平成社会の探索


ー第75回知恵の会資料ー平成20年2月10日ー

<「知恵の会」への「知恵袋」>


(その20)課題「やまと・大和」
ー「大和魂」千年紀ー

目       次
(その一):「やまとだましい」のみなもと
(その二):中世の文学世界における「やまとだましい」
(その三):江戸期歌人達の「やまとだましい」
(その四):戦前の「やまとだましい」あれこれ
(その五):戦後に復活した藤猛の「ヤマトダマシイ」ファイト
(その六):平成社会での「大和魂」言葉の活用例

(その一)「やまとだましい」のみなもと

 紫式部の手になるとされる「源氏物語」が誕生して、今年2008年は丁度千年紀とされます。
いろいろの企画が各地で進められているようです。その中に書き始められた「やまとだましい・
大和魂」なる日本語もこの千年間生き続け、現在もその命を持ち続けているという、大変長生きの、
また日本人好みの言葉のようです。           (参考メモ・その1)参照方。
 「源氏物語」に「大和魂」と書かしめた原因は何に依るのか。その用語は確かに紫式部が初めて
言葉にして書き記し、後世に伝えたことは確かですが、突然に紫式部が創出した概念ではないで
しょう。紫式部の時代に遡ること数百年の大陸文化の導入の時代があるわけです。一例万葉集の
諸歌人の身につけている、紫式部が「ざえ」(漢才)と言った大陸文化の学問・知識に対する
習得レベルは現代人とて及ぶものではありません。
 必死に大陸文化を取り入れるべく、漢才をこなせばこなすほど、「日本人とは、日本文化とは」と
自問自答を繰り返すことになります。たとえば、漢詩に対する大和歌(和歌)の創出が万葉集に
なり、紀貫之らの古今和歌集は初めとする中世の華やかな和歌時代へと展開していくことになる
のでしょう。

**** 「漢才」(詩文)に対する「大和歌」(和歌)という「やまとだましい」 *******
          (筆者の「大和魂」に対する一見解)
 「大和魂」を『漢才に対する実務的な、あるいは実生活上の才知、能力』(国史大事典解説)と
解しますと、和歌の世界に於ける具体的な「大和魂」の原形は、和歌であり、百人一首の歌人で
考えますと、紫式部の大凡百年前の大江千里や菅原道真などの文化人の活動実績にその一端を
見ることが出来ると思われます。
 ちなみに吉沢義則「大和魂と万葉歌人」では、「国民精神、すなわち大和魂の意志を考える
材料として、万葉歌人の詠歌態度」に焦点を当てています。(参考メモ・その2)参照方。

 大江千里は、「大江千里集」なる「句題和歌」(126首)は、漢詩文の深い知識を和歌世界に
展開したものとされ、彼の百人一首歌も白氏文集や李白の五言絶句「静夜思」に、さらには
明治時代の小学唱歌もそれに通じるものがあるようです。    (参考メモ・その3)参照方。

 菅原道真は平安前期の代表的な文人官僚にして漢学者であり、詩人かつ歌人でもあった人です。
道真は文章博士の家柄と「凌雲集」「文筆秀麗集」の撰者として、あるいは「菅家文章」「菅家後集」
において漢才の実績が500首以上の漢詩文で遺憾なく発揮され、また一方和歌の世界でも「古今集」
以下の勅撰集に三十余首入集し、特に新古今集・巻十八・雑歌下には、配所大宰府での述懐歌十二首が
特撰され、自らも「新撰万葉集」(242首の万葉仮名和歌と七言絶句の翻案漢詩からなる
アンソロジー)(寛平五年・893)(道真49才頃)を選し、和歌を万葉仮名にしたり、七言絶句に
漢詩訳を試みるぐらい和歌と漢詩の世界を行き来できる和漢に通じる歌人であったのです。 
                    (小町谷照彦「百人一首100人の歌人」(新人物往来社)
 菅原道真の菅家遺戒にいう「和魂漢才」とは、
 <国体は漢学の知識だけではその神髄を会する能はずして、国学の奥妙は必ず和魂と漢才を併用して
  のみ会得しうる。> (奥村伊九良「大和魂の歴史」より)
 「・・・道真の「和魂漢才」という考えは、後世の付会にすぎないが、「漢才」の残照によって、
「大和魂」の世界にもののあわれという匂やかなほのかな光を点じだした道真文学は、藤原文化、
平安文学の性格と深くかかわりあう・・・・」
         (川口久雄校注「菅家文章」日本古典文学大系72(岩波文庫・昭和41年10月))

 道真も千里同様に漢詩の世界で活動すればするほど、和歌の世界の遊泳が楽しめたのではないかと
思えます。そのように文芸世界を動き回ること自体が「道真のやまとだましいの発露」であったと
思います。
 これらの和漢の文学世界を逍遥する形態は日本初の漢詩集「懐風藻」(751年)から260年後に
藤原公任が「和漢朗詠集」(1013年)で展開し、後世の文化人の拠り所を提示しています。

(その二)中世の文学世界に於ける「やまとだましい」

 源氏物語で創出された「やまとだましい」なる言葉は、その後細々と受け継がれていったようです。
(1)「大鏡」(11世紀後半)藤原時平事績の項において
   「・・・かくあさましき悪事を申し行ひ給へりし罪により、この大臣の御すゑはおはせぬなり。
    さるはやまとたましいなどはいみじくおはしたるものを・・・・」
   (「やまとたましひ」とは、「融通の利く性質、機転の利く実際家」という意味。) 

(2)12世紀初めの今昔物語(巻第29 明法博士善澄被殺強盗語第二十)に
   「善澄 才(ざい)は微妙(めでた)かりけれども、露、和魂(やまとだましい)无(な)かり
    ける者にて、此(かか)るる心幼き事を云ひて死ぬる也とぞ」
   (善澄は学才は素晴らしかったが、思慮分別のまるでない男で、そのためにこんな幼稚なことを
    言って殺されるはめになったのだ。)
   *学問的知識をいう「漢才」に対して繊細で優れた情緒・精神を意味し、思慮分別という
    程度の意味に用いられる。

(3)13世紀初めの愚管抄(巻四・鳥羽帝の項)
   「公実がらの、和漢の才にとみて、北野天神の御あとをもふみ、又知足院殿に人がら
    やまとだましいのまさりて」
   (公実の人柄は「和漢の学才」に豊かで、菅原道真の後を襲い、また一方忠実に比べて
    人柄や世間的な才能が勝って、見識ある人からも小野の宮実資などのように思われる事が
    あったのだろうか、・・・)

(4)室町初期と考えられる「詠百寮和歌」(高大夫実無)(群書類従巻72所収)
   諸官名に一首ずつの歌108首からなり、文章博士について次の歌が詠まれる
   「新しき文を見るにもくらからじ読み開きぬる大和と玉しゐ」 

 ちなみに、勅撰和歌集に於ける「やまとだましい」あるいは「やまとごころ」なる歌語の引用経過を
追いますと、主として「やまとごころ」が、後拾遺集あたりで赤染衛門歌に用いられている程度
(参考メモ・その1)で、「やまとごころ」とて頻繁に活用されているわけではありません。
 和歌世界での「やまとごころ」「やまとだましい」の頻出は、江戸期まで待たねばなりません。

(その三)江戸期歌人達の「やまとだましい」

 紫式部の用い初めは少なくとも「才(ざい)・漢才」を意識したものであったものが、
江戸中期以降の国学の中で「漢意」に対する「日本古来の伝統的に伝わる固有の精神」
「万邦無比の優れた日本の精神性」「日本国家のために尽くす潔い心」という展開を見せます。

(1)本居宣長(1730〜1801)の「やまとごころ」
  江戸中期に現れた本居宣長は大和魂を日本固有の心と規定し、その後の国学に大きな影響を
  持つようになります。
  次の一首が現代まで、「大和魂」や「大和心」と一緒になって用いられてきています。
  「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」
  (此の歌の解釈については後述の吉沢博士の項を参照願います。)
  この宣長の歌がいろいろの見方で解釈され、宣長から100年後の幕末期の思想家吉田松陰の
  歌のように展開していくことになります。

(2)佐保川(余野子)(1720年代〜1788)の「やまとだましい」家集
  佐保川家集には、「やまとだましい」を歌い込んだ歌を長歌二首、短歌一首残しています。
  「敷島の大和魂君こそはあれつぎまさめ万代までに」(佐保川集・364番歌)
  (作者「よのこ」は、賀茂真淵(1697〜1769)に和歌を学んだ「県門三才女」とされ、
  紀州藩で徳川宗將室富宮、側室八重の方、総姫などに使えた年寄り瀬川で、晩年尼凉月と
  号し、紀州吹き上げ御殿凉月院に住み、天明八年1788年没した。)

(3)井上文雄(1800〜1861)「やまとだましい」歌
  調鶴家集に、「・・・日の本の やまとだましい ・・・」と歌い込んだ長歌を、
  また「やまとこころ」を詠み込んだ歌も残している。
  伊勢津藩藤堂公出仕の武士で、江戸派岸本由豆流や一柳千古に国学と和歌を学んでいる。

(4)平田篤胤(1776〜1843)の「古道大意」
  宣長の門人篤胤は文化六年(1809)「御国人は自ずからに武く正しく直に生まれつく、
  これを大和心とも御国魂とでも云ふでござる」

(5)吉田松陰(1830〜1859)の「大和魂」
  松蔭のいう「大和魂」は、多分に「祖国を大切にする心」「民族を思う心」意味でしょうか。
  「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」
  この歌は下田から江戸へ護送されるとき、品川泉岳寺を通過するとき、わが身を赤穂浪士に
  重ね合わせて「已むに已まれぬ」と詠んだとされます。
  「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留めおかまし大和魂」
  吉田松陰の和歌は、「日本民族固有の気概あるいは精神」と言った概念を持っていたの
  でしょう。それが宣長のいう「朝日ににおう山桜花」に譬えられ、清浄にして果敢で事に
  当たっては身命をも惜しまない心情となるわけです。

 吉田松陰の歌はさらに変貌して、天皇制に於ける国粋主義思想、とりわけ軍国主義思想の都合の
良い宣伝文句に変貌してゆきます。
 ちなみに、十九世紀の初め江戸の読み物「椿説弓張月」(1807〜1811)(後・25回)では、
  「事に迫りて死を軽んずるは、日本魂(やまとだましい)なれど多くは慮の浅きに似て」
ととらえています。作品の方が松蔭より先んじていますが、宣長の歌の吉田松陰的解釈の一つと
言うべく、武士道の一説明というところでしょうか。

(その四)戦前の「やまとだましい」あれこれ

 幕末の一時期、吉田松陰によって浮かび上がった「大和魂」の概念は、明治維新と共に
さらに言葉の概念が変貌してゆきます。その概念は、明治時代には国家主義や民族主義の興隆と
共に時勢に都合の良い偏狭なものとなり、第二次世界大戦前の軍国主義に基づいた「大和魂」と
追い込まれ、絞り込まれてゆきます。

(その1)夏目漱石の「大和魂」
 慶応四年(1867)生まれの夏目漱石は、その小説「我が輩は猫である」(1905年頃発表)で、
苦沙彌先生の次のように言わせています。
 「大和魂!と新聞屋が言う。大和魂!と掏摸(すり)が言う。大和魂が一躍して海を渡った。
  英国で大和魂の演説をする。ドイツで大和魂の芝居をする。」
 「東郷大将が大和魂を持っている。さかな屋の銀さんも大和魂を持っている。詐欺師、山師、
  人殺しも大和魂を持っている。」
 「だれも口にせぬ者はないが、だれも見たものがない。だれも聞いたことはあるが、だれも
  会った者がない。大和魂は天狗の類か」

 これらの会話の文の中には、多分に漱石独特の「大和魂」に関するやや批判的な見方が垣間見られる
ところです。明治時代はひとそれぞれに「大和魂」の概念は抱いているものの、一様にこれだと
定義できないのが「大和魂」の摩訶不思議な言葉だといっているようです。
 何とも表現しがたい「日本的なもの」に対して、こういう説明をせざるを得ないのは、多分に
世の中の時勢が明治維新以来の「西欧文化の一方的な取り込み」の結果、日本人の精神状態は
日本的なものへの回帰にあったものとも思われます。軍人から一庶民まで、もはや西欧文明
一辺倒でもあるまい、日本にも独自の優れた世界に誇れるものがあるはずだと自覚し始めたのでは
ないでしょうか。それを「これだ」といえないので、やむなく「大和魂」だとしか言えなかった
のではと思います。
 「明治時代に入り、西洋の知識・学問・文化が一度に流入し、岡倉天心らによって、それらを
日本流に摂取すべきと言う主張が現れ、大和魂と共に『和魂洋才』と言う語が用いられるように
なった。」(WIKIPEDIAより)

(その2)島崎藤村の「大和魂」
 明治5年(1872)生まれの島崎藤村は、その小説「夜明け前」(1932年頃執筆)
(第二部(下)第10章・二)において、木曽路馬篭宿の万福寺松雲和尚に言及する下りで、
明治初年、世の中は「神仏分離」「廃仏毀釈」の時勢に翻弄される中での和尚の挙動と心意気とを
著述して 「不羈独立して大和魂を堅め」と言わしめています。
 島崎藤村の観点は、主人公青山半蔵が所属する平田派国学世界からの観察と見て、ここでは、
多分に旧来の日本的な慣習を一変させないという意味で書いているようです。

(その3)明治末から太平洋戦争終結までの間の「大和魂」発現事例
 明治期の日本文化への見直しと共に、時代が大正から昭和へ向かうと、ナショナリズム・民族主義が
台頭して、「大和魂」の言葉には、日本という国家への強い帰属意識が結びつけられるようになって
ゆきます。
 「剣道は 神の教への道なれば 大和心をみがくこの技」(高野佐三郎)

 「国家への犠牲的精神と共に他国への排他的な姿勢を含んだ語として用いられたのであり、
大和魂が元々持っていた『外来の知識を吸収して柔軟に応用する』という意味と正反対の
受け止められ方をされていた。」    (WIKIPEDIAより)

(参考)「やまとたましひ」の研究史(*奥村論文より*)
(1)黒川真頼(まより)論:菅家遺戒や黒川春村説による大和魂説の展開
(2)新村出博士文化講演:明治末年頃
(3)堀江秀雄著「日本魂の新解説」(博文館)(大正2年6月)
   序文「日本魂は我が民族の精神界における最大光明にして、我が民族が諸般の活動をなす
   上における原動力にして、苟も日本人たる者は、貴賤を問わず、男女を論ぜず、必ず明に
   日本魂の真意義を会得し、これによりて益々活動を壮じすべき・・・」
(4)三ツ矢重松氏講演:大正11〜12年頃
(5)加藤仁平:大正15年「和魂漢才説」の発表
(6)吉沢義則:昭和十三年末のラジオ放送「大和魂について」
        およびそれを基にした冊子「大和魂と万葉歌人」(平凡社)(昭和14年出版)
                 (当該冊子の概要は、(参考メモ・その2)を参照方)
(7)奥村伊九良:昭和8〜9年「やまとたましひ」小論(*当該歴史の出典元*)
   序文 紀元2601年6月 新村出
   「日本的なる美を明徴発揮することに勉め、之に由って日本人の教養を富せん(富ませる)
    ならしめたいと冀ふ。」
   (キーワード)「大和魂とは、日本精神といふ意味であることは自明」

(その五)戦後に復活した藤猛の「ヤマトダマシイ・ファイト」

 第二次世界大戦後、敗戦と友に軍国主義的「大和魂」は戦争に結びつくものとして、しばらく
「平和日本の文化や思想世界」から姿を消します。しかし、敗戦後十年経って、すこしずつ
「大和魂」の言葉が散見されるようになります。

(その1)戦後の文芸評論
    戦後に於ける作家や文芸評論家の「大和魂」概念の展開はどうなっていたのでしょうか。
   一例を山本健吉「古典と現代文学」(1955・昭和30年)ー物語りに於ける人間像の
   形成・2ーにみますと、次のように述べられています。
  *「大和魂とは、漢才が学問をするのに対して貴族たるものの生活上の規範となるべき心持ち」と
   解説していることは、戦前の国粋主義思想や軍国主義思想を捨て去り、千年前の紫式部の
   抱いていた概念に立ち戻っていると見られます。

(その2)小林秀雄の「大和魂」
    高見澤潤子「兄小林秀雄との対話」(講談社・昭和43年7月)より
   「融通の利かない、堅い学問知識に対して、柔軟な、現実生活に即した知恵の事を云って
    いるんだ。学者とか知識人とかは、観念的な生活をしているが、そこには、大和魂はない。
    一般の当たり前の、日本人的な具体的な生活をしている人達が、大和魂をもっているんだ。」
   「在原業平が”遂に行く道とはかねてききしかど昨日今日とはおもはざりしを”という辞世を
    詠んだろう。契沖はこれをほめて”これは一生のまことを正直にあらわしている。”と
    言った。宣長もまた、”あっぱれだ、此こそ大和魂をもった法師だ”ってほめたのだ。」
  *小林秀雄も山本健吉同様、平安の昔に立ち戻って、本来の意味合いに言及し、解説しています。
 
 しかし、「大和魂」の言葉は、思わぬ所に戦前思想としてうずくまっていて、その教育を受けた
人々が時勢を見はからないながら、少しずつ形を変えた「大和魂」として展示して見せます。

(その3)ワールドサッカー日本チームのコーチの「ヤマトダマシイ」
    1960年に来日し、日本代表のサッカーチームのコーチに当たったドイツ人デットマール・
   クラマー氏のインタビューで「大和魂」について、インタビューされています。
                                    (2006年2月)
    インタビューア「日本代表を指導していた頃、よく「大和魂」という言葉を使っていたと
            ききましたが、どのような意味でつかっていたのでしょうか。?」
   クラマー氏「「大和魂」という言葉を初めて聞いたのは戦争の時でした。戦争の時、将校から
         日本の特攻隊、そして『神風』の役割についてしらされたのです。将校は
         「大和魂」という言葉の意味についても教えてくれましたが、これらは皆の
         ために自分を犠牲にする精神のことであり、我々にもその精神を持つように
         と言いました。・・・」

(その4)プロボクサー藤猛の「ヤマトダマシイ」精神
        1967年昭和42年4月30日、ハワイ主神の日系三世藤猛(参考メモ・その4参照)
     統一(WBA・WBC)世界スーパーライト級王座決定戦で王者でイタリア人サンドロ・
     ロポポを二ラウンドでKO勝ちして、王座を獲得し、報道機関へのインタビューの時、
     「オカヤマのおばあちゃん」「ヤマトダマシイ」などと発言して、世間を驚かせました。
     一般には日本人自身忘れかけていた戦前の言葉を思い出させるようなことになり、
     ハワイ出身の日系三世で日本語がしゃべれないながら、一躍人気者になりました。
      これには裏話があって、日本語を話せない藤猛を人気者にするため、所属していた
     リキ・ボクシングジムの吉村会長が藤に教え込んだ「日本語」であったのです。
     とすれば、藤が関係なく、吉村会長が如何なる「大和魂」を戦前に教え込まれていたか
     ということになります。多分年代的に見て、大正から昭和初年頃の生まれの人間で
     所謂軍国主義、国粋主義盛んな時代の「大和魂」の教育を受けていたのでしょう。

(その六)平成社会での「大和魂」言葉の活用例

(その1)「大和魂」論の展開ー昭和初期生れ世代の著述
     昭和一桁生まれ世代の人が戦後に「ものしたい」対象はなにか。前述の藤猛を生み出した
    吉村会長も多分同世代人と推測できる。そこには世代を分析し後世に伝えたい何かがある。

    (イ)斉藤正二(1925年生まれ、名前からすると昭和二年生まれかも?)二松学舎大教授
     「「やまとだましい」の文化史」(講談社現代新書269)(昭和47年・1972・1月) 
      まえがきにいう。「軍国主義の兆しが見え始めた」ので、”戦中派世代”として、
     「ふたたび祖国を硝煙の下に曝したりすることのないよう、」「自分なりに成すべき仕事」
     として、「やまとだましい」の歴史を解説するのが目的という。
     「やまとだましい」の本質的意義がデフォルメされて武断主義と結びつくようになるのは、
     文化年間(1801〜1816)に一部の国学者(平田篤胤など)が主唱し、喧伝するように
     なってからで、国粋主義的な意味に用いられる「やまとだましい」の歴史は、
     第二次世界大戦終結に到るまでの僅々百三十年間の突発事にすぎない。」
      執筆の目的は「日本人すべてが科学的思考をもつべきだとの願いを提示したかった」。 

    
    (ロ)赤瀬川原平(昭和10年前後の生まれ)
      「大和魂」(新潮社)(2006・平成18年)(参考メモ・その5)
     山本健吉著書から丁度半世紀後に出版された当該著書は、「戦後、忌避されてきた言葉
     「大和魂」に日本人を理解する鉤がある」という観点で、事例を日本人独特の文化である
     「ラーメン」「土下座」「七福神巡り」「天守閣」「伊勢神宮」「戦艦大和」などの
     キーワードから読み解こうとするもので、「大和魂」をあることと一義的に解釈しようと
     するのではなく、永い歴史の流れの中で、時代時代でいろいろ中味、著者の言を借りると
     「多様なカオス」の中に会ったとするものです。
     じっくり落ち着いて考えると、紫式部から出発した言葉も、時代の流れと友に、成長と
     変遷を重ねつつも、時代の一思想に塗り込められない、時勢に流されない日本人それぞれの
     「大和魂」なるものがあったのだと気づくわけです。

    (ハ)渡邊正清(昭和13年生まれ)
      「アメリカ・日系二世、自由への戦いーヤマト魂(ダマシイ)」
                           (集英社)(2001・平成13年)
      この著書の言いたいことは、「日本人として恥ずかしくないように、あなたの国アメリカの
     ために戦え」と言い聞かされて戦場に赴いた日系二世がいたこと、またその兵士が後年
     「ヤマトダマシイ」があったから、戦えた」と言う戦争体験記録である。
      如何なるきっかけで、渡邊はこの書を執筆したか。彼は、東北大学を卒業後、UCLAに
     留学し、そのままカリフォルニア州に35年間奉職している。著者の「大和魂」は、
    「日本人としての誇りー忍耐、勤勉、節約、という、今日では色褪せてしまった資質こそ、
     日本民族の生き方を長く支えてきた」とする。

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  藤猛の吉村会長を含め、上述の二作家の言いたいことは、日本は敗戦によって、徹底的に
  民族と国家がぼろぼろになってしまったに関かわらず、僅かにニ、三十年で、世界の経済大国に
  のし上がれた。それには民族的に如何なる原動力ががあったのか、と思い返したとき、敗戦で
  忘れさられていた「日本人独特の資質」いわゆる「大和魂」なる
  言葉に思いを致し、それを平成現代の世代に再評価してほしかったのではないか。
  ******************************************

   ところが、時代が変遷していく中で、平成の世の中での、「大和魂・やまとだましい」なる
言葉の使われ方は、つぎのように変貌しているのです。


(その2)いろいろな分野での「大和魂」の活用
    (イ)若者の音楽演奏グループ名 「大和魂」
       広島を中心に西日本で演奏活動中の HIP HOP、ROCK、POPの要素を
       取り入れたツイン・リード・ボーカルで5人の若者で編成されたミックスチャー・バンド
    (ロ)インターネットラジオ番組名 「かかずゆみの超輝け!大和魂」
       アナウンサーは声優「かかずゆみ」という1973年生まれの埼玉出身の人気女性
    (ハ)インターネットのブログ名 大和魂
       漫画家市東亮子のサッカーファンのためのブログ
    (ニ)吉本興業のエンタテイナー名 大和魂 (本名片岡)
    (ホ)バスケットボールサークル名 早稲田大学の大和魂
    (ヘ)藤井寺の避球(ドッヂボールのこと)倶楽部名 大和魂
    (ト)焼酎の銘柄 麦焼酎 「大和魂」大分県江井ヶ島酒造株式会社の商品
    (チ)スウェットパンツ商品名 「大和魂」

   ****************************************
    ところで、いろいろの分野で、現代でも、「大和魂」なる日本語を引っ張り出してきて、
   活用しようとする事例があり、日本人が居るという現状です。そういう命名をした人物は、
   如何なる理由で、「大和魂」なる千年のやまとことばを敢えて使用しようとするのか。
   そこには日本人のどの時代のどの世代の人間にも綿々と流れている「大和魂」なる言葉の
   民族の趣向に合った、また廣い概念を含みうる、伝統的な存在を再認識することになります。 
   ****************************************

 以上のように、源氏物語に書き出された「やまとだましい」なる言葉はもともと「中国などから
取り入れられた知識や学問をあくまで基礎的教養として、それを日本の実情にあわせて応用し
政治や生活の場面で発揮すること」であったのが、千年の時代を経ていろいろに理解され用いられ、
複雑な内容になってきています。用いる人の考えがどの辺りにあるかによって一様でないところに、
この言葉の持つ幅広さ(性格・能力・品性など)が引き出されるようです。
 あらためて参考情報(WIKIPEDIA)より参考になる定義の幾種類かを列挙して
おきますが、用いかたはひとそれぞれでしょう。
(1)中国などの外国の文化や文明を享受する上で、それ対する日本人の常識的また日本的な
   対応能力。やまとごころ。
(2)知的な論理や倫理でなく、感情的な情緒や人情によってものごとを把握し、共感する能力や
   感受性。もののあはれ。
(3)日本民族固有のものと考えられてきた勇敢で、潔く、特に主君や天皇に対しての忠義な気性・
   精神・心映え。
(4)世事に対応し、社会の中で物事を円滑に進めてゆくための常識や世間的な能力。
(5)各種の専門的な学問・教養・技術などを社会の中で実際に役立ててゆくための才能や手段。

ま   と   め
紫式部はじめ平安期の人々は大陸唐文化に対して「大和魂」を用い、
(遣唐使廃止と国風文化を造り、)
吉田松陰はじめ幕末の人々は西欧文化に対して「大和魂」を用い、
(鎖国下で、国学と尊皇攘夷運動を展開し、)
太平洋戦争敗戦前の人々は欧米文化に対して「大和魂」を用い、
(軍国主義と天皇制護持を煽動し、)
自らの文化を再認識して差別化しようとした。

結        論
「やまとだましい」という言語は、
日本民族が外国文化に「襲われ」(と仮想し)
それに「対峙しよう」とする時に用いる、
日本文化矜持(の為の個体維持)用言語的保護用具である。

<参考メモ>

*****(その1)紫式部の「やまとだましい」と赤染衛門の「やまとごころ」 *******
 「源氏物語」乙女の巻において光源氏が息子夕霧の教育方針を言わしめるくだりで、
 「・・・なお、才(ざえ)を本(もと)としてこそ、大和魂(やまとだましひ)の、世に
  用ひらるる方も、強う侍らめ。・・・」
  (日本魂(やまとだましい)をいかに活かせて使うかは学問の根底があってできることと
   存じます。)     (与謝野晶子全訳「源氏物語上巻」(角川文庫)昭和63年)
 ちなみにこの部分の光源氏の発言は、千年後の平成現代人にも頭の痛い人間教育の一端を
示していて、紫式部の人間の大きさを感じるところです。同じく与謝野晶子の訳文から箇条書きに
してみます。
 (1)朝廷の御用の勤まる人間になりますれば、自然に出世はしていくことと存じます。
 (2)つまらぬ親に勝った子は自然に任せておきましては出来ようのないことかと存じます。
 (3)自家の勢力に慢心した青年になりましては、学問などに身を苦しめたりいたしますことは、
    きっとばかばかしいことと思われるでしょう。
 (4)遊び事の中に浸っていながら、位だけはずんずんあがるようなことがありましても、
    家に権勢があります間は、心で嘲笑はしながらも、追従して機嫌を人がそこねまいとして
    くれますから、ちょっと見はそれで立派にも見えましょうが、家の権力が失墜するとか、
    保護者に死に別れるとかしました際に、人から軽蔑されましても、何ら自ら恃むところの
    ない惨めな者になります。
 (5)やはり学問が第一でございます。・・・・将来の国家の柱石たる教養を受けておきます
    方が、死後までも私の安心できることかと存じます。

 紫式部と同時代人と見られる赤染衛門も同じ様な漢才に対する「やまとごころ」なる用語と
概念を後拾遺集や家集「赤染衛門集」に残しています。夫大江匡衡との夫婦の会話のようなもので、
お乳のでない乳母の雇い入れに一言苦言を呈したと云うところで、後拾遺集・巻二十・雑六 
1219番歌と1220番歌です。
 「はかなくも思ひけるかな乳(ち)もなくて博士の家の乳母(めのと)せんとは」 大江匡衡朝臣
 (ち(乳と智)が乏しいのに、文章博士の家の乳母を引き受けようとは、心細く思ったことだ。)
 「さもあらばあれ やまとこころし かしこくは 細ちにつけてあらすばかりぞ」赤染衛門
 (しかたありません。実際的な才覚や能力さえ賢いのならば、細い智恵(細乳)があるということで、
  置いておくだけです。)

 また赤染衛門集の2首に「やまとこころ」と詠まれています。
 「からくにのもののしるしのくさぐさを やまと心 にともしとやみむ」(246番・参河守)
   (参河守菅原為義は衛門の夫大江匡衡の嘗ての恋敵であったと見られる。)
  (支那雑貨ばかり贈る私を漢学好きで大和心に乏しい奴だときらいますか)
 「はじめから やまとこころ にせばくともをはりまてやはかたくみゆべき」(247番・赤染衛門)
  (初めは大和心に乏しくて堅く構えていても、最後まで打ち解けない人はいません。)

(一口評論)
 紫式部が意図した「大和魂」の概念は、現代語に直すと、「日本的な工夫、心ばせ、心映え、」或いは
「日本人的才覚、日本人的心得、心構え、心遣い」等と言い換えた方が当たっているのでは、と
おもいます。後世の人々は、「魂」にあまりにも言葉の重みをかけ過ぎているのではないでしょうか。



******** (その2)吉沢義則の「大和魂」論  *****************
 明治9年(1876)生まれで、昭和29年(1954)亡くなった歌人で国文学者の吉沢義則博士の
「大和魂」論の展開を、その著書「大和魂と万葉歌人」にみます。
(1)「大和魂」は、日本人の本能となっている天稟の精神ー日本人のあらゆる行動(武士道や
   各種芸術道を含む)を支配する精神である。日本人の所産はすべて大和魂によって締め
   くくらなければならない。人類平和八紘一宇の国是に従って、今聖戦に従事している将兵諸君の
   行動は本能の顕現である。
(2)詩集(藤原宇合集、石上乙麻呂集、懐風藻など)に先立ち、歌集(柿本人麻呂、山上憶良類聚歌林、
   万葉集など)がある。
   我が祖先は詩文の何かを和歌に取り入れるに際して、国語や和歌の本質を十分理解していて、
   確かな批判によって、捨つべきものは捨て、取るべきものは取ったのであって、決して心酔といふ
   やうな無批判な状態で彼を模倣したり、鵜呑みにしたりしたのではない。
(3)万葉歌人は漢語を用ひなかった。


**********  (その3)大江千里の百人一首歌の流れ  ************
(1)白氏文集  「燕子楼中霜月夜 秋来只為一人長」
(2)李白 「静夜思」 牀前月光を看る 疑ふらくは是れ地上の霜かと 
            頭を挙げて山月を望み 頭を低れて故郷を思ふ
(3)大江千里 「月見れば ちぢにものこそ かなしけれ 
         わが身ひとつの 秋にはあらねど」(百人一首第23番歌)
(4)明治40年小学唱歌 「旅愁」 更けゆく秋の夜旅の空の わびしき思ひに一人なやむ 
                  恋しやふるさと懐かし父母 夢路にたどるは故郷の家路
(5)平成の大江千里(さて誰のことでしょう?)の漢和翻案例 
 (イ)盛唐・杜甫・絶句  
      江碧鳥逾白 (来る春に)   山青花欲然 (息吹くもの皆懐かしく)
      今春看又過 (思ふふるさと) 何日是帰年 (いつの日帰らむ)
 (ロ)中唐・柳宗元・江雪
      千山飛鳥絶 (人見えぬ)   万径人蹤滅 (深山の雪に鳥も離れ)
      孤舟蓑笠翁 (渓谷にいざよふ)独釣寒江雪 (翁のつり舟)
 (ハ)明・高啓・尋胡隠君
      渡水後渡水 (春風と)    看花還看花 (花に惹かれて川越えて)
      春風江上路 (おもはず到る) 不覚到居家 (わが友の家)

********(その4)プロボクサー・藤猛(ポール・タケシ藤井)***********
 ハワイ出身の日系三世の元プロボクサー リキ・ボクシングジムに所属し、世界スーパー
ライト級王者になった。
 1940年7月6日生まれ 1964年4月プロデビュー
 1965年 日本スーパーライト級王者 1966年 東洋スーパーライト級王者 
 1967年 統一世界スーパーライト級王者になり、一度防衛戦を行っている。
 1968年 アルゼンチンのニコリノ・ローチェに10ラウンドKO負けして、王座を陥落。
 1970年 現役引退し、現在は、茨城県の水戸ボクシングスクールで指導している。

********(その5)赤瀬川原平「大和魂」  キーワード集**************
(1)「やまとだましいのパスポート」は、戦前戦後(’82まで)の米穀通帳で、その温床は
   「醤油味」にある。要は、日本人の日本人と言える要素は何かと言うことを、色々な日本
   社会独特の世渡りの工夫事例を探索している。
(2)「日本は地球上でも珍しいカオス信奉のくに、多神教のくに」である。・・・この要素も
   「大和魂」の根幹か。
(3)「カメラのなかに日本魂をさぐる。」ということは、カメラや時計は、大和魂の変形か。
   これも日本人的工夫。
(4)日本人社会の日本人的要素を「鉛筆と消しゴム」に対する「筆と墨」の文化の違い、
   「土下座の習慣」(最近では、大衆向けのマスコミの前で、「えらいさんが一列に並んで、
   頭を下げて、お詫びする習慣)、「土足と畳」「足袋」「和服やももひきの穴」「実用から
   侘びへ」日本的事物に「大和魂」が潜んでいるという。
(5)「大和魂」を模型で示すと、「富士山だ」という。また「戦艦大和」だという。
   ちなみに、著者は本居宣長の歌の「朝日に匂う桜花」を鼻でかぐ「におい」にとっているが、
   解釈不足。
(6)結論として、「大和魂」に充てる言葉として「日本独特の道」ということが、言いたいようだ。

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ホームページ管理人申酉人辛
(万葉歌人名:栗木幸麻呂)


平成20年1月15日   *** 編集責任・奈華仁志 ***

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