平成社会の探索


ー第58回知恵の会資料ー平成17年10月23日ー


<「知恵の会」への「知恵袋」>


(その2)「流れる」「流す」主題への「流派」
(「流」語義関連分野例:忍者の世界と伊賀忍者「百地三太夫」)

<流と派>

 「ながれる」(ながる)や「ながす」などの平仮名文字を見ている限りは、あまり鮮明に連想しえない
言語分野も、「流」という漢字を用いると、あれこれと関連する言語世界が広がります。
 ここでは、「流」とともに連想された「派」という漢字を参考に、「流」の世界を追ってみました。

 「流」と「派」の漢和辞典的語義比較表を<参考メモ・その1>に挙げます。「流」からの連想は、
語義分類で(4)なかまです。「流」の意味する世界は、「派」の漢字を用いた世界の表現よりも
多岐に渡っているようです。この二種類の漢字の使い分けは、御本家の中国でも同じなのか
確認したいところです。

<参考メモ・その1>
                    「流」と「派」の漢和辞書的語義比較  
              (引用辞書:諸橋徹次他「新漢和辞典・改訂版」(大修館書店)(昭和42年版))

ーーーーーーーーーーーーーーー  「流」(りゅう)(る)  ーーーーーーーーーーーーーーー
   (1)ながれる (イ)水などがながれる(ロ)水などの流れる(ハ)ただよう(ニ)移りゆく
     (ながる) (ホ)さすらう(流浪)(ヘ)ひろまる(流布)(ト)伝わる(流伝)
           (チ)溶けてながれる(リ)飛ぶ(流れ矢)(ヌ)度を超す、それる
   (2)ながす  (イ)水などをながす(ロ)水などにながす(ハ)移行させる(ニ)行き渡らせる
           (ホ)伝える (ヘ)罰として遠地にやる
   (3)ながれ  (イ)ながれていくこと(ロ)川(清流)(ハ)川水の流れていく方向
           (ニ)系統(ホ)血統(ヘ)子孫(ト)分派
   (4)なかま  (イ)やから(流輩)(ロ)同類(ハ)階級、品等(一流)
   (5)もとめる、えらびとる
   (6)たしかでない、こんきょのない(流言)
   (7)遊びに耽ること(流連)(流連荒亡)
   (8)よこしま
   (9)遠い、遠地、辺境(流荒)

  わが国にだけ行われる訓義として
    (1)ながす  (イ)芸人・物売りなどが歩きながら客を求める。
            (ロ)こころにとめいないようにする。
            (ハ)質草の所有権を放棄する。
            (二)そのままやめにする。
            (ホ)無効にする。
    (2)ながれ  (イ)下級者に対して上級者の使用した物を言う。(おながれ)
            (ロ)前項(4)に同じ、なかま。
    (3)ながし
    (4)りゅう   旗、幕などを数える語。
    (5)(よみかた)ーしく、とも、はる

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー  「派」(は)  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   (1)わかれ(分)(イ)川のわかれ、分流
            (ロ)本体・基本の物から別れでたもの。(分派)
            (ハ)分かれた系統。宗教・学問などの分かれ(宗派・学派)
   (2)わかれる、わける(派生)
   (3)つかわす(派兵)
  

<様々な流派・流儀>

 「流」「派」を用いられた各種の分野での「流派」や「流儀」を参考資料より、抜粋してみました。
「**流」と「**派」の代表的な例を<参考メモ・その2>に挙げます。

<参考メモ・その2>
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー  **流 あれこれ  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
諸道部門  茶道(千家流、表流、裏流、武者小路流、織部流、遠州流、藪内流、など)
         香道(御家流、志野流、蜂谷流、建部流) 
        歌道(藤原長能門流、源経信門流、藤原隆経門流、藤原基俊門流、など)
        筆道(大師流、上代流、法性寺流、俊成流、後京極流、定家流、世尊寺流など)
        書道(弘法大師流、世尊寺流、青蓮院流、持明院流、松花堂流、など)
        華道(池坊流、青山流、相阿彌流、遠州流、未生流、遠山流、小原流など)
連歌俳諧  連歌(僧宗砌門流、里村昌休門流、里村紹巴門流)
        俳諧(松永貞徳門流、北村季吟門流、西山宗因門流、井原西鶴門流、松尾芭蕉門流など)
        狂歌(榎並貞因門流、太田南畝門流、朱楽菅江門流、元木綱門流、内山椿軒門流など)
     (注)川柳(柄井川柳の川柳系統)
音曲部門  能楽(観世流、金春流、宝生流、金剛流、喜多流、梅若流など)
        狂言(鷺流、大蔵流、和泉流)
        鼓類(石井流、大倉流、幸流、観世流、金春流、葛野流)
        笛 (春日流、森田流、一噌流)
        尺八(琴古流、都山流)
        箏曲(生田流、山田流)
     (注)三絃(義太夫三絃:竹澤・鶴澤・野澤、長唄三絃:岡安、常磐津三絃:岸澤など)
              人形遣(桐竹、辰松、藤井、豊松、山田、中村、田中、菊竹)
        舞踊(水木流、藤間流、藤蔭流、吾妻流、西川流、花柳流、若柳流、一山流、坂東流など)
武術部門  兵学(甲州流、山鹿流、越後流、長沼流、義経流、氏隆流、上泉流、楠木流、草薙流など)
        刀術(<天真正伝神道流>、<神陰流>、<新陰流>、<一刀流>他80流派)
        居合(田宮流、新田宮流、<無形流>、<小柴山口流>など)
        槍術(宝蔵院流、大島流、建孝流、宮田流、無辺流、神道流、伊岐流、本間流など)
        薙刀(十剣大神流、戸田派武田流、穴澤流、正木流)
        (注)杖(神道夢想流)、鎖鎌術(堤宝山流)、棒術(高木流、九鬼神流)
        柔術(福野流、三浦流、制剛流、関口流、吉岡流、誠極流、天神真柳流、真陰流など)
        小具足(竹内流、夢想流、堤宝山流、荒木流)
        弓術(小笠原流、烟流、日置流、大和流、吉田流など)
        馬術(大坪流、八条流、新八条流、新当流)
        砲術(田付流、荻野流、武衛流、西村流、中島流、津田流、田布施流、高島流、霞流など)
        水泳(向井流、小堀流、神伝流、水府流、永田流)
       *忍術(伊賀流、甲賀流)ーーーーーーーーーーー→ (次の項目「忍者の世界」参照方)

学問分野  国学(荷田春満門流、本居宣長門流、平田篤胤門流、僧契沖門流など)
              (門流)と称している。ーーーーーーーー→ (次の分類「**派」参照方) 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー  **派 あれこれ  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
学問分野  儒学(朱子学派、敬義学派、古学派、陽明学派、折衷学派、註疏学派、心学派など)
     (注)蘭学(青木昆陽、吉雄耕牛、児玉順蔵、桂川甫筑、中野柳圃、本木良永など)
        本草学(廬草碩、阿部将翁)
絵画工芸  絵画(巨勢派、宅磨派、隆信派、春日派、土佐派、狩野派、海北派、光琳派、長崎派など)
              (注)南宗画緒派、北宗画諸派、浮世絵諸派あり
        蒔絵工(幸阿彌派、土門派、山本派、光琳派、破笠派、吉満派、堆朱派)
        漆器工(篠井秀次派、佐々木派、中村派、一閑派)
        鋳物工(浪越派、大西派、堀派、宮崎派、中川派、金谷派)
        甲冑工(明珍派、明珍別派、早乙女派)
        装剣具彫刻工(後藤祐乗派、横谷派、柳川派、稲川派、岩本派、大森派、吉岡派など)
        鍔工(伊藤派、赤坂派)
        彫金工(萩野派、海野派、滑川派、加納派)  
      (注)陶磁工(**焼)、織物工・染物工(**織、**染)、囲碁・将棋(**家)を称す。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
         (参考資料:日置昌一「日本系譜綜覧」(講談社学術文庫322)講談社(1990))
 
 因みに、現代世界に於いても「派」の使い方は色々です。上記分類以外に下記の例のように、政治世界
では、「派閥」の言葉なしには語れなくなっていますし、学問や芸術分野にも盛んに適用されているところ
です。
 最新の使用例として、プロ野球の某球団監督(ドラゴン・龍を名乗る)の采配の振るい方を、マス
メディア世界では、次のように「りゅう」を使っています。「おれりゅう」(これは、「おれ」の球団である
「りゅう」(龍)を「おれ」「りゅう」、すなわち「俺流」(おれりゅう)に監督しているという
洒落言葉で、誠に変な「流」を用いています。競争している相手の球団監督(タイガー・虎を名乗る)は、
優勝争いを意識して、9月中旬の新聞で次のようにスポーツ欄を賑わせています。

   =========================================
    『オレ竜』を反面教師に、(虎球団の)監督が“ワテ流”でV(優勝)に突き進む。
    優勝ムードが一気に高まる中、(虎球団の)監督が12日、移動中の大阪・伊丹空港で、
    「チームを引き締める。(龍球団と一気に差が開いた)逆もあることやからな」と熱弁した。
    ほんの1週間前までは2ゲーム差前後でしのぎを削っていた龍球団が、格下の(他球団)
    相手にまさかの3連敗。プレーオフも覚悟していた(虎球団の)監督にとっては、想定外の
    ことだったが、龍球団の失速は虎球団のナインの士気を高めるべく、もってこいの教材だった。
    「ここまできたら優勝を意識するな、と言っても無理。ただ、ここまで積み上げてきたのは
    選手の頑張りの結果。これからも戦い方は変えるつもりはないから」と、
    (虎球団の)監督はキッパリ。
   ==========================================

 なんとも変な日本語の流行造語を並べて、楽しんでいるスポーツ面新聞記事です。まあこれも娯楽の
一つと思えば好いことかも知れませんが、「流」もいろいろに使われるものだと思う一方、「流」行語とは、
このようにして、演出されていくのだということなのでしょうか。
 この「我流」(がりゅう)でなく、「おれ流」は日本語になっているのか疑問ですが、誠に
怪しい「造語」を乱用していても新聞読者は、納得しているところから見ますと、現代でも日本人は、
「**流」がお好みなのだなあと思わざるをえません。

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現代世界での「派」の分野
    学問(学派あれこれ、一例経済学分野では、古典派、ケインズ派、シカゴ学派、など学派の学問)
    音楽(ノートルダム楽派、ヴェネチア楽派、古典派、浪漫派、国民楽派、新ウィーン楽派など)
    絵画(フォンテンブロー派、印象派、後期印象派、新印象派、野獣派、抽象派、純粋派など)
    政治(<政党政治の実態は党派政治や派閥政治と化けている?>)
        
(注)流派・党派用語
    (仏教の**宗、神道の**道、**氏、**代、**門、**部屋、
     氏族の**家、**宮、集団の**党、**組、**系、**団、**衆、
       浄瑠璃・長唄の**節、梨園の伝統役者名、落語家の真打ち師匠名、**倶楽部など)
============================================

<忍者「伊賀流」・「甲賀流」の世界>

 前述の分類を眺めているとき、劇場映画では相変わらず「忍者物」のドラマ(後述の参考(3)「忍者映画」参照方)
を放映していましたので、ここでは、忍者の世界を採り上げました。

(1)忍者の歴史と全国の流派
 前述の「流派」分類で忍者としては、「伊賀流」「甲賀流」が挙げられていました。両者はどのような
「流派」をなしていたのでしょうか。参考資料によりその歴史と流派を追ってみました。

<忍者の歴史>
   広義の忍術の起源は、中国では、兵書「孫子」にも言及されているとのこと。日本では、平安末から
  源平時代以降のことで、特に南北朝動乱期、戦闘規模が大きく、かつ集団的になってから、忍者を
  必要とする動きが出てきました。楠木正成は、伊賀者48名を雇ったといいます。

   その後、室町時代から戦国期にかけて、伊賀忍者の棟梁(上忍)で北の藤林長門守、南の百地
  三太夫、予野の服部半三ほか、幾人かの陰忍の名人を輩出しています。
   (「伊賀流」「甲賀流」なる明確な区分や集団構成は無かったようで「甲伊一国」と称される。
      伊賀・甲賀の国境が引かれたのは奈良時代と言う。最大の忍術書「万川集海」では、甲賀・伊賀流
  併せて四十九流を集成し、伊賀と甲賀忍者頭目の合作となっている。)

   北伊賀の服部氏は、本国を離れ当初足利将軍に付いた後、三河徳川家に仕えました。
   戦国時代は北伊賀・藤林氏、南伊賀・百地氏が伊賀忍者を統括しました。

   天正九年(1581)、織田信長の伊賀進攻に対抗した彼らの忍者集団は連合して対抗しようと
  しましたが、圧倒的な織田軍団に追い散らされ、大和・山城・丹波・紀州・河内・伊勢などへ逃れ、
  伊賀忍術を周辺の国々に伝播することになりました。(下記の忍者流派分布を参照方)
   天正十年(1582)6月、本能寺の変の時、既に三河松平氏(徳川家康)に仕えていた服部半三は、
  伊賀者200人、甲賀者100人を動員して、家康を泉州堺から岡崎に守護して送り届け、伊賀者が
  家康に召し抱かえられます。江戸幕府体制かでの忍者の頭領服部半蔵正成は三千石を給され、
  江戸城西門外に屋敷を与えられ、400年後の今日まで、「半蔵門」に名前を刻み込みました。
         
   寛永十四年(1637)島原の乱への参戦を最後に歴史の裏舞台から「忍者」は消えてゆきます。

<忍者の歴史的背景>
   忍術宗家服部氏が北伊賀に百地氏が南伊賀に興ったのは源平時代で、両氏とも土豪中の実力
  者で、服部氏は平家の代官として勢力を張って配下に多数の地侍が隷属して、伊賀阿山郡内
  四十九院の修験者から忍術の手ほどきを受けたとされる。
   伊賀は鈴鹿・笠置山系に囲まれ、外界から隔絶した閉鎖地帯であった。しかも、京都にはわずか
  80kmの距離にあり、古来、軍隊の進撃通路になり、かつ敗残兵の潜入場所ともなった。
  彼らの集団維持上、陰忍・陽忍の機能が培われ、起伏の激しい伊賀の地形がその存続條件に
  合致していた。

 参考資料を当たりますと、<参考メモ・その3>に挙げますように、忍者の「流派」は、単に「伊賀流」
「甲賀流」でないことがわかります。

<参考メモ・その3>

<忍者の流派>と<忍者の分類>


  
現在県区分 流派名 忍びの者の名称
青森県中川流
山形県羽黒流
栃木県福智流 松元流
千葉県忍(しのび)、隠密(おんみつ)
神奈川県北条流草(くさ)、かまり、忍、物見、乱破、突破
新潟県上杉流、加治流簷猿(のきざる)
福井県義経流(*)志能便(しのび) (*)源平時代初期形成
山梨県甲陽流、武田流
松田流、忍甲流
戸隠流、忍光流
三者(みつもの)、透波(すっぱ)、出抜(でぬき)
長野県芥川流、青木流
伊藤流
愛知県秋葉流、一全流饗談(きょうだん)
三重県伊賀流、理極流
服部流(*)、義盛流
瀧流、辻一務流
間諜(かんちょう)、伊賀忍(いがにん)、
竊盗(しのび)
(*)源平時代の形成
滋賀県甲賀流甲賀忍
奈良県飛鳥流、秀郷流
九州流、蒲生流
楠流(**)
志乃比(しのび)、伺見(うかがい)、
奪口(だっこう)、水破(すっぱ)(素破)
(**)南北朝時代の形成
和歌山県名取流、新楠流
雑賀流、根来流
紀州流
岡山県備前流
広島県福島流外聞
熊本県関やぶり
鹿児島県山くぐり
忍者分類忍者地位名称役     目
地位分類上忍豪族で陽忍を使う統括者的存在
中忍陽忍と陰忍を使い、下忍の組頭的存在
下忍足軽クラスでもっぱら陰忍の使い手
機能分類陰忍(義経流など)修験者系の体術が主体。
陽忍(楠流など)知能的な謀略・諜報を主体とする。
                     (引用資料:主として、「日本大百科全書」18(小学館)(1988年))
        
(2)「伊賀」と「甲賀」の比較
項  目伊     賀甲     賀
律令体制
国勢
天武九年(680)伊勢国から四郡(阿拝・伊賀・山田・名張)を分割して伊賀国とする。
下国、近国(京師へ上り二日、下り一日)
国府は上野地区東北部柘殖川左岸、国分寺は国府の南部に 遺跡が確認されている。一宮は敢国神社。
壬申の乱での大海人皇子、持統天皇、聖武天皇などの巡行地に なっている。古代末から中世にかけて東大寺ほかの多くの荘園が大寺院や上級貴族によって占有された。
近江国十二郡のうち、最南端に位置し、伊賀国、伊勢国に隣接する。野洲川沿いの地域。
大国、近国(京師の隣国)
国府は隣郡・栗太郡勢多にあり、国分寺は石山・国昌寺(国分町)で、一宮は 建部神社。
天智六年(667)大津宮、聖武帝の天平十四年(742)甲賀郡紫香楽離宮造営される。
古代から近江国南部は、東国への幹線道となった。
戦国時代
国情
室町時代に仁木氏が守護となり、その後織田信長の伊賀攻略を経て、豊臣秀吉は筒井氏に上野城を築かせた。 江戸時代は、伊予国今治から国替えなった藤堂高虎が国入りし、明治までの260年が経った。 鎌倉幕府から補任された近江国守護佐々木氏は、系譜の朽木氏、京極氏が勢力を張って、中世末まで、 近江を領有した。織田信長が永禄十一年(1568)観音寺城に六角氏を倒し、安土に城を構えます。本能寺の変後、 近江における直轄領は三割にも及びます。徳川時代は、譜代の伊井氏、戸田氏、本多氏が封ぜられて、明治を 迎えます。
忍者集団
盛衰
南伊賀の百地氏が戦国時代を通じて名張市竜口と旧上野市喰代に砦を構えた。
天正九年織田信長による「天正伊賀の乱」で、名張・柏原の拠城も陥落し、上忍百地丹波泰光や藤林長門は 消息を絶ち、下忍の多くも国外へ逃亡した結果、各地に伊賀忍術を広めることになる。
本能寺の変後、徳川家康の泉州堺脱出と岡崎帰還に挙げた功績で、服部半蔵の支配下の「伊賀同心」 (「甲賀百人組」より格は下)として、その後の家康の各地の戦闘に参加しています。
江戸幕府体制下では、江戸城裏門親衛隊的役割から、次第にその本来の任務から離脱して、幕制の一部に参加 して官僚的で世襲的地位を確保して、社会的・経済的地歩を築いた。
北伊賀で勢力を張っていた服部氏が戦国時代に三河徳川家に出仕したあと藤林氏が取って代わり、 阿山郡阿山村に城を構えて、甲賀忍者の顧問的存在となる。
戦国時代初期から近江の守護佐々木氏に付いて、巧妙なゲリラ戦術を展開したが、佐々木氏衰亡後、徳川家康に 接近し、天正伊賀の乱では、織田勢の先陣を切らされることになり、直接の戦禍による滅亡は免れたものの、骨肉相はむ 戦を強いられた。以降家康に尽くし、慶長五年(1600)関ヶ原の戦いで、甲賀者が奮戦し、その功績で、甲賀者 「100人組」が家康配下に組み入れられ、与力と同格で江戸城本丸と大手三門の番士に格上げされた。
江戸城正門の親衛隊として、終始一貫その任務を堅持して古武士的風格を伝承した。
現在の自治体 平成16年(2004)11月、上野市、青山町、伊賀町、阿山町、島ヶ原村、大山田村が合併して「伊賀市」となる。

京都・奈良や伊勢を結ぶ大和街道・伊賀街道・初瀬街道が通じ、古来畿内の東隣地区で「伊賀は関西」であった。
三重県北西部に位置し、大阪・名古屋から1時間の距離で、三重・畿央地域として、首都機能移転候補地となる。
JR関西線、近鉄大阪線と伊賀線、名阪国道、国道25、163,422号線あり。 東北部に鈴鹿山系、南西部に大和高原、南東部は布引山系。
人口10.3万人(3.8万世帯)、面積558平方km(東西30km、南北40km、三重県の9.7%)
平成16年(2004)10月、甲賀町、甲南町、水口町、信楽町、土山町が合併して「甲賀市」となる。

滋賀県東南部に位置し、大阪・名古屋から100km、近畿圏・中部圏の流通拠点。
JR草津線、近江鉄道、信楽高原鉄道、国道1号線、307号線あり、第二名神高速道、びわこ京阪奈線計画。
東南部に鈴鹿山脈、西南部に信楽盆地。
人口9.5万人(3万世帯)、面積480平方km(東西44km、南北27km、滋賀県の12%)
忍者展示館 伊賀流忍者博物館、忍者伝承館、忍者体験広場、忍者屋敷、忍者体験館など 甲賀の里忍術村、甲賀流忍術屋敷など
観光キーワード 藤堂家城下町(上野城)、伊勢神宮への参宮宿場町(伊賀越え資料館)、鍵屋の辻、伊賀流忍者発祥地、 俳聖松尾芭蕉の古里、鎌倉期の吉田兼好縁りの地、20世紀の作家横光利一の故郷、伊賀焼きの里 水口地区(水口城)、土山地区(旧東海道第49番「あいのつちやま」 宿場町、鈴鹿越えの馬子歌、お茶)、甲南・甲賀地区(甲賀忍者、薬)、信楽地区(信楽焼、745年の紫香楽宮)

<「伊賀流」忍者・「百地三太夫」>

 天正九年(1581)九月、織田信長による「天正伊賀の乱」で、名張・柏原砦で抵抗した上忍百地丹波
泰光は講談での「百地三太夫」のモデルとされています。百地三太夫の実在性について、参考資料を
抜粋してみます。

(1)伝説上の「百地三太夫」人物像
(引用資料・その1)笹間良彦「図説日本武道辞典」(柏書房)(1982年11月)
    百地三太夫の百地家の祖は伊賀国山田郡友生村の豪族百地丹波泰光といわれているが、
    一説には同国名張郡錦生村(滝川村か)竜口の豪族とも言われる。
    現在百地三太夫子孫と称するものが両村に数軒ある。
    三太夫は室町時代末期から桃山時代の人で、伝説が多いが、その正確な伝記は不明で、
    伊賀の忍者を統率して、藤林長門(戒名・本覚深誓信士)とともに有名であった。
    織田信長や豊臣秀吉の弾圧にあって、その終わりは不明である。長門と三太夫は同一人説と
    兄弟説がある。

(引用資料・その2)「歴史読本」ー特集忍びの戦国誌ー第49巻第8号(新人物往来社)(2004年)
    百地丹波は服部半蔵や藤林長門と並んで、伊賀忍者を統括する上忍であったと目されている。
    しかし、その実像は謎に包まれている。
    正式の名乗りは百地丹波守正西ともあるが、実のところ不明である。忍者物の映画、TVで
    知られる三太夫は甥に当たるというが、不明である。
    戦国期に伊賀国は特定の守護や大名が不在で、惣国一揆の体をなしていた。「伊州四郡の
    諸侍六十六人一味し、諸城を守って国政を沙汰し、」(総見記)ていた一味の中に「百地氏」が
    名乗られていたか不明である。しかし、これら一味の大半は官途名を持たぬ中、百地は
    「丹波」なる国名を名乗っているので、土豪集団の中で比較的上位に位置していたことが
    考えられる。
    伊賀惣国一揆を解体しようとした織田信長は、これらの諸侍のゲリラ戦に苦慮している。その中に
    「喰代村の百地丹波、滝口村(滝川か)の百地新之丞・太郎左衛門」がいた(伊乱記)という。
    信長に発破をかけられた次男の北畠中将信雄(のぶかつ)は、天正九年四万数千の大軍で、
    伊賀衆諸城を攻めて、ついに名張・柏原城に追いつめ、和睦開城させるが、百地丹波らは
    伊賀を去ったといわれるが、真偽不明である。なお、百地丹波と新之丞は同一人物かもしれない。
       (旧上野市内には、「百地丹波砦跡」に石碑も建てられている。)

(引用資料・その3)「別冊歴史読本08」ー伊賀甲賀忍びの謎ー第30巻第6号(新人物往来社)
    喰代百地と関係ある忍者は藤堂藩の伊賀者として「田中」「永井」の両家が挙げらえるのみ。
    「伊乱記」「伊賀忍術秘法」「萬川集海」にも百地三太夫の名は見あたらない。喰代百地丹波が
    南伊賀名張柏原砦で、名張竜口百地新之丞・太郎左衛門らと籠城して信長(信雄)と戦い、
    土豪の統領として活躍したが、「百地三太夫」の名は見いだせない。百地三太夫を伊賀流忍術の
    師に仕立てたのは、東武残光(「賊禁秘誠談」の著者)の創作であろう。
    ただし、百地三太夫が全くの創作だと言えないのは、名張竜口は伊賀猿楽本拠地であり、竜口の
    白山神社の棟札には、十人もの大夫衆の名前が記されているから、竜口には大夫の名が多かった
    のである。上忍百地三太夫が陰で存在していたかもしれない。

(引用資料・その4)町の歴史家のインターネット・ホームページあれこれ
           (これらの資料は半分小説や講談の世界に属しましょう。)
    (イ)戦国時代、伊賀流忍術の創始者といわれ、伊賀三上(三大上忍)の一人として有名な
      人物である。
      伊賀国名張中村の百地清右衛門の嫡男として生まれ、百地丹波という名でも知られる。
      彼は天下の大泥棒石川五右衛門の師として有名で、師のもとを離れた五右衛門に代わって
      真田十勇士で有名な霧隠才蔵に忍術心得が伝授されたという。
      信長との戦い「天正伊賀の乱」に挑んだ一員として知られる。
      1581年9月、「第二次天正伊賀の乱」で、百地三太夫ほか生き残った者は、
      伊賀南西端柏原城に立て籠もり」、信長の命令で「和議を整え、残兵を退却させた上で、
      無血入城」となり、百地三太夫は祖父の百地丹波と生き延びて、紀州へ逃れ、歴史の
      表舞台から姿を消す。」
      三太夫を含む祖父百地丹波(伊賀流忍術のリーダー的存在)以下百名ほどは、
      高野山へ下り、紀州根来の里に定着する。三太夫は後に丹波という祖父の名前で
      現れたが、その後の消息は定かでない。
    (ロ)百地三太夫は架空の人物と見る向きも多いが、ある資料によると、1571年に
      百地清右衛門の子として伊賀国名張中村に生まれた実在の人物である。
      天正伊賀の乱以前は名張竜口に住んでいたらしいが、その少し前に喰代の里へ、
      伯父の百地丹波とともに移ったという。したがって天正伊賀の乱のリーダー的存在と
      なった人物は三太夫ではない。当時彼は未だ十歳だから。
      百地師は伊賀の竜口と喰代、大和の竜口に拠点があり、一族も多い。本拠地は竜口。
      伊賀の乱は柏原城を開城して終結したが、三太夫を含む百地丹波守以下百名ほどは
      高野山に下り、紀州根来の里に定着し、歴史から消える。
      その後、1640年(寛永十七年)伊賀城代家老に藤堂釆女(保田元則、父・千賀地
      半蔵則直は服部半蔵正成兄)がなり、彼は紀州に隠棲していた百地丹波子息保武を
      伊賀藩士に取り立て伊賀名門藤林家を再興させる。
      藤林保武は忍術書「萬川集海」を著す。紀州の弟正武も忍術新楠流の開祖となり、
      「正忍記」を著す。忍術二大著は、百地丹波の子孫に拠って完成したわけである。
      因みに丹波は一度伊賀に帰ってきたが柏原城近くの大和国竜口に隠棲した生涯を
      終えたという。
    (ハ)百地三太夫・藤林長門同一人物説
      元自治体の市長が以下の事実を根拠に百地・藤林同一人説を展開している。
      ・藤林長門の戒名「本覚深誓信士」と百地三太夫の戒名「本覚了誓禅門」が類似している。
      ・「伊乱記」で百地氏の活躍は書いてあるが、藤林氏の動静は全く触れていない。
       天正伊賀の乱後、百地氏、藤林氏の消息や生死に関する記録が残っていない。
      ・伊賀の上忍三家の間には、嫁婿を遣り取りする濃い親戚関係があった。
      ・「萬川集海」に忍者は必ず別の場所に家を持ち、別人格であることを世間に信じさせよ、
       と心得が書いてある。
         

(2)司馬遼太郎の「梟(ふくろう)の城」に見る伊賀忍者の記述
 講談、小説、映画や漫画などの世界では、いろいろな忍者の世界と人物が採り上げられて来ましたが、
ここでは、小説の分野から、司馬遼太郎「梟の城」における「天正伊賀の乱」の言及内容を抜粋して
みました。
 
 「梟の城」は、司馬遼太郎作品の中でも初期のもので、昭和34年度(1959)下半期直木賞受賞作品
です。この小説をきっかけに司馬遼太郎さんは、時代小説や歴史小説の分野で「流」行作家となり、その
後の大活躍で文化勲章受章者にまでなったのです。小説の始まり部分であるー初章「おとぎ峠」ーでの
「伊賀者」の解説を抜粋してみます。

<参考メモ・その4>
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                       「梟の城」あらすじ 
 織田信長の天正伊賀の乱で家族を殺された伊賀者葛籠(つづら)重蔵の執念を描いたもの。
「・・・忍者としての生き甲斐をかけて豊臣秀吉暗殺を狙う伊賀者、葛籠重蔵。その相弟子で忍者の道を
捨てて仕官をし、伊賀を売り、重蔵を捕らえることに出世の方途を求める風間五平。
 ・・・二人の伊賀者の対照的な生きざまを通して、かげろうの如き忍者の実像を活写し、歴史小説に
新しい時代を画した直木賞受賞作品。」(新潮文庫 ーしー9−1ーの見出し文)

                        伊賀国の解説
 「伊賀の天は、西涯を山城国境い笠置の峰が支え、北涯を近江国境いの御齋峠がささえる。
   笠置に陽が入れば、きまって御齋峠の上に雲が湧いた。」
 「伊賀は、古来、隠し国といわれる。たかが四六○方キロ(筆者注:伊賀市域は558平方キロ)に
    すぎぬ小盆地を、山城、大和、伊勢、近江の四カ国の山がとりまき、七つの山越え道がわずかに
    外界に通じている。
  近江の甲賀へ通ずる口を御齋峠、山城へは笠置峠、伊勢へは加太峠、長野峠。これらはすべて
    日本の表通りへ通じ、この口を扼せば伊賀は権力の視界から消えた。」
 「伊賀は、その権力の幹線と背中合わせになり、しかも京へは八○キロ。権力が崩壊してゆく音も、
    権力が勃興してゆく音も、わずか襖一重でききつつ、この国の郷士たちは孤独な自分の日を愉しむ
    ことができた。」
                                             伊賀忍者の起源
 「寿永四年、壇ノ浦で敗走した平家の将のうちで、伊賀平左衛門尉家長というものがあった。
  源氏の世となってのちは、一族は伊賀盆地のすみずみにかくれ、自ら耕して辛うじて暮らしをたてる
    零落な郷士におちた。
  このうち、服部ノ庄に住んでその地名を名乗った者の集団を服部党といい、柘殖に住んで地名を
    名乗った者を柘殖党という。下柘殖次郎左衛門はその一族のひとりであり、他にもいくつか、平姓を
    もつ小集団が山々谷々に割拠した。」

                                           百地三太夫登場
 伊賀者の頭領的存在として「下柘殖次郎左衛門」なる老人を登場させている。
 「・・・過ぐる天正九年、これは後述するが、伊賀ノ乱で信長の軍勢を悩ました下柘殖次郎左衛門の
   名を、この国中で知らぬものはない。」 

                                第一次天正伊賀の乱の小説への取り込み
 「・・・天正五年(1577)の初頭、信長は自ら軍を率いて紀州雑賀を制した。
  ・・・信長の子で伊勢の北畠氏をついだ信雄の指揮下にある織田・北畠の混成部隊が隣国伊賀
  掃討の緒についたのもこのころであった。・・・
  ・・・このとき、竜口(筆者注:たつのくちとふりがなしているが、りゅうぐちという。)の百地党
  (筆者注:「ももち」とふりがなしているが、「ももじ」という。)より参加した名張郷の
  郷士葛籠重蔵は二十歳、柘殖党から参加した下柘殖在住下柘殖次郎左衛門は四十二歳、
  いずれも屈強の働き盛りであったろうと思われる。」

                    忍者軍団の説明
 「柘殖清広というものが頭取となり、郷士雑人あわせた伊賀軍は七百人。当然、これは全軍奇襲隊で
  あったろう。なかでも火術・謀術にたけた百名の者が選抜され、野戦隊と区別するために忍び組と
  名付けられた。ほぼ二十組にわけ、それぞれ郷士を組長とし、下忍を組下に入れた。下忍の
  ほとんどは、姓もろくにない。・・・士分ではなかったが、後世多くの伝説をつくった忍術の達人は
  彼らのなかから出た。次郎左衛門、重蔵、さらに風間五平らは、これら下忍を指揮している。
  そして百人の忍者を指揮する者は、楯岡ノ道順。」 

             第二次天正伊賀の乱の小説への取り込み。 
 「・・・天正九年(1581)三月、伊賀攻略を隷下の軍団に命じたかれ(信長のこと)のことばは・・・
  「伊賀の者はいちにんも生かすな」 叡山の僧徒を虐殺したときと、同様の措辞であった。           
   伊勢、大和、美濃、近江などから動員された兵力は、一万二千を越えた。伊賀兵はわずかに
  千余にすぎない。その寡兵に対して、指揮官には歴戦の武将をすぐった。進攻路は、近江口からは、
  蒲生賢秀、浅野長政。大和口からは、筒井順慶。伊勢口からは滝川一益。山城口からは、
  丹羽長秀。七つの峠に満ちた織田軍団が、ことさらに視界の晴朗な好天をえらび、しかも夜戦を
  さけて天明を過ぎたころ、いっせいに伊賀盆地へ下りた。」
 「・・・ついに最後の日がきた。ーいまの名賀郡柏原の丘陵に、小さな砦のあとがある。この柏原城が、
  伊賀郷士が先祖から継承してきた最後の砦になった。」

                   織田軍へのゲリラ戦
 「・・・柏原砦の生き残りの忍者をすぐり、寄せ手の六つの本陣を襲って、あわよくば主将の首を
  掻こうと提唱したのは、下柘殖次郎左衛門であった。自らは砦の正面の丹羽長秀の襲撃を
  買って出、組下に風間五平、葛籠重蔵、それに重蔵の下忍佐那具ノ黒阿彌の三人を入れ、
  丹羽本陣の前の名張川の川瀬の中で落ち合う刻限まできめたものも、次郎左衛門である。」

                    乱後の主人公達 
 「・・・伊賀にとって最悪の年であった天正九年は過ぎた。国を散って諸方に流浪した忍者達は
  この惨禍このかた、かっては思いもかけなかったさまざまな人生を歩んだ。」
 「下柘殖次郎左衛門は、いったん大和から播磨へ流れたが、その後郷里下柘殖に帰り、信長に
  没収された旧知の一隅に茅舎をたてて、みずから新田をひらきつつ、からくもその日の食を
  えていた。」
 「風間五平は、京の街にひそんだ。一時は、下柘殖次郎左衛門の茅舎に身を潜めて、開墾の
  たすけなどをしたいたが、やがて次郎左衛門の命で京へ去ったのである。」
 「葛籠重蔵の場合は、やや異なる。大屋戸の夜討ちのあと、下忍黒阿弥とともに大和、山城の
  国境いの山を走って、御齋峠に至った。峠の起伏のかげに、仏のいじりを好んだ重蔵の祖父の
  庵室が残されている。この庵にかくれて、黒阿弥は、奈良、郡山、京などへ一夜で往還しては、
  重蔵の糧のために夜盗を働いていた。重蔵は大志を持っている。当然、信長を討つという
  ことであった。」
 「・・・しかし重蔵が不幸であったことは、この復讐を彼自身の手ではなく、もしくは伊賀の
  どの仲間によってでもなく、かれらとは全く無縁の、維任(これとう)日向守光秀という男の手で
  遂げられたことであった。天正十年六月二日、織田信長は本能寺で死んだ。
  伊賀ノ乱以来、ようやく一年を経た時期である。」
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(3)(参考)<忍者映画>
ーーーーーーーーーーーーー (その1)大映映画「新忍びの者」  ーーーーーーーーーーーーーーー 
     昭和37年(1962年)
     監督 山本薩夫  配役 市川雷蔵(石川五右衛門)
                     藤村志保(恋人)
                     若山富三郎(織田信長)ほか
     原作 村山知義  「忍びの者」全五巻(理論社出版)(1962年〜1971年)
                        
                百地三太夫は奇怪にして無気味な人物に創出されている。
                藤林長門守はライバルとして扱われている。

ーーーーーーーーーーーーー (その2)東映映画「忍者武芸帳 百地三太夫」 ーーーーーーーーーー
     昭和55年(1980年)
     監督 鈴木則文  出演  真田広之(デューク真田)
                     志穂美悦子
                     蜷川有紀ほか
     JAC(Japan Action Club)サニー千葉(千葉真人創設)
     脚本  長谷匡彦 徳萬信央

                豊臣秀吉の腹心不知火将監によって父百地三太夫を
                殺された子息鷹丸が一族再興のために活躍する。

ーーーーーーーーーーーーーーー  (その3)テレビ放映各種ドラマ  ーーーーーーーーーーーーーーー
     昭和41年(1966年)「忍者ハットリくん」実写版
     昭和42年(1967年)そのアニメーション版「忍者ハットリくん+忍者怪獣シッポウ」
                NET(現朝日テレビ)放映の特撮コメディ
     原作 藤子不二雄A 
                同年の「仮面の忍者・赤影」関西テレビ系放映。
                昭和47年(1972年)「科学忍者隊ガッチャマン」フジテレビ系

ーーーーーーーーーーーーーーーー  (その4)最近の劇場映画封切り例  ーーーーーーーーーーーーー

■ロードショー作品  「SHINOBI」 平成17年九月17日(土)より 

c2005「SHINOBI」パートナーズ  スタッフ&キャスト 
[監]下山天 [原]山田風太郎 [脚]平田研也 [撮]近森眞史 [音]岩代太郎[歌]浜崎あゆみ
[出]仲間由紀恵 オダギリジョー 椎名桔平 黒谷友香 沢尻エリカ 石橋蓮司
[制作データ] 2005松竹
[上映時間] 101分
 
見どころ:仲間由紀恵、オダギリジョー共演のアクション時代劇。敵対する組織に属しながらも禁断の恋に落ちた
忍者2人の運命が、白熱の忍術シーンを満載して描かれる。

ストーリー:互いに敵対する一派だとは知らずにひかれあう、伊賀の朧と甲賀の弦之介。そんな折り、徳川幕府
次期将軍の座を巡って両派の対決が勃発。再会した2人は敵同士として熾烈な戦いを繰り広げるはめに。

(筆者コメント)忍びの者おきまりの人物設定です。「伊賀者」と「甲賀者」は対立した関係での忍び人間模様です。

平成17年9月25日   *** 編集責任・奈華仁志 ***


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