平成社会の探索


ー第59回知恵の会資料ー平成17年12月17日ー

「知恵の会」への「知恵袋」


(その3)主題「鏡」---「日本人の鏡ー貴志康一の映画」

<”大大阪”の音楽と映画>

 平成17年の文化の日11月3日に大阪歴史博物館は満四周年記念日を迎えました。その記念講演会は
次のような催し物となりました。
 
 「大大阪80年記念 講演と音楽・映画でたどる”大大阪” ーミナミの街と文化ー 」
   講演 ミナミの近代ー賑わいのある風景をたずねてー 流通科学大学助教授 加藤政洋氏
       我が故郷とミナミ               イラストレーター 成瀬国晴氏
   音楽鑑賞(SPレコード演奏会) 蓄音機が奏でる”大大阪”とミナミの音楽
                               音楽ライター 毛利真人氏
   映画上映(東京国立近代美術館フィルムセンター所蔵品) 貴志康一監督「鏡」
                               音楽ライター 毛利真人氏

 (注)”大大阪”とは、大正14年4月に、大阪市は周辺の地域を第二次市域拡大で市街化
         することによって市街面積は56平方kmから、一挙に3倍強の182平方kmになり、
    一時、東京を抜いて日本一の人口を有する大都会になったので、呼ばれた名称。  

 大阪出身の音楽家貴志康一氏がどうして、映画の処女作品の題名を「鏡」としたのでしょうか。
映画の目的と内容、あるいは貴志氏の人物を追うことによって、「鏡」という言葉やその意味するところを
あたってみましょう。  

大阪歴史博物館記念講座の紹介記事(朝日新聞平成17年11月1日付け)

<貴志康一の映画「鏡」>

 音楽家の貴志康一が初めて製作した映画は「鏡」という題の日本文化紹介を目的としたドイツ語の
映画でした。 それは次の事情によるのです。
 彼は甲南高校二年生を中退して、大正から昭和に変わるその月、大正15年(1926)12月にスイスの
音楽院に留学しました。昭和4年(1929)9月帰国後、ヴァイオリニストとして演奏活動を開始しますが、
一年後の5月再びドイツに戻り、ベルリン高等音楽院で、ヴァイオリンは巨匠カール・フレッシュの高弟
ヨゼフ・ヴォルフシュタールに師事し、ラジオ映画音楽部門講座で作曲家のヒンデミットに師事し、
ラインハルト演劇学校では、演劇史や実技を学びます。
 昭和6年(1931)帰国後、三味線を習って「貴志提琴研究所」を開設し、「貴志学術映画研究所」も
設立します。ヴァイオリニストとしての演奏活動を展開しながら、昭和7年(1932)映画作品の
ロケーションにも活動を開始します。

 昭和8年(1933)再度ベルリン入りし、管弦楽法と和声法をE.モーリッツに師事しつつ、映画音楽や
その他の作曲編曲にかかります。同時に当地の映画会社(UFA:Universum Film AG)で、
トーキー映画「鏡」を完成させます。
 同年10月、UFA社で上映され、フランス語版(1834年完成、フランス語解説者には、ソプラノ歌手
関屋敏子を起用)、および英語版も計画されました。
 今回の記念講演で私用されたフイルムは、東京国立近代美術館フィルムセンター所蔵のものです。

 記念講演のレジメによりますと、映画の題目「鏡」は、「貴志のドイツに於ける庇護者であるヴィルヘルム・
ゾルフ元駐日大使が貴志から日本土産に古鏡を送られたことに由来する」と記されています。貴志が
「鏡」と命名した背景はいろいろ考えられます。
 まず、ドイツの高官への日本の土産として「古鏡」を送っている点に注目すべきでしょう。貴志は昔から
「鏡」の独特の思い入れがあったのではないでしょうか。この映画の最初の部分、すなわちナレーターの
ソプラノ歌手湯浅初枝による導入部分として日本文化紹介の皮切りに、まず「日本女性と鏡」の関係を
言及させているのです。 大凡次のようなないようであったと思います。

 「古来日本では、鏡は現代の日常生活の装身具としてでなく、形や輝き、更に物を映す働きから、
  「太陽の象徴」とされて、不思議な魔力を持った「呪術」の用具であり、また魔力を見破る霊力を
 有する物とされてきました。
  歴史的には古墳時代以降、権力者の神器となり、玉・剣とともに「三種の神器」の「八咫鏡」と
 称されました。
  日本女性にとって<かがみは女の魂>(<刀は武士の魂>に比称される)と言われました。」

 貴志康一の頭の中には次のような色々の含みを持たせていたものと思います。
 映画の題をわざわざ「KAGAMI」と日本語をローマ字で書かせています。「Spiegel」として
いないのです。すなわち「かがみ」という言葉自身が重要であると言うことです。
 
 「かがみ」「鏡」という日本語の語義に対応して貴志康一の意図した点は次のように想像されます。
 (1)物を映す道具・・・・・・・・「日本文化」という物を映している。
 (2)鏡に映る影・・・・・・・・・・貴志の頭の中にある「日本文化」の映像。映画では「夢」も
                                      映像として登場させる。
 (3)手本・見本・亀鑑・・・・・日本映画の新手法を導入し、近代映画の先駆けをしたいという
                                     意気込み。
 (4)様子を見る・・・・・・・・・・昭和初期の日本を記録に納める。

 では、どうして「日本文化」の紹介なのでしょうか。それは、彼の若くして十代で西欧文明社会の
真っ直中に身を置いた経験がそうさせているのでしょう。ヨーロッパに於いて、他民族の文化に接して、
改めて日本文化を振り返るとき、日本の事物の色々な局面を見直すことになったものと思います。
表向きは、ヨーロッパ特にドイツへの日本という国の映像紹介ということになっていますが、
その動機とは、彼自身の祖国の再認識であったと思います。

********   (参考メモ)記念講演会レジメから「鏡」に関する解説  **********
 「鏡ー日本人家庭の伝統」
          ドイツ名    Kagami-Traditionen im Hause des Japaners
          監督・音楽 貴志康一 
          脚本・編集 ヴィルヘルム・プラガー  
          出演     主人公・玉木太郎:貴志康一
                  および彼の関係者 (道具屋春海商店桂氏、
                                                                  姉妹照子氏・静枝氏、ほか)
                  ドイツ語解説者 ソプラノ歌手・湯浅初枝
          製作     UFA文化映画部門 ニコラス・カウフマン グループ

 映画技術面での特徴
  「・・・・貴志康一がこの映画で試みた新しい映画手法が映画の中での主人公が見る「夢の場面」で
      いろいろに試みられていて、<日本映画史上でも極めてユニークで貴重な記録>ということが
      出来ます。
   <モンタージュや多重露光などによって表現された心理描写、魚眼レンズの映画利用、
      特殊撮影である。魚眼レンズは当時ツァイス製品が日本に輸入されていたが、新聞の静止画に
      しか用いられなかった。それを独自のレンズ設計と大阪府立工業試験場の研磨技術で明度を
      あげて、動画撮影を可能にしたのであった。波間に揺れる三日月の特殊映像も工業試験場で
      撮影されたものである。これら前衛的な映画手法で戦前の大阪が記録されている点も興味深い。
      1934年の室戸台風で倒壊する四天王寺の五重塔、淀屋橋の御堂筋線地下鉄工事
     (1933年開通)など、・・・・壮観である。>・・・・・」

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<貴志康一の略歴>

1909 明治42年  0歳 大阪市都島区網島町の貴志弥右衛門・カメの長男として誕生
                母親の実家である吹田市内の西尾家は仙洞御料として豪農で
                                   庄屋の旧家。

貴志康一の母親の実家は、吹田市の歴史資料館として保存される。
1914 大正 3年  5歳 集英幼稚園(大阪・今橋)入学。
1915 大正 4年  6歳 偕行社(陸軍第四師団付属)小学校入学。

1919 大正 8年 10歳 芦屋に引っ越して、甲南小学校五年編入。
                                  ヴァイオリンに興味を持つ。
1921 大正10年 12歳 ミッシャ・エルマンのヴァイオリンを聞く。
                                  甲南中学(貴志康一記念室あり)入学。 
1925 大正14年 16歳 甲南高校進学。大阪心斎橋・三木楽器店で
                                  初のヴァイオリンリサイタルを催す。

1926 大正15年 17歳 ジュネーブ音楽院へ留学
1929 昭和 4年 20歳 ヴァイオリンの名器ストラディヴァイウス購入(6万円・約2億円)
                帰国の途上、ピアニストのレオ・シロタと会う。後年共演。
1930 昭和 5年 21歳 日本デビューリサイタル。
                再度ドイツに戻り、ヴァイオリン、作曲、指揮、演劇を学ぶ。
                元駐日大使(1920〜1928)ウィルヘルム・ゾルフ氏に会う。
1931 昭和 6年 22歳 ベルリンフィルのフルトベングラーと親しくなる。
                帰国後、多くの演奏会を開く。
1932 昭和 7年 23歳 映画製作にかかり、大阪と京都で「色彩映画発表会」を催す。
                再びパリ経由ドイツへ渡る。
1933 昭和 8年 24歳 ベルリンの映画会社ウーファに映画持ち込む。
                                   トーキー映画「鏡」上映。
1934 昭和 9年 25歳 「日本の夕べ」で自作映画作品上映、自身の指揮により
                                  「日本組曲」発表。
                ベルリンフィルを指揮する。

1935 昭和10年 26歳 ベルリン放送交響楽団を指揮して自作自演。
               ベルリンフィルハーモニーを指揮してレコーディング。
               ナポリ経由帰国。大阪で指揮者としてデビュー。
                                 新交響楽団を指揮して東京でデビュー。
1936 昭和11年 27歳 多くの交響楽団を指揮し、活発な演奏活動を展開する。
               ドイツの名ピアニスト・ウィルヘルム・ケンプとの共演もあり。
               腹膜炎で倒れる。
1937 昭和12年 28歳 11月心臓麻痺のため阪大病院で死去。

(参考メモ)日本の音楽界に於ける山田耕筰や近衛秀麿の後継指揮者・貴志康一と朝比奈隆
指揮者名貴志康一朝比奈隆
生年月日明治42年3月31日 1909明治41年7月9日 1908
指揮者デビュー昭和10年 新交響楽団昭和15年 新交響楽団
没年月日昭和12年11月17日 1937平成13年12月29日 2001
享年28歳93歳
 

<貴志康一のスナップ写真>


<貴志康一再発見の新聞記事>


<貴志作品の演奏会ポスター>



平成17年11月25日   *** 編集責任・奈華仁志 ***


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