平成社会の探索


ー第78回知恵の会資料ー平成20年6月15日ー

<「知恵の会」への「知恵袋」>


(その21)課題「かご(篭・駕篭など)」
ー「江戸文芸での駕籠屋」ー

目       次
1.駕籠あれこれ
2.「落語」の中の駕籠いろいろ
3.「東海道中膝栗毛」の駕籠の登場
4.参考メモ

<1.駕籠あれこれ>

 「かご」と言えば本来は「うつわもの・器物」としての「篭・籠」であるのでしょうが、「駕籠」として
また「駕篭屋」も連想してしまいます。
 さらに「駕籠屋」と言えば半世紀前の童謡世界の「おさるのかごや」(参考メモ・その1)であり、
江戸時代の「駕籠かきの商売」を思い浮かべます。
 「駕籠」は、参考資料(注1)によりますと、16世紀末から江戸時代初期にかけて登場し、
江戸時代を通じて重要な交通手段で、次の種類があったのです。
 (注1)櫻井芳昭「ものと人間の文化史141ー駕籠ー」(財)法政大学出版局
                               (2007年10月22日初版)

  この駕籠文化を江戸時代の初め前後から興ったとされる「落語芸能世界」と江戸時代末期に
於ける「庶民文芸世界(東海道中膝栗毛)」での記述から観察してみます。

************  かご(籠、駕、轎、籃輿など) *************
(1)歴史 室町時代には「あんだ」「あみいた」という罪人や負傷者を運搬する道具あり、
      安土桃山時代までには、二本の柄で肩に担ぐ「輿」があり、手で運ぶ「輿」から
      「釣り輿」に変貌して江戸時代には一本の長柄で乗り台を釣ったいわゆる「駕籠」に
      変形してゆきます。 
(2)種類 のりもの(乗物)とかご(駕籠)に分類される。
 (イ)乗物:末広がり屋形の四方に板や網代を張る、畳敷きにする、戸・窓に御簾掛けする、
      内壁に金蒔絵を施す、肘掛け付き、寄り掛かりの設え付。
      将軍、公卿、大名、旗本など身分に応じた設えになっている。
      女性で乗れる身分は大名や旗本の夫人や娘などで「女乗物」と言われる。
 (ロ)駕籠:乗物より粗末な物でも、乗る人の身分に応じて各種駕籠あり。
      お忍び駕籠(大名など微行の時) お留守居駕籠(上級武士用) 権門駕籠(家臣が使用)
      法仙寺駕籠(四方板張りで春慶塗仕上げのすだれ窓付き、上下着用の町人用)
      あんぼつ(京大坂のあんだ)(上等な町駕籠、添付略図参照)
      四つ手(路)駕籠(四本の竹柱、四方板張り、竹網み台の組合せ、御免駕籠ともいう)
      旅行用で街道用(宿駕籠といい、店で営業する「ハイヤー」のようなもの)
      唐丸(軍鶏)駕籠(罪人護送用で円形のもの、鶏をいれる駕籠に似ている)
      他に山駕籠(箱根山中などで使用)・町駕籠・辻駕籠(「流しの「タクシー」に相当)・
      雲駕篭(雲助が担ぐもの)と言われるものあり。

(3)乗用資格  秀吉の法令六章(家康以下の五山長老と高齢の公卿のみ)
      江戸時代の武家諸法度(家柄別免許制を布く)、町駕籠の製作を規定、使用場所を制限。
(4)台数 17世紀末辻駕籠300挺の営業許可。18世紀初頭、市中辻駕籠数1800余挺で、
      600挺(300挺町方、100挺寺社方、200挺代官付)に制限する。
(5)商売 文久年間(1861〜)江戸市中に62件の駕籠かきの駕篭屋あり。駕籠を供給する業者で、
      戸口に「かご」看板を掲げ、客に応答する。赤岩(大伝馬町)初音屋(芝口)江戸勘
      (浅草茅町)あり。
      雲助は街道筋の宿駅での日雇い人足のこと。百姓町人の浮浪無宿塗徒輩。
(6)料金 日本橋〜吉原(約5km)(二朱、800文) 
      (注)通貨単位 1両=4分=16朱=4000文 一両=10万円見当 800文=2万円。
      三人引き(三朱)(留守居駕籠)  四人引き(一分)(権門駕籠)
(7)速度 最速の駕籠の運行速度を「忠臣蔵」における早駕籠の事例で見ますと、次に用になります。
              (出典:茅原照雄「墓碑探訪(1)考証赤穂事件」東方出版(昭和57年12月10日初版)
           祖田浩一「なぞ解き忠臣蔵」東京堂出版(1998年9月20日初版))

  *****************************************  
      元禄十四年(1701)三月十四日午前十時頃、江戸城松の廊下に於いて、浅野内匠頭が
      吉良上野介に刃傷に及ぶ事件発生。江戸から赤穂への急使の三便。
  <第一便>午後二時頃(午前十一時頃〜午後5時頃まで諸説有り)
         早駕籠二挺で江戸伝場町問屋を発つ。
         早水藤左衛門(馬回役・38歳)  萱野三平(中小姓・27歳)
  <第二便>午後九時過ぎ 赤穂に向かう。
         原惣右衛門(54歳) 大石瀬左衛門(馬回役・25歳)
  <距離>江戸から播州赤穂まで 155里(約620km) 
        宿場数 東海道53次 西国街道・山陽道17次 合計70次
  <到着>3月19日早朝 5〜6時頃 したがって、早駕籠日数は、4日半で、大凡 108時間。
  <早駕籠の速度>時速約6km 普通の旅は、一日十里(40km)とされているので、
         15〜6日かかるところを、4日半で跳ばしたことになり、旅人の4倍速となる。
  <早駕籠の構成>一挺につき、舁手(かきて)4名。前棒の前を晒しで引っ張る者一名。
             後ろ棒を押す者一名。おそらく5〜6名。
  <早駕籠の動き>宿駅毎に乗り継いでいくので、駕籠より先に一名が走ってゆき、先の宿場で
         人数を揃えておかなければ、巧く昼夜を問わず早駕籠をつないでいけません。
  <乗り込む者の姿勢>
        頭を鉢巻きで締め、腹に晒し一反を堅く巻きしめて、駕籠の上からつるした晒しを両手で
        握り、腰を宙に浮かした感じの乗り込み姿勢になる。腰をどっかと下ろしていると、
        振動が直接体に応え、転げ落ちる。
        食事は握り飯少しで、喉が渇けば、竹筒の水を口に含む程度。外に出るのは、駕籠の
        乗り換えの時と大小の用を足すときだけ。ゆられどうしなので不眠不休となる。
        まさに死にものぐるいであろう。
  <早駕籠の費用>(6)の5km800文で換算すると、約10万文(1文25円として、250万円)
        (藩の命運が懸かっているとなれば、250万円など、物の数ではないでしょうが、
         大変なことです。)
        早駕籠を巧く活用できたのは、討ち入り後細川家預かりになった原惣右衛門からの
        聞き書きとして「浅野家では、代々伝馬町の問屋共にかねがね金銀をつかわして
        おいたのが、こういうときに役に立った」とか。
  <息継ぎの井戸>死に物狂いで赤穂城下についた早駕籠の二人は「息継ぎに水を飲んだ」と
        いう井戸が赤穂市内に遺されています。どうも後世の作り事くさい感じはしますが、
        人々は何とか早駕籠の事実を赤穂城下に遺したかったのでしょう。 
  ************************************     
 このように、「早駕籠」になりますと、近代で用いられていた「電報」的な役目も果たすように
なっていたわけです。それにしても情報伝達というのは、人間社会にあっては何時の時代でも、
非常に重要なシステムであることがわかります。現代では「情報化社会」などと言われるまでに
なっていて、情報伝達手段もさることながら、その手段で伝達される「情報の中味」が重要に
なって生きているのです。「情報」の重要性は、現代社会になって認識されたのではなくて、
太古の昔より認識されていたことなのです。何時の時代でも、目に見えない「情報」という塊が
社会を左右させてきたのが、人間社会の歴史の流れであり、積み重なりであるのです。
 「情報を制する者は歴史を制す」。

<2.落語の中の駕籠いろいろ>

 江戸時代に重宝がられて活躍した「駕籠」も明治維新と共に「駕籠」に代わる各種近代交通手段と
しての人力車、馬車、さらに後世の鉄道、電車、自動車の出現と発達により次第に影を潜めてゆきました。
 落語という芸能もこの駕籠の登場からやや遅れて京と大坂や江戸(参考メモ・その2)で興ってきます。
 「駕籠」は、近代社会では姿を消していきますが、落語という芸能の世界や童謡という音楽世界では、
つい半世紀前までは、身近な現代社会の文物の一種であったのです。
 以下に落語の世界に於ける「駕籠のいろいろ」を抽出してみます。(注2)
 (注2)「古典落語大系」全8巻(三一書房))

(その1)「駕篭屋」が出てくる噺
(1)「住吉駕籠」(江戸では、「蜘蛛駕篭」)(参考メモ書き・その3)
  住吉街道で、住吉参詣帰りの客と駕篭屋のやりとり。5人ほどの客の噺。
  最初の客は、近所の旦那。二番目はひやかしの夫婦連れ。三番目は、御武家さんが道を聞く話。
  四番目は帰りの方向が反対の堺の住人で酔っぱらっている客に絡まれる噺。
  最後の客は堂島の相場師二人で、こそっと二人乗りし、駕籠の底が抜けてしまう。
  そこで乗ったまま四人で歩く噺。
  落ちは「駕籠担ぎは二人の四本足」のところ、「四人が駕籠を担いでいるから八本」となり、
  「蜘蛛駕篭」と。駕籠のことを雲助(注3)が担ぐ駕籠で、「雲駕篭」とも言ったことに掛けている。
  (注3)雲助の由来は、(イ)雲のように居所が定まらない、あるいは(ロ)蜘蛛のように網を張って
      客を捕まえる、ことによる。

(2)「蜘蛛駕篭」(上方落語「住吉駕籠」に当たる)と「雀駕籠」
  最初の客は御武家さん。二番目は酔っぱらい客。川崎大師参りの帰り道という設定替え。
  三番目は、威勢の良い案ちゃんに駕篭屋が踊らされる噺。四番目は、二人乗りの客の話。
  江戸と上方では客の種類と動作が若干異なっているが、「落ち」は同じ。  

  「雀駕籠」は、一番目から三番目の客までは同じで、四番目の客が「落ち」になっている。
  駕籠担ぎは客取りに、他の駕籠より「如何に早く運べるかを自慢する」。そのために「空中を
  飛ぶようだから、「宙」すなわち「チュン」ということで、「雀駕籠」と駕篭屋が自慢する。
  それを聴いた客は無理矢理駕篭屋に鳥の鳴き真似をさせ、客「今度はウグイスでやって
  くれ」、と駕篭屋の曰く、「ウグイスはまだ籠(駕籠)に慣れておりません!」

(3)「蔵前駕籠」
  日本橋と吉原を結ぶ蔵前通りの新前後は、世情騒然として夜な夜な追いはぎが出没していた。
  追い剥ぎは「軍資金代わり」と客から褌一つを遺して着物全てを奪い取るという。賢い「吉原
  通い客」は予め着物を全部駕籠の床下にしまい込んで、褌一丁で乗り、案の定追いはぎに遭う。
  追いはぎの曰く、素っ裸の男が腕組みをして乗り込んでいるのを見て「ウーーン、もう済んだか」

(4)「紋三郎稲荷」        (参考・山上武夫の童謡「おさるのかごや」(参考メモ・その1))
  常陸国笠間牧野藩士山崎平馬が江戸表勤番で取手から松戸まで駕籠一貫(1000文)で、
  松戸かえりの駕籠にのることになります。酒手(さかて)200文付とします。旅衣裳に「狐の皮が
  一匹そっくり縫いつけてある胴着を着込んでいて、駕籠に乗り込み、その尻尾が駕籠の外から
  見えたことから、すっかり駕籠かきが客は狐とおもいこみ、山崎平馬もいたづら気をだして、
  狐になりすまし、駕籠かきや松戸の宿屋の亭主までだましてしまうという、滑稽談。
  (注)取手から松戸までの距離は、大凡、18kmですから、前述の5km800文と比較して、
     かなり割安です。

(5)「ちきり伊勢屋」
  はずれたことがないという評判の高い占い先生(白井左近)から死亡年月を予告された
  「ちきり伊勢屋伝次郎」は、この世に思い残すことがないよう、親がけちって溜めた財産をすっかり
  散財してしまった後、予告の当日自分の葬式をしてしまいますが、死なない。 
  一文無しでぶらぶらしているわけにいかず、長屋に残っていた駕篭を使って駕篭屋を始めます。
  その後、再び巡り会った占い先生の見立て通り、今度は昔散財した人々に助けられて、元の
  伊勢屋を再興するという長い噺です。


(その2)「駕籠」が出てくる噺

(6)「ちしゃ医者」(「駕籠医者」とも言う)
  藪医者赤壁周庵のもとへ急患のために喚びに来た村人が医者の下男久助と駕籠を担いで
  往診に行く。急患が亡くなったと解り、村人は帰ってしまい、かわりの担ぎ手に通りかかった
  肥汲屋の百姓が登場。肥え桶と一緒に駕籠に乗った医者の話。
  (注)演題の「ちしゃ」はレタスのこと。「医者」を「ちしゃ」と聞き間違った道路沿いのばあさんの
     言い分に由来している。

 以上の落語の中に於ける駕籠の扱いを見ますと、
 (イ)人通りの多い往来筋で乗客を捜す駕篭屋の姿がある。
   乗客筋は神社参詣の通りかかりの旅人、酔っぱらい、相場師の町人であり、町の旦那衆で
   あり、あるいはお姫様と乳母殿、などの設定になっている。
 (ロ)往診に出かける医者の交通手段になっている。但し「肥え桶」なる一昔前の下肥え処理を
   知らないと「物を担ぐ」落語の面白さも解らない。
 (ハ)江戸の町では、駕籠は商売道具の一つになっており、「駕篭屋」が一つの商売になっていた
   ことがわかります。
 (ニ)駕篭屋の商売地域は、江戸市中だけでなく、その周辺まで行き渡っていたようです。

 それほどに江戸期も当初はともかくとして、18世紀〜19世紀になると、相当一般人にも馴染みの
乗り物手段に成っていたことが推察されます。
 すなわち落語の中の「駕籠屋」の演題に、近世日本社会の成熟度を知ることができそうです。
 一時期、世界一の百万都市(実数は50万人前後であったらしい)として栄えた「江戸の町の文化」の
高さを知る一断面でしょう。

<「東海道中膝栗毛」の駕籠>
ー白須賀の駕かき喜多八をちゃかすー

 東海道中膝栗毛(十辺舎一九・文化七年(1810)〜11年(1814)刊)の中で、駕籠に絡んだ
はなしの例は、四編の上に於ける「新居」、「白須賀」から「二川」の二軒茶屋建て場にかけての
駕籠の旅でしょう。
 以下に当該部分を抜き出してみます。

  ***************************************
(1)東海道を旅する者は容易に駕籠を利用できた様子
  「・・・この宿(新居宿)はずれより、二人とも二川まで駕(かご)をとりて、打ちのりゆく・・・・・」
(2)駕篭屋同士で、お客のやりとりがあったことが解る(お互い空で引き揚げなくて済む)
  「・・・此のあたりにて向ふより来る、二川の駕籠に行き合ふ。・・・」
  ふた川のかごかき「どふじゃおやかた。かへていかずに(どうでしょうか、かごかきさん、
             きゃくをとりかえませんか。)
  こちらのかごかき 「なんぼおこす(いくらで精算するのか)
  ふた川      「げんこやらずに、それでいじゃござい(片ゆび・五)(五十文の隠語)
     (注)新居ー二川間の駕籠乗り代
        (1)新居ー白須賀 1里26町(1.72里=6.7km)
                    60文(約1500円)(1km当たり225円)
        (2)白須賀ー二川 1里16町(1.45里=5.7km)
                    54文(約1350円)(1km当たり240円)
        (駕籠の乗り代の出典:日本古典文学全集49 (株)小学館 (昭和50年12月))

  こちらのかごかき 「ままよ、棒組まけてやらあず、(片棒かく相棒に相談している、まけてやろう)
  「かごのそうだんできて両方のかごかき「旦那様方、駕(かご)を替えますから乗り換えて
   くださりませ・・・」
(3)駕籠の中の忘れ物の取り扱い
  「・・・喜多八も弥二郎も先の駕にのりうつると
  喜多八をのせたるかごかき「旦那は仕合わせじゃ。コリヤア宿屋駕でおざりますから、
               蒲団がしいてあるだけ、おまへ方は、かへさしやつたがお徳といふものじゃ
  喜多八「ほんにそふだ
  「といいつつ、かごに下敷きのふとん、高くなりいたるに心づき、何ごころなく蒲団の間を
   さぐり見れば、四文銭壱本あり。さては今まで乗ってきた男が、ここに置いて忘れたとみえた。
   なんでもこいつ、せしめうるしと、喜多八そっと、かの一本をおのが懐へちゃくぼくして素知らぬ
   顔をしている。このうち早くも白須賀の駅にいたる。・・・・」

  <この駕籠中の忘れ物は、駕籠かき自身が知っていた忘れ物。そうとしらず、猫ばばした喜多八は
   とんだ損を蒙ることになる。
   喜多八は、調子に乗って、お得意の歌を詠み披露して、駕籠かきから褒めそやされ、有頂天になり
   駕篭屋に酒を驕る気持ちになる。>

(4)駕籠かきと客のやりとりは、現在のタクシー運転手と客の世間話と同じ雰囲気
  かごのさきぼう「是はありがたふおざります。旦那いただきます。コリャコリャ棒組、どこへいった。
          ヤイみんな来されの。さっきの猿丸大夫(喜多八が百人一首の歌を如何にも
          即詠したように披露したもの)さまが、お酒をくだされるは
  「と、かごかき四人よりこぞりて、のみかける。」・・・・

  弥二郎「サアサアご亭主いくらだの。御酒代は駕の旦那がお払いだ。
  亭主「ハイハイ酒と肴で、三百八十文(ざっと一万円弱)でおざります。
  喜多八「コリャごうてきに(ひどく、たいへん)くらやアがった。(たべたものだ)
  「と、ふせうぶせうに(不承不承に)かの銭を払ってしもふ。

  かごかき心付(気がついて、おもいだして)
  (かごかき) 「ヤほんに棒組み、さっきの一本の銭はどふした。
  ぼうぐみ   「ヲヲそれそれ、モシ旦那、あなたの乗ってござらしゃる、ふとんの間に四文銭一本
          いれておきましたが、あるか見てくだされませ。
  「と、いはれて喜多八びっくりし、
  (喜多八) 「ナニ、ここにか。イヤ見えないわへ
  かごかき  「ナイないことはあらまい。慥かに入れて置きました。
  弥二郎  「さっき見りやア喜多八、手めへが蒲団の下から出して、ひねくりまはして銭じゃアねへか
  かごかき  「それでおざります
  「と、喜多八心の内にいまいましいことをいふと弥二郎をにらむ。弥二郎おかしく脇の方をぐっと
   ふりむいていると
  喜多八しかたなく懐から一本出して、ふとんの下へそっといれ、
  喜多八  「ヲヲ此所にあったあった、
  ****************************************

<3.参考メモ集>

<(参考メモ・その1)童謡「おさるのかごや」>

         <おさるのかごや> 山上武夫 作詞 海沼 実 作曲
            昭和13年12月「ゆずのき」発表作品の童謡化

一 エッサエッサ エッサホイサッサ おさるのかごやだ ホイサッサ 日暮れの山道細い道
  小田原ぢょうちんぶらさげて ソレヤットコドッコイ ホイサッサ ホーイ ホイホイ ホイサッサ

二 エッサエッサ エッサホイサッサ 木の葉のわらじで ホイサッサ お客はおしゃれのこんぎつね
  つんとすまして乗っている ソレヤットコドッコイ ホイサッサ ホーイ ホイホイ ホイサッサ

三 エッサエッサ エッサホイサッサ 元気なかごやだ ホイサッサ すべっちゃいけない丸木橋
  そらそら小石だつまずくな ソレヤットコドッコイ ホイサッサ ホーイ ホイホイ ホイサッサ

四 エッサエッサ エッサホイサッサ のぼってくだって ホイサッサ ちらちらあかりは見えるけど
  向うのお山はまだ遠い ソレヤットコドッコイ ホイサッサ ホーイ ホイホイ ホイサッサ

 この童謡の作詩背景は、上京して大森の姉の家に居候していた山上武夫は、ある秋の夕暮れ、
散歩途中で夕焼け空を眺めていた時のこという。夕焼け雲の中に二匹の「おさる」が駆けていくのを
幻影としてみた彼は、当時童謡世界で四苦八苦して共に努力している同郷先輩で童謡作曲家の
海沼実と自分の影絵と見たのではないでしょうか。その瞬間「おさるのかごや」の世界を思いついて、
下宿先の姉の家へ急いで帰って、ペンを執った結果が、童謡界で大ヒットとなる「おさるのかごや」の
誕生であったのです。ふるさと松代を思い浮かべた感動を歌にしたという「おさるのかごや」の実際の
風景は、ふるさと松代の地であり、作曲の海沼も松代から隣接する愛宕山の先、鳥打ち峠を思い
浮かべていたという。 
 なお、この童謡の歌碑は山上・海沼の出身地長野県松代町西条の法泉寺に建立されている。。
        (出典:神津良子「ー作詞家山上武夫ーおさるのかごや」郷土出版社(2004年7月))
 山上武夫の伝記の題目と採られるぐらい「おさるのかごや」は、日本人の中に誰しも覚え込んでいる
童謡と言うことになります。彼の代表作品であると同時に、日本人には何か懐かしい郷愁を感じさせる
童謡の一つになっているのです。
 伝記の執筆者神津氏が山上武夫の童謡作詩作品は、昭和13年から亡くなる昭和62年までの
50年間でざっと120曲あるなか、どうして「おさるのかごや」の題目にしたのか、伝記の中では、明確に
言及されていませんが、察するところ、日本人にとって子供音楽世界を共有させるなにかをこの童謡
「おさるのかごや」は有しているとみて、優れた童謡と重要視している証拠です。
 また「おさるのかごや」の中で、お客さんはどうして「おしゃれのこんぎつね」なのでしょうか。
先に言及した落語の「紋三郎稲荷」の駕籠の世界ともどことなく関係しているように思えてなりません。

<(参考メモ・その2)落語の濫觴>

17世紀後半、京都では、露の五郎兵衛が四條河原で活躍し、後水尾天皇の皇女の御前で演ずることもあったという。大坂では米沢彦八が人気を博し、名古屋への出張講演したという。江戸では大坂出身の鹿野武左衛門が芝居小屋や風呂屋で噺家業を始めたという。
(1)初代露の五郎兵衛:1643(寛永20年)?〜1703(元禄16年)?上方噺家。日蓮宗談義僧、還俗して 辻噺を創始。京落語の祖。
(2)米沢彦八:江戸中期(元禄・正徳期)〜1714(正徳4年)興行先名古屋で死去?。豊笑堂。辻噺から 生玉(生国魂)神社境内小屋掛けで「当世仕方物真似」看板掛け。
(3)鹿野武左衛門:1649(慶安2年)〜1699(元禄12年)。元禄6年コレラが流行し、南天と梅干しの効用 風評で召し捕られ大島に島流しに遭う。

北野天神参道脇にある露の五郎兵衛顕彰碑

<(参考メモ・その3)「三文字屋」の今昔風景>

  摂津名所図会や「東海道中膝栗毛」に言及されている住吉新家の「三もんじ屋」を引用します。
 東海道中膝栗毛(十辺舎一九・文化七年(1810)〜11年(1814)刊)の八編下の巻きは、
大坂見物の内、生玉神社から住吉大社の噺になっている。
  「三文字屋」の名前が出てくるところは、長町河内屋の亭主四郎兵衛が野次郎兵衛と喜多八を
住吉大社参詣に連れて行くところです。
  三者の住吉大社での待ち合わせ場所は「新家の三もんじ屋といふ茶屋」になります。
  「新家」とは、住吉街道沿い西成郡天下茶屋手前地区の地名で、「三もんじ屋」とは、
  「摂津名所図会」表の図、「住吉名所図会」奥座敷、庭の図が描かれている住吉大社の門前町で、
  「・・・あきなふ家あまたある中に、りやうり屋は三もんじ屋、いたみ屋、こぶ屋、丸屋なんどいへるが、
  ・・・はんじやうことにいふばかりなし」と言及されています。

住吉大社前の町並み絵図(摂津名所図会より)

(左)住吉大社前「三文字屋」の店先風景(右)その店内座敷と庭園風景(摂津名所図会より)

名所図会「三もんじ屋」店に相当する現在の町並み風景
(左)住吉大社参道灯籠前から嘗ての「三文字屋址」(現在の住吉警察署前の町並み)
(右)嘗ての「伊丹や」「昆布や」「丸や」址に建つ商業ビル群の町並み

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(万葉歌人名:栗木幸麻呂)


平成20年5月15日   *** 編集責任・奈華仁志 ***

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