平成社会の探索


ー第79回知恵の会資料ー平成20年7月27日ー

<「知恵の会」への「知恵袋」>


(その22)課題「なつ(夏)」
「夏のしるし」ー「夏越しの祓へ」

目       次
1.従二位家隆の百人一首歌と歌碑
2.上賀茂神社の「夏のしるし」の各種神事
3.「禊ぎ」とは
4.参考メモ「二十四節気」「家隆の禊ぎ」「右大將道綱母の禊ぎ」

<1.従二位家隆の百人一首歌と歌碑>

 百人一首の歌には「夏」の歌は4首採られています。
 「春過ぎて夏来にけらし 白妙の衣ほすてふ 天香具山」(第2番・持統天皇)
 「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを 雲のいづこに月宿るらむ」(第36番・清原深養父)
 「ほととぎす 鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる」(第81番・後徳大寺左大臣)
 「風そよぐ楢の小川の夕暮れは 禊ぎぞ夏のしるしなりける」(第98番・従二位家隆)

 家隆卿の百人一首歌にある「ならの小川」とは、上賀茂神社境内をうねりながら流れている
小川のことです。川の詳細な地理を参考資料(「日本歴史地名大系」平凡社)でみますと、
次のようになっています。
 「上賀茂社本殿の東側から流れる御物忌川(おものいかわ)と、西側から流れる御手洗川とが、
本殿西南の橋本社の傍らで合流し、そこから南に流れて上賀茂社境内を流れる川のことで、
境内を出ると明神川になり、一部は賀茂川に合流し、一部は上賀茂社家町の北側を東に流れる。
上賀茂社の御手洗の水となっている。」

 この川では、昔から六月末には夏越しの祓(六月祓)神事が行われてきたのです。
楢の小川沿いの空気と景観は千年以上に渡り維持されてきた「いにしへの景観」ですから、
千年の昔を散策することになります。

(左)上賀茂神社境内を流れる「楢の小川」(右)末社なら社の辺の風景
◆家隆の歌の季節感 ◆ 歌の中には「風」・「そよぐ」・「小川」・「夕暮れ」・
「禊ぎ」・「夏」などの言葉群から連想されたり感じられることは、何か涼しさ、
すがすがしさ、あるいはさわやかさなどではないでしょうか。
 「禊ぎ」は「夏のしるし」と詠っているものの、「夏」の終わりを告げる
「しるし」ですから、すなわち秋の訪れを暗に意味していることになるわけで、
秋の涼しさ、すがすがしさあるいはさわやかさとなります。
 夏が終わり、秋が来るという季節感は平安の時代の人々の方が平成の人々よりも
敏感であり且つ豊かであったと思います。それは、前述の陰暦でのいろいろな行事が
季節の移り変わりと密接な関係にあったからで、暦と目に映る景色、耳で聞き取る風、
肌で感じる気温とを比べながら、鼻で嗅ぎ分ける香り、舌で味わう旬のもので、
季節を体感していましたから、結局人間の五感で生活していたのです。
 平成の人々の周囲からは、不幸にもこの種の季節を体感できる物が奪われつつ
あるのです。平安朝には家隆さんのような貴族でも、都の内に住まいしていながら、
一寸足をのばして、都の近郊の上賀茂神社に夕暮れ時に行けば、風がそよぎ、
ならの小川が流れ、「禊ぎ」としての水無月祓えを見ることによって夏と秋の
移り目を体感することができたのです。


(左)上賀茂神社境内楢小川沿いの歌碑(右)嵯峨野立石町内公園の歌碑

<2.上賀茂神社の夏のしるしの各種神事>

 6月30日の上賀茂神社における神事はつぎのようになっています。
 (1)水無月大祓式 午前10時から、半年間の罪穢れを祓い清めるため、茅の輪をくぐる。
           この時、「水無月の夏越の祓へするひとは千歳の命のぶといふなり」と
           心の中で唱えながら、茅野輪を八の字に巡回する。


上賀茂神社における夏越神事と茅の輪くぐりの作法
           舞殿(橋殿)にて、5人の神官が入場し、二人の神官が麻・木綿の布を
           引き裂いて、「ひだりなへ」「みぎなへ」にして、御手洗川に投じる
           当社独自の作法による禊ぎの神事。
 (2)夏越神事   引き続き、本殿にて祭典が執行される。
 (3)夏越祓式   午後8時から、周辺にかがり火を焚かれた舞殿(橋殿)に於いて、
           雅楽が奏される中、氏子から持ち寄られた人形(ひとがた)や車形を
           御手洗川に投じ、半年の穢れをはらい清める神事 
           
 罪穢れの祓えを行った後は、茶屋によって「水無月」お菓子で、今度は口の中の「みそぎ」を
やりましょう。三角形の独特の形ですね。茶店の主人の説明では、「氷が割れたところ」を
表しているという。では、それと水無月祓とどういう関係があるのでしょうか。?

(左)上賀茂神社一の鳥居前の茶店「みそぎ茶屋」(右)市内和菓子屋店頭の「水無月」

<3.「禊ぎ」とは>

(その1)二十四節気の<水無月祓>
 昔の人々にとって時の移りゆきは、「二十四節気」(参考メモ・その1 参照方)に
よる時の確認にありました。すなわち、春、夏、秋、冬それぞれに時節の移り変わりを
認識しつつ時を迎えては送っていたのです。そして、十二節気ごとの節末にお祓いを
おこなって、時の移り変り目に改めて己の命と存在を再認識していたのです。
 「夏越しの祓へ」とは、陰暦六月三十日に宮中や神社で行われた半年間の汚れを
祓う厄除けの行事で、茅の輪を潜ったり、人形を作り、体を撫でた後、川に流すなど
して身を浄めたのです。実質的には、身体的な体験より、精神的な意識の切り替えが
目的であったように思います。当時の人々はこの祓えに長寿を期待したのです。
 「六月の 夏越しの祓へ するひとは 千歳の命 延ぶといふなり」
                   (拾遺集・巻第五・夏・292・読人不知)
  嘗て古代律令体制下では六月末に大臣以下,百官が朱雀門に集まって大祓えを行って
いました。(延喜式)律令体制が揺るぎだし、応仁の乱で全く途絶えた宮中行事に
なりましたが、代わって民間では、六月、十二月の祓えの習慣は発達して、六月祓は、
特に夏に流行する悪疫除去の目的で、茅の輪くぐりを行いました。伊勢神宮でも
神官祠官が中世以降「輪越神事」として行ったので、他の神社でも行われるように
なったと言うことです。

(右)茅の輪くぐりの神事例(左)三嶋大社の茅の輪
 茅の輪は「菅貫」(すがぬき)ともいわれます。茅の輪くぐりは横8字のように
廻って茅の輪を三回くぐり抜けることによって、罪穢や疫気を祓うのだそうです。
 因みに茅の輪の大きさは、「直径が二丈六尺(大凡7。8m)、太さ(囲)8寸
(大凡24cm)」で、材料は「藁をもて造り、茅を心(芯)とし、紙をもて
纏めたるもの」であるという。

 茅の輪は神社によって据え方もいろいろで、6月30日、市内「御霊神社」と
護王神社に据えられたものを示します。御霊神社は、楼門の柱に茅の輪を締め付けて
、護王神社では拝殿前に据え付けています。

(左)御霊神社の茅の輪(右)護王神社の茅の輪

(左)大坂・曾根崎・露天神(お初天神)の茅の輪(右)人形の説明と茅の輪潜り作法解説
露天神の茅の輪くぐりは、8の字を一回書くように巡る作法を示しています。
 
 「みそぎ」は六月、十二月の年中行事ですが、特に夏越祓といわれる六月祓なども、
平成庶民には、ほとんど実感の湧かない無縁の神社行事になってしまっています。
しかし、主だった神社では、六月末に「夏越の祓へ」を年中行事として行っている
のです。

*******夏越し祓への「茅の輪」に関する未探索事項*******
半年分の穢れの祓えには、神官が一般的神事で行うのと同じように
「幣」を振るだけでは不充分で心許なく思った御先祖は、何らかの具体的な
神への作法が必要と考えた結果が「茅の輪」神事ということになるのでしょうか。
[1]茅の輪くぐりが穢れの祓えになるという宗教行事の原型となる土俗の風習や民俗行事にあるか。?(鳥居をくぐることとの違いは何か。)
[2]どうして「茅」(または藁)の輪なのか?
[3]単に一回の「くぐり、またはまたぎ」でなく、八の字に巡回するのはなぜか。?

(その2)現代人の「禊ぎ」
 「みそぎ」(禊ぎ)の本来の意味は、「身の罪又は穢れのある時や
重大な神事などに従う前に、川や海で身を洗い清めること」(広辞苑)なのですが、
平成の人々はこれとは別のことを連想するようになりました。それは国会議員(代議士)の
選挙資金に関係した贈収賄行為(身の罪またはけがれ)に対する身の浄めとしての
「禊ぎ」と言うことで、「禊ぎすべし」との選挙民の声や報道機関の主張は耳にたこが
できるくらいやかましいものですが、その行為が発覚する度にお念仏のように
唱えられるのが「みそぎ」という言葉になってしまいました。
 普通、神社にお参りして、神前に向かう前に手を洗いますし、行者は滝に打たれて
身のけがれを叩き落しますが、彼等の場合は金銭的汚れを洗い落す事(お金から縁を
切ること)が求められるのです。そのためには選挙を行なって、選挙民の判断を仰ぐ
ことが必要なのですが、何度選挙を行ってもなかなかその汚れを洗い落とさない人、
ないしは洗い落としたくない人が多いのです。
 こういう汚れた事態には「禊ぎ」という神の言葉を使うのさえ汚らわしく気が退ける
くらいです。言うならば、「裸になってやり直せ」「顔を洗って出直してこい」ぐらいが
妥当なところでしょう。

<4.参考メモ>

<(参考メモ・その1)神事としての二十四節気>

 家隆の歌は陰暦夏の最終日六月三十日に行われる水無月祓へ(夏越しの祓へ)のことを
指しているとされます。毎年この日上賀茂神社では、年の前半のけがれを払い、
後半の幸いと悪疫退散を祈ります。平安の昔やそれ以前から行われていた日本の
年中行事には、平成の今も庶民の間に受け継がれているものがあります。
時代の流れと外来文化の激流に逢う度に消えそうになる行事もありますが、
ほとんどが誰の心にも、ほっとしたものを感じさせるものばかりです。
 例えば睦月の若水や七草(人日)、如月の節分(ついな)、弥生の雛祭り(上巳)、
お水取りや春分、卯月の灌仏会(花祭り)、皐月の端午の賀茂祭り(葵祭り)、
水無月の更衣や大祓え、文月の七夕や盂蘭盆、葉月の中秋観月(十五夜)、
長月の重陽や秋分、神奈月の残菊宴、霜月の七五三、師走の冬至、大祓え、
除夜などです。
 これらの中で、七草、雛祭り、端午、七夕、重陽は五節句と言われる
供御の式日になっているものの日々です。昔の人々は二十四節気
(春夏秋冬の立つ日と分け目)に節目を付けて季節の到来を感じ、
移り変わりを見ながら季を迎えては節を送り、自分の年を重ねてきたのです。

<(参考メモ・その2)従二位家隆の禊ぎ>

◆ 仏道に就く家隆 ◆  藤原家隆は定家と共に新古今集期の代表的な
歌人とされ、定家より四才年上ですが、定家より四年早く嘉禎三年四月九日
(1237年)八十才で世を去っています。定家が生涯を敷島の道に生き、
最後まで歌に拘ったのに対して、家隆は非常にさばさばとした老境を
過ごしたようで、{百人一首一夕話」(巻の九)には、次のような歌が
引用されていて、難波の里に於ける仏道精進のあとも清々しい印象を与えます。

 「契りあれば難波の里に宿り来て浪の入り日を拝みつるかな」
 「思ひきや七十七つの七月の今日の七日に逢はんものとは」
 「八十路まであるか無きかの玉の緒は乱さで救へ救世の誓ひに」
 「阿弥陀仏の十度申して終わりなば誰も聞く人導かれなん」

大坂四天王寺・夕陽丘の家隆の庵跡顕彰碑

<(参考メモ・その3)右大將道綱母の唐崎祓へ道行き>

 百人一首の歌人の中で、禊ぎの神社参りを行っている人は、第53番歌人右大將道綱母の
例があります。かの「蜻蛉日記」に記されたところに依りますと、息子の道綱が元服式を
執り行う少し前に息子を連れて、琵琶湖西岸唐崎の祓へに出かけております。
 (関係資料)敷島随想第240回「右大將道綱母ー唐崎祓へ」

ホームページ管理人申酉人辛
(万葉歌人名:栗木幸麻呂)


平成20年6月30日   *** 編集責任・奈華仁志 ***

ご感想は、E-mail先まで、お寄せ下さい。
なばなひとし迷想録目次ページ に戻る。 磯城島綜芸堂目次ページ に戻る。