平成社会の探索


ー第73回知恵の会資料ー平成19年11月4日ー

<「知恵の会」への「知恵袋」>


(その18)課題「もみち・紅葉」
ー「菅原道真の紅葉」ー

ひとくち要点・HAND-ON SYNOPSIS
百人一首菅原道真歌の
(その一):「もみぢ」の「手向山」あちこちー奈良・歌姫越
(その二):百人一首歌碑あれこれー長野県富士見町・甲州街道

<菅家の「もみぢの錦」とは>

 百人一首歌で「もみぢ」が詠み込まれた歌は、次の5首です。
  第 5番「奥山に もみぢ ふみわけ鳴く鹿の声聞くときぞ秋はかなしき」(猿丸大夫)
  第24番「このたびはぬさもとりあへず手向け山 もみぢ の錦神のまにまに」(菅家)
  第26番「をぐらやま峰の もみぢ 葉こころあらば今一度の御幸またなむ」(貞信公)
  第32番「山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬ もみぢ なりけり」(春道列樹)
  第69番「あらしふく三室の山のもみぢ葉は竜田の川の錦なりけり」(能因法師)
 それに在原業平の歌も明らかに「もみぢ」の歌ですから、合計6首が数えられます。
  第17番「ちはやぶる神代も聞かず竜田川唐紅に水くくるとは」(在原業平朝臣)

 菅家の詠んだ歌はどこの「手向山」の「もみぢ」か、という点と、菅家の歌碑は何処に据えられて
いるかということを関係付けて探索してみました。

<菅家の歌詠の「手向山」とは>

 菅家の百人一首歌は、出典の「古今和歌集」の詞書きによりますと、朱雀院(宇多法皇)の御幸、
昌泰元年(898)10月の奈良・吉野・竜田・難波への巡幸の時の詠とされます。
 したがって、可能性の高い「手向け山」は奈良の周辺、京都から奈良への道筋、あるいは、
奈良から難波への道筋に求めることになりましょう。推測される場所は、それぞれ奈良の周辺で
    北辺一帯:<奈良坂>・・・般若寺越え
         <歌姫越>・・・添御県坐神社
    東方一帯:<手向山>・・・手向山神社
    南西方向:<竜田道>・・・峠八幡神社

 これらの関連記事として、”随想「菅家ー手向山」”および”随想「紀友則ー大和の錦」”より抜粋して添付します。

(その1)<奈良坂>
 菅家の歌は、古今和歌集の詞書きによりますと、朱雀院(宇多法皇)の御幸、すなわち
昌泰元年(898)10月20日から、閏10月11日まで、奈良・吉野・竜田・難波への
巡幸の時の詠みです。一般には奈良若草山西の手向山を詠んだとされています。
 平安京に都が移ってから大凡100年後の9世紀末、宇多帝・醍醐帝時代の京と古都奈良との
往還はどのようであったのでしょうか。

 「奈良坂」と言われる大和国古都平城京とその北方に位置する山城国新都平安京との往還は、
時代によって少し変わるようです。
 平城京の北東部から北へ、嘗ての東山道や北陸道として丘陵地平城山を越える坂道が「歌姫越え」
としての奈良坂と称されました。
 時代が少し下がって平安時代中頃からの「奈良坂」は、それからすこし東側に位置する般若寺前を
通る「般若寺越え」となり、それが現在までの「奈良坂越え」になっています。「般若寺越え」の
利用が頻繁になると、本来の奈良坂「歌姫越え」は、春日社への参詣道として活用されたようです。
 事例として永祚元年(989)一条天皇の春日行幸(「小右記」記述)あるいは寛弘四年(1007)
今から丁度1000年前、藤原道長の春日詣で(「御堂関白記」記述)さらには春日祭使の道筋は
すべて「歌姫越え」であったようです。

 古來の「歌姫越」往還は、山城国への主要幹線として、平城宮内裏北より歌姫町を通り平城山を
越えて京都府木津町の木津川左岸に到達する道筋です。近世では、「郡山街道」と称されました。
 この道筋には、旅の手向けとして、国境の土地の神に祈るための「添御県坐神社」が祭られています。
さらには佐紀古墳群遺蹟や平城宮用瓦の焼成に当たった窯跡群も確認されています。

大和国と山城国の古代と現代の往還「奈良坂」比較
(その2)<歌姫越>
 奈良市歌姫町御県山の歌姫越道筋にある「式内添御県坐神社」は、その由緒書きに依りますと、
  御祭神 速須佐之男命(はやすさのおのみこと)(天照大神弟神・須佐之男命の別名)
      櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)(須佐之男命の妃となった姫神)
      武乳速命(たけちはやのみこと)(添の御県の地の祖神)
  社の祭 春秋二回の大祭(3月11日、11月28日)、雨喜祭(8月21日)
  鎮座地 御県山は、大和平野中央を縦貫する「下つ道」の北端に位置し、古来国境に鎮座する
      手向けの神として崇拝される。

 境内には、縁りの旅の安全を祈念した和歌の碑が建立されています。

(1)万葉集 左大臣・長屋王の歌
   ー長屋王、馬を寧楽山(ならやま)に駐(た)てて作る歌二首  
  「佐保すぎて 寧楽の手向けに置く幣は 妹を目離れず 相見しめとそ」(巻三ー300)
  「岩が根のこごしき山を越えかねて 音には泣くとも色に出でめやも」(巻三ー301)
(2)古今和歌集 宇多法皇の吉野御幸に随行した菅原朝臣の歌
   ー朱雀院の奈良におはしましける時に、手向山にてよめる
  「このたびは幣もとりあへず手向山もみぢの錦神のまにまに」(巻九・羇旅歌ー420)


添御県坐神社参道(左)と添御県坐神社境内の菅家歌碑
 添御県坐神社が御県山の丘陵(標高約90mほど)付近にあり、平城京北端(現在の奈良市歌姫町)
と山城国南端(現在の京都府木津町)への境に位置していることは、平城京宮址北端から北に向かって
現地踏破すれば実感できます。
 平城天皇御陵を右手に見て、歌姫街道の緩やかな登り道を真北へ約1km行きますと、添御県坐神社
の脇道に至ります。神社の東側を抜けて間もなく、急坂にさしかかります。この坂道は、JR関西本線
(大和路線)平城山駅から近鉄京都線高の原駅にかけて大々的に開発された新興住宅地右京・左京地区
まで大凡2kmほど駆け下りていく街道になっています。古代の旅人はこの峠から遥に山城国へ旅立って
いく人々を見送ったのではないでしょうか。

 朱雀院の御幸に随行した菅家は、この手向の地で旅に出る人と別れたのではなく、自身が旅人として
当地を訪れて、土地の神に祈ったわけです。果たして、9世紀の終わり頃、当地は紅葉の名所であった
のか、名所でなくとも紅葉の見事なところであったのでしょうか。菅家の歌の場所を当地に比定する
場合、この点だけがやや気になるところです。紅葉の鑑賞の点からは、後述の「手向山神社」は
まずまず問題ないと思われますが。

 なお「添御県坐神社」は、歌姫町から西へ約5kmの富雄川沿いにある三碓町内(往時の鳥見庄)
にも同名の神社があります。場所は近鉄富雄駅から富雄川に沿って南下し、阪奈道路の手前の三碓町
内を東へ折れたところです。神社の境内から参道の彼方に旅行く先に大きく立ちはだかる生駒山嶺を
仰ぐことが出来ます。ここも西へ旅立っていく人々を見送ったと思われる小丘のいただきに位置して
神社が鎮座しておられます。
 歌姫越えの「添御県坐神社」が平城京から北へ向かう道筋の手向山であれば三碓町「添御県坐神社」
は、平城京から西へ、生駒山を越えて難波の宮に向かう道筋のそれということになりましょう。
いずれも平城京から見れば大変重要な幹線であることがわかります。

(その3)<手向山神社>
 菅家の詠歌の場所として、前述の添御県坐神社の手向の地以外に、もう一個所が推定されています。
それは東大寺と春日神社の間にあり、手向山の西麓に当たる手向山神社です。当地は紅葉の名所でも
あるのです。
 手向山八幡神社は、天平勝宝元年(749)東大寺大仏造営という国家事業の遂行に当たり、
宇佐八幡神の神助を得たと言うことで、東大寺大仏の守護神として初めての八幡宮分社として勧請され、
平城宮梨原宮に当初鎮座し、後に大仏殿近く鏡池東側移設され、さらに鎌倉時代建長二年(1250)
北条時頼によって現在地に移ってきたということです。

  祭神:中殿ー応神天皇、右殿ー仲哀天皇、神功皇后、左殿ー比売大神
  境内社:若宮神社、若殿神社、高良神社、住吉神社など15社
  変遷:治承四年(1180)平重衡による南都焼き討ち、寛永十九年(1642)奈良大火など
     炎上し、元禄四年(1691)の再興になる。

 当社の手向山は、若草山の西麓の「八幡山」とも言われています。
 菅家の縁りは単に手向山だけに納まらず、本殿の右手には「菅公腰掛けの石」と称する石があり、
加えて、歌碑まで並立されています。誠に至れり尽くせりですね。

(左)手向山八幡神社境内の「菅公腰掛けの石」と(右)歌碑(昭和50年建立)
(その4)<竜田道>
 旧都平城京の西に位置する竜田山は「秋の女神」として「竜田姫」を祭祀しています。
 その竜田姫を紀友則は次のように詠んでいます。

 ーたつた山をこえてよめる
 「かくばかりもみづるいろのこければや錦立つたのやまといふらむ」(26番)
 「みるごとにあきにもあるかなたつたひめもみぢそむとや山もきるらん」(27番)
 「はつしぐれふればやまべぞおもほゆるいづれのかたかまづもみづらむ」(28番)
 「からころもたつたのやまのもみぢばはものおもふひとのなみだなりけり」(29番)

 竜田の山の竜田姫とは「秋の女神」ですから、「錦立つ」「もみぢそむ」「もみづ」「もみぢば」
などの歌詞で詠まれることになります。中世の芸能である能楽で、「龍田」も神楽物に分類され、
「竜田姫」の異称を有するものです。

 友則が「こえて」いった「竜田道」とは、現在の奈良県三郷町立野の龍田大社の裏山を大和から
河内にぬける峠道で、古代からの両国を結ぶ要路であったのです。古くは神武東征伝あるいは履中天皇
期にも龍田山が言及されており、壬申の乱勃発時には大伴吹負は龍田の関を固めています。 
 万葉集には竜田山の歌は多く載録されていますが、殆どが歌枕として「もみぢ」を詠み合わせて
います。古くは聖徳太子の詠歌(巻三ー415)があり、特に巻十には「もみぢ」の龍田山が
多く収録されていますが、「雁」「時雨」「もみぢ」を詠み込んだ次の歌が典型的な歌でしょう。

 「雁がねの来なきしなへにからころも竜田の山はもみちそめたり」(巻十・秋の雑歌・2194)
 「夕されば雁の越えくる竜田山時雨に競ひ色づきにけり」(巻十・秋の雑歌・2214)

 ちなみに昌泰元年(898)十月宇多上皇のお供をした菅原道真の竜田山から住吉への旅路で詠んだ
次の漢詩は、竜田道の中間地点に立って、竜田峠周辺の紅葉の上に浮かぶ足下の大和平野を見下ろし
ながら詠んだものではないでしょうか。菅原朝臣の七言絶句は次の通りです。(扶桑略記より)

  満山紅葉破心機 況過浮雲足下飛 寒樹不知何処去 雨中衣錦故郷帰

 飛鳥・藤原京の時代では、河内から難波津への交通はもっぱら竹内峠や二上山の北麓を通る
大坂越え(穴虫峠)の丹比道(竹内街道)であったものが、都が北に移動し平城京になったとき
から、主要官道も北に上がって竜田道になったのです。
 古代の竜田道は確定されていず、龍田大社から柏原・雁多尾畑経由の道筋は二、三ルートほど
推定されていますが、近世では、大和川北岸沿いの「亀瀬越竜田道」と「十三越竜田道」が定着した
ようです。

竜田峠周辺の地図

<菅家の百人一首歌碑>

 菅家の百人一首歌碑は、現在次の四個所に据えられています。(都筑氏「百人一首歌碑」情報より)
 そのうち二基は既に言及しましたが、残る二基を併せますと次の通りです。

(その1)奈良市歌姫町<歌姫越>添御県坐神社掲題(上述参考記事「菅家ー手向山」参照)
(その2)奈良市雑司町<手向山神社>東大寺境内(上述参考記事「菅家ー手向山」参照)
(その3)長野県諏訪郡富士見町<十五社境内>(後述メモ書き参照)
(その4)兵庫県高砂市曾根<曾根天満宮・歌玉垣>(上述参考記事「菅家ー手向山」参照)

<信州の菅家歌碑「手向山」とは>(歌碑を訪ねて百里の旅)

 長野県諏訪郡富士見町上蔦木 十五社本殿後方 (明治11年10月建立)
 当地は長野県の最東端で、山梨県との県境です。リゾート地の八ヶ岳を控えた風光明媚な
 ところで、甲州街道沿い旧蔦木宿裏山の神社境内奥に建立されています。
 旧蔦木宿は、江戸から45里30丁の43番目の宿で本陣大阪屋が街道筋に残っています。

(左)長野県諏訪郡富士見町方面(諏訪湖の南東部ー富士山を望む方向)(右)旧蔦木宿付近

(左)旧甲州街道(国道20号線ー諏訪湖方面)前方交差点脇に本陣大阪屋跡あり。
(右)旧甲州街道から見た参道と十五社の森(奥の階段上に社殿がある)
歌碑裏面の刻字 揮毫者 雪州
此のたひハぬさもとりあへす手向山
もみちのにしき神のまに々々
  石碑の大きさ 高さ120cm 巾58cm 厚さ28cm
建立年月 明治十一年(1878)戌寅十月
窪田正教 窪田正房 窪田平之丞
筆子 五十五名 建之
国道沿い十五社参道鳥居東側居住の
有賀さんのご隠居さんの話
歌碑は以前、国道沿いに少し北西方向の位置(現在のJA事務所当たり)にあったという。
現在の十五社は元落合小学校分校校舎と運動場であった。
国道沿い現在の参道鳥居前には、警察の屯所があった。
国道から分校校門まで両脇は大きな櫻樹の並木であった。
鳥居は昭和49年10月再建されている。
 では、どうして信州の山中に明治初期、菅家の百人一首歌碑が建てられたのか、懇談した地元の
ご隠居有賀さんも要領を得なかった。思うに、菅家歌碑建立も、紅葉の名所と言うことではない
でしょうか。富士見町の周辺のリゾート地帯は、水のきれいなこともさることながら、標高
1000mですから、紅葉は海岸沿いの平地よりいち早く見事な紅葉が周辺の山裾を彩るのでは
ないでしょうか。(富士見町教育委員会に問い合わせたが、解答不明)

 因みに旧甲州街道沿いには、紅葉樹より櫻の古木が多く残されているようです。
 一例、富士見町(長野県)の東隣町である北杜市(山梨県)には山高神代櫻として樹齢2000年の
老樹が毎年桜見物の名所となっているとのこと。

 いずれにしても都から100里も離れた信州の山里に、しかも明治の初期に百人一首歌碑が建立
されていることに注目したいところです。八ヶ岳の山麓のあちこちにいろいろの石碑が認められます。
 また明治の昔から信州は学問を重要視する地域で、文化レベルは常に国の上位に位置していると
地域民が自慢にするところのようです。

<兵庫県高砂市「曾根天満宮歌碑」について>

 ちなみに高砂市・曾根天満宮の歌碑は、次の通りです。
 兵庫県高砂市曾根 曾根天満宮(歌碑の玉垣の一部)(平成5年10月建立)

   当地は、菅公に大変縁の深いところです。すなわち、菅公が九州大宰府へ下るときに
   当地に立ち寄り、日笠山に登って休んだ時「我に罪なくば栄えよ」と小松を手植えした
   のが「曾根の松」という言い伝えです。またその後、播磨に流罪になった道真公四男
    淳茂氏が父の形見「曾根の松」の傍らに父を祀って曾根天満宮としたとのこと。
   菅家歌碑建立も場所柄に相応しいと思われます。
   なお、当該境内の歌玉垣とは、古代から現代までの高砂や松に因んだ和歌を刻んだ物です。
   これもなかなか粋な計らいです。普通は、寄進者の名簿標のように、名前が羅列される
   だけのところですが、歌垣にしているところがなかなかの工夫です。
   菅公さんも天国で喜んでおられるでしょう。

(左)兵庫県高砂市内曾根天満宮拝殿(右)菅家歌碑の玉垣

ホームページ管理人申酉人辛
(万葉歌人名:栗木幸麻呂)


平成19年9月25日   *** 編集責任・奈華仁志 ***

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