平成社会の探索


ー第86回知恵の会資料ー平成21年6月21日ー

<「知恵の会」への「知恵袋」>


(その31)課題「ちち(父)」
「うたのちちー<難波津のうた>雑学」
ーーーーー  目     次  ーーーーー
1.「難波津の歌」の歴史
2.「うたのちちはは」を「手習ふ」とは
3.「難波津の歌」の庶民的享受
ーーーーー  一 口 メ モ  ーーーーー
(その1)万葉集の<ちち>はは
(その2)日本のいろいろの<父>の人物群
(その3)古今和歌集「仮名序」抜粋
ーーーーー  参 考 資 料  ーーーーーー
(その1)木簡の万葉歌
(その2)「好忠集」の「難波津の歌」「安積山の歌」沓冠歌
 一年のお休み日は、お嬢さんから始まり、お爺さんお婆さんに終わる。

 3月3日:「ひな祭」ーまずは一家の中で、娘さんをお祝いしましょう。
 5月5日:「端午の節句」ー男の子を鯉のぼりでのお祝い。
 5月10日・第二日曜日:「母の日」ーお父さんより、お母さんへの家族の思いは大きいか?
 6月21日・第三日曜日:「父の日」ーお父さんを放って置くわけにいかないので!。
 9月15日:「敬老の日」ーオット、忘れそうになりました長老の方々。
       この祝日はいろいろ経緯があり、2003年からは9月第3月曜日であったものが、
       高齢者団体から反発が相次いだため、2001年に老人福祉法第5条を改正して
       元通り、9月15日を「老人の日」、同日より1週間を老人週間としたという。
       (「いろいろとうるさい年齢層」ですね。ー「失礼!」)

 お母さんをお祝いしてからでないと、父の日は迎えられません。(一口メモ・その1参照方)
 ところが、物事の言い草では、「**の父」はいろいろあります(一口メモ・その2参照方)が、
「**の母」は、それほどではありません。
 いろいろある「ちち」のなかでも「うたのちちはは」の「ちち」をとりあげました。
 以下、最近何かと新聞紙上をにぎわしてきた「難波津の歌」に注目しました。

<1.「難波津の歌」の歴史>

(1)「なにはづの歌」のふしぎ
  *古今和歌集仮名序に紀貫之が記した「おほささきのみかどをそへたてまるれるうた」としての
   「なにはづにさくやこのはなふゆこもりいまはさるべとさくやこのはな」・・・(10世紀)
    (一口メモ・その3参照方)
  *毎年新春、滋賀県近江神宮「百人一首かるた大会」では、競技始めの序歌として
    朗々と読まれる歌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(20〜21世紀)

  *2008年5月23日、奈良時代に聖武天皇が造営した紫香楽宮のあった滋賀県甲賀市内の
   宮町遺跡で2007年に確認された木簡に「なにはづの歌」が記されていると発表された。
            ・・・・・・(参考資料・その1)「木簡の万葉歌」参照方
   しかも、此の歌が発見されたのは、宮町遺跡の木簡が最初でなく、
  *1998年(平成10年)11月5日付新聞発表によりますと、徳島県観音寺遺跡から
   出土した木簡にも、さらには、
  *平城京や平城宮の史跡から出土される土器、木器、木簡などに、
  *昭和22年(1947)奈良法隆寺五重塔解体修理時、天井の組子の墨書でも発見されている。

   これらの事実から、この「なにはづの歌」は、すでに8世紀始めには、相当広く普及して
  いたことになり、実に1300年以上の歴史を有する歌ということになります。
   研究者の言を借りますと、
  「七、八世紀を通じて「難波津の歌」は汎用性の高い典礼向けの「歌」であった。」
     (犬養隆「木簡から探る和歌の起源」笠間書院(2008年9月30日))
  「難波津の歌が万葉仮名を習う手習い歌であった」
     (大阪市市史編纂「新修大阪市史(第一巻)」大阪市(昭和63年3月31日))
  と評価されています。

(2)「なにはづの歌」の発掘歴史
    年代順に発掘された「難波津の歌」の木簡あるいは土器などは次のようになります。
       (引用資料:上述の犬養隆氏の単行本による)
  @7世紀末   (@)奈良県石神遺跡
   〜8世紀初め (A)藤原京左京七条一坊出土木簡
          (B)徳島市観音寺遺跡T(六十九号木簡)(680年頃)
          (C)奈良県明日香村山田寺の瓦へのへら書き
  A8世紀前半  (@)姫路市辻井遺跡
          (A)平城京第一次大極殿西側
          (B)法隆寺五重塔天井組木書き(昭和22年発見)(赤外線写真判読)
  B8世紀後半  (@)滋賀県野洲郡中主町湯ノ部遺跡
   〜9世紀半ば (A)平城京内裏東北部井戸より出土の曲げ物底板書き
          (B)平城京東一坊大路西側溝より出土の須恵器
          (C)平安京右京六条三坊出土
  C9世紀半ば  (@)富山県東木津遺跡
   〜10世紀前半(A)富山県射水市赤田遺跡

  これらの歴史的史料の特徴は、
  *表記された歌はすべて「一時一音式表記」で多分に公の人前において口頭で歌うためか。
  (注)万葉集と当該歌木簡の表記方法は、次項(3)参照方
  *行政に関わる語句と併記されている。「官人達が普段から「歌」を書く練習をしていた
   実情を示す徴証である。」(上述・犬養隆著書による)
  *書いた人物は、下級官人から技能者まで、あらゆる公的な立場のものに拡がっている。
  *韻文出土物が十数万点出土している木簡のなかでは、わずかに十数点であるが、
   「難波津の歌」以外、同じ和歌を書いたものが複数発見されていない。
  *古今和歌集の序文を書いている時点でも、「難波津の歌」は汎用性の高い典礼のための歌と
   して、活用されていたらしい。

(3)「歌木簡」と万葉集の表記方法比較
 
「難波津の歌」の表記
歌木簡奈迩波ツ尓 佐久夜已能波奈 布由已母理 伊麻波々流倍等 佐久夜已乃波奈
万葉集(収録されていない)
「安積山の歌」の表記
歌木簡阿佐可夜麻 加気佐閇美由留 夜真乃井乃 安佐伎己々呂乎 和可於母波奈久尓
万葉集安積山 影副所見 山井之 浅心乎 吾念莫國(巻16−3807)
(4)「なにはづの歌」は、大和朝廷の「国歌」?
  奈良時代から平安時代にかけての古代国家において、外国との交渉活動をするとき、現在で
  言うところの「国歌」を必要とするようなことはなかったのでしょうか。
  もしその事態が有れば、多分「なにはづの歌」がその役目を担えたのではないでしょうか。
   (参考記述例)上述の犬養隆著「木簡から探る和歌の起源」の結言
     「・・・奈良の飛鳥に酒船石遺蹟がある。・・・直木孝次郎氏はこの遺蹟全体を
      外国を意識して造営された豪華庭園と解釈している。
      七世紀後半、斉明天皇の主催する典礼のある日、参列者は外国からの使者の前で
      「春草の歌」「香具山の歌」などとともに「難波津の歌」を高らかに歌ったので
      あろうか。」

  明治維新後、明治政府が外国との関わりの上で、「国歌撰定」の必要に迫られて、
  (明治13年・1880年10月26日制定し、法制化されたのは、何と120年経った
   平成11年・1999年8月13日となる)
  「なにはづの歌」を選定せず、古今和歌集巻第七・賀歌の巻頭歌
   「わが君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」(343番歌)
  を活用したわけですから、日本民族は古今和歌集を千年以上活用していることになります。


<2.「うたのちちはは」を「手習ふ」とは>

 「父」と「母」を並べて一緒に詠んだ歌で思い出すのは、行基菩薩の詠とされる詠歌。
    「山鳥のほろほろと鳴く声きけばちちかとぞおもふははかとぞおもふ」
                       (玉葉和歌集 巻十九 釈教歌 2627)
 「難波津の歌」は、どのようなところを「うたのちち」として「手習い」するのか。
 「難波津の歌」(古今和歌集仮名序では全文引用)は、全文の書き方の手本としての父の役目、
「安積山の歌」は歌句の表現や人と人との心の機微を工夫する手本(古今和歌集仮名序では引用無し)
としての母の役目、とされ、古今集以降の古典に於いてこれらの歌が和歌の作法「難波津の道」と
言及されているものに「源氏物語」「宇津保物語」「大鏡」「太平記」などがあげられる。
  (注)歌の書き方手本(例)として源氏物語・紫の上において
    「・・・まだ難波津をだにはかばかしう続け侍らざめれば・・・」として、光源氏の返しは
    「安積山浅くも人を思はぬになど山の井の影はなるらむ」
 具体的に平安時代貴族層の子弟が「てならふ」とは、詠歌作法の学習にまず「難波津の歌」を
書いて習い、人と人との心を通わせる表現を「安積山の歌」を書いて習ったという。

(1)古今和歌集での紀貫之の言い分
   「難波津の歌は、仁徳天皇の御代の初めを祝う歌である。」
   「習字をする人が最初に習うものである。」
   「そへ歌」として「仁徳天皇をよそえもうしあげた歌」
    (伝えたい内容をそのまま歌にせず、表面的には別の内容の事柄を詠んで、
     その裏の意味を相手に伝えようとする歌。)

(2)「さくやこのはな」という歌句を繰り返しているように、儀式や祭典の時のはやし歌の
   の役目を持たせる歌の例として、繰り返しの歌句の使い方を教える例としているのでしょうか。
      古今和歌集の仮名序では、素戔鳴命の
      「八雲立つ出雲八重垣妻籠めに八重垣作るその八重垣を」
   のように「八重垣」を三回、「八」は四個所に繰り返しの歌語として挙げています。
   「古事記」仁徳天皇条の歌謡に
    「やまとへに 行くは誰が夫 こもりづの下よはへつつ 行くは誰が夫」
   「上宮聖徳法王帝説」の歌謡に
    「斑鳩の とみの井の水 いかなくに たげてましもの とみの井の水」
   上述の犬養隆著書では、「掛け合い形式でうたわれら「うた」を素材として出来た
  「歌」であったことをしめす徴証になる」と述べています。
にはつ (参考歌)
「なにはつにさくやむかしのむめのはないまもはるなるうらかぜぞふく」
(新勅撰集・41・後京極摂政太政大臣)
「なにはつにふゆこもりせしはななれやひらののまつにふれるしらゆき」
(続古今集・713・従二位家隆)
「ちりぬれど又来る春は咲きにけり千歳の後は君をたのまむ」
(和漢朗詠集・665番・小松天皇(光孝天皇)御製)
くやこのは
ゆこも
まははるへ
くやこのは
(参考1)折句として見ると「な」「さ」「ふ」「い」「さ」とは、「為そう、いざ」と
     言う意気込みの意味合いをこめているのでしょうか。句尾は「に、なりとな」か。
(参考2)「ふゆこもり」は、春に係る枕詞とされ、歌の意訳の時は、一般に訳されません。
     したがって此の歌は二句切れで、「難波津に咲くよ、この花が。」となり、
     第三句を省略して、「今は春になったと咲くよ、この花が」と訳されます。
     三句切れとして、第二句の「この花」が「ふゆこもり」しているのでしょうか、と
     できないものでしょうか。この場合第二句の「さくや」の「や」は、次のように
     なりましょう。
(参考3)「さくやこのはな」の「や」
     第二句や第五句の「や」は、詠嘆・強調の意味の「間投助詞」とされ、
     「咲いているよ」と訳されます。
     「や」には、疑問・疑念・反語としての「係助詞」の活用もあります。
     第二句の「や」は、疑問の「係助詞」的活用で、第五句の「や」は、詠嘆・強調の
     「間投助詞」的活用ではないでしょうか。
     「や」もいろいろに活用できますよ、という「うたのちち」としての「手習い人」への
     手本的存在として。
(参考4)「な」で始まり「な」で終わっている。
     「は」を5回、「な」「こ」を3回、「「さ」「く」「や」「の」を各2回使っている。

(3)片仮名の文字としての手習い手本であれば、「いろはうた」の様な役目がなくてはなりません。
   歌の中に遣われている片仮名の数は上表のように、31−7(「さくやこのはな」句は
   繰り返し)ー4(「な」「は」「こ」が重出)となり、実質18文字が使用されているに
   すぎず、47文字の三分の一以下となっています。
   

<3.「難波津の歌」の庶民的享受>

 古今和歌集の仮名序に言及された当該「難波津の歌」は、その後、十世紀後半に成立した
古今六帖(4032番歌)や1013年頃成立したとされる藤原公任の和漢朗詠集・下巻
(664番歌)などにも、引用されています。

 近世になって、「難波津百首」という「百人一首」から恋歌を除いた変則的な百人一首が
金谷興詩によって文化十二年・1815に発表されています。これは明治42年1月に発行された
雑誌「東亜の光」に載せられた「百人一首の研究」という資料(参考情報(その3))です。
  (引用資料:白幡洋三郎編「百人一首万華鏡」思文閣出版(平成17年1月9日))
 「難波津百首」では、第一番歌に「難波津の歌」を、第二番歌に「安積山の歌」を挙げています。
 なおこの「難波津百首」は、百人一首的構成になっておらず、「三代集百首」とでも
言った方がよい内容です。因みに凡河内躬恒など6首も、在原業平では3首も採用されていて、
それでもなおかつ恋歌は25首も残存しています。 

 明治になっては、百人一首競技かるたが盛行し、その競技始めの「序歌」として、全日本かるた
協会では、歌人佐佐木信綱の選定によって当該「難波津の歌」を採用しています。したがって
百人一首歌同様に、現代に於いても最も親しまれている和歌ということになりましょう。時節に
よっては、国歌の「君が代」以上に人々の耳に聞こえているのではないでしょうか。
 以下には、当該和歌のそれぞれの歌句の歌語がどのように後世の世界で活用されているかを
拾ってみました。

<その1:なにはつ>

(1)百人一首の中の「なには」「潟」や「江」    地名を詠み込んでいる歌は次の3首    第19番 なには潟短き芦の節の間も逢はでこの世を過ぐしてよとや(伊勢)    第20番 わびぬれば今はた同じなにはなるみをつくしても逢はむとぞ思ふ(元良親王)    第88番 難波江の芦のかりねのひとよゆゑ身をつくしてや恋ひわたるべき(皇嘉門院別当)    さらに、第18番「住の江の」(藤原敏行)歌まで入れますと、4首に「なには」が   言及され得ていることになります。    ちなみに、西国方面の「なには」に対して東國方面の「逢坂」が言及されている歌も三首と   対応するように藤原定家は「百人一首」を選定したのでしょうか。    第10番 これやこの行くも帰るも分かれては知るも知らぬも逢坂の関(蝉丸)    第25番 名にしおはば逢坂山のさねかづら人にしられでくるよしもがな(三条右大臣)    第62番 夜をこめて鳥の空音ははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ(清少納言)    (注)平成21年3月に大津市によって「逢坂の関跡公園」が整備され、これら3首の       百人一首歌碑が建立された。    (2)地理的名勝としての「なにわ」    上述の「難波津」「難波潟」「難波江」等に加えて、    浪速区:旧西成郡(難波村・今宮村・木津村・西浜町)地域を中心にしている。        区名は王仁が詠んだと伝えられる古歌「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり         今は春べと 咲くやこの花」(難波津の歌)からとられた。        上町台地西側平地で、北辺は西道頓堀川、西辺は木津川となっている。東部は        江戸時代に運河が開削されたが、1958年に埋め立てられた。        日本一面積の小さな行政区でもある。        1885年阪堺鉄道(後の南海鉄道)難波駅、1889年には大阪鉄道(現西日本旅客鉄道)        湊町駅(現在のJR難波駅)開通。        戦後は日本橋(恵美須町)が焼け野原から電気街として繁栄した。新世界は繁華街と        して老朽化したが、戦後の雰囲気を色濃く残すため観光に来る人も多い。        都心再開発プロジェクトにはOCAT、湊町リバープレイスを中心として 高層マンション群と産経新聞社などを誘致したルネッサなんばプロジェクト、 南海なんば駅前、大阪球場跡を再開発した商業施設と高層マンションの複合体 なんばパークス等がある。        ちなみに、大阪市には、「このはな(此花)」区もあります。    なにわ筋:大阪市北区の大淀中一丁目交叉点(国道176号)から西成区の長橋交叉点までの道路        2009年時点では西成区内で南伸工事が行われ、南海西天下茶屋駅付近〜岸里方面へ        けて工事中。    なにわ筋線(なにわすじせん):大阪府大阪市浪速区の関西本線JR難波駅および        南海汐見橋線汐見橋駅と、同市淀川区の新大阪駅を結ぶ計画の合計10.2kmに亘る        鉄道路線。大阪府および大阪市の提案により、2004年、中長期的に望まれる        鉄道ネットワークを構成する新たな路線とされた。2009年4月17日建設が        必要との動きがでている。    難波橋:大川(旧淀川)に架かる橋。浪速の名橋50選選定橋。大阪弁で「ナンニャバシ」。        大阪市中央区北浜〜北区西天満の堺筋にかかる、全長189.7m、幅21.8mの橋。        途中の中之島を挟み、土佐堀川と堂島川の2つの川を渡る。        江戸時代には天神橋、天満橋と共に浪花三大橋と呼ばれ、表記は「浪華橋」が一般的。        堺筋の西隣にある難波橋筋に架かっており、橋の長さが108間(約207m)もの大型の        反り橋だったという。1661年(寛文元年)天神橋とともに公儀橋とされた。         1912年(明治45年)、大阪市電堺筋線の北浜以北への延伸に伴い、現在の場所に        架け替えられた。        橋の南詰および北詰に天岡均一作ライオン石像が左右両側にあるため、「ライオン橋」        とも呼ばれている。このライオン像は左側が口を開く阿形像、右側が口を閉じる吽形像        となっており、文字通り狛犬の片方である獅子=ライオンであると言える。        1975年に3年間に及ぶ補修工事により戦時中に金属供出で失われた欄干や橋上灯が        復元され、近代大阪を彩った美しい外観を保っている。 (3)物の名称としての「なには(わ)」    漢字表記「浪速」「難波」「浪花」「浪華」など。万葉仮名「奈尓波」「奈仁波」など。    大阪市を指す古語。大阪市浪速区。    自動車ナンバープレート 国土交通省地方運輸局記号の一つ。    (「近畿運輸局大阪運輸支局なにわ自動車検査登録事務所」)管轄区域は大阪市全域。    列車愛称:かつの東京駅〜大阪駅間急行列車「なにわ」。         JR西日本のジョイフルトレイン「サロンカーなにわ」。         近畿日本鉄道特急列車「なにわ」。    校名:浪速大学 (1949年〜1955年) 現大阪府立大学         浪華高等商業学校 (1932年〜1935年) 現大阪経済大学         浪速中学校・高等学校-(1923年-)    浪花節:神仏の説経を源流とし、祭文(さいもん)、チョンガレ節と発展、        義太夫、長唄などのメロディーに落語、講談のストーリーを加味しながら        今日の浪曲になった。        節は演者が各自作曲し、好みに応じて語る。関東節、関西節、その中間の        あいのこ節など。明治初期までは大道芸の1つ。        戦前は講談と共に大衆娯楽の雄だった。東家三楽・日本浪曲協会会長、        大阪の真山一郎・浪曲親友協会会長の下、全国で約100人が活躍中(2006年9月現在)。        東京・浅草の木馬亭は日本唯一の浪曲専門劇場。

<<その2:さくやこのはな>

(1)「咲くやこの花賞」    大阪市が大阪から世界に文化人を発信し、また大阪文化の振興・発展を目指すために    設けている賞で大阪文化の振興を目指すと同時に未来の大阪文化を担う人材に対して    贈られる。受賞資格は40歳以下と限定され大阪市出身でなくても受賞することはできるが、    大阪を拠点に活動を行なっている必要がある。    「美術」「音楽」「演劇・舞踊」「大衆芸能」「文芸その他」の5部門に分かれる。     歴代受賞者の中で、大衆芸能部門で、昭和58年・1983以降を挙げると      桂文珍(落語) 今いくよ・くるよ(漫才)桂べかこ(現3代目桂南光)(落語)      太平サブロー・シロー(漫才) 宮川大助・花子(漫才) 6代目笑福亭松喬(落語)      桂吉朝(落語) 旭堂南左衛門(講談) トミーズ(漫才) 河内家菊水丸(河内音頭)      内海英華(寄席三味線) 林家染八(現5代目林家小染)(落語) 桂文我(落語)      桂あやめ(落語) 旭堂南海(講談) 海老一鈴娘(太神楽)りあるキッズ(漫才)      ますだおかだ(漫才) 桂かい枝(落語) サキタハヂメ(ノコギリ音楽)      桂吉弥(落語)菊地まどか(浪曲)桂歌之助(落語)桂まん我(落語) (2)「咲くやこの花館」(さくやこのはなかん)    大阪市鶴見区の花博記念公園鶴見緑地内にある事業主体大阪府の屋内植物園。    管理運営は財団法人大阪市スポーツ・みどり振興協会。    日本最大の温室(延床面積6900m2)を有する。     1990年に開催された国際花と緑の博覧会の、大阪市のパビリオンとして建設された。    外観は水面に浮かぶ睡蓮をイメージしている。 (3)大阪市立「咲くやこの花中学校・高等学校」    大阪市此花区にある、大阪市立の公立中高一貫校。    大阪市立扇町高等学校と大阪市立此花総合高等学校を統合改編し、併設型の中高一貫教育を    おこなう学校として、2008年4月1日に開校した。    学校敷地は、大阪市此花区西九条6丁目に新設。    中学校の行事例:2月6日(金)に校内で百人一首大会を行う。            生徒全員、大会当日までに国語や学級活動の時間を利用して練習。            各クラス・各班で本番にむけての作戦を練るなど熱心に取り組む。            代表生徒の元気な宣誓にはじまり、生徒たちの「はい!」という声が            大きく響き、とても活気のあふれた、ハイレベルな百人一首大会に            なりました。 (参考)コノハナノサクヤビメ     日本神話に登場する女神。一般的には木花咲耶姫と記される。     『古事記』では木花之佐久夜毘売、『日本書紀』では木花開耶姫と表記。     コノハナサクヤビメ、コノハナサクヤヒメ、又は単にサクヤビメと呼ばれることもある。     『古事記』では神阿多都比売(カムアタツヒメ)、     『日本書紀』では鹿葦津姫または葦津姫(カヤツヒメ)が本名で、     コノハナノサクヤビメは別名としている。     オオヤマツミの娘で、姉にイワナガヒメがいる。     ニニギの妻として、ホデリ(海幸彦)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦)を生んだ。

<その3:ふゆこもり>

(1)「春」にかかる枕詞    万葉集に詠み込まれている「ふゆこもり」は8首あり、すべて訓読みで、     春(8首)にかかる。1首だけ「時じき時と」(第382番歌)のトキにかかると     考えられる歌あり。     (「冬木成」 5首、「冬隠」 3首)(記紀歌謡に「ふゆこもり」を詠み込んだ歌はない。)     (引用資料:万葉集 枕詞における用字研究「ふゆこもり」2009年1月30日 植芝 宏氏) (2)勅撰和歌集での「冬籠り」歌    *難波津の歌と同じく第三句に「ふゆごもり」を用いている歌は、次の2首です。     「春来てもつれなき花の 冬籠もり まだしと思へば峰の白雲」                             新拾遺集83/後京極摂政太政大臣     「はるかなる四方の梢の 冬籠もり いかで咲くべき花と見るらむ」                             新続古今集840・前権僧正玄円    *初句に「ふゆごもり」を用いている歌は、次の2首です。     「冬籠もり思ひかけぬをこのまより花と見るまで雪ぞ降りける」                             古今集331/つらゆき     「冬籠もりあとかきたえていとどしく雪のうちにぞたき木積みける」                             新勅撰集1113・左近中将公衡 (3)「冬籠り」の俳句集 松尾芭蕉の句に 「難波津や田螺(たにし)の蓋も冬ごもり」 というのがあります。これは暗に当該「難波津の歌」を念頭に置いているのでは ないでしょうか。    また、 「折々に伊吹をみては冬ごもり」 という句もあり、この句碑は、つぎの拓本のように    碑文の上に窓が開けられていて、そこから伊吹の山を眺めて楽しむという風に、    工夫されたものになっており、拓本採取家は、好んで当該拓本を取り、この芭蕉の    俳句を楽しんでいるようです。

「冬籠塚」
「折々に伊吹を見ては冬籠もり」
はせを
元禄四年(1691年)
(「後の旅集」「笈日記」)
建碑場所:(大垣市八幡神社境内)
(参考2)参照方
昭和34年
大垣市文化財協会建立
芭蕉が元禄四年(1691)十月、京から江戸への帰路、
4度目に大垣訪問し、大垣藩士岡田治左衛門の
「千川亭(せんせんてい)に遊び」吟詠したという。
(笈日記)
句の意味は、”折々に近くの伊吹山の姿を眺めると、
ここ千川亭の冬籠もりは、風情に富んでいることだ。”
という。
(引用資料:麻生磯次「俳句大観」明治書院(昭和46年))
(参考1)貞亨・元禄時代の大垣の俳人
(1)宮崎荊口(けいこう)
名:佳豊、太左衛門。大垣藩士知行百石、広間番、
後に藩主に近従。
三子息と蕉門に入り、芭蕉来垣時、歓待を尽くす。
(2)宮崎此筋(しきん)
荊口の長男、通称太右衛門。大垣藩士。十七歳で
蕉門に入る。隠退後応休と改名。著に「江湖集」あり。
(3)岡田千川(せんせん)
荊口の次男。大垣藩士。岡田治左衛門の養嗣子となる。
芭蕉第四回来垣の折り、千川亭に遊ぶ。
(参考2)建立場所:岐阜県大垣市西外側町八幡神社境内

(参考3)各地の「冬籠」句碑
伊吹山の周辺地域に合計6基建立されている。
岐阜県(4基):各務原市、岐阜市、安八郡神戸町、大垣市
愛知県(1基):江南市
滋賀県(1基):彦根市
建立されている。
(宮澤康造・本城靖「全国文学碑総覧」日外アソシエーツ・
(1998年5月25日))
   その他の芭蕉の「冬籠り」句、あるいは、他の俳人の吟詠例を引用します。
   *芭蕉 冬籠りまたよりそはん此はしら  
       金屏の松の古さよ冬籠      
       冬ごもり燈下に書すとかかれたり  先祝へ梅を心の冬籠り
   *蕪村 勝手まで誰が妻子ぞ冬ごもり   屋根ひくき宿うれしさよ冬ごもり
       戸に犬の寝がへる音や冬ごもり  親も斯見られし山や冬籠
   *一茶 五十にして冬籠さへならぬ也   屁くらべが叉始るぞ冬籠
       焼筆で飯を食つつ冬籠      冬籠仏壇の花枯れにけり
   *子規 炭二俵壁にもたせて冬ごもり   冬ごもり小ぜにをかりて笑はるる
       君味噌くれ我豆やらん冬ごもり  手をちぢめ足をちぢめて冬籠
       薪をわるいもうと一人冬籠
 
(4)和菓子の商品名例ー<大阪高槻市内の和菓子屋店舗例>
   田辺屋の銘菓・冬籠(冬ごもり)は、高槻の地下清流水を用い、原材料の小豆は
   北海道十勝産の大納言を使用した銘菓。
   自家製のつぶあんは、くぬぎの薪を燃料に銅鍋を使って、「おくどさん」ーかまどーで
   大納言小豆をじっくり煮る製法によっています。
   つぶあんをふんわり丹念に焼き上げたカステラ風の生地で巻いた一本の棹菓子。 
   この棹菓子は、天保年間(1830〜)田辺屋初代幸助が時の高槻藩主永井侯に供したところ、
   賞賛され、朝廷献上の折に、ゆかしい「冬籠」の銘を賜わったとのこと。


<その4:いまははるべ>

(1)「いま・はるべ」氏は、関係ありや?    劇作家・放送作家・歌人の伊馬春部(明治42年(1908)〜昭和59年(1984))    木屋瀬が生んだ文人で、放送作家の草分け的存在として知られる。    本名・高崎英雄。鞍手中学校(現鞍手高等学校)から國學院大學へ進み、    民俗学者折口信夫(歌人・釈迢空)に師事。    伊馬鵜平の筆名で「新宿ムーラン・ルージュ」創立期の座付き作家のひとりとして    活躍したが、戦後は春部と改め、ラジオ、テレビ、映画、舞台の脚本等を    手掛け数多くの作品を遺している。    昭和52年(1976)の宮中歌会始の召人。母校鞍手高等学校、地元の木屋瀬中学校等、    数々の校歌、市歌の作詞をするなど、幅広い分野で活躍。 (2)「いまははるべ」を詠んだ歌の例    「あらをだのこぞのふるあとのふるよもぎ今は春べとひこばえにけり」     (新古今集・77・曽祢好忠)    「うちわたすさほのかははらの青柳も今は春べともえにけるかな」     (玉葉集・87・坂上郎女)    「あしびたきふゆごもりせり難波めも今は春べとわかなつむなり」
    (新葉集・1016・権中納言経高母)

<一口メモ(その1)万葉集の<ちち>はは>

 万葉集には父親より母親を思う歌が多く残されているようです。歌の数から比較しますと、
 「はは」と詠まれている歌は各巻毎に次のように集計されています。
   
  巻数  3 5 7 9 11 12 13 16 18 19 20 合計
   母  2 4 2 5 11  3  8  3  1  2  2 43
   父  1 4 0 4  0  0  8  1  1  2  3 24
  母父  1 4 0 3  0  0  4  1  1  1  2 17

 母の歌は、父の歌のざっと二倍近くあることになります。なお、もうすこし分析内容を変え、
母と父を一緒に使っている歌数をみますと、「父」を用いるときは、殆どが「母」とともに
用いられています。母のみを詠んだ歌は、大凡25首、父のみ詠んだ歌は6首ほどあります。
したがって、母の歌の内、約6割は「母」のみの歌と言うことになります。

 母のみを詠んだ歌として代表的なものを、巻11及び巻12中の歌から引用しておきます。

 「玉垂(たまだれ)の小簾(をす)の隙(すけき)に入り通ひ来ね
                 たらちねの母が問はさば風と申さむ」(巻11−2364)
 「たらちねの母に障(さは)らば いたづらに汝(いまし)もわれも
                       事のなるべき」(巻11−2517)
 「たらちねの母に知らえず わが持てる心はよしゑ 君がまにまに」(巻11−2537)
 「たらちねの母に申さば 君も吾も会ふとはなしに 年ぞ経ぬべき」(巻11−2557)
 「あしひきの山沢ゑぐを摘みにゆかむ日だにも会わせ 母は責むとも」(巻11ー2760)

 これらの巻の中の「母」のイメージは、「家庭の中心にあって一家を護る戸主的存在」として
詠まれています。子供の側からの「はは」の詠みは、「尊敬する」「やさしい」「おもいやりがある」
あるいは「甘えたくなる存在」などとは反対の、「きびしい」「威厳のある」また「一家を取り
仕切る」いわゆる「こわい存在」であるのです。現代で言うところの「頑固親父」あるいは
ある意味では「雷親父」的な存在と見なされます。
 例えば巻11の13首の歌を見ますと、夜ばいしてくる「好きな相手」が、何とか「はは」に
睨まれないで、逢う瀬の思いを成就したいという手合いの詠みが目立ちます。
 古代の母親は「こわい存在」あるいは「強い存在」であったことが、現在となっては懐かしい
感じがします。千二百年の時が、家族形態を変えてきたのです。

   ー第69回知恵の会資料ー平成19年4月15日ー<「知恵の会」への「知恵袋」>
    課題「袋」ー「おふくろさん」の歌謡ー母を讃える歌あれこれー 

<一口メモ(その2)日本のいろいろの<父>人物群>

  一般的な言い草としての<**の父>は、いろいろの分野のパイオニア的存在に対しての
 用い方ですが、大きくは「国父」や「建国の父」として、他国からの独立あるいは重要な発明などの
 創始や発展に重要な役割を果たした男性を「○○の父」と言い、現在では、次のような人物群が
 採りあげられています。(インターネット辞書「WIKIPEDIA」より)

 1.日本人の「父」 

 「日本鉄道の父」井上勝    「造幣の父」遠藤謹助       「沖縄学の父」伊波普猷
 「ブラジル移民の父」上塚周平 「マラソンの父 」金栗四三     「柔道の父」 嘉納治五郎
 「日本警察の父」川路利良    「近代日本資本主義の父」渋沢栄一 「近代将棋の父」関根金次郎
 「テレビの父」高柳健次郎      「学生野球の父」飛田穂洲     「光通信の父」西澤潤一
  「電気化学工業の父」野口遵   「日本の地下鉄の父」早川徳次     「美空市の父」 藤原はづき
 「日本近代郵便の父」 前島密  「日本映画の父」牧野省三   「日本の植物学の父」牧野富太郎 
 「日本のアニメーションの父」政岡憲三  「日本のインターネットの父」村井純 
 「日本の工業の父」山尾庸三   「日本プロレス界の父」力道山 

 2.外国人の「父」

 「日本野球の父」フランク・オドール  「日本サッカーの父」デットマール・クラマー 
 「日本の灯台の父」リチャード・ヘンリー・ブラントン 

 3.世界的に有名な「父」
 「天文学の父」ガリレオ・ガリレイ    「インド独立の父」マハトマ・ガンディー 
 「経済学の父」アダム・スミス      「赤十字の父」アンリ・デュナン 
 「近代科学の父」アイザック・ニュートン 「音楽の父」J.S.バッハ 
 「交響曲の父」「弦楽四重奏の父」「ピアノソナタの父」「ソナタ形式の父」ハイドン 
 「医学の父」ヒポクラテス    「原子核物理学(核物理学)の父」アーネスト・ラザフォード
 「奴隷解放の父」エイブラハム・リンカーン 
 
 このように人間社会の事績に関係した「父」を挙げるならば、いろいろの分野に選定できそうです。

  和歌の世界を例として採りあげてみますと、万葉集の場合、柿本人麻呂は「歌聖」であって、
「万葉集の父」とは呼ばれません。とすれば、さしずめ「万葉集の父」は大伴家持となるので
しょうか。では、「父」と「聖」の設定基準はどのあたりにあるのでしょうか。
 古今和歌集の場合、「古今集の父」に紀貫之を持ち上げたいところですが、その言い習わしは
ありません。近代の「短歌の父」に、正岡子規などは如何でしょうか。
 前に言及されましたように「音楽の父」は、バッハですが、ベートーベンは「楽聖」となる
ようです。では、ベートーベンは何故「音楽の父」になりえないのか。そのあたりの言い
習わしの基準が不明確です。

 日本人の「父」が誕生する條件はどうなっているのでしょうか。
 (1)どのような分野に「父」が求められるのか。
 (2)その分野に於ける活動や功績がどうなっていれば、「父」の称号が与えられるのでしょうか。
    単なる「パイオニア・開拓者・創始者」的存在であれば、いろいろな分野で、多くの業績を
    遺した先人が多く存在する。
 (3)どのような時代に、あるいは、どのような状況下で「父」の称号が与えられるのでしょうか。
    「父」を必要とする時代的、あるいは社会的な背景が何らか存在するはずであろう。

 一方、「日本の**の母」なる称号は、いずれかの分野で存在するのでしょうか。「国母」なる
大変な大きい称号は別にして、「父」と同様の事例が多くあってもよいところです。
 さしずめ「岸壁の母」「九段の母」などでしょうか。

<一口メモ(その3)古今和歌集「仮名序」抜粋>

   難波津の歌は、帝(注。仁徳帝の御代)の御初めなり。
      おほささぎのみこと(注、仁徳帝)、難波津にて皇子と聞こえける時、
      春宮をたがひに譲りて位に即き給はで三年になりければ、王仁といふ人の
      いぶかり思ひて、詠み奉りける歌なり。この花は梅の花をいふなるべし。
   安積山の言葉は、采女の戯れより詠みて、
      葛城王を陸奥へ遣はしたりけるに、國の司、事おろそかなりとて、まうけなど
      したりけれど、すさまじかりければ、采女なりける女の、土器とりて詠めるなり。
      これにぞ王の心とけにける。
      安積山影さへ見ゆる山の井の浅くは人を思ふものかは
   この二歌は、歌の父母のやうにてぞ、手習ふ人の、始めにもしける。

   そもそも歌のさま、六つなり。唐の歌にもかくぞあるべき。その六種の歌の一つには、
   そへ歌。おおささぎの帝をそへ奉れる歌。
      難波津に咲くやこの花冬籠もり今は春べと咲くやこのはな
   といへるなるべし。

<参考情報(その1)「木簡万葉歌」抜粋>

 滋賀県の紫香楽宮跡の宮町遺跡から発掘された万葉集歌の木簡に関するメモ書きを添付します。
   (出典:「万葉の玉手箱」(栗木幸麻呂編集)より「古代東西木片歴史遺物発掘はなし」)

 平成20年5月23日の全国版新聞の一面記事の見出しは「萬葉歌木簡」のニュースを
 伝えました。
  毎日新聞 万葉歌 初の木簡 8世紀に「歌の父母」
  読売新聞 木簡に万葉歌 「紫香楽宮跡」「難波津の歌」裏返すと「安積山の歌」
  産経新聞 木簡に万葉歌 歌集成立前に記す
  朝日新聞 万葉集の歌 木簡に 裏面には古今集の歌 (下記の新聞記事参照)
  京都新聞 万葉集の歌 木簡初確認 「安積山の歌」墨書、裏に古今集「難波津」
 この種の文化情報記事にしては近来にない大々的な見出し記事ということができましょう。
それだけ万葉歌木簡発見記事は衝撃的な内容であったといえましょう。
 発見された木簡の両面の状況と推定される「万葉集和歌」と「古今集和歌」の対比は
次のようになります。

推定復原模型

万葉集収録歌

(朝日新聞・赤外線写真)

古今集収録歌

推定復元模型
 5月23日に歌木簡発見の新聞発表がなされ、二日後の25日には、現地説明会と講演が
行われ、26日から30日まで、発見場所の近くにある宮町多目的集会施設で一般公開され
ました。甲賀市教育委員会の解説冊子より、今回の薄い木片に記された古代の和歌の意義を
確認してみましょう。

 木簡の寸法 厚さ 約1mm 長さ 415〜465mmおよび528〜544mm
 発掘時期  平成9年(1997年)度 宮町第22次調査
 発掘場所  宮町遺跡の西大溝部(紫香楽宮の基幹排水路)
 木簡の時期 天平15年(743)後半〜天平17年(745)初め頃

 万葉集との関係 万葉集巻16は天平17年以降の数年間に成立したと考えられており、
         当該木簡はそれ以前に「安積山」の歌が流布していたことになる。
         「安積山の歌」は木簡に書かれたり、万葉集に収録されたことになる。
  (注)「安積山の歌」の表記方法
         歌木簡:阿佐可夜麻 加気佐閇美由留 夜真乃井乃 
             安佐伎己々呂乎 和可於母波奈久尓 
         万葉集:安積山 影副所見 山井之 浅心乎 吾念莫國(巻16−3807)
         万葉集と同じ歌が初めて木簡で出土した意義は大きい。
  (注)万葉集に「安積山の歌」があり、「難波津の歌」は、無いことに関して、
     上述の犬養隆著書では、「世に盛行した「難波津の歌」を収録せず、「安積山の歌」を
     訓字主体表記に改め、漢文の左注を付して収録した「万葉集」こそが、当時にあって
     特殊だった。」と言及されている。
 古今集との関係 古今集(905年成立)の仮名序には
         「難波津の歌は帝の御初めなり。安積山の言葉は、采女の戯れよりよみて、
          この二歌は、歌の父母のやうにてぞ手習ふ人の初めにもしける。」
         と記されていて、紫香楽宮時代にすでに、両歌は、対の関係と意識されて
         いたことになる。紀貫之が唱え始めたものでなく、それより150年も
         昔の天平時代(745年ごろ)に既に、対で読まれていたことが解る。


紫香楽宮跡・宮町遺跡の田園風景

<参考情報(その2)「好忠集」抜粋>

 「難波津の歌」を「沓」に、「安積山の歌」を「冠」にして、31首を組みにして
「くつかんむり歌」を詠んでいます。420番歌から450番歌まで。

 「あ」  りへじとなげくものから限りあればなみだにうきてよをもふるか 「な」
 「さ」  かだがはふちはせにこそなりにけれみづのながれははやくながら  「に」
 「か」  ずならぬこころをちぢにくだきつつひとをしのばぬときしなけれ  「は」
 「や」  つはしのくもでにものをおもふかなそではなみだのふちとなしつ  「つ」
 「ま」  つのはのみどりのそでは年ふともいいろかわるべきわれならなく 「に」
 「か」 きくらすこころのやみにまどひつつうしとみるよにふるぞわびし 「さ」
 「け」 ふかともしらぬわが身をなげくまにわがくろかみもしろくなりゆ 「く」
 「さ」 ざなみやながらのやまのながらへてこころにもののかなはざらめ 「や」
 「へ」 じやよにいかにせましとおもひかねとはばこたへよよものやまび 「こ」
 「み」 よしのにたてるまつすらちよふるをかくもあるかなつねならぬよ 「の」
 「ゆ」 めにてもおもはざりしをしらくものかかるうきよにすまひせんと 「は」
 「る」 いよりもひとりはなれてとぶかりのともにおくるるわが身かなし 「な」
 「や」 へむぐらしげれるやどにふくかぜをむかしの人のくるかとぞおも 「ふ」
 「ま」 ろこすげしげれるやどの草のうへにたまとみるまでおけるしらつ 「ゆ」
 「の」 どかにもおもほゆるかなとこなつのひさしくにほふやまとなでし 「こ」
 「い」 でのやまよそながらにも見るべきをたちなへだてそみねのしらく 「も」
 「の」 ちおひのつのぐむあしのほどもなきうきよのななはすみうかりけ 「り」
 「あ」 ればいとふなければしのぶよの中にわが身ひとつはすみわびぬや 「は」
 (「は」は、「い」でなければならない。続後拾遺集巻十七・雑下・1183番歌でも
  「わびぬやは」となっている。「やも」の「も」を見せ消ちにして「は」と傍書。
  意味は、さびしくいきながらえねばならぬのか。(日本古典文学大系)そこで、
  「い」を次のように提案した次第。)
 (「あ」 ればいとふなければしのぶ世の中にわが身ひとつもとれぬは安寝(やすい))
 「さ」 はだかはながれてひとの見えこずはたれにみせましせぜのしらた 「ま」  
 「く」 さふかみふしみのさとはあれぬらんここにわがよのひさにへぬれ 「ば」
 「は」 なすすきほにいでて人をまねくかなしのばむことのあぢきなけれ 「ば」
 「ひ」 とこふるなみだのうみにしづみつつみずのあはとぞおみひきえぬ 「る」
 「と」 ぶとりのこころはそらにあくがれてゆくへもしらぬものをこそ思 「へ」
 「を」 しからぬいのちこころにかなはずはありへばひとにあふせありや 「と」
 「お」 もひやるこころづかひはいとなきをゆめに見えずときくがあやし 「さ」
 「も」 くづやくうらにはあまやかれにけんけぶりたつとも見えずなりゆ 「く」
 「ふ」 るさとはありしさまにもあらずかといふひとあらばとひてきかば 「や」
 「も」 とつめにいまはかぎりと見えしよりたれならすらんわがふしとこ  「は」
   (「は」は、「こ」でなければならない。「ふししとこ」(日本古典文学大系本)か。
 (「も」 とつひとに今はかぎりと絶えしよりたれ馴らすらんわが臥ししと 「こ」) 
 「の」 がひせしこまのはるよりあさりしにつきずもあるかな淀のまこも 「の」
 「か」 ひなくてつきひをのみぞすぐしけるそらをながめてよをしつくせ 「ば」
 「は」 りまなるしかまにそむるあながちにひとをつらしとおもふころか 「な」 

<参考情報(その3)「難波津百首」>

            金谷興詩が1812年に刊行した「難波津百首」
番号 作者    初句    部立  出典   番号 作者    初句    部立  出典
 1 (王仁)  なにはづに そへ歌 古今集序  2 采女    あさかやま なし 万葉集
 3 文室康秀  はるのひの 春上  古今集   4 光孝天皇  きみがため 春上 古今集
 5 源宗于   ときはなる 春上  古今集   6 読人不知  むめのはな 春上 古今集
 7 紀友則   きみならで 春上  古今集   8 凡河内躬恒 はるのよの 春中 古今集
 9 菅野高世  えだよりも 春下  古今集  10 素性法師  こづたへば 春下 古今集
11 僧正遍昭  はちすばの 夏   古今集  12 藤原敏行  あききぬと 秋上 古今集
13  凡河内躬恒 かくばかり 秋上  古今集  14 凡河内躬恒 あきはぎの 秋上 古今集
15 読人不知  みどりなる 秋上  古今集  16 読人不知  ゆきふりて 冬  古今集
17 春道列樹  きのふといひ 冬  古今集  18 素性法師  かすがのに 賀  古今集
19 読人不知  やまたかみ 賀   古今集  20 読人不知  めづらしき 賀  古今集
21 小野千古  たらちねの 離別  古今集  22 紀貫之   しらくもの 離別 古今集
23 白女    いのちだに 離別  古今集  24 藤原勝臣  しらなみの 恋一 古今集
25 読人不知  おもひいづる 恋一 古今集  26 読人不知  なつむしの 恋一 古今集
27 読人不知  あふことは 恋三  古今集  28 読人不知  いつはりの 恋三 古今集
29 凡河内躬恒 よしのがは 恋五  古今集  30 小野小町  いろみえて 恋五 古今集
31 藤原直子  あまのかる 恋五  古今集  32 読人不知  むらさきの 雑上 古今集
33 布留今道  ひのひかり 雑上  古今集  34 兼藝法師  かたちこそ 雑上 古今集
35 尼敬信   おほぞらを 雑上  古今集  36 読人不知  いにしへの 雑上 古今集
37 業平母皇女 おいぬれば 雑上  古今集  38 在原業平  よのなかに 雑上 古今集
39 藤原興風  たれをかも 雑上  古今集  40 凡河内躬恒 よをすてて 雑下 古今集
41 清原深養父 ひかりなき 雑下  古今集  42 在原業平  いまぞしる 雑下 古今集
43 在原業平  わすれては 雑下  古今集  44 喜撰法師  わがいほは 雑下 古今集
45 読人不知  かぜふけば 雑下  古今集  46 読人不知  なにをして 雑体 古今集
47 読人不知  わがかどお 神遊び 古今集  48 読人不知  きみをおきて東歌 古今集
49 読人不知  つくばねの 東歌  古今集  50 凡河内躬恒 いづことも 春上 後撰集
51  読人不知  うぐひすの 春上  後撰集  52 源信明   あたらよの 春下 後撰集
53 読人不知  あきのよの 秋中  後撰集  54 人の娘の奴 かみなづき 冬  後撰集
55 読人不知  おもはんと 恋二  後撰集  56 小八条御息所たちよらば 恋二 後撰集
57 読人不知  ひとづまに 恋二  後撰集  58 読人不知  おもはんと 恋三 後撰集
59 読人不知  なきなぞと 恋三  後撰集  60 伊勢    きよけれど 恋三 後撰集
61 藤原清正  つれもなき 恋三  後撰集  62 藤原兼輔  ひとのおやの雑一 後撰集
63 読人不知  あはれてふ 雑二  後撰集  64 読人不知  むつましき 雑三 後撰集
65 僧正遍昭  たらちねは 雑三  後撰集  66 紀貫之   おおはらや 慶賀 後撰集
67 藤原忠平  きみがため 慶賀  後撰集  68 村上天皇  をしへをく 慶賀 後撰集
69 大伴家持  はるののに 春   拾遺集  70 読人不知  つみたむる 春  拾遺集
71 中務    さけばちる 春   拾遺集  72 源公忠   よろづよも 賀  拾遺集
73 菅原道真  きみがすむ 別   拾遺集  74 藤原輔相  くきもはえ 物名 拾遺集
75 藤原高光  かくばかり 雑上  拾遺集  76 伊勢    くもゐにて 雑上 拾遺集
77 右衛門督公任たきのおとは雑上  拾遺集  78 右大將道綱母ちょくなれば雑下 拾遺集
79 寿玄法師  いなおらじ 雑下  拾遺集  80 壬生忠見  なにはがた 雑下 拾遺集
81 藤原為頼  ぬすびとの 雑下  拾遺集  82 壬生忠見  こひすてふ 恋一 拾遺集
83 源信明   こひしさは 恋三  拾遺集  84 中宮内侍  うつろふは 恋三 拾遺集
85 柿本人麿  なにはびと 恋四  拾遺集  86 読人不知  たまくらの 恋四 拾遺集
87 右大将道綱母なげきつつ 恋四  拾遺集  88 読人不知  わすれぬる 恋五 拾遺集
89 菅原道真  こちふかば 雑春  拾遺集  90 読人不知  おもふこと 雑春 拾遺集
91 平兼盛   よのなかに 雑春  拾遺集  92 贈皇后宮  しばしだに 雑春 拾遺集
93 僧正遍昭  ここにしも 雑秋  拾遺集  94 菅原道真  あめがした 雑恋 拾遺集
95 読人不知  はしたかの 雑恋  拾遺集  96 源順    さだめなき 雑恋 拾遺集
97 藤原道信  かぎりあれば哀傷  拾遺集  98 藤原為頼  よのなかに 哀傷 拾遺集
99 聖徳太子  しなてるや 哀傷  拾遺集 100 飢人    いかるがや 哀傷 拾遺集
 
ホームページ管理人申酉人辛

平成21年6月5日   *** 編集責任・奈華仁志 ***

ご感想は、E-mail先まで、お寄せ下さい。
なばなひとし迷想録目次ページ に戻る。 磯城島綜芸堂目次ページ に戻る。