱。入母屋造り本瓦葺。
    
<梵鐘>天竺の祇園精舎鐘の音と同じ黄捗調で、「無常院の鐘」あるいは、
    「北の引導鐘」とも言われる。

************ 南鐘堂(鯨鐘楼) **************
<鐘楼>明治21年12月建立。太子殿(聖霊院)筋南西隅に当たる。
    現在の建物は、昭和29年6月起工、昭和30年3月竣工。
    阿弥陀仏尊像を安置する。
    桁行四間二尺三寸 梁行四間三寸。四柱造、桟瓦葺丹塗り。

<梵鐘>盤捗調で、太子引導鐘とも言われる。
    鐘身高 4尺 口径 2.85尺 重量 220貫

四天王寺の境内堂宇配置図(南鐘堂は南大門の右手、北鐘堂は講堂の裏手)
 

<参考メモ(その3)<釣鐘の饅頭>あれこれ>

 京都市内にも「京都釣鐘屋本舗」さんが店を出しています。
 京都市中京区西ノ京永本町2−10(TEL075−811−0323)
 二条駅の西側、朱雀公園の近くで、西の京中学校の東隣です。
 当店は、大阪の「釣り鐘屋本舗」からのれん分けしてもらった店で、
昭和51年に大阪から独立して、京都に開店したという。
 京都釣鐘屋本舗、および釣鐘饅頭についての情報は次の通りです。

(左)(右)店舗の正面(中)銘菓の栞

(左)釣鐘まんじゅう(右)釣鐘もなか

(左)釣鐘かすてら(右)特製芭蕉(バナナタイプの和菓子)
 和歌山県南部の道成寺門前にもお土産として「釣鐘饅頭」があるようです。
 ここでは、例の安珍清姫の物語によるのでしょう。
 土産物屋の品物例としては、甘露堂(御坊市藤田町)の「延長釣鐘饅頭」があります。
 

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平成21年7月7日   *** 編集責任・奈華仁志 ***

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