平成社会の探索


ー第81回知恵の会資料ー平成20年11月9日ー

<「知恵の会」への「知恵袋」>


(その23)課題「さけ(酒)」
「目が回る回文の富田酒」

目       次
1.江戸俳人の「回文」
2.摂津国の「富田酒」
<参 考 メ モ>
<その1>「回文」あれこれ
<その2>蕉門十哲・宝井其角
<その3>「けさ・さけ」の回文作品例
<その4>摂津の醸造業とその役割
<その5>兼好法師の「飲酒功罪論」

<1.江戸俳人の「回文」>

<けさたんとのめやあやめのとんたさけ>
今朝沢山飲めや菖蒲の富田酒

 この名句は江戸初期の俳人・宝井其角(参考メモ・その2参照))が詠んだ作品で、
迷句というべきでしょうか。前から読んでも後ろから読んでも同文、同文句になっている
いうなれば、「廻文俳諧」(注1)です。因みに「あやめ」とは、富田酒の銘柄のようです。
(注1)有名俳人の廻文句寄せ(其角以外の俳人の廻文俳諧)
    (荻生待也「図説ことばあそび・遊辞苑」(遊子館)2007年10月)
    <闇のみが見よき月読み神の宮>(やみのみかみよきつきよみかみのみや)立圃
    <元の名は弓取りとみゆ花の友>(もとのなはゆみとりとみゆはなのとも)美成
    <田は月か野辺は沢辺の杜若>(たはつきかのへはさはへのかきつはた)重政
    <長座敷今朝過ごす酒雉子肴>(なかさしきけさすこすさけきしさかな)道節
    <咲く見つつ摘まで待て待つ堤草>(さくみつつつまてまてまつつつみくさ)也有

また、其角の詠んだ「けさ・の・さけ」形式は回文を作りやすいと見えて多くの作品が
挙げられてています。その一例は、(参考メモ・その3)「けさ・さけ」作品例を参照願います。

 酒に関する回文は其角の迷句だけでなく、多くの作品が残されているのです。
 その種の本(島村桂一「回文川柳辞典」東京堂出版(平成10年7月30日))より
引用しますと、
 <時々は飲め 夢夢吐き時と>(ときときはのめゆめゆめのはきときと)
 <新年だ今朝よりよ 酒断念し>(しんねんだけさよりよさけだんねんし)
 <酒断ちも身の為 頼み餅だけさ>(さけだちもみのためたのみもちだけさ)
 <やけざけや胃が煮え苦いやけざけや>(やけざけやいがにえにがいやけざけや)
 <禁止の身飲めず理詰めの身の辛気>(きんしのみのめずりずめのみのしんき)
 <酒断ちし言はん心配質だけさ>(さけたちしいはんしんはいしちだけさ)

 ちなみに回文は俳諧だけに限らず、和歌でも次のような「初夢の歌」として宝船の絵に
添えられる名高いものも作られています。これを枕の下にすることによって良い初夢を
みたいということでしょうか。

 「長き夜のとおのねぶりのみなめざめ波乗り船の音のよきかな」

 「とおのねぶり」とは、「十人の仲間が船の仲で一緒に寝て」、あるいは、「遠の眠り」
(深い眠り)、「疾うの眠り」(早い眠り)とも採られています。

七福神宝船の刷り物(笹間良彦「大江戸復原図鑑」より)
 宝井其角は、江戸の俳人であって、上方社会の人間ではありません。しかるに好きな酒に
ついては、上方の摂津国・富田(注2)仕込みの酒を嗜好の対象にしているのです。
(注2)「摂津国・富田」の名称は、その昔、「日本書紀」によれば、第二十七代安閑天皇后の
     御料地として「屯田」になり、室町時代になり、八代将軍妻日野富子から吉祥名に
     変更しては、といわれたことで、「富ん田」となったとのこと。

 如何なる事情で、十七世紀後半の江戸の町で「富田酒」が人気を博していたのでしょうか。
 一つに、江戸の近在では良い酒がない。上方から摂津富田の酒が運ばれてきた、ということ。
     ことに従来の酒以上に「旨かった」ということはもちろんでしょう。
 二つに、富田は、徳川家康と歴史的関わりがあったという。浄土真宗寺内町の富田の町で、
     山崎の合戦で豊臣秀吉の最前線基地となり、文禄年間に豊臣政権の直轄領となる
     御蔵ができ、関ヶ原の合戦で、徳川家康に味方して、兵糧や燃料の支援をした
     ことによって、戦後、家康から酒造特権を獲得した事によると見られています。
 三つに、酒造業の必要条件を富田の地は満たしていたという。すなわち、御蔵の存在が
     資本の確保と米の入手を容易にし、阿武山山系の豊富な酒造りに適した水が得られ、
     なおかつ人手が集めやすかった等の好条件が揃っていたということでしょう。
 詳細は、次節2.摂津国の「富田酒」を参照願います。

<2.摂津国の「富田酒」>

(1)摂津国・富田の町の形成
  *文明年間(1469〜1487)浄土真宗中興の祖蓮如上人が近松御坊(滋賀県大津市)、
    吉崎御坊(福井県)とともに摂津国に富田道場を建立したので、真宗門徒が集まって、
    寺内町を形成するようになった。東側はキリシタン大名高山右近、西側は中川清秀らの
    城下町に囲まれる特異な都市を成していた。

(左)JR摂津富田駅周辺地図(右)富田町内地図

(左)蓮如上人縁の教行寺(中)三輪神社参道(右)富田道場の本照寺
  *天正十年(1582)山崎合戦で、豊臣秀吉の最前線基地となる。
   文禄年間(1592〜1596)豊臣政権直轄領として、二万石の御蔵が建つ。
    町内の豪商「富田十人衆」(紅谷・清水市郎右衛門ら)が町を支配する。

(2)酒造業の発生
  *慶長五年(1600)関ヶ原合戦、さらに元和元年(1615)大阪冬の陣で、徳川家康を
    支援して、戦後幕府から酒造特権を与えられる。
  <寛文年間(1661〜1672)伝法廻船問屋が伊丹の酒その他の産物を合同船積みして
    江戸へ向かう。> 
  *元禄八年(1695)「本朝食鑑」「和州南都造酒第一にして、摂州の伊丹・鴻池・池田・
    富田これに次ぐ・・」と言及している。
  <元禄年間(1688〜1704)伊丹酒が後退し、灘・西宮酒が新興>
  *江戸前期儒学者・貝原益軒(1630〜1714)「南遊紀行」に富田の酒家の繁盛振りを
    記述している。
  *明暦三年(1657)酒造米元高八千石以上。(紅屋がトップの千八百石)
  *宝暦年間(1751〜1763)29軒の酒屋が活動。(灘や伏見を遙かに凌ぐ。)  

  なお、日本酒の歴史に於ける「富田酒」の位置付けは、(参考メモ書き・その4)参照方。

(3)「富田酒」のその後
  *天保十年(1839)紅屋の酒造米高・九石弱。
  *安政元年(1854)酒造の「清水株」は千八百石に戻っていたが、内千四十石は
    他の酒造元に貸し付ける商売方式に替えていた。
  *慶応二年(1866)千八百石の株は、35酒造元へ全て貸し付けの業態になる。
    富田酒は次第に伊丹・池田の酒作りと共に廃れ、代わって西宮・灘の新興勢力が伸びる。

(4)「富田酒」の現況
  *近郷の良質米産出(茨木市福井、箕面市粟生の「三島雄町米」)、人手の確保(但馬杜氏、
    広島杜氏、南部杜氏など)五百年の伝統技術は生き延びている。
  *現在二銘酒が販売されている。
   「国乃長」:寿酒造(高槻市富田町三丁目)1822年・文政五年創業
         橋本家:茨木市鮎川での油業から富田の酒造りに転身して五代目。
   「清鶴」:清い鶴酒造(高槻市富田町六丁目)1856年・安政三年創業
        石井家:初代が酒作りを創業して五代目。

(左)清鶴酒造の酒蔵(中)三輪神社に奉納された菰被り酒樽(右)寿酒造の酒蔵

<(参考メモ・その1)「回文」あれこれ>

1.我が国最古の廻文例
 藤原基俊歌論書「悦目抄」所収の二首
  「むら草に草の名はもし具はらはなそしも花の咲くにさくらむ」
  「惜しめどもつゐにいつもと行く春は悔ゆともつゐにいつもとめじを」
 江戸時代、文化文政期、武蔵国熊谷住人・大福窓(錦宇楼)笑寿は狂歌を廻文歌とし、
「回文歌百首」(130首含む)を文化十一年(1814)出版している。
  幕末に仙台に回文師として生涯に一千以上もの回文作りを貫いた回文師・仙代庵が
 記録されている。その代表作として、作並の町を詠んで
  「みな草の名は百としれ薬なり すくれしとくは花の作並」
   (草は百種ほど有るが、みな薬である。その優れた効用は花の作並のようだ。)

2.回文の文芸分野
 和歌に始まり、狂歌、俳諧、川柳、都々逸、さらには、昔から子供のことば遊びとしても
知られている「たけやぶやけた」「だんすがすんだ」などの文句、それらの長文、果ては、
ローマ字の回文まで、展開されている。
 回文都々逸の秀作例を二吟挙げておきます。
  「待つ気かわいさ一途な仲が七つ小さい若き妻」
  「行こう夜祭り友つき行きき行きつ戻りつ迷う恋」
 四,五音節程度の回文であれば、いとも簡単に、日常用語の中からでも探し出せるが、
文句や長文になると、至難の業と言えそうです。
 長文の回文日本一と思われる作品は、島村桂一氏の全547文字のものがあるそうです。

3.言葉遊びの活動現況
  「日本ことば遊び・回文学会」あり。
  平成10年から「日本ことばあそび・回文コンテスト」が実施されている。
     (引用単行本:荻生待也「図説ことばあそび遊辞苑」遊子館(2007年10月))

<(参考メモ・その2)芭蕉十哲「宝井其角」>

             江戸時代前期の俳諧師・宝井 其角(たからい きかく)の略歴

1.寛文元年7月17日(1661年8月11日) ー 宝永4年2月30日〈一説には2月29日〉(1707年4月2日))

2.本名:竹下侃憲(たけした ただのり)
  別号:螺舎(らしゃ)狂雷堂(きょうらいどう)晋子(しんし)宝普斎(ほうしんさい)など。

3.江戸堀江町で、近江国膳所藩御殿医・竹下東順長男として生まれる。
  延宝年間(1673〜1681年)初め、父親の紹介で松尾芭蕉に入門、俳諧を学ぶ。
  当初母方榎本姓を名乗り、のち自ら宝井と改める。
  蕉門十哲の第一の門弟。芭蕉没後、日本橋茅場町に江戸座を開き、江戸俳諧で一番の
  勢力となる。隣接して荻生徂徠が起居し、私塾を開いており、
  「梅が香や隣は荻生惣右衛門」 の句あり。
  永年の酒飲のためか、47歳で没する。

4.人柄は芭蕉とは違い、酒を好み作風は派手で、平明かつ口語調の洒落風を俳風とした。
  博覧強記であるが故に、句の解釈には、その中に隠された難解さがある。

5.去来抄中の逸話例(芭蕉による其角観)
    切られたるゆめはまことかのみのあと 其角 
 「其角は本当に巧みですね。ちょっと、ノミが喰いついただけの事を、誰がここまで
  言い尽くせるでしょう」と向井去来がいうと、
  芭蕉が応えて、「確かに。彼は藤原定家卿だよ。大したことでもないのに、仰々しく
  いい連ねると評されたのに似ているね」と言った。 
  また、芭蕉がライバル視していた井原西鶴とも交際し、生涯に2度、西鶴を訪ねて
  上方に行っている。
  其角の逸話の一つとして、赤穂浪士討ち入りに関わっているという。

6.句集としては、花摘集、其角十七條、枯尾花、五元集など。

<(参考メモ・その3)「さけ・けさ」「けさ・さけ」の回文作品例>

1.「さけ・酒ーけさ・今朝」の作品例
 <酒断ちか やったと立つや 勝ちだ今朝>(さけたちかやつたとたつやかちたけさ) 
 <酒飲みよ悔いて果ていく黄泉の今朝>(さけのみよくいてはていくよみのけさ)
 <酒断つよ言ってさてつい酔った今朝>(さけたつよいつてさてついよつたけさ)
 
2.「けさ・今朝ーさけ・酒」の作品例
 <今朝たったちくと一口断った酒>(けさたったちくとひとくちたったさけ)
                       (以上、島村桂一「回文川柳辞典」より)
3. *宝井其角の句に類似の作品群
 <今朝祝ひ飲めや菖蒲の祝ひ酒>(けさいわいのめやあやめのいわいさけ)
 <今朝うまし飲めや菖蒲の自慢酒>(けさうましのめやあやめのしまんさけ)(少々強引)
 <今朝と待つ呑めやあやめの夫(つま)と酒>(けさとまつのめやあやめのつまとさけ)
 <今朝の酒飲めやあやめの今朝の酒>(けさのさけのめやあやめのけさのさけ)
 <今朝皆は飲めや菖蒲の花見酒>(けさみなはのめやあやめのはなみさけ)

4. *その他の「今朝ー酒」の作品群
 <今朝の座円く車座の酒>(けさのざまるくくるまざのさけ)
 <今朝のみか蔵昼開く神の酒>(けさのみかくらひるひらくかみのさけ)
 <今朝飲むか寒の日飲むか燗の酒>(けさのむかかむのひのむかかむのさけ)
 <今朝飲めか長閑な門の瓶の酒>(けさのむかのどかなかどのかめのさけ)
 <今朝飲めよ春年とるは嫁の酒>(けさのめよはるとしとるはよめのさけ)
 <今朝の桃宵より良いよ桃の酒>(けさのももよいよりよいよもものさけ)

5. *「酒」を詠んだ作品群
 <家に今朝屠蘇酒さぞと酒に酔い>(いえにけさとそざけさぞとさけにゑい)
 <祝ひ呑み今朝ぞ屠蘇酒身の祝>(いわいのみけさそとそさけみのいわい)
 <酒の名は伊丹呑みたい花の今朝>(さけのなはいたみのみたいはなのけさ)
 <酒飲むも伊勢誓文の袈裟>(さけのむもいせせいもむのけさ)
 <長居する酒飲みの今朝留守居かな>(なかいするさけのみのけさるすいかな)
                       (以上、鈴木棠三「回文川柳辞典」より)

<(参考メモ・その4)摂津の醸造業とその役割>

1.日本酒の歴史あらまし
(1)弥生時代     (二千数百年前)稲作の始まりとともに、稲作の伝来と共に
                       米を原料とする発酵酒が伝来する。

(2)紀元280年頃  「歌舞飲酒する」倭人が記される。(魏志倭人伝)

(3)律令国家     平城京・酒造府「酒造司(みきのつかさ)」:神々の酒、天皇の酒。
             *大和・河内・摂津の酒戸185戸。
             *酒に関する最初の記録:和銅六年(713)「播磨風土記」
             *万葉集(八世紀半)には、酒の歌多し。
             *延長五年(927)延喜式「酒造司」白貴・黒貴。

(4)平安〜室町期   酒造は国家の手から神社・寺院の手に移行する。(12〜15世紀)
             *僧坊酒:
                            天野酒(河内長野市・天野山金剛寺、天福二年・1234あるいは
                  永享四年・1432記録あり。)
              奈良酒(奈良市・菩提山正暦寺、南都諸白<菩提泉>
                  中川寺酒(奈良市東郊)、長岡寺酒(山辺郡釜口)など。
              百済寺酒(滋賀県)など。(13〜14世紀)
              その他、観心寺酒、多武峰酒、豊原酒(天台宗白山豊原寺)など。
             *自家消費の酒から商品としての酒に移行。(14世紀から)
             *正平十年(1355)清酒の段仕込み。
             *応永32年(1425)京市中の酒屋342軒。
                          *平安時代既にかなりの清酒が造られていた。
              (江戸期の関連書には、慶長年間摂津鴻池の酒蔵で、蔵人が主人への
               腹いせに酒樽へ灰を投げ込んで偶然清酒が得られたとする逸話有り)

(5)戦国〜桃山時代  寺社僧坊主導酒造形態から民間主導型(酒屋の酒)新興酒造地台頭。
             *伊豆の江川酒、西宮の旨酒、加賀の菊酒、博多や豊後の練貫酒、
              児島酒、尾道酒、三原酒、道後酒、伏見酒、小倉酒、堺酒、
              平野酒、坂本酒、大津酒など。
             *南都諸白の最盛期(奈良興福寺で三段掛け仕込・16世紀後半)
              (天正十年・1582信長宴席に家康招待される十石酒桶を使用した
               南都諸白の賞味に与る)

(6)江戸幕府開府頃  「酒屋の酒」諸白として、鴻池勝庵の「伊丹酒の江戸下り」が始まり、
            伊丹や池田の酒が「南都諸白」に代わって躍進する。
             *下り酒(酒造本場もの):鴻池、伊丹、池田、灘(18世紀後半より)
              地廻り(地方産のもの):西宮、堺、平野、尾道、三原、加賀、博多
                           美濃、尾張や三河(中国物)
             *菱垣廻船(17世紀後半)の混載による清酒4斗樽海上輸送で、
              江戸100万人の需要に応える。

(7)元禄年間頃    「池田酒」は後退し、「伊丹酒」は下り酒高級品として独走する。
             *元禄十一年(1698)全国の酒屋27326軒、大手は二千石。
             *工業的酒造業始まる(17世紀)

(8)徳川中期     「伊丹酒」は、新興酒造地・灘五郷に王座を譲る。
             *享保九年(1724)灘酒が江戸へ出荷。    
             *灘五郷発展の要素として、六甲山系の水質、豊富な宮水の発見
              (天保十一年・1840)、六甲山麓一帯の良質米、さらに、
              丹波杜氏の活躍、瀬戸内海沿いという地理的条件により、温暖な
              気候と船便の利、加えて、富田酒の株貸し付けの後押しなどが
              挙げられ、酒質向上技術として精白度の向上、仕込配合の改善など。
             *享保十五年(1730)樽回船運航開始。(年間100万樽)
              (上方と江戸を5日間で帆走した)

(9)徳川後期     「伊丹酒」を駆逐した「灘酒」は流通革新、技術革新を計り、発展する。

(10)明治期以降   灘五郷は急速に台頭した「伏見酒」と共に、大量生産・大量流通・
              大量消費の体制を確立し、大正・昭和・現代までの日本酒造世界に
              君臨する。

2.摂津国の主要銘酒概要

 中世の寺院・神社の酒造の手を経由して15世紀頃から、京の町の酒が出現する。
 京の酒についで、奈良酒、天野酒、少し遅れて近江、摂津、西宮、兵庫、加賀、
 越州、博多、伊豆の酒などが現れる。

(1)富田酒 摂津富田地区の歴史は、中世に富田寺内町として発達した町である。中世から
       酒造業が盛んで文明三年(1471)奈良屋(好田宗信・永照寺檀家・酒造家)
       興る。享禄年間(1528〜32)の文献に「富田酒」の記載有り。
       室町期の京都・奈良の酒造地に代わって台頭してきた酒造地で、「伊丹酒」や
       「池田酒」などの先達となる。
       最盛期の明暦年間(1655〜58)酒造家24軒・8200石
       「摂津名所図会」には、本照寺(存如上人開基で、後の教行寺)隣の清水家が
       酒匠を業となし吉例毎に糟漬け物を江府へ献上して繁盛していると言及している。
       幕末期、6〜8軒に減退。現在2軒(寿酒造、清鶴酒造)

(2)鴻池酒 猪名川沿いの醸造地として、最初に名を挙げたのは、鴻池村の山中氏(天正六年
       戦死した山中鹿之助の次男)、鴻池屋と号して、江戸積み酒で名を成した。
       当時(慶長四年・1599)普通の濁り酒・片白に対して、鴻池酒は、澄み酒で
       生諸白といい、馬に積んで江戸へ送り込んで名声を博した。江戸商売で富を蓄え
       元和五年(1619)大坂に進出、後年の金融業鴻池財閥になる。なお元禄年間
       西鶴の「日本永代蔵」にも記されている。
(3)西宮酒 応安四年(1371)以前から広田神社の門前町として栄え、摂津酒造業の
       中心地になっており、文安年間(1444〜48)醸造地として現れる。
       安土桃山時代すでに京都・奈良以外の銘醸地として、摂津兵庫、加賀宮腰、
       越前博多と並び称されている。
(4)池田酒 室町中期から末期頃、摂州池田の地区に酒造業が興り、江戸期には、酒造家の
       満願寺屋などが江戸市場で大きな勢力を持つ。
       最盛期の元禄十年(1699)、酒造家38戸、生産高1.2万石。
       宝暦・明和期(1751〜69)灘五郷の勢力に飲まれる。
(5)伊丹酒 摂州伊丹の酒造業は文禄・慶長期(1592〜1614)より盛んで、江戸幕府に
       よる新しい酒造体制により新興の酒造地となる。「池田酒」と共に、享保期
       (1716〜35)が全盛時代である。享保九年、下り酒の酒造戸は54軒
       (猪名寺屋、升屋など)あったという。

(6)灘酒・灘五郷 灘目酒ともいう。
       灘五郷の前身の地域で酒造りの文献に初めて登場するのは、寛永元年(1624)。
       江戸初期〜中期では、江戸向け諸白先進地は池田酒・伊丹酒(伊丹諸白<丹醸>)で
       あったが、十八世紀後半から灘が酒質の良さで酒造勢力を引き継いでゆく。
       江戸幕府の新酒造体制整備と共に、今津が明暦年間(1655〜57)新興銘醸地に
       なり、続いて万治(1658〜)から享保年間(1716〜)に灘の各地に
       すこしづつ酒造業者が現れる。
       文化十二年(1815)頃、水車精米導入で、高精白米を確保でき、従来の
       伊丹酒に競り勝つことが出来、且つ天保十一年(1849)には、宮水の発見に
       より、決定的に有利な事業條件を確保する。

摂津十二郷(出典:加藤百一「日本酒5000年」技法堂出版(1987年2月)p。233)
(参考)伏見酒 室町期・応永三十二年(1425)洛中洛外酒造業者342軒、洛外では、
                        伏見、嵯峨が名を成す。
        文禄三年(1594)秀吉桃山城を築く。淀川水運の拠点となる。
        明暦三年(1657)伏見地区に83軒の業者が集まる。
        江戸中期以降 近衛家の意向で伊丹酒が勢力を持つが、地理的に不利で、
               灘酒が擡頭する。
        明治元年(1868)鳥羽伏見の戦いで大打撃を蒙る。
        明治22年(1889)東海道線開通で販路拡大に成功し、酒造業も復興する。

<(参考メモ・その5)兼好法師の「飲酒功罪論」>

 今から大凡700年弱前の兼好法師はその著・徒然草において、酒の文化論を展開しています。
酒と人間のつきあいの在り方は今も当時も同じような状況であったことが解ります。
 「徒然草」第175段の「飲酒功罪論」のメモ書きを引用しておきます。
 「つれづれ閑談」第017話「飲酒功罪論」を参照願います。

ホームページ管理人申酉人辛
(万葉歌人名:栗木幸麻呂)


平成20年10月30日   *** 編集責任・奈華仁志 ***

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