1.百人一首の「たつみ」 2.京の「たつみ」 3.家相の「たつみ」 3.各地の「辰巳神社」 (1)平安京(2)難波(3)鎌倉(4)江戸 <その1>60進法 <その2>干支別性格判断 <その3>干支詣 <その4>干支切手新発売 |
「えと」(干支)の十干十二支の元になっている「十干」も「十二支」も共に起源は中国の殷代 あるいは、西域の遙か昔に遡る可能性もありとされています。(諸橋徹次著「十二支物語」など) 「えと」は、時間(主として「年」)や方位を表すようになっており、さらに十二支のねずみから いのししまでの「十二肖獣説」に短絡して連想しがちです。いずれにしても、現在「えと」は、 人間生活に無くてはならない生活単位になっています。 ここでは、「十二支」の内の「たつ」「み」を、時間単位としてでなく、方位の用語「たつみ」と して採りあげました。 なお、「干支」に関しては、身辺に散見した事項を補足として添付しておきます。
喜撰法師は「都の辰巳」の方向に住んでいたわけですが、世間の人は「うじ」山に住んでいると 言っていますよ、と詠んでいます。喜撰法師の時代に本当に宇治の地域を「うし」ところと人々は 見ていたのでしょうか。 時代を遡って宇治の地域を眺めてみましても、次節のような特徴有る歴史が残っています。 殊に藤原氏族にとっては奥津城であり、貴族の別荘地区でもあったのです。 平成の現在、京都駅から「辰巳」の方向(東南方向)には、東福寺、伏見稲荷、観修寺、醍醐寺、 菟道(宇治市)、喜撰山(416メートル)、宇治川と並んでいます。 喜撰山は、この歌の作者喜撰法師が住まいした宇治の山である(宇治山はない)ために付けられた のでしょうか。 喜撰法師歌の道草として、「物名」の歌語遊びをしますと、次のようになります。 喜撰法師の歌の中に些細な「物名」探しをしますと、生き物を六匹も詠みこんでいることがわかり ました。さて、さて・・・・ 「か(が)」、「たつ」、「み」、「しか」、「うし」、「ふな」ですね。喜撰法師の歌で 特有な歌語となっているのは、「しか(副詞)ぞすむ」、「人はいふなり(副助詞)」です。 「しか」は他に五番歌「・・・なくしかの・・・」と、四一番歌「・・・おもい初めしか」、 八十三番歌「・・・しかぞ鳴くなる」ですが、副詞の「しか」は、喜撰法師の歌のみです。 「なり」止めは、他に九四番歌「・・・衣打つなり」が有るのみです。 また、京には四方に山々がありますが、百人一首の中で「方位と山」を詠み込んだ歌は、この歌 のみで、それがこの歌の特徴ともなっています。 ここで都の四方八方を眺めてみますと、次のように「八方歌」が並びます。
いぬい・乾 |
ね・子 |
うしとら・艮 |
とり・酉 |
みやこ・都 |
う・卯 |
ひつじさる・坤 |
うま・午 |
たつみ・巽 |
京都の町の「たつみ」の方角には、「うじ」の地域があります。 喜撰法師が百人一首に残した歌では、宇治地域は人々が「うしやま」と呼んでいますよと、詠み 残していますが、果たしてそうでしょうか。たとえ喜撰法師の時代では、「うし」ところであったと しましても、その後の世界における「宇治地域の存在」とその「憂し」程度をその歴史から多面的に 眺めてみますと次のような数点に分類でき、非常に重要な地域特性を有していることが解りましょう。 ◆ 宇治の世界(その一)・宇治の地理 ◆ 現在の宇治は地区の一部に名所旧跡を残し、他は市街地に移り変わろうとしています。つい最近 まであった巨椋池が干拓地となり、池が農地となり、農地が人の居住地になり、道路が伸び、高速 道路が名所旧跡を分断し、都市化しようとする時代ですから、五十年や百年の都市計画を考える前に、 千年、二千年の長さで民族の文明の伝承体制を整えておく必要があります。 巨椋池の東岸宇治の地には、氏族社会時代には宇治氏が勢力を張っており、その後桓武天皇が 平城京から七八四年に遷都した十年間のみの都長岡京は、ちょうど西岸にあたります。その桓武 天皇は巨椋池の北岸桃山陵に埋葬されて、京の都の南口を見守っておられます。 ◆ 宇治の世界(その二)・文学の世界 ◆ 宇治の世界は、柿本人麻呂の萬葉時代から近江大津京への道として、古今集の時代では八番歌 (喜撰法師)にあるように僧侶の隠棲の地であったものが、平安中期貴族にとっては別荘地となり、 また遊楽地であったことにより、文学の世界の「源氏物語」と大いに関係が出てきました。 「源氏物語」五十四帖は前半(桐壺の巻から雲隠れの巻)が都内の貴族社会に於ける光源氏の 生涯を、後半(匂宮の巻から夢の浮橋の巻)は都を離れた宇治の地の草庵におけるその子薫や匂宮の 生活を描いており、宇治が現実の世界以上にロマンの世界として浮かび上がりました。 西暦1008年(寛弘五年)頃、「源氏物語」が貴族社会に出されて、その「宇治十帖」に 描かれた宇治の地が貴族社会の中では噂の地になり、当時の貴族は、今で言うロマンを感じ、 我も我もと別荘地にさせていったのではないでしょうか。明治以降、軽井沢や湘南海岸などが 別荘地になったのも「現代の宇治」に当たるのではないでしょうか。 ◆ 宇治の世界(その三)・宗教の世界 ◆ 宇治の地域一帯は藤原氏族の「奥津城」とも言うべき処です。 この現世における極楽浄土を再現するための「平等院」は、今から九百四十年前(1053年)、 関白藤原道長の子頼通が、末法思想の浄土信仰に基づき、構築したものですが、今に至るまで 鳳凰堂は美しい平安建築を伝え、十円銅貨と化けて平成の世界の公衆電話代として支えていますから、 別の意味で平成の世に情報の極楽浄土を作ったとも言えます。頼通さんも満足しているのではない でしょうか。 ◆ 宇治の世界(その四)・茶 ◆ 黄檗禅宗の本山万福寺は、隠元禅師の開創になり、長らく中国僧によって法灯が守られてきた とされています。お茶と禅宗は切り離せません。今から770年前(1220年)栄西禅師が中国 宋から持ち帰ったお茶を、京都栂尾に植えたのですが、後に宇治に分栽されたもので、江戸時代に 大名並に江戸へお茶壺道中されるに到っています。 この宇治の地がなぜ茶の栽培に適していたのでしょうか。道長、頼通、定頼らは浄土思想は知って いても、お茶の味は知らずじまいだったわけです。 お茶はますます日本人の文化の代名詞のようになっており、近代になって紅茶やコーヒーは 広がっても、お茶は捨てず、それらをも併せ飲むという日本人の混成文化の代表例となっています。 従って千年後も、日本人の中ではお茶は消えることなく、日常の必需品として長らえていくこと でしょう。 ◆ 宇治の世界(その五)・戦いの世界 ◆ 平安朝の栄華を極めた藤原道長や頼道の時代(十一世紀前半)からちょうど百年後、仏の世界の 宇治の平等院に変わって、宇治川が武士の戦場と化してしまいます。平家物語巻第四の「橋合戦」 (以仁王、源頼政の挙兵)や巻第九の「宇治川戦陣」(源範頼、義経の義仲落とし)は、同物語の 中でも一つのクライマックスを構成しています。「源氏物語」から平成までの約千年間で、宇治が 歴史の舞台に出てきたのは、この二つの出来事のみです。 ◆ 宇治の世界(その六)・観光の世界 ◆ 近江の海(琵琶湖)から瀬田川、南郷洗堰を流れ下った水流は、宇治川となって宇治平等院の辺を 流れる琵琶湖国定公園の一画をなしています。八番歌と関係ある喜撰山(四一六メートル)を背に した天ケ瀬ダムの下流に現在の宇治川・川中島があり、石像美術として有名な十三重塔のある塔の島と 中之島が左岸の平等院に対峙しています。 宇治と言えば、極楽浄土の彌勒菩薩様がおいでになる平等院、禅宗万福寺開創隠元禅師の輸入 されたお茶と言うことになりますが、いずれも仏教の世界と密接な関係にあります。西国三十三ヶ所 十番札所の三室戸寺も、喜撰山に対峙して宇治橋の北にあります。 第十番 山城国宇治郡 本山修験宗 明星山 三室戸寺 千手観世音のご詠歌に 「夜もすがら月をみむろとわけゆけば宇治の川瀬に立つは白波」 宇治市は観光のキャッチフレーズとして、「源氏物語の里」をあげ、古都奈良・京都の中間点に あって観光客誘致に力を入れると共に、平成八年には宇治橋を掛け替え、周辺整備を行っています。 さらに、平成七年には、宇治平等院が世界文化遺産に指定され、ますます平安朝の歴史の町として、 観光地として名を馳せることになりました。 そして、平成20年(2008年)は、「源氏物語千年紀」として、多彩な企画による各種の 記念事業が展開されているのです。
風向きの言い伝え(風位考)としては「たつみ風」あるいは「いぬい風」などがあるようです。 一方、家相における方角の言い伝えとしては、「井戸、便所、浴室、土蔵、離れ室、泉水、 神棚、仏壇などは、凶線(艮・東北ー鬼門、坤・西南ー病門)を避けるべきとされる。 吉線(巽・東南ー乾・西北)に配置すべしということです。 従って、「たつみ便所」に対する「いぬい蔵」、あるいは「たつみ張り」などは吉線に沿った 方角で、「うしとら」の鬼門などに対して反対に善いイメージの家相であるようです。 これらの「たつみ」から判断しますと、「都の巽」は決して悪いイメージではないはずです。 方角として「宇治」は、都に対しては「たつみ」ですから、吉相の地域ですが、名前が偶偶 「うじ」であるのだ、ということを、喜撰法師もいいたいのかもしれません。 確かに、百人一首の歌では、「世をうじやまと<人はいふ>なり」であって、喜撰法師自身が そう思っていたわけではありませんと、いいたげな詠みぶりです。 因みに方位を姓名に用いる事例でみますと、「東さん」「西さん」「南さん」「北さん」は 多く居られますし、吉線の「たつみさん」も「いぬいさん」もいらっしゃいますが、凶線の 「うしとらさん」「ひつじさるさん」は、さすがに耳にしたことはありません。
有る地域に於ける中心地から「たつみ」の方角にある地区には、だいたい「たつみ」の地域名が 付されている場合が散見されます。一例を京都、大阪、鎌倉、東京に見ますと次の通りです。
地区 | 神社名 御祭神 | 所在地 | 由緒 |
---|---|---|---|
京都 | 辰巳神社 辰巳大明神、(別称)辰巳稲荷 |
京都市東山区新橋花見小路西入る元吉町 祇園白川に隣接して建つ神社。 |
祇園花街のシンボル的な存在。芸・舞妓や芸能関係者から芸上達の祈願をされる社。 白川に架かる辰巳橋に棲息して芸者や舞妓を騙して川を渡らせる悪戯をしていた狸を祭るという。 本来、京都御所の辰巳(南東)に位置し、辰巳の方角を守る神社だったと言われる。 添付写真の辰巳大明神社と辰巳橋参照方。 (参考)京都市内のその他の「辰巳名地区」 上京区:東辰巳町・西辰巳町 下京区:新町通七条上る辰巳町 右京区:太秦安井辰巳町・花園巽南町・西院巽町 伏見区:醍醐辰巳町 |
大阪 | 巽神社 主祭神:応神天皇 印色入日子命、天照大神、天児屋根命、菅原道真など | 大阪市生野区巽南3−17−19 | 明治40年旧渋川郡巽村内八幡神社に村内五社(横野神社・天神社・天照皇大神社・熊野神社など)を合祀し、村の名を取って巽神社とした。 巽村は、大阪城の南約4kmに位置するので、現在の中之島にある大阪市役所から見ると、東南の巽の方向に位置する。 添付写真の正面鳥居および参道左にある由緒案内木板参照方。 |
鎌倉 | 巽神社 奥津日子神、奥津日女神 | 鎌倉市扇ヶ谷1−9−7 | 寿福寺の鎮守。寺の東南(巽)の方角にあることから、命名されたという。 延暦20年(801)坂上田村麻呂が蝦夷征伐途中、勧請したと伝わる。永承4年(1049)源頼義が改築した。 |
東京 | 東京都江東区の地名 (巽神社なし) | 江東区辰巳1〜3丁目 | 皇居の辰巳の方向にあるために名付けられた。 |
「えと(干支)」は、「十干」と「十二支」の組み合わせで、一種の60進法循環序数詞です。 (添付の干支表参照方) 先に10の単位の「十干」と12単位の「十二支」が存在して、10あるいは12の単位で物事を 処理していたものが、太古社会もだんだん機構が複雑になり、それでは数が足らなくなり、なんとか より多くの数字列を取り扱いたいと工夫して編み出したのが「十干十二支・干支」ではないかと 推測されています。(水上静夫「干支の漢字學」) 60進法については、なにも中国文明(殷王朝・BC1600年頃)だけが生み出した考えでは なく、シュメール(BC2500〜1900)あるいはバビロニア(BC3400)では60進法が 用いられていたようです。(添付の楔形バビロニア数字を参照願います。) またニューギニア島のエカリ語でも六十進法の数詞が使われているという。 (internet-Wikipedia情報より) その他、現在でも時間や角度の単位にはバビロニア六十進法、あるいは六十分法が残っており 「一時間・60分・60秒」「一度・60分・60秒」などが用いられる。
では、干支という60単位の循環序数詞が出来上がる元になっている「十干」や「十二支」は どうして出来たのかと言う推測として参考冊子では、太陽の運行、月の満ち欠け、四季の移り変わり、 昼夜の交替、さらに、物事を数えるときの手段としての五本の指と左右一対の両手などです。 そして、60という単位は、人間の一生の年数としては、十分の年数になるので、都合の良い 循環序数と言うことになったと言われます。 (参考メモ)「干支の組み合わせと運用」 (引用資料:水上静夫「干支の漢字學」大修館書店(1998年12月10日)) 「干支は、中国の古代人が、天文現象の流転・回帰、植物の芽生え・成長・結実・再生、 動物類の生子回生など、その回転・循環などの自然律に気づいて考案した物である。 それは宇宙・天体・自然界と一体になって生きてゆこうという、強い念願のこもった 循環序数詞の成立であり、それは彼らの密やかな生への願いの結晶であった。我々こそ そこの中国人の強靱な民族的生命力を見ることが出来るのである。」 昔は「人生五十年」でしたから、暦が一巡してくる「還暦」の60才は、誠に有り難い年だった ことでしょう。60才に達した人は、「自分は暦を一巡りできたのだ」という自己満足が得られた のではないでしょうか。 古代中国のこの暦制が後漢時代で形をなしてから約二千年は経っていると思われます。 人の一生もこの二千年間で2倍の年を目指して伸びてきました。病気と闘い、医薬技術を向上させ、 延命策をいろいろと工夫してきた結果、100才もめづらしくなくなってきました。 一世代前の日本人は人生は60歳の還暦に始まって、66歳(筆者の新命名・禄禄寿で如何!) (これを、碌々寿としますと、役立たぬ年という意味になります)70歳(古希)77歳(喜寿)、 80歳(傘寿)、88歳(米寿)、90歳(卒寿)、99歳(白寿)、100歳(上寿)と数歳年を 重ねる毎に「おめでたい!」「お元気!」と周りの人々に勇気づけられ、高齢への道を歩んで きました。もはや、これらの祝い年限のステップは不要になって、還暦から一気に100歳と 重還暦120歳(筆者の新命名・超寿・・・年を超越している長寿ということ)が一つの区切りに なるのでは、と思うような勢いになってきました。 この100歳から120歳までの間に祝い年を作るとすれば、108歳(筆者の新命名・超楽寿 ・・・超煩悩寿としたいところですが、その憂いも、楽しみも超越している、正しく恍惚の無明に 近い年という意味)は、如何でしょうか。 こう考えてきますと、60年というのは、短いものです。120年が還暦という考えも出てこようと いうものです。その時の干支は単純に10干X12支=120年とすればよいわけです。その場合、 甲ー子、甲ー丑、・・・・と始まって、癸ー戌、癸ー亥までの「120えと」というわけです。 「甲子」の年は、120年に1回しか巡ってこないことになります。したがって「甲子」さんや 「甲子郎」さん、「甲子彦」さんなどは、非常にめづらしい同世代人になってくるわけです。 現状での「60年還暦の人間」も、この「120年間暦制度の人々」からみれば、「まだ人生半分 しかこなしていないではないか!」と勇気づけられることになります。 ものは思いようです。<<あと、半分頑張りましょう!!>> ***** 諸橋徹次著「十二支物語」よりの豆知識・辛酉(かのと・とり) ****** 「辛酉」は変革の年の一つで、万物が一新される年とされる。 甲子(年の革令)・戊辰(運の改め)・辛酉(天命の改め)と言われる。天皇の即位と改元が多い。 神武元年、以降、改元の事例:天応(781年)、延喜、応和、治安、永保、永治、建仁、 弘長、元亨、永徳、嘉吉、文亀、文久(1861年)、と1200年間も続いている。 西暦年号の下一桁が「1」の年は、「辛」の十干で、「未ー巳ー卯ー丑ー亥ー酉」の順番、 すなわち十二支での、「8番目ー6番目ー4番目ー2番目ー12番目ー10番目」の逆巡に 組み合わされている。すなわち 1931辛未 1941辛巳 1951辛卯 1961辛丑 1971辛亥 1981辛酉 1991辛未 2001辛巳 2011辛卯 2021辛丑 2031辛亥 2041辛酉 当面これぐらいの年号を承知しておくことで、十分ですね。これ以前、これ以降は御先祖と 子孫にお任せしましょう。 ******** <1984年(甲子)〜2043年(癸亥)干支表 > ********
子 人当たりやわらか。細部に気が付くデリケートな性格。 家系の衰えを守り立てる宿命で、努力すれば必ず人の上に立って活躍できる人。 几帳面で用心深い消極さは、生活に対する防衛意識のなせる技。 無駄遣いせずお金を貯めるが、使い方は下手で、生きたお金の使い方を知らない。 直観力に優れひとつのことに集中すると成功しますが、集中することは苦手。 中年までは苦労しがちで、苦労に対する忍耐力を持ち、悲観的にはならない。 丑 職人気質といわれるような頑固で無骨な性格。 内面には強い剛気や神経質な面を秘めているが、自己表現が下手なため一見温厚で のんびりした内気な性格に見られる。 正直者で責任感が強く辛抱強いが、強情で気難しく無骨で付き合いが悪い面あり。 他人の気持ちを量る能力が乏しいため、家族や友人たちから憎まれる。 好き嫌いがはっきり、長所でもあり短所でもある。 寅 親分肌のワンマンな性格。独立心が旺盛で、決して徒党を組まず、単独で行動する。 勇気と冒険心が強く、新しいことにも積極的にチャレンジし、意志が強固で 言い出したら後には引かない。 子分にあたる人には親切で慈悲深く、頼まれると断れず一生懸命やり遂げる。 負けず嫌いで、思い通りにならなければ力ずくでも押さえる。 目上の者にも臆することなく自己主張をするので、敵は多く人を脅かすことあり。 卯 温厚で愛嬌があり、柔和な性格。争い事は苦手で、時々の事情にすんなりと乗って いく柔軟で従順な対応をする。野心や大望を持たないため、目上の者から引き 立てられ可愛がられる。人の出入りを好み、よくご馳走するので誰からも好感をもたれる。 浮気で多産系なので、異性関係には注意が必要。自分にも他人にも甘く諦めは よいので人気はあるが、何事もやりっ放しの面あり。 辰 気位が高く、スケールの大きい個性豊かな性格です。表面的には静かで一見温和に 見えるが、常に高い理想を持ち、自尊心の強い人。傲慢で人の意見を聞かず、 自分の意見を通すので、争いやすく言葉に角がある。生来聡明であり理知に富むが、 理想が高く現実離れしているので、理想と現実のギャップに苦悩する面あり。 芸術的、専門的分野で優れた才能をもち、直観力、集中力、実行力が人並み以上に あるが、気まぐれで怠惰となり、せっかくの才能を発揮できない面をあわせ持つ。 巳 表面は落ち着いた静かでクールな印象ですが、内に情念を秘めている。感情豊かで ユーモアがあり、聡明でやさしさと暖かさを持つが、猜疑心が強く用心深い性格。 辛抱強く勤勉だが、裏を返せば執念深く諦めが悪いとも言える。気品が高く虚栄心が 強いので、人の下に立つのを嫌う。人に対して興味を示すが、自分に干渉されるのは 嫌う。猜疑心や嫉妬心を冷静に対処すれば、人に愛され成功を収める。 午 円満で忍耐強く、独立心が強い調子のよい性格。生命力が強くバイタリティが あって負けず嫌い。細かいことが嫌いで大雑把なためすべての面で行き 届かないところあり。短気でわがままなところがあり礼儀を欠きやすいが、 悪気はない。誰とでも友達になれっるが、たちまち離れていってしまう人も多い。 じっとしていられない性分のため落ち着きがなく、軽薄な印象もあり。 開放的で思慮が浅く、秘密を守りにくい面があり、ギャンブルや酒におぼれ 散財する傾向あり。 未 従順で温和、情に厚く親切だが、消極的な性格。正直で曲がったことが嫌い。 用心深く念入りに物事を行う。人と対立することを嫌うので、人間関係も 平穏で波乱はないが、行動的でないため優柔不断と見られる面あり。 同情心が厚く、頼み事は自分が困っていても断れない。遠慮がちで臆病なため、 自己主張することが苦手で才能が埋もれがちだが、よき理解者を得れば大成する。 繊細で見えないところに苦労する傾向あり。 申 才知に富み、目先が早く器用だが、ずる賢いところもある性格。明朗快活で 軽妙・機敏、前向きで楽天的な人。机の前に座っているより、人とかかわる ほうが好き。聡明で知能が高く、臨機応変に対処できるので世渡り上手といえる。 反面、情が薄く、飽きやすい性格で、約束を破ったり軽率な行動をとることあり。 人気者でありながら、誉められるためにはなんでもするという一面もあり、 内面はデリケートでこだわりを持つ人が多い。 酉 先見の明があり決断が早いが、反面せっかちという性格。頭の回転も速く 万事に如才なく、愛嬌を振り撒く交際上手。お洒落で色彩感覚も優れているが、 外見を飾って派手好き。計画的で無駄を嫌い、徹底した効率主義だが、 自己中心的な面もあり気変わりも多く、忍耐力に欠ける。神経質で疑り深く、 人を信用しきれないため心労が絶えない。大望を抱くが辛抱が足りないため、 失敗することあり。 戌 実直で忠義の心が厚く、決して人を裏切らないまじめな性格。正義感にあふれ 保守的で、決められた規則や規律を守り、はみ出すような行為を嫌う。 頑固で干渉されるのを嫌い気ままなため、人に媚びず気難しいところあり。 一本気なため状況分析能力に欠け、判断に甘く騙されることあり。 トップに立つより信頼できる主人を見つけ、二番手を目指すのが性分に 合っている。 亥 自尊心が強く強固な意志をもち、人の意見を聞かず押し通して譲らない、 まさに猪突猛進の性格。表面は剛毅に見えますが、情に弱く涙もろい一面あり。 竹を割ったようにまっすぐな性格で、曲がったことを嫌う。熱中しやすく 強情なため、周囲との協調の精神に欠け、人に憎まれ損をすることあり。 天真爛漫で暖かな思いやりと包容力を持っているが、いったん思い込むと 止まらず、暴力・暴言を発することあり。 ***************** 俗信・丙午女 ****************** 干支が生み出したいろいろの俗信や迷信はいろいろあるようです。参考事典によりますと、 辛酉革命、甲子革命、庚申、十方暮、三隣亡、三伏などに加えて、いまなお厳然として生きている 俗信は「丙午生まれの女性の運勢」です。すなわち陰陽五行説で丙も午も火になるので、 この年生まれの女性は気性が激しく、夫の運勢も圧倒して、その命も縮めるというのです。 丙午年には婚姻届を避けたり、縁談を気にする、あるいは、出産を控えるという風潮が 現代社会でも生きているのです。火災が多く発生する年とも言われます。これらは、江戸時代の 都市住民の間で定着した俗信のようです。特に八百屋お七(1668〜1683)の事例が影響大。 因みに、1906(明治39年)、1966年(昭和41年)は、共に出生届けが激減した年で 当時の厚生省の統計に依りますと、都市在住の若い母親ほど気にしているとのこと。 有名人では、三田寛子、小泉今日子、松本明子、小谷実可子、早見優、斉藤由貴、有森裕子、 江角マキコ、1906年生まれでは、杉村春子さんなどだそうです。 さて、1966+60=2026(平成38年)ももうすぐです。さて、どのような結果になる のでしょうか。 *********************************************
いつ行っても自分の干支の守護神にお参りできるという大変便利な「干支神社」は、下鴨神社の 「干支詣」でしょう。中門を潜って御本社前の七社の神様方です。いつ誰が参拝しても、神様は お受けしますよ、というのが、「賀茂御祖神社」の狙いどころでしょうか。 ね(大国主神) うし・ゐ(大物主神) とら・いぬ(大己貴神)う・とり(志固男神) うま(顕国魂神)たつ・さる(八千矛神)み・ひつじ(大国魂神) 来年平成21年は、丑年ですので、大物主神にお参りをしておきました。
いよいよ平成20年も年末の声を聞く時期になりました。さて来年・西暦2009年は、 皇紀2669年・平成21年・昭和84年・大正98年・明治142年となり、ますます 「昭和も遠くなりにけり」です。干支は己丑(きちゅう・つちのとーうし)となり、六十年前は 昭和24年、さらに百二十年前は明治22年となります。 (注)十干の己、十二支の巳とは、ややこしいかぎり。昔の人も困ったらしく 「巳」(み・シ)は上、「已」(やむ・イ)はすでになかばなり、 「己」(おのれ・つちのと・コ・キ)は下につく、と唱えたという。 郵政公社も年末の稼ぎ時、例によって「干支」に因んだ切手を発売しました。