平成社会の探索


ー第84回知恵の会資料ー平成21年3月29日ー

<「知恵の会」への「知恵袋」>


(その29)課題「つ(津)」
「津の国の風物ー能因法師の世界」
目       次
1.「能因集」の風景 2.摂津国の「能因歌枕」 3.「なにはづの歌」の「難波津」
4.「津の国」の風物三点セット
(その1)「みをつくし」(その2)「長柄橋」(その3)「葦」
一口メモ
(その1)能因法師の「わが宿」考
(その2)能因法師の略歴
(その3)「勅撰集」の「津の国の」歌枕
 課題「つ(津)」といえば、筆者の生活圏「津の国」すなわち「摂津国」となり、近世では
「摂州」と称されるものの、筆者の地元の先住歌人「能因さん」は、「津の国」と歌い上げた。
 全国68諸国の中にあって、唯一「津」の国名を持つのは、「摂津国」。能因法師の目に
映った「津の国」とは、如何な物なりや。
 因みに、海や水に係わる国名は、近江・三河・遠江と阿波の4国。

<1.「能因集」の風景>

 中世の歌人で、百人一首第69番歌の能因法師は、「津」の國に住まいして、「摂津国」を
こよなく愛していたと思われます。その私家集に残された彼の目に映った今からほぼ千年前(注)の
「津の国の風景」は如何なる物であったのでしょうか。
 (注)能因法師は988(永延二年)生まれで、1045年(寛徳二年)以降近々までの
    人生を送ったとされます。(後述の<一口メモ(その1)>参照方)

 能因集には、歌枕としての各所の名前は大凡、256首中84首(33%)に及び、如何に
歌詠みの周囲の環境に関心を持っていたかが解ります。さらに、これらの84首中、24首が
「津の国」の地名およびその関連歌語を詠み込んでいます。正しく「能因法師」の歌い上げる
「ひとにみせばや」の「おらが國」の披露です。

  「能因集」歌番号 「難波津」関連歌語     参考メモ
     10    みをつくし(身を尽くし) 能因歌枕「摂津」に言及される事項
     15    すみの江(住吉)     住吉詣で
     16    長柄の橋         「朽ち」と「たち」のコントラスト
   32・33   難波堀江 葦       大江嘉言とのやりとり
   35・36   葦            「葦の篠屋」「難波の葦」
     46    生田の森         「いくたびか」の序詞
     48    難波の浦         源道済への挨拶
     56    水無瀬河         能因歌枕「山城」に言及される事項
     62    難波江 玉藻刈り     難波江に人を訪う
     83        難波の浦         春の景色を愛でる
     85    伊駒の山         「わが宿」の風景
     86    住の江          源道済の訃報に接して
    134    蘆のやのこや       近隣への騎行
    135    野辺の萩の露       猪名野の騎行
    136    猪名野中道        猪名野の騎行
    139    難波の浦         浜名の橋(遠江國歌枕)連想
    155        難波潟          難波江の航行
    169    榎津(住吉郡)      万葉集・高市黒人歌の本歌取り
    170    難波江          霞棚引く風景への言及
    174    難波の浦         梓の山(近江国坂田郡)紀行
    199    長柄の橋         白氏文集・歎老の倣い歌
    237    長柄の浦         河口の風景 

 これらの地名の読み込みを集約しますと、「難波堀江、難波の浦、難波江、難波潟、長柄の浦」
「住の江」「蘆のやのこや」「葦」「みをつくし」「長柄の橋」「生田の森」「猪名野」「榎津」
「長柄の橋」「水無瀬河」「伊駒の山」などとなります。「こや」も現在の「昆陽池」の様な
風景を描きますと、これらの「難波津」に関連する歌語は殆ど全て「水」や「水辺」に関係する
ことになります。

 これらの中で、さらに「津の国」を連想させる風物としての三点セット
「長柄橋」「葦」「みをつくし」事項に関する参考メモを4.項に述べます。


<2.摂津国の「能因歌枕」>

 「能因歌枕」に採りあげられている摂津国の歌枕を抽出してみましょう。
    (出典:佐々木信綱編「日本歌学大系第一巻」風間書房(昭和47年8月))

 摂津国内の歌枕は35か所ほど列挙されています。事項別に分類しますと、次のようになります。

 津関係ーなには津、みをつくし
 橋ーながらの橋
 浦・江ーけるみの浦、なからの浦、まのの浦、みかみのうら、
     ほり江、すみの江、すみよし、しまえ
 川ーあまの川、みなと川、
 池ーたまさかの池
 山・をかーかへるやま、たまさか山、まちかね山、いはせの山、水のをか、
 森・社・松ーいくたの森、はつかしの森、ふぢの森、いはせの森、ゆきの森、神なびの社、
       たまさかの松、まつかぜ
 渡り・関・里・原ーあまのわたり、あこめの関、なが井の里、せびえの原
 井ーかめ井、さくら井
 滝ーぬのびきの滝、
 その他ーさまのさき、たきののは、

 能因法師の頭の中には、地元の摂津や畿内に加えて、東国や陸奥の世界が大きく且つ広く、深く
展開していたのは確かです。
 さらに能因歌枕はそれにとどまらず、その他の地域にも歌を残しています。その地域を詞書きに
二三拾ってみますと、次のようになります。

 「春美濃の南宮にて、・・・」
 「美州に閑居五首」
 「長暦四年(1040年頃)春 いよのくににくだりて・・・」

 美濃、美作、伊予と、東に西に多方面に出歩いたことが想像されます。
 能因法師のこれらの諸国行脚は法師としての修業の旅人はとても理解できません。
 それは各地で詠んだ歌が仏道に基づく修養の心を表に出したところが全くないからです。むしろ、
気ままに思いつくままに旅を重ねていると言った方がよいような印象を受けます。
 これは多分に「都をば霞とともに」立って、数奇の逸話を残した奇人に誓い人物像から来る想像に
過ぎないかも知れません。

 「能因歌枕」で、採りあげられている景物の歌枕を分類しますと、次のようになります。

  関ー逢坂の関、白河の関、衣の関、不破の関
  河ー吉野川、竜田川、大井川
  橋ーはにはのはし、はまなのはし、さののふなはし
  山ー吉野山、朝倉山、みかさ山、竜田山
  森ー神奈備の森、生田の森、信太の森
  滝ーいはなみのたき、おとなしのたき
  野ー嵯峨野、交野、宮城野、春日野
  里ー信夫の里、伏見の里、生田の里

 一方、採りあげられている諸国の所々名の件数を集計しますと、採りあげている国名は山城以下
62国にのぼり、その中で、最も多く歌枕を挙げているのが、
  山城(86か所)、大和(43か所)、陸奥(42か所)
  摂津(35か所)近江(26か所)河内(14か所)
などです。

 それにしても西行に先行した旅の歌人能因法師は、自らの面目躍如たる「能因歌枕」の和歌世界を
追求した人生であったことは確かです。

<3.「なにはづの歌」の「難波津」>

(1)「なにはづの歌」のふしぎ
  *古今和歌集仮名序に紀貫之が記した「おほささきのみかどをそへたてまるれるうた」としての
   「なにはづにさくやこのはなふゆこもりいまをさるべとさくやこのはな」・・・(10世紀)
  *毎年新春、滋賀県近江神宮「百人一首かるた大会」では、競技始めの序歌として
    朗々と読まれる歌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(21世紀)

  *2008年5月23日、奈良時代に聖武天皇が造営した紫香楽宮のあった滋賀県甲賀市内の
   宮町遺跡で2007年に確認された木簡に「なにはづの歌」が記されていると発表された。
   しかも、此の歌が発見されたのは、宮町遺跡の木簡が最初でなく、
  *1998年(平成10年)11月5日付新聞発表によりますと、徳島県観音寺遺跡から
   出土した木簡にも、さらには、
  *平城京や平城宮の史跡から出土される土器、木器、木簡などに、
  *昭和22年(1947)奈良法隆寺五重塔解体修理時、天井の組子の墨書でも発見されている。

   これらの事実から、この「なにはづの歌」は、すでに8世紀始めには、相当広く普及して
  いたことになり、実に1300年以上の歴史を有する歌ということになります。
   研究者の言を借りますと、
  「七、八世紀を通じて「難波津の歌」は汎用性の高い典礼向けの「歌」であった。」
     (犬養隆「木簡から探る和歌の起源」笠間書院(2008年9月30日))
  「難波津の歌が万葉仮名を習う手習い歌であった」
     (大阪市市史編纂「新修大阪市史(第一巻)」大阪市(昭和63年3月31日))
  と評価されています。

(2)「難波津」の所在地
  「なにはづの歌」に詠まれた「難波津」は、一体何処にあったのか。上述の「大阪市史」では、
  「難波の津は一か所にかぎらなかったと思われる。・・・船着き場は何カ所もあったに
   違いない。・・・河内の平野の北部には大きな潟湖(河内湖)があったから、その潟湖に
   臨む上町台地の東の縁辺部にも津が存在した可能性がある。殊に堀江が開削され、潟湖と
   大阪湾の連絡が便利になってからは、上町台地東辺ないし北辺に津が発達したであろう。」
  「難波津は国内交通上の要衝であったばかりでなく、海外からの使者を迎えることの多い
   国際的な港でもあった。」


(3)「難波潟」と「難波江」

  百人一首の88番歌では「難波江」と詠まれ、この歌では「難波潟」と詠まれている難波津周辺の
「中世の地形」は、自然の砂州が造りだした入り組んだ干潟から成り立っていたのでしょう。現在で
こそ、埋め立てによる人工島からなる複雑な入り江が大阪港を形成しているわけですが。
 平安朝より遙か以前の難波の地は、南北に横たわった茅渟(ちぬ)の海と河内の海を区切っている
上町台地を中心とした古代人の生活の場であったのです。
 さらに台地には、仁徳陵以前の多くの古墳群の存在が確認されています。
 たとえば上之宮古墳、帝塚山古墳などです。これらの台地の周りは多くの島と潟が存在したわけで、
現在でも島と付く地名が上町台地の周りに残っています。その典型的な地名は「島之内」という
大阪商人の中心地の名称です。

 「潟」とは漢和辞典に依りますと、「遠浅の海岸で、潮のさし引きによって隠れたり現れたりする
ところ」ですから、百人一首歌88番の「江」よりは陸地に近い所を指しているようです。
 また歌に詠まれた葦はどちらかと言いますと、「潟」より「江」に繁茂しているのが通例と
思います。昔は難波潟のあちこちに繁茂していたと思われる「葦」も言葉として残っている
例としては、浪速区に「葦原橋」「芦原町」の駅名があります。
 昔は一面の葦の原であった「難波潟」も今では「四方に穂が飛び出したコンクリート製の葦の
ような」「テトラポット」の防波堤と変わっています。
 僅かに所々に残っている淀川の葦も河川の汚染が進むことによって姿を消していくののではないで
しょうか。そうなれば「難波潟」と「葦」の関係もなくなってしまうかもしれません。

 「難波」の古地名だけでも少し残しておきたいものです。
 現在「なにわ」は「なにわ区(浪速区)」に「なんば(難波)」が残っていると共に、現代社会
らしく目立つ名前は、自動車のナンバープレート(車番板)に、「なにわ」が登場してきたことです。
 「大阪」よりも、ひらかなの「なにわ」の方が何か親しみのある和らいだ感じを受けます。
 「難波橋」は北浜から大川(旧淀川)を渡して、西天満に架かっていて、橋袂でライオンが橋守を
している橋です。現在の橋は全長187mで、1975年竣工になるものです。「浪速808橋」と
いわれる多くの橋の中でも重要な橋の一つになっています。

 「難波江」と「みをつくし」を見たいと思います。
 「難波」の歌語を詠い込んだ百人一首歌は全部で3首あります。この歌数は「逢坂」の百人一首
固有地名と同じく最も多く、後世になっても多くの歌人に詠われたものです。
 京の都から見て東国方面への玄関である「逢坂」の地と、西国方面への玄関である「難波」の地が
ともに3回詠われていることも大変面白い偶然の一致でしょうか。
 因みに百人一首において固有の地名を詠まれたところは、全部で10府県の36個所になり、その
内訳は次のようになっていて、畿内5府県で全体の83パーセントになります。
 
           百人一首歌固有地名所属府県件数順位
      奈良県ー10(28%) 京都府ー8(22%) 大阪府ー5(14%)
      兵庫県ー 4(11%) 滋賀県ー3( 8%) 宮城県ー2( 6%)
      鳥取県・静岡県・茨城県・福島県ー1( 3%)

 難波江の「江」(百人一首88番・皇嘉門院別当歌)とは、漢和辞典に依りますと、「河海湖水
などの陸地に入り込んでいる所の入り江」です。因みに「潟」(百人一首19番・伊勢歌)とは、
遠浅の海岸で潮のさし引きによって隠れたり現れたりする所のひかた」となっていますから、「江」と
「潟」では若干地形の意味するところがことなります。
 
 「難波潟」は万葉集でも、平安朝和歌でも詠まれていますが、「難波江」は後者の和歌のみの歌語の
ようです。たとえば「難波江のあし」の歌い出しの例を八代集にみますと、

 「難波江のあしのはなけのまじれるは津の国飼の駒にやあるらむ」(拾遺集・巻九・雑下・537)
 「難波江のあし間に宿る月見れば我が身ひとつもしづまざりけり」(詞花集・巻九・雑上・345)
 「難波江のあしのわかねの繁ければこころもゆかぬ船出をぞする」(金葉集・巻十・雑下・596)

などが見出されます。
 入り江ということに注目して、六〜七世紀の難波の浜の地形を見ますと、海岸線は現在より東側の
上町台地の西海岸になっており、難波宮の北端は、河内平野から流れ込んできた多くの河川によって
入り江が形成されています。これらを総称して、「難波江」と呼んだのでしょう。
 現在の大阪府の地形より河川が多く、湖沼も多く、かつ河口近くには嶋や州が多かったことが
記されています。
 平成期の大阪湾には、河川改修工事によって淀川や大和川という大河川が流入するようになった
ことに加えて自然に堆積する土砂による州や島と違って人工埋め立て地がどんどん沖合にせり出して
いるのです。これらの人工島が作り出す入り江こそ現代の「難波江」ということになるでしょう。

 難波江とは葦が繁茂していた難波宮の岸辺一帯を指しているのではないでしょうか。古い難波の
海岸線は現在の大阪市の区割りで言えば中央区の東半分、天王寺区、阿倍野区、住吉区の西境界線に
あたり、北は大川にかかる天神橋や天満橋の南端から、西は上町台地に沿って南下する現在の阪神
高速道路あたりであったと想像されます。
 上町台地の稜線には熊野街道があり、その出発点は正しく大川の川岸の八軒浜といわれたところに
あたるわけです。現在昆布屋さんのビルの玄関角に記念碑が建てられているのみです。
  京の都を出発した熊野詣での人々はこの八軒家浜で船から下りて、街道を南へ南へと旅していった
のです。四天王寺へも、住吉大社へも、紀州の和歌浦から南紀へも、全てここを出発点としたわけです
から、言ってみれば現代の大阪駅あるいは新大阪駅に当たると見て良いわけです。当時の人々の往来が
偲ばれます。この熊野街道を真北に通り抜けるような橋が旧淀川・大川にかけられていたならば、現在
でも賑わいのある町筋になっていたかもしれませんが、天満橋と天神橋は、此の熊野街道の起点から
約250mほど東西にずれてかけられています。

 当該地点は、平安期よりさらに後年の南北朝時代には戦場と化しているわけです。現在大川端の
防潮堤の上に「小楠公義戦の碑」が建立されていて、往時の楠木正行の戦闘振りを讃えています。
 現在の防潮堤は、水面から約2m近くも高いものになっていて容易に大川端に下りることが出来ま
せん。もはや大川浜から陸に上がったり、船に乗り込んだりする必要はなくなりましたが、「水の都」
といわれながら、なかなか水辺に親しめないような人工的環境になされつつあります。

<4.「津の国」の風物三点セット>

<(その1)「みをつくし」>

<大阪市章>
 元良親王によって百人一首歌に詠い込まれた「みをつくし」(澪標)の「澪」とは、「水尾」
あるいは「水緒」と表記され、河口付近を通る水路であり、湾内船の航路を意味します。
 河川が海浜に流入する三角州などの遠浅の所で、干潟の表面が河川流に掘り込まれて河川の延長と
して浅い水路が出来ている状態で、一般にその水路は、屈曲し、分枝している場合が多いのです。
柔らかい砂泥で構成されていて、満潮時には水面下に没するため、川の流れや海の波でその形態は
変化を受けやすいのです。

 典型的な場所は、古代の大阪湾、さらには、東京湾や伊勢湾などの湾の奥部で見られた現象です。
 したがって「澪」(みお)「つ」(の)「くし」(串)とは「澪」の所在を示して船を導くために
水路に沿って立っている杭(航路標識)で、小型船の交通の便に利用されるのです。
 因みに、「澪引く」とは水路に沿って船を進めること、「澪引き」とは、「水先案内」すなわち
いまでいう「パイロット」です。嘗ては大阪湾内にも立てられていました。

(左)「浪花百景」天保山に描かれたみをつくし(右)大阪湾内木津川口に明治10年頃まで
立てられていた澪標の例(出典「新修大阪市史・第5巻第二章」211頁)
 澪標の形態は大昔から現在の大阪市の市章のような物ではなかったようです。
 参考資料(柚木学「近世の大阪とみおつくし」「大阪春秋」第61号21頁)によりますと、

 「澪標の原形である水尾木の形式は、古くから一貫して棒杭形式であったが、十八世紀後期に
  なって、×型の標識がつけ加えられ、十九世紀前期からは、それに横木を追加することによって
  今日の澪標形式のものに定着した」

と考察されています。したがってもともと澪標は、難波独特の風物ではなく港の要所には、類似の物が
各地にあったと考えられます。十九世紀以降は、「難波」を代表するような景物になったのですが、
元良親王の頃は、形はともかく難波の港に相応しい目立った港湾建造物であったのでしょう。
 参考として、浜名湖の引佐細江の澪標の例を後述します。

(左)寛政十年頃の澪標の図絵(右)天保二年頃の澪標の図絵
(引用資料:「大阪春秋」第61号21頁)
 「大阪市史」によりますと、「澪標」が大阪市の市章に選定されたのは、明治27年4月で、丁度
大阪市が市政を布いた明治22年から5年目のことでした。最終的に決定するまでに紆余曲折があり
一般懸賞募集までして審議にほぼ一年を要しているようです。
 しかし、いまになってみますと、歴史的にも由緒深い、まさに「難波なるみをつくし」の大阪市に
相応しい「徽章」(市章)ということが出来ましょう。審議案も添付しておきます。

(左)大阪市章の図案例(明治26年頃)(右)大阪市公文写し(大阪市会史より)
  澪標は船の水路の目印であると共に、現代の大阪の人々にとっては、「生活の水路の目印」でも
あるのです。澪標が人々の命の「みをつくし」として、これからも果たす役割は大きくなるばかり
でしょう。
 すなわち、その昔、「みをつくし」は船舶を誘導したように、現代の「澪標」は、海上の船に代わる
陸上の「船」というべき自動車に引き継がれていて、道路を流れる大阪市営バスを先導しています。
 このように「みをつくし」は現代人の生活に密接して、生活環境を先導したり、誘導したりする
役目も持っています。
 大阪市役所にも「みをつくし」の誘導がありました。現在の大阪市役所は、先代の建造物と比べ
ますと、外観上は簡単な箱形になってあまり特徴のない物ですが、各階のベランダの手すり格子は
「みをつくし」の模様を受け継いでいるように見えます。

  (左)現在の大阪市役所正面玄関(右)先代の大阪市役所と屋上の「みおつくしのかね」
 先代の大阪市役所の屋上に、青少年の非行への警鐘として大阪市婦人団体協議会が鐘を据付け
ました。毎日午後10時になると庁舎の屋上から時刻を告げると共に、青少年を先導し誘導する役目、
すなわち「早く家に帰りなさい!」と呼びかけたのです。
 「みおつくしの鐘が鳴りました。良い子は早く家に帰りましょう。」
 又、毎年1月15日成人の日には、成人に達した人々が共に鐘をつき、良き社会人、大阪人の成人と
なれるように祈念の式典を行っていたのです。
 これからも大阪は、いろいろな面で「みをつくし」に先導されていくことでしょう。


<引佐細江の澪標>
 清輔集では、「恋」の歌題で、掛詞「逢ふことを否」「身を尽くし」「深き徴し」などを織り込んで
「身を尽くしても相手が応じてくれない恋の嘆きを詠む」(芦田文献)歌になっているとされます。

 「あふことをいなさほそ江のみをつくしふかきしるしもなき世なりけり」(231番歌)
               (「久安百首・967番歌」及び千載集・巻七・恋四・860)

 「あふこと」は「否」ですから「逢わない」、という侘びしい「ほそ」ぼそとした恋の状態を詠んで
います。「ほそ江」に「ふかきしるし」を対比させ、「あさ」せの「しるし」である「みをつくし」が
なんともさびしく突っ立っている風景です。「みをつくし」は、「恋」の舟を誘導する「しるし」で
引用しているのではなく、「此処に近寄っては、恋は座礁してしまいますよ」と、恋の相手を近づけ
ない「しるし」のように見えてきます。「細江」の「みをつくし」が活かされています。清輔も
「みをつくし」を活用して恋の歌に仕上げました。

 一方、清輔によって「初めて」(芦田文献)本歌取りされた万葉歌は、「遠江」「引佐細江の」
「澪つくし」を「身を尽くし」にかけて恋に対して相手を思う心が(澪つくしの立つ浅瀬のように)
「あさ」くなるであろう「相手の不実を責めている」(芦田文献)のです。

 「とほつあふみ いなさほそえのみをつくし あれをたのめてあさましものを」
               (万葉集・巻14・譬喩歌・3448番歌・遠江国歌)
  ー遠江の引佐細江の澪標のように、私を信頼させておいて、やがては心浅くなるであろうものをー

 万葉集の歌では、「遠江の」という国名もこの歌には相応しいものです。「近江」でなく、恋の
相手が気持ちの上で「遠い」存在で、さらに「遠く」なっていく儚い気持ちを暗示しているように
思います。また「みをつくし」は「海」に必要でなく、「あさ」くなったり深くなったりする「江」に
必要な物です。恋の相手への思いが常に深いのならば「君を思う心は」「海の深さより深い」などと
詠うことで、十分に意図を伝えることが出来ます。ところが「君を思う心が」「遠」のいて、「深く」
思うようになったり「あさ」くなって「いな」と拒否されたりすると何ともやるせなく、それがまた
「恋」の心の揺れ動きなのかも知れません。ここではやはり「遠い」「江の」か「ほそ」い恋の
先導役「みをつくし」が必要で、恋にお互いが「身を尽くす」ことを求め合うものなのです。

 遠江国の歌枕「引佐細江」の「みをつくし」を探訪してみましょう。
 引佐細江は現在の静岡県引佐郡細江町気賀付近で、地理的には浜名湖東北部一帯で、浜名湖が
気賀へと湾入した部分で、古くは都田川流域を東へ奥深く入り込んで、遠浅の地形を成していたと
推測されているところです。
 因みに浜名湖は明応七年(1498)までは、淡海(琵琶湖の近江に対して、遠江)であったのが
大地震によって外海と繋がってしまったのです。

(左)浜名湖周辺・豊橋から浜松まで(右)三ヶ日町・細江町周辺の地図
 外海に隣接した浜名湖とはいいながら、内陸深く入り込んだ地域では湖の深さは浅くなり、
舟の往来には支障を来す地形が出てくることになります。したがって船舶での物資の往来が盛んな
ところではどうしても「澪標」が必要になってきます。「みをつくし」で有名な難波の港も同じ様な
事情であったわけです。

 引佐細江の湾入部を西気賀の北岸より見下ろしますと、都田川が東から流れ込んでいる静かな
奥浜名湖の景観が歌枕の世界へ誘ってくれます。現在浜名湖の舟の運航に澪つくしは必要では
ありませんが、観光用にと細江湾内に建てられています。たった一本の「みをつくし」ですが、
歌枕に相応しい光景を演出しています。

(左)西気賀北岸より見た引佐細江(右)引佐細江湾内の「みをつくし」遠望
 万葉集時代の「引佐細江」の「澪つくし」は、どのような形態をしていたのでしょうか。現在目に
する一般的な「澪つくし」は、難波の澪つくしも引佐細江の澪つくしも同じ物ですが。因みに
大阪市と細江町の市章を比較しますと次のようになります。いずれの市も由緒ある彰標として
興味のあるものになっています。それぞれの自治体で長く伝えられていくことを記念します。

(左)細江地区の市章(右)大阪市の市章(元良親王「みをつくし」づくし参照方)

(左)細江町報誌より(右)大阪港木津川口に立つ澪標(明治10年頃)
  
 細江町は嘗て東海道の裏街道に当たる「姫街道」の「気賀関所」が設けられた(慶長六年・
1601)ところで、多くの人が東へ西へと、この気賀関所を経由して浜名湖の北岸を往来して
いたのです。

<(その2)「長柄橋」>

 「難波津」にとって、また「能因歌枕」にとって、忘れてはならない歌枕は「長柄橋」でしょう。
 百人一首第19番歌人の「伊勢集」でも、「長柄橋」が3首ほど残っています。

  ー長柄の橋作るを聞きて
 「津の国の長柄の橋も作るなりいまは我が身を何にたとへむ」(伊勢集・153)
 ー長柄の橋作るを聞きて
 「難波なる長柄の橋も作るなり今は我が身を何にたとへむ」(伊勢集・452)
 ー七条の后宮、みかども入道せさせ給ひけるころ
 「人渡すことだになきを何しかも長柄の橋と身の成りにけむ」(伊勢集・312)
 ーかへし
 「古るる身涙の河にみゆればや長柄の橋にあやまたるらん」(伊勢集・313)
 
 いずれの歌も「長柄橋」は、古いものの代表名として使われています。
 伊勢や能因法師が見たであろう長柄橋も、それから千年後も名前のみ受け継がれた「長柄橋」が、
新淀川にかけられています。その意味では、「長柄橋」は大変古い橋で、千年の命を永らえている
ことになります。
  古今和歌集に歌われた長柄橋の橋柱の躯体面には、縁りの歌が刻まれています。
 「難波なる長柄の橋もつくるなり今は我が身をなににたとへん」
                         (巻十九・雑躰・1051・伊勢)
 「世の中にふりぬるものは津の国の長柄の橋と我となりけり」
                         (巻十七・雑歌上・890・読み人知らず)

<(その3)「葦」>

 皇嘉門院別当以下の平安朝歌人に詠まれた「難波江の葦」はもはや大川端のいづれの浜にも
見つけだすことが出来ません。近代都市防災施策としての防潮堤その他の河川工事によるものです。
強引なこじつけ歌に仕上げますと、
   「契りきなかたみに袖をしぼりつつ難波堤を潮こさじとぞ」
というところでしょうか。
 葦の河原には「ビルが繁茂」する無味乾燥な幾何学的人口世界の風景に取って代わられているの
です。葦の葉末にゆれる夕日はいまやビルの谷間にまばたくネオンサインに変貌してしまったのです。
まして「みをつくし」など何処にも見あたりません。高い防潮堤に阻まれて大川端の水辺に憩いは
見られません。 
 葦の河原の風景は大阪市域の淀川沿いには見つけだせず、かなり上流に遡らねばなりません。
少なくとも元良親王や皇嘉門院別当などの歌人の頭の中にある「難波江」や「難波潟」としての
風景は、京都と難波の中間地点である高槻や枚方付近の淀川の風景ということになるでしょう。
それとても、川沿いの風物として、高層アパートやマンション群が林立し、はたまた河川敷は
ゴルフ場に模様替えした「葦の河原」風景ということになります。

(上)淀川沿岸の風景(高層住宅群とゴルフ場)(下)枚方大橋上流の風景
 現代の難波江には昔の葦に代わって巨大なビル群が葦のお化けのように近年「にょき、にょき」と
成長してきました。「葦の原」変貌の例としては、上町台地北東端大坂城北側が正しく「いにしへの
難波江の地」にあたり、大阪ビジネスパーク(OBP)高層ビル群、大阪の正面玄関に当たる
JR大阪駅周辺の駅前開発地区などが挙げられます。
 さらには現代の難波津にあたる住之江区南港一画には、超高層ビル群(ワールド・トレード・
センター、アジア太平洋トレードセンターあるいはハイエット・リージェント・ホテル、
スポーツ用品美津濃、その他の企業ビル群)と隣接する海洋博物館「なにわの海の時空館」や
水族館「海遊館」が姿を見せ、桜島地区にオープンした「USJ(ユニバーサル・スタジオ・
ジャパン)」と併せて「難波の葦の原」に於ける新しい集客施設としてまた、新しい大阪の顔に
なるべく、活動を開始しております。

 一方高層ビル群が新難波潟を固めていくのに対して、何とか自然を取り戻そうと、高層ビル群の
海辺では、「大阪南港野鳥園」として人工的に干潟を造成し、海辺に葦原を再現しひいては野鳥の
群来を図っています。1983年に解説されてから20年経ち、ようやくに「人工干潟」の様相を
呈してきて、野鳥の群も見られるようになりました。自然との共生の中に戻って野鳥によって人間
自身が自然に目覚めさせられる時かもしれません。

人工干潟が再現されつつある大阪南港野鳥園の北池風景
 人工の埋立島の名前は「夢州」「咲き州」「舞州」などですが、その名の通り、「夢」を「咲」
かせて、「舞」い踊れる楽しい地域に成れればと思うところです。

(左)ワールド・トレードセンタービル、アジア太平洋トレードセンタービル群
(右)海の博物館「時空館」
 これからますます埋立地には各種のビルが建造されていくことでしょうから、新たな大阪の町の
中心になると共に、「ちぬのうみ」から見た難波津の葦の原とは、高層ビル群のことを意味する
ようになるかもしれません。
 澪標のシンボルマークと共に新しい人工葦の難波津は、関西新空港の活動開始と共に、どのように
変貌を遂げて行くのでしょうか。離着陸の航空機から見下ろす大阪の町の発展に期待したいものです。

<一口メモ(その1)能因法師の「わが宿」考>

 「能因法師集」85番歌 夏児屋池亭

   <わが宿のこずゑの夏になる時は伊駒の山ぞ山かくれける>

における詠歌場所はどこかで、いろいろの説があるようです。和歌鑑賞の上で、場所の限定は
絶対に必要な事ではないのですが、『能因説話の中には、能因の詠歌をめぐってその詠まれた
場所を考定するというタイプの話がある。』(川村晃生「摂関期和歌史の研究」平成三年
(三弥井書店))という例証の一件になっているのです。要は、摂津国の島上郡か、武庫郡か
ということで、参考文献(川村晃生「能因集注釈」貴重本刊行会(平成七年))に次のように
言及されています。
 (1)「和名抄」に「児屋」は、島上郡と武庫郡の児屋郷あり。
 (2)島上郡の関係事項:児屋(現高槻市安満北の町付近)ー増田氏ほか。
    *能因は古曽部の棲んだ形跡がある。
    *丘陵地か山麓を想定(「山田」「小山田」「片岡」「山里」などの詠あり。)
 (3)武庫郡の関係事項:昆陽(現伊丹市昆陽池付近))ー目崎氏ほか。
    *「池亭」から行基の昆陽池地区が関係する。
    *家集中に「蘆の屋のこや」(134番)、猪名野(135番)など隣接地あり。
 (4)川村説は「島上郡児屋に池が存したとすれば、本首の児屋は島上郡の地と考え得るのだが、
    今はいずれの可能性をも呈すにとどめたい。」
 (5)能因僧子のコメント:「わが屋の樹木が夏になったら繁茂して、それまで見えていた
    生駒の山が見えなくなる」という風景は、「遙か彼方の生駒山」でなく、「かなり間近に
    仰いでいる生駒山」であろう。高槻市と伊丹市からの生駒山の景観を比較添付する。
    したがって、増田説に軍配をあげる。(添付写真参照方)
    なお、川村説で、不具合点とされる「島上郡児屋の池」は、現状では存在する。
    (添付詳細地図参照方)

(左)高槻市役所から見た生駒山(右)猪名川右岸(「旧西国街道の渡し」)から見た生駒山

高槻市安満北の町付近の地図(池名は「安満新池」「長池」)

<一口メモ(その2)能因法師の略歴>

邦年(西暦年)年齢関係事項
永延二年(988)誕生説。
長保元年(999)12(十世紀末、歌を詠み始めていた。)
長保四年(1002)15(歌道入門期(目崎徳衛説))
長保五年(1003)165月15日左大臣道長歌合わせ(長能、嘉言出詠)
寛弘元年(1004)17歌集開始時期(寛弘年間以前)(目崎徳衛説)
寛弘二年(1005)18家集発足期 (犬養廉説)
橘永やすとして文章生補任(大江嘉言より13年後輩)
大江嘉言東国下向(福井迪子説)(能因集11.12)
寛弘五年(1008)21(紫式部「源氏物語」執筆中)
寛弘六年(1009)22対馬守大江嘉言との離別(能因集32、33)
正月・同族歌人・橘為義摂津守就任。(能因集35)
家集発足期(後藤祥子説)
寛弘七年(1010)23対馬守大江嘉言卆去(能因集36)
長和二年(1013)26出家を断行する(能因集72)
道済と共に、居住地東山一帯を逍遥。(能因集79)
長和三年(1014)27知人・藤原保昌5月17日左馬頭(能因集77、78)
(在任期間:長和二年〜万寿二年)
長和四年(1015)28友人・道済筑前守(太宰少弐兼官)赴任。(81、82)
寛仁年間(1017)30源登平土佐守任官。(184)
寛仁二年(1018)
31源為善三河守任官。(能因集89)
寛仁三年(1019)32友人・道済筑前にて客死。(中古歌仙三十六人伝)
治安元年(1021)34大江公資相模守任官(能因集88)
治安三年(1023)36(長門国、能因法師養父橘元ト国守の赴任歴あり。)
万寿元年(1024)37児屋池亭5首・万寿元年秋詠歌。(能因集自序)
同族の歌人橘則長長門守赴任に餞の詠歌(99)
万寿二年(1025)38初度陸奥下向。(101)白河の関歌
長元七年(1034)47浜名の橋を渡る。(大江公資遠江守在任中)(158・中)
長元八年(1035)48関白左大臣頼通歌合(159・下〜168)
長元十年(1037)50藤原保昌摂津守在任。源為善中宮亮在任。
(長元年間後半か)(130〜132)
長暦二年(1038)51権大納言源師房歌合(195,196)
長暦四年(1040)53伊予守下向。(208)知友藤原資業伊予守赴任に伴う。
長久二年(1041)55伊予国干魃(211)。
三月以前、藤原兼房備中守在任。(214)
長久四年(1043)56故源為善死を悼む。(222)
長久五年(1044)57七夕の歌(能因集245)(40余年の秋を送った)
寛徳二年(1045)58閏五月詠。(248,250,253)
以降近々60前後(没年の推測)

<一口メモ(その3)「勅撰集」の「津の国の」歌枕>

 21代勅撰集に初句を「津の国の」とする歌の詠を分類しますと、次の諸風物が出てきます。

 あし(蘆)ー新勅撰(1342)新古今(1848)風雅(1718)
 あしふくこやー新拾遺(514)
 あしやのさとー続古今(359)
 いくた(池、川、森)ー拾遺(884)続後拾遺(296)新続古今(289)新古今(289)
            新後撰(371)続千載(571・1747)金葉(148)詞花(83)
            千載(1160)続古今(1501)新拾遺(230)後拾遺(1140)
 いはてのもりー続古今(1195)
 うらの初島ー後撰(742)玉葉(1254)
 こかげの松ー続古今(1758)
 こやー後拾遺(959)続後拾遺(588・659)続古今(1120)続千載(680)
    新葉(652)続拾遺(220)拾遺(223)
 すみよしー拾遺(539)
 ながすー拾遺(676)
 ながらのはしー古今(890)続後撰(36)続後拾遺(1016)続後撰(1028)
        千載(1030)
 ながらへてー続後拾遺(785)後拾遺(958)千載(874)
 なにはー古今(696)新千載(10108・2046)拾遺(977)新続古今(2073)
     後撰(769・1201)後拾遺(1197)新葉(275)続後拾遺(1297)
 なにはのあしー古今(604)続千載(1924)
 なにはのうらー千載(1162)
 なにはのこやー新続古今(526)
 なにはのさとー続古今(279)風雅(1719)
 なにはのはるー千載(106)新古今(625)
 なにはほりえー後拾遺(476)
 なにはわたりー拾遺(418・885)後拾遺(43)風雅(301)新後撰(679)
 みしまえー詞花(272)
 ほりえー拾遺(883)後撰(554)
 まろやー金葉(495)
 みつー新勅撰(1001)
 むこー新千載(1648)
 ゐなー風雅(658)


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平成21年3月9日   *** 編集責任・奈華仁志 ***

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