平成社会の探索


ー第83回知恵の会資料ー平成21年2月8日ー

<「知恵の会」への「知恵袋」>


(その28)課題「にわ(庭)」
「日本庭園の原形ー城之越遺跡」
目       次
1.遺跡の概要 2.遺跡の歴史的意義 3.遺跡の写真集
参考メモ
(その1)日本庭園小史
(その2)飛鳥京跡苑池遺跡(その3)平城宮庭園(その4)旧嵯峨離宮・名古曽滝遺跡

<1.遺跡の概要>

1.所在地:
    三重県伊賀市(旧伊賀・上野市)比土字城之越4724番地(地図・その1およびその2参照)
  木津川右岸丘陵裾野部に位置し、伊賀地方にあって古来より大和と東海を結ぶ要衝の地であった。

2.遺跡の時代推定
  当該遺跡の周辺には、木津川或いは名張川に沿って縄文時代遺跡が点在しており、
  弥生時代後期(2〜3世紀)の遺跡も多く確認されている歴史的に古い地域になる。
  古墳時代前期・中期(4世紀後半)小盆地が見渡せる当該地域に泉を持つ大溝が造られ、
  その後大溝の東に大型の掘立て柱建物が築かれたと推測されている。
  此所では政の重要な祭祀行事が古墳時代中期(5世紀頃)執り行われ、6世紀頃倉庫風の
  建物が周辺に多く建てられたものの、奈良時代には大溝は完全に埋まってしまったとみられる。

3.発掘調査経緯:
  平成3年(1991)農免道路工事に伴い、三重県埋蔵文化財センターの調査が開始され、
            古墳時代から鎌倉時代にわたる遺構が確認された。
       8月、見出し「日本最古の庭園」で新聞発表(中日新聞記事・添付写真参照方)

  平成4年(1992)   2月 県史跡指定7600平方米
  平成5年(1993)  10月 国名勝および史跡指定4362平方米
  平成6年(1994) 文化庁「史跡等活用特別事業(ふるさと歴史の広場)」
                 国指定域の整備事業推進。
    平成9年(1995) 10月 一般公開

4.全体図:
  聖なる泉の広場、まつりの広場、掘立て柱建物地域よりなる(配置図参照)
  *三ヶ所からの泉の湧水は合流して、大溝をなし、集落付近木津川の方向へ
   流下する。(写真1)
  *湧水点 「泉は徑1.5m〜2m円形擂り鉢状となっており、北側二ヶ所には
        石が敷き詰められている。」泉周辺は石組みや加工木材で、井泉状に整え、
        護岸に貼り石を施している。、(写真2)
   (参考)「政治的にも経済的にも権力を持った人物の屋敷に付属する泉であったことが
        解ります。その人達がいつも使う泉は北側の泉、・・・その家の御主人が
        村の人を集めてもてなしたり、大和から来る人々、伊賀や伊勢の有力者を
        もてなす場合には、中央や南側の泉を使い宴をはればいい・・・」
        ((水野正好「湧水とまつりと遊び」ー上野市「復元バンザイ城之越遺跡」より
                                  (平成9年))
  *合流点 「上流部交流点には、テラスをもつ三角状の突出部が設けられ、石材長さ50cm
        程度の石が立てられ、」大石は立石として景を整えている。(写真3)
       「下流部合流点には2本の木と40〜50cmの石で階段が構築」されている。
  (参考資料:中浦基之(上野市教育委員会文化課)「城之越遺跡ー古墳時代の大溝遺構」
                「緑の読本」シリーズ45 396頁) 

<2.遺跡の歴史的意義>

********* 国名勝史跡指定(一口メモ・その1) 祭祀関連遺跡として ********

1.日本庭園歴史において、古墳時代前期(4世紀後半)に位置し、後世の庭園の修敬意識と技術
  (一口メモ・その2参照)に関連する遺構を有している。
  「後世に於ける流れの屈曲点に石を据える手法につながる工法意識がある。」
  (出典:武居二郎・尼崎博正監修「庭園史を歩くー日本・ヨーロッパ編」1998年・昭和堂)

2.祭祀場と庭園との関わり
  「祭祀が行われたと考えられる合流点上の空間では、祭祀場をより神聖なものにするために、
   周辺に石を貼り巡らせている。また、流水の形状に沿った溝が合流する付近の岸辺に石組みが
   集中し、立石を据えている。これらの石組み群は、神聖なもの(神の依り代)として意識された
   空間であったかも知れない。」
   (西桂「日本の庭園文化ー歴史と意匠をたずねてー(株)学芸出版社(2005年10月))
  
  「祭祀の場に見られる造形が庭園に取り込まれていった可能性も考えられ、・・・神事・公事の
   行われる場所がニワと表現されたことからかんがえると、祭祀を行った場は広い意味に於いて
   の庭であり、まさに城之越遺跡は古代のニワと表現できるのではないか。」
          (上野市教育委員会「城之越遺跡」パンフレット(平成10年3月)より)

    <川の合流点に祭祀の場を持つという点では、下鴨神社などを彷彿とさせる。>
   (安原啓示「城之越遺跡と古代庭園」ー上野市「復元バンザイ城之越遺跡」より(平成9年))
          
3.*奈良時代以降の日本庭園の構成要素である「泉」「流れ」「石組み」などのデザインが
   類似している点で日本庭園の源流と考える上で重要な遺稿である。
  *しかし、これらのデザインが系譜的に後世の日本庭園に連なるかどうかは議論の決着を
   みていない。(出典:小野健吉「岩波日本庭園辞典」2004年3月岩波書店)

<3.遺跡の写真集>


城之越遺跡の位置(左)(地図・その1)三重県伊賀市南西地域(右)(地図・その2)城之越遺跡付近の地図

城之越遺跡の全体図

(写真1)城之越遺跡の外観(大溝合流部より三湧水地点を望む)
(出典:上野市教育委員会「城之越遺跡」パンフレット(平成10年3月))

(写真2・その1)三湧水地点発掘状況
(左)北側第一湧水点(井泉1)(中)東側第二湧水点(井泉2)(右)南側第三湧水点(井泉3)

(写真2・その2)合流地点の貼り石と立石群および水辺への階段
(左)下流合流点の水辺への階段(中)下流と上流の合流点写真(右)上流合流点の立石

(写真3)大型掘立柱建物跡(左)解説板の発掘現場写真(右)現在の整備された跡地

古代の大溝の様子をイメージした絵画(城之越学習館内展示パネル)(鈴木春生作)
(左)「城之越の春」(右)「城之越の秋」

<参考メモ(その1)日本庭園小史>

 参考資料より日本庭園の黎明期に関する略年表を抜き書きし、「城之越遺跡」の歴史的位置付けを
確認します。
 (出典:西桂「日本の庭園文化」ー歴史と意匠を訪ねてー2005年10月10日(学芸出版社))

1.古墳時代(飛鳥時代以前)
  景行天皇・仲哀天皇〜履中天皇・顕宗天皇・武烈天皇期に庭園に関する記述あり。
  (12代)(14代)(17代)(23代)(25代)
    ただし、中国の典籍からの引用が目立つので、歴史的事績かどうか、確定しにくい。
 (1)景行4年(紀元前74年)天皇、美濃に行幸す。泳宮に居て、鯉魚を放つ。(日本書紀)
 (2)仲哀期 沙庭に居て、神の命を請う。(古事記)
 (3)(4世紀後半)城之越遺跡の祭祀大溝、築造される。
        ***********************************************
 (4)履中3年(402年)天皇両枝船を造り、磐余市磯池に浮かべ、皇妃達と遊ぶ。(日本書紀)
 (5)顕宗1年(485年)毎年春三月上巳、曲水宴を行う。(日本書紀)
 (6)武烈8年(506年)皇居に池を穿ち、苑を起こし、禽獣を飼う。(日本書紀)

2.飛鳥時代(欽明帝(509〜571)(5世紀初め)から藤原京(7世紀末)まで)
 (1)敏達3年(574年)橘豊日子皇子、後園に遊び、桃花を賞す。(扶桑略記)
 (2)推古1年(593年)四天王寺を建立。敬田院に池あり。荒陵池と号し、その底深に
              青龍恒居す。(扶桑略記)
 (3)推古20年(612年)百済国帰化人路子工(みちこのたくみ)、小懇田宮(603)に
              須彌山像および呉橋を造る。(日本書紀)
 (4)推古34年(626年)蘇我馬子薨去。飛鳥川傍らの家中に小池小嶋あり。時の人
              嶋の大臣と呼ぶ。(日本書紀)
 (5)斉明2年(656年)後岡本宮造営。宮の東山に石垣を作る。(酒船石遺蹟庭園か?)
              宮西に苑池築造(飛鳥京跡苑池遺跡か?)(日本書紀)
 (6)斉明6年(660年)石上の池辺(石神遺跡庭園遺構か?)に須彌山を造る。
              高さ廟塔の如し。(日本書紀)
 (7)天武14年(685年)天皇、白錦後苑(飛鳥京跡苑池遺稿か?)に御幸す。(日本書紀)
       **********************************************************************************
 (8)持統3年(689年)草壁皇子薨去。邸嶋宮には、「勾池」に荒磯や滝など。
             (万葉集・巻2−170)「嶋の宮まがりの池の放ち鳥
                          人目に恋ひて池に潜かず」
3.奈良時代(平城京〜長岡京)
 (1)神亀4年(727年)聖武天皇、南苑に幸し、五位以上の官人に宴会を賜う。(続日本紀)
        *********************************************************************************
 (2)神亀5年(728年)天皇、鳥池に幸し、曲水宴を行う。(続日本紀)
 (3)天平10年(738年)天皇、西池の宮(平城京)に幸し、殿前の梅樹を見る。(続日本紀)
 (4)天平勝宝6年’754年)孝謙天皇、東院に出御して、宴を催す。(続日本紀)
 (5)天平宝字6年(762)淳仁天皇、保良宮に池亭を設け、曲水宴を催す。(続日本紀)
 (6)景雲3年(769年)称徳天皇、東院に出御して、宴を催す。(続日本紀)
 (7)宝亀8年(777年)光仁天皇、内嶋院で宴を催し、文人ら曲水宴で作詩す。(続日本紀)
 (8)延暦4年(785年)桓武天皇、嶋院に御し、五位以上官人と宴を催し、文人等曲水宴の
              詩を作る。(続日本紀) 

4.平安時代初期(平安京遷都から100年間)
 (1)延暦19年(800年)桓武天皇、神泉苑に行幸。(日本紀略)
 (2)弘仁1年(810年)嵯峨天皇、南池院(淳和院)に幸す。(日本後記)
 (3)弘仁5年(814年)嵯峨天皇、嵯峨院(大覚寺大沢池)に行幸。(日本後記)
        ***********************************************************************
 (4)貞観18年(876年)淳和太皇太后の請により、嵯峨院を大覚寺とする。(三代実録)
 (5)寛平5年(893年)菅原道真の山陰亭および紅梅亭の園地造られる。(菅家文草)


<参考メモ(その2)飛鳥京跡苑池遺構>

 飛鳥川東岸で、平成11年(1999)6月発掘される。斉明帝期(655〜661在位)、
禁苑(宮廷庭園)として築造され、天武帝の時、改修されたと考えられる。
  現地は明日香村役場の北方約500mのところで、伝飛鳥板葺宮跡の北西(甘樫丘方向)に
位置する。
 「苑池は石積みの護岸を巡らせ、水の流れを楽しむ石造物や中島を配し、朝鮮半島の庭園にも
類似している。「日本書紀」にいう天武天皇の「白錦後苑」や持統天皇の「御苑」が考えられている。
(出典:西桂「日本の庭園文化」ー歴史と意匠を訪ねてー2005年10月10日(学芸出版社))

(左)飛鳥京跡苑池遺構の位置(1)(右)苑地全景の上空写真

(左)再現された飛鳥京跡苑池遺構(右)復旧された田畑現況風景

<参考メモ(その3)平城宮庭園>

 平城京左京三条二坊宮跡庭園ー奈良市三条大路沿いに昭和50年(1975)12月発掘。
  現地は、二条大路を挟んで、奈良市役所南西部の一角で、特別史跡・特別名勝「平城京左京三条
二坊宮跡庭園」と命名されて、一般公開されている。
 奈良時代中期に作庭され、平安時代初頭まで存続した。南北方向に龍池状に蛇行する流水式
庭園で、底は平石敷き、二ヶ所に植枡が埋め込まれており、水生植物なども観賞したらしい。
(出典:河原武俊「日本庭園の伝統施設ー鑑賞と技法の基礎知識」東京農大出版会(2001))
(出典:西桂「日本の庭園文化」ー歴史と意匠を訪ねてー2005年10月10日(学芸出版社))

(左)庭園位置:平城京内裏東南部の長屋王邸宅南部分(中)発掘された庭園見取り図(右)宮跡庭園

(左)宮跡庭園の鳥瞰写真(右)再現された宮跡庭園と建造物

<参考メモ(その4)旧嵯峨離宮・名古曽滝遺跡>

 大覚寺大沢池庭園(東西265m、南北185m、深さ2.5m)は、平安期初頭、承和年間
(834年頃)嵯峨天皇(786〜842)離宮「嵯峨院」の跡地。
 百済河成(782〜853)造営という(「古今著聞集」)著名な「名古曽の滝」、遣り水、
池中岩島(中国の洞庭湖に擬して「庭湖石」と命名された人形の二石)を配置した造りになっていて、
山荘内には弘法大師を請じ五大堂を開創し、五大明王秘法を修したという。
 貞観18年(876)嵯峨帝皇女正子内親王は嵯峨院跡に大覚寺を創建した。徳治三年(1308)
後宇多法皇(1267〜1324)は院御所(中御所)を造営している。


(左)大沢池実測図(奈良国立文化財研究所原図)
(右)大沢池堰堤からの風景(右上)名古曽の滝方面を望む(右下)菊島と庭湖石を望む

(左)池中岩島と菊島(右)大沢池南西入口より名古曽の滝方面を望む

(名勝 大沢池附名古曽滝あと 解説板)

名古曽の滝の石組み
 「名古曽の滝」の石組みは平安中期藤原頼道三男橘俊綱が編纂したとされる「作庭記」に言及
される「品文字形の典型的三尊石組みとされる。この「庭造形」は、当時の名手巨勢金岡作意と
見られ、平安時代の文化人の注目するところとなり、紀友則(古今集)や西行(山家集)の歌がある。
 (出典1:森蘊(おさむ)「日本史小百科ー庭園」東京堂出版(平成5年9月))
 (出典2:森蘊「作庭記の世界ー平安朝の庭園美」NHKブックスC−27(昭和61年3月))        「
 なんと言っても、後世に知られた歌は、長保元年(999)9月12日、藤原道長共に当地を
訪れた大納言公任(966〜1041)の詠で、百人一首第55番歌(拾遺集、「権記」など)
でしょう。
    <滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ>
        **************************************************************
  大沢池と名古曽滝は大正十一年(1922)、国指定名勝第一号「大沢池附名古曽滝跡」とされた。

<一口メモ(その1)全国の国指定文化財・名勝庭園>

「文化財保護法」指定の名勝指定の内、「庭園」の一覧は、次のように京都府と滋賀県が
圧倒的に多い。(平成17年(2005)8月現在)

 北海道 1
 東北 13 青森3 岩手2 宮城2 秋田1 山形3 福島2
 関東 11 茨城1 群馬1 千葉1 東京5 神奈川3 栃木・埼玉0 
 中部 32 新潟3 石川5 福井10 山梨2 長野1 岐阜2 静岡4 愛知1 三重4

 近畿 86 滋賀18  京都48   大阪3 兵庫4 奈良8 和歌山5

 中国 18 鳥取3 島根4 岡山3 広島4 山口4 
 四国  6 徳島2 香川1 愛媛2 甲子1
 九州 14 福岡5 佐賀1 長崎2 熊本3 宮崎1 鹿児島2 大分0
 沖縄  4

 *三重県・城之越遺跡(名勝・史跡指定) 1993年10月29日 
  奈良県・平城京左京三条二坊宮跡庭園
        (特別史跡・特別名勝指定)1992年 5月 6日
  奈良県・飛鳥京跡苑地(史跡・名勝指定)2003年 8月27日
  京都府・大沢池附名古曽滝跡(名勝指定)1922年 3月 8日
 

<一口メモ(その2)「日本庭園」の構成要素>

 日本庭園を構成しているものは、次の諸点とされている。
 「日本庭園に石」に対して、「西洋庭園に花」が必須の構成素材とされる。

  水環境との関連・・・・池泉 滝 流れ 島 橋 
  石使用の構成・・・・・石畳・庭段 飛び石 階段 石積・土留 石組 白砂 
  植物類の構成・・・・・植栽 地被 築山 
  人工物の組み込み・・・塀・垣 門・戸 建物 手水鉢 灯籠 など

 世界の庭園は「整形式」と「風景式」に大別され、前者は左右対称の原理を重んじ、整然とした
形を表現するのに対して、後者は、左右対称に拘らず、自然の風景を表現するという。
 写実式に分類されるイギリス式、象徴式に分類される中国式および日本式が後者の小分類となる。
  (出典:中村一・尼崎博正「風景をつくる」昭和堂(2001年4月5日))
 
 (コメント)「日本的」「庭」と「園」の成り立ちに対する一所見
   日本庭園の構成要素は、上述のようにいろいろなものが歴史的に付加されてきました。
   歴史的に見て「庭」の始まりが、古くは「祭祀環境の構築」という目的に関わるのであれば、
  日本的「庭」「園」の基本構成要素の順序を次のように推測してみました。
   まず(1)石があり、次に(2)水環境があり、更に(3)植物類の取り込みが行われたという
  歴史的な順序があったのではないでしょうか。すなわち
   (1)「自然」の「石」を取り入れること(神の依り代)
   (2)「流れ」を伴った「水」の環境を創り出すこと(水の神への感謝)
   (3)「ミニアチュア的」な「植物類」を造り込みむこと(小世界の創成)
  がそれぞれの要素のキーワードと考えることができないでしょうか。

   これらの「庭園構築技術」の底に流れる人の思いは「神を念頭に置いて、自然をより身近に
  据え付けたい」と推測できそうです。
   西欧人は「自然の景観を人工的に加工」した上で「庭園事物」として作り込み、それを
  「日常生活の一環境にしたい」としたのですが、日本人は「自然の景観をなるべく人工的に
  処理せず、なるべく自然のままで」日常生活の身近な環境に構築したかったようです。
   庭園用の「石」についても、西欧人は「石材実用構造物」を構築し、日本人は「自然石芸術」を  展開してきたのではないでしょうか。西欧のそれはBC750年頃のギリシャの神殿であり、
  中世ヨーロッパの城塞構築でしょう。方や日本ではせいぜい古墳時代の石棺、あるいは中世の
  築城用石垣くらいが石材としての活用ではなかったでしょうか。

<一口メモ(その3)「にわ(庭)」と「その(園)」>

 「庭園」や「公園」は、明治時代における「庭」と「園」などから合成された近代語で、
人類の歴史上からは、「にわ」が先に存在し、人間社会の発達と共に「その」が後に
構成されたとされます。
 (出典:中村一・尼崎博正「風景をつくるー現代の造園と伝統的日本庭園」
                    (株)昭和堂 (2001年4月20日))

 「にわ」 太古の人間社会における生活環境上の「ひろいなわばり」のこと。
 (ニハ) そこでは、古代人は、「ニハ」をくまなく歩き或いは駆け巡り、
      泳ぎ、あるいは漕ぎ廻り、食物を求め、それらを収獲した。
      狩猟や漁猟にのみ依存する原始社会では、「ニハ」はあっても「ソノ」は
      存在しない。
 「その」 「柵」で囲われた区画の限られた土地「ソノ」に草木を栽培することによって、
 (ソノ) 有害な動物を排除する。(柵の中に動物を飼育する場所は「ゆう(囿)」という。)
      稲作の導入によって陸地や海にまで拡がる「ニハ」に依存することがなくなると、
      広い「ニハ」に動き回る余裕がなくなり、「田」の耕筰に縛り付けられた
      生活環境になる。
      「ソノ」の発達と共に、「ニハ」の中に「家」や「園」が存在していくことになる。

 「にわ」の多機能部分:各種行事や農作業が行われる儀礼・仕事の場
      *宗教的機能:齊庭(ユニハ)清庭・沙庭(サニハ)
      *政治的機能:白洲
      *遊楽的機能:しま
      *労働的機能:農作業の場
      万葉集では「その」「しま」「にわ」等が用いられている。
       「わが ソノ の李の花かニハに降る 斑雪(はだれ)のいまだ残りたるかも」                         (万葉集 巻19−4140番歌)

ホームページ管理人申酉人辛

平成21年1月8日   *** 編集責任・奈華仁志 ***

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