平成社会の探索


ー第70回知恵の会資料ー平成19年6月10日ー

<「知恵の会」への「知恵袋」>


(その15)課題「根」ー「菖蒲の根」

<根合せ>

(1)根合せ和歌のあれこれ
 「菖蒲(さうぶ)」は、さといも科の多年草の一種で、湿地に自生し、根茎は長く、葉は剣状で
全体に芳香がある植物です。初夏に淡黄緑色の小花を多く密に付ける。昔から邪悪なものを払う
働きがある物として、五月五日の節句には、葉を物に付けたり、家の軒下に挿す風習があります。
 平安朝での宮廷での歌合せにおける「根合せ」の行事がありました。「菖蒲の根合せ」(あやめの
ねあわせ)、「菖蒲合せ」あるいは単に「根合せ」といわれ、他のいろいろな歌合せの行事の一種で
あったのです。
 (注)宮中におけるいろいろな競べものとしての歌合せ
    菊合せ 女郎花合せ 瞿麦(なでしこ)合せ 前栽合せ 扇合せ 
    貝合せ 障子画合せ 艶書合せ など(新編国歌大観 第五巻 歌合編 歌集 より)

 現在「根合」は、次の三件が残されています。
  (イ)内裏根合(殿上根合)
     主宰者・後冷泉帝(第70代)永承六年(1051)五月五日 
     藤原正家の根合せの様子が記録に残されている。左右から供された菖蒲根の競べが三番
     行われれた後、判者内大臣頼宗として、五組の歌(題詠:菖蒲・郭公・佐苗・祝・恋)が
     左馬頭経信や相模など10人の歌人で競われた。因みに菖蒲がどのように詠まれたか。
     「よろづよにかはらぬものはさみだれのしづくにかをるあやめなりけり」左馬頭経信
     「つくまえのそこのふかさをよそながらひけるあやめのねにてしるかな」(読人不詳)

     (参考メモ)恋題の左方で相模は百人一首65番歌を詠んで右方中将(源)経俊に
           勝っている。
      ー永承六年内裏の歌合せに
      「うらみわびほさぬそでだにあるものをこひにくちなんなこそをしけれ」
                       (後拾遺集 巻十四       )
          「古今著聞集」(橘成季・1254)その他に状況が言及されています。

  (ロ)郁芳門院根合
     堀河帝(第73代)寛治七年(1093)五月五日
     根合せ三番勝負あり(一例:左・一丈六尺ー右・八九尺にて、左勝など)
     歌合せ五番勝負(題詠:(菖蒲)・郭公・五月雨・祝・恋)各番左二人、右二人の合計
     20名が和歌を詠む。左勝一首、右勝一首、持七首、未判一首。
     堀川殿の一首が添えられ合計21首が詠まれた。因みに「菖蒲」題四首。
     「ながきねぞはるかにみゆるあやめ草ひくべきかずを千歳とおもへば」左少将忠教
     「たづのゐるいはかきぬまのあやめ草千代までひかむ君がためしに」斎院女房
     「あやめぐさひくてもたゆくながきねのいかであさかの沼におひけむ」二位宰相中将雅実
     「君が代のながきためしにひけとてやよどのあやめのねざしそめけむ」掌侍
     
     「中右記」(藤原宗忠・1087〜1138)によれば5月1日に歌合わせのための奉幣が
     あり、5月9日賀茂神社で競馬を行ったとある。   

  (ハ)備中守仲実朝臣女子根合
     堀河帝(第73代) 康和二年(1100)五月五日
     歌合せ五番勝負(題詠:昌蒲根・艾(よもぎ)・樗(おうち)・廬橘(ロキツ)(びわ)・
                石竹(セキチク)(からなでしこ))
     歌人:左・周防掌侍、上総君(二首詠む)、大宮甲斐君、藤波
        右・俊頼、仲実、顕仲、隆源阿闍梨、実盛
     判者:仲実朝臣 左勝一首、右勝二首、持二首。
     「昌蒲根」題詠の二首。
     「あやめぐさながきためしにひくばかりまたかかるねはあらじとぞおもふ」周防掌侍
     「御垣守る衛士の玉江におりたちてひくはあやめの根もはるかなり」俊頼朝臣

     藤原仲実(能実男)家で催した根合せに付随した当座歌合。

 根合せとして記録に残っているのは、永承六年(1051)を最も古い物としているものの、五月
五日の端午の節句に於ける「根合せ」行事の主役になっている菖蒲の扱いは、それ以前より行われて
いるもので、「万葉集」で「ほととぎす」と共に「菖蒲(あやめぐさ)」を邪気を払う物として
「かづら」にしたり、「玉に貫く」(薬玉にする)と詠う12首(巻3−423,巻8−1490,
巻10−1955、巻18−4035,4089,4101,4102,4116,巻19−
4166,4175,4177,4180)ほどが挙げられます。代表的な大伴家持の歌は、
 「ほととぎす待てど来鳴かずあやめぐさ玉に貫く日を今だ遠みか」(巻8−1490)

 ほととぎすとの詠み込みは新古今和歌集で藤原良経の歌(巻三・夏歌)にも見られ、
 「うちしめりあやめぞ薫るほととぎす鳴くや五月の雨の夕暮れ」(摂政太政大臣・220番)

 拾遺和歌集にそろそろ軒に挿された「菖蒲の根」が詠まれてきます。
 「昨日までよそに思ひしあやめぐさけふわが宿のつまと見るかな」(巻三・夏・109番 能宣) 

 宮中での「根合せ」歌会からは、半世紀以上遡ることになる十世紀末頃の清少納言や紫式部の
作品にも書き留められています。因みにそれらの古典の中での菖蒲の言及例を引用しておきます。

(2)「枕草子」における「菖蒲根」
 菖蒲の根に関して清少納言は「枕草子」に次のように書き記しています。
  (その1)第37段 節は
      「節は五月にしく月はなし。菖蒲、蓬などのかをりあひたる、いみじふをかし。
       ・・・若き人々、菖蒲の腰ざし、物忌つけなどして、・・・長き根にむら濃(ご)の
       組みして結びつけたるなど、・・・いとをかし。」
      「・・・青き紙に菖蒲の葉ほそく巻きて結ひ、・・・いと長き根を文の中に入れなど
       したるを見るここちども、艶なり。」
  (その2)第85段 なまめかしきもの
      「・・・いたうものふりぬ檜皮葺きの屋に、長き菖蒲をうるはしう葺きわたしたる、
       青やかなり。」
      「五月の節の蔵人。菖蒲のかづら、赤紐の色にはあらぬを、領布(ひれ・肩布)、
       裙帯(くたい・腰紐)などして、・・・いみじうなまめかし。」
  (その3)第110段 卯月につごもり方に
      「・・・淀の渡りといふものをせしかば、・・・菖蒲、菰などの末短く見えしを、
       採らせたれば、いと長かりけり。・・・ 
       ・・・三日帰りしに、雨のすこし降りしほど、菖蒲刈るとて、笠のいと小さき
       着つつ、脛(はぎ)いと高き男(をのこ)、童(わらは)などのあるも、屏風の
       絵に似て、いとをかし。」

    清少納言の観察眼は、菖蒲の根が意外に長いことを実見していること、五月五日のために
    五月三日に菖蒲を刈る男の姿が時節柄屏風の絵のようだとしている点が興味があります。

  (その4)第112段 絵に描き劣りするもの
      「絵に画き劣りするもの なでしこ。菖蒲。桜。物語にめでたしと言ひたる
       男女の形。」 
    
    なでしこはともかく、菖蒲は形が複雑でなく、花も華麗でないので、絵に描きにくいの
    でしょうか。物語の主人公絵画のイメージについては、現代でも言えそうです。特に
    映画やテレビでの物語り物では、どれでも話題の呼ぶものです。

    (その5)第206段 見物は
      「・・・五月こそ世に知らずなまめかしきものなりけれ。・・・ただその日は、菖蒲
       打ち葺き、・・・所々の御桟敷どもに菖蒲葺きわたし、よろづの人ども菖蒲かずら
       して、あやめの蔵人かたちよきかぎり選りて出されて、・・・・」
     注。あやめの蔵人:五日の節会に天皇から群臣に賜う薬玉を取り次ぐ女蔵人。

    (その6)第214段 五月の菖蒲の、秋冬過ぐるまで
      「五月の菖蒲の、秋冬過ぐるまであるが、いみじう白み枯れてあやしきを、引き折り
       あけたるに、そのをりの香の残りてかかへたる、いみじうをかし。」

    清少納言はかなり菖蒲の芳香に馴染んでいた模様。捨てがたい魅力があるのでしょうか。
  

(3)「源氏物語」における「菖蒲(あやめ)」・「菖蒲(さうぶ)」
   以下、与謝野晶子の現代訳源氏物語から引用します。
  (その1)蛍巻 五月五日、蛍兵部卿の宮から玉かずらへ送られた和歌
      「兵部卿の宮からお手紙が来た。白い薄様によい字が書いてある。見て美しいが書いて
       しまえば、ただそれだけになることである。
        「今日さへや引く人もなき水隠れに生ふるあやめのねのみ泣かれん」
       長さが記録になるほどの菖蒲の根に結びつけられて来たのである。」
       玉かずらの返し歌は、
        「あらはれていとど浅くも見ゆるかなあやめのわかず泣かれけるねの」
  (その2)蛍巻 五月五日、光源氏は花散里のもとに泊まったところ、彼女はつつましく不遇を
       かこったので、源氏が忠実を契る返歌をする。
      「平生花散里夫人は、源氏に無視されていると腹をたてるようなこともないが、六条院に
       華やかな催し物があっても、ひとづてに話を聞くぐらいで済んでいるのを、今日は
       自身の所で会があったことで、非常な光栄にあったように思っているのであった。
        「その駒もすさめぬものと名に立てる汀のあやめ今日や引きつる」
       とおおように夫人は言った。何でもない歌であるが源氏は身にしむきがした。
        「にほ鳥に影をならぶる若駒はいつか菖蒲に引きわかるべき」
       と源氏は言った。

     兵部卿の宮や花散里の歌は、いずれも菖蒲の引用が五月の節句にちなみ、不遇の人に
     なぞらえているところから、一般に当時の人々は菖蒲のイメージとしては、地味で
     不運な植物とみていたことのあらわれかもしれないと推論する向きもある。

  (その3)乙女の巻 六条院の造営が終わって、二条院から源氏は移転することになった。
      「東向いたところは特に馬場殿になっていた。庭には埒が結ばれて、五月の遊び場所が
       出来ているのである。菖蒲が茂らせてあって、向かいの厩には、名馬ばかりが飼われて
       いた。」

     紫式部の歌のついでに、新古今和歌集 巻三・夏 223・224番歌にある
    「菖蒲の根」の歌を引用します。
     ー局ならびに住みはべるころ、五月六日、もろともにながめあかして、朝に長き根を
      つつみて紫式部に遣はしける 上東門院小少将
     「なべて世のうきになかるる菖蒲草今日までかかるねはいかが見る」
            (世間のつらさに昨夜は泣き明かしましたね。今日も声に出して泣きやまないでいる
       私をどうごらんになりますか。)
     ー返し 紫式部
     「なにごととあやめはわかで今日もなほ袂に余る根こそ絶えせね」
      (わたしもなぜとわからないのですが、袖に包みきれない涙を流しているのです。)

     さらについで、藤原定家の「菖蒲の根」歌を、拾遺愚草に見ます。
     「あやめ草長き契りも根を添へて千代の五月と祝ふ今日かな」
     男女の仲の長い契りを菖蒲の根の長い根に事寄せて詠うという伝統的発想です。

 平安時代の女性連によって記し伝えられた日本人社会の風俗や習わしも、現在ではほとんど書留め
られることがなくなったように思います。谷崎潤一郎((1886〜1965)や川端康成
(1899〜1972)の世界では同時代の何等かの日本社会が写し取られていると思いますが、それさえも
旬節を織り交ぜた文学世界としてみた場合は「枕草子」「源氏物語」ほどにはなっていないのでは。
 一方、今や端午の節句や菖蒲の根競べなどといっても、ピンと来なくなっています。端午の節句に
一体何人の日本人が菖蒲湯に入るのでしょうか。 

<端午の節句と上賀茂神社の神事>

 千年前の世界に於ける日本人の中の菖蒲は、宮中の歌合わせであり、一般人の五月の節句の事物で
あるのですが、現代にその習わしを見ることが出来るのは、やはり端午の節句と特に根合わせは、
上賀茂神社の神事で、五月五日に観覧しました。

(1)端午の節句と菖蒲
   端午の節句(あやめの節句、しょうぶの節句)は一年の五節句(1月1日、3月3日、
   5月5日、7月7日、9月9日)のひとつ。   
   端午とは、端(月のはじめ)の午(ご・うまの日)で五(ご)月に限ったことでなかったが、
   五(ご)の午(ご)から、五月五日になり、日本での端午は、奈良時代からの古い行事に
   なっている。(中国では二千年以上前からの風習)
   丁度一年で季節の変わり目になり、病気や災厄を避ける行事が行われ、この日に薬草摘みを
   して、蘭を入れた湯を浴びたり、菖蒲を浸した酒を飲んだ風習が、端午の節句の
   起源とされています。人々は邪気を祓うために菖蒲や蓬を軒に挿したり、天皇は皇族や臣下に
   蓬の薬草を下賜したり、あるいは粽(ちまき)や柏餅を食し、江戸時代からは、男児の家で
   鯉のぼりや武者絵ののぼりなどの屋外飾り(子供の出世を願うもの)と武者人形の屋内飾り
   (子供の無事な成長を願うもの)をする子供の将来を願うもの。「菖蒲」は「尚武」や
   「勝負」などとかけているともいわれる。

(左)民家の軒下に挿された菖蒲の根(右)高槻・芥川の鯉のぼり群団
現在では一般の家庭で菖蒲根をさせるような場所さえ無くなりました。
鯉のぼりの方はいろいろに飾る様式を現代生活に対応させて伝承していますが、
男の子の邪気を祓うにはどうすればいいのでしょうか。
(2)上賀茂神社の根合せ神事および競馬会参観日誌    上賀茂神社では、五月五日の午前中(九時過ぎ)の神事として「菖蒲の根合せ」があり、    午後(二時過ぎ)に競馬の行事が社頭の芝埒で行われます。    (注)「埒」(らち)とは、次の常用熟語の語源になっているもの。       「らちがあかない」(交渉などで決まりが着かない、どうしようもない。)       「らちもない」(だらしがない、とりとめもない。)       「らちをあける」(交渉などできまりをつける。)       「らちがい」(範囲の外)

上賀茂神社社頭・根合せおよび競馬会の会場見取り図


(上)仮宮・頓宮(下)馬場(芝埒)
(その1)根合せ神事
    午前九時過ぎ神官に伴われて競馬神事を御覧頂く神さまが境内二の鳥居前の馬場東の
   仮宮・頓宮にお入りになる。
    続いて、神官の後に午後の競馬の騎手(今回は六組計12名)が行列を着くって仮宮前に
   集合し、一番騎手が菖蒲(実際は長い根が着いていないで、根元から切断された菖蒲一房)を
   頭上で突き合わせて根合わせを行う。その後、騎手二人が同時に仮宮のお屋根を葺く。
   (お屋根の上に菖蒲を投げ挙げる。)
    菖蒲はが頭上で突き合わされた後、
   二番騎手以降は菖蒲の根合せのみ行い、双方菖蒲を交換したあと、菖蒲の葉を二つ折りにして、
   持ち帰る。
    なお、騎手の持っている菖蒲一房には、蓬も一本添えられている。

騎手(乗尻)による菖蒲の根合せ神事の様子
   二の鳥居前での神事が終わったら、続いて本殿前の棚尾社前でも挙行される。

(左)仮宮前での菖蒲根合わせ神事(右)本殿前での菖蒲根合せ神事の様子
      この神事では、行事に参加する全員が人は後ろの腰に菖蒲を結わえ付け、馬は首の回りに
  菖蒲の一房を飾り付ける。   
 
(左)神官の菖蒲の結わえ付け(右)競馬の菖蒲の飾り
    午後の競馬会神事は、一の鳥居脇(馬場の本)と二の鳥居脇(馬場の末)の間で馬が疾走する
   行事となる。
    馬場の末に集合した人馬はまず、「顔見せ行列」として、馬場を右左にゆっくり旋回しながら
   練り歩く。全国の上賀茂神社荘園代表の馬として、競技を競うことになる。嘗ては二〇ほどの
   荘園の名前で競われたが、現在では備前(岡山県)その他の数カ所の荘園名が使われる。

    競馬の仕方は、相撲の所作と同じで、まず試合に到るまでの準備動作がある。馬場の本付近で
   競走馬二頭が巡遊しつつ、試合の気合を見計らう。気が熟したとき、騎手が「キリ」とお互いの
   「面」を確認したとき、競走が始まる。正に、本の一瞬の「すもう」でいう「立ち会い」に
   相当する。したがって、現在の競馬のように、ある一線上に並ばない。勝負は競走が始まった
   時点の二頭の馬の距離が馬場末で縮まったか、拡がったかが判定され、勝ち負け、または持
   (引き分け)が判定される。判者は、馬場の中央(徒然草に出てくる「あふち」(せんだん)の
   木の前)の高台に二人立って、審判する。
    この競馬の面白さは、まさにこの「立ち会い」の一瞬にあると思われる。駆け出すと、勝負は
   ほんの三,四秒ほどで決着がつく。
   (注1)「あふち」(樗)は端午の節句に藥玉として、花を糸に通し、菖蒲や蓬とともに、
      僻邪の飾りにする。
       徒然草第41段には、「賀茂の競馬を見物に行った坊主が、樗の枝の上から見物して
      いたが、待ちくだびれて居眠りをし、今にも枝から落ちそうになる。それを見ていた
      まわりの見物人は、バカな奴だと嘲笑したけれども、自分らこそ、「死の到来を知らずに
      暮らしていることこそ、バカな奴」といわれましょう、と知恵のあるところを披露した
      ところ、この話が受けて、埒の一番前の見物席を空けてくれた」という兼好法師の
      自慢話になっている。
   (注2)上賀茂神社の競馬の古さは、万葉集の大伴坂上郎女の歌にも遺されているという。
      「木綿たたみ手向けの山を今日越えて いづれの野辺に庵せむ われ」
       (万葉集巻六ー雑歌・1017)の詞書に
      ー夏四月、大伴坂上郎女、賀茂神社を拝み奉りし時に、・・・ーと記されている。
   (注3)後鳥羽上皇の競馬好き
       後鳥羽上皇は競馬が好きで、数十回賀茂社へ、御幸されたという。隠岐に流されても
      賀茂の競べ馬の事を忘れていない。
      「思ひ出づる袖にぞかげはやどりけるその神山の有明の月」(続拾遺集・1426)
   (注4)上賀茂神社は世界文化遺産として平成27年第42回の式年遷宮を迎える。

(左)疾走前の馬の気合待ち(右)疾走する馬

(左)馬場や仮宮の背後の判者の物見台(右)「あふち」の木
    競技を終えた勝者の馬のみ、馬場の本に据えられた判者の所にもどり、判定を問い、褒賞と
   して衣を頂戴するが、それを鞭の先に差し上げて、答礼とする。

勝ち馬に与えられた褒賞の布と答礼儀式

<菖蒲の根の効用と薬草学>

 菖蒲はサトイモ科(Araceae)ショウブ属の常緑多年草。
 学名 ショウブ Acorus calamus 中国名 白菖蒲
 根茎 菖蒲根(しょうぶこん) Calami Rhizoma  calamus root
    芳香性健胃藥、去たん、止瀉藥(下痢止め剤)とし、腹痛、下痢、てんかん、リウマチ、
    瘍腫などに用いられる。
    また煎剤は吐き気を催すことがある。使用量は一日3〜6グラム、
    保温や浴湯料として使用されることもある。(菖蒲湯)
 成分 精油が多い。成分例(asarone,asarylaldehyde,eugenol,methyleugenol,linalool,carameone
        caramene,caramone,acorone,acoroxide)

(左)ショウブ(右)セキショウ
(参考)セキショウ・Acorus gramineus Soland
 別名グラッシーリーブド・スイート・フラッグ 中国名 石菖蒲
 根茎はセキショウコンとして、鎮痛や鎮静作用があり、腹痛や腰痛に使用され、薬用酒を飲む時は
前後に甘みをとらない。入浴剤にもなる。
 特に「根」は「石菖根」(セキショウコン)として、鎮静・健胃・鎮痛・利尿・抗菌作用があるので
発熱状態・意識朦朧状態・意識障害・煩躁・不安状態・呼吸不整・顔面紅潮状態・充血・頭のふらつき
・難聴・熱性疾患・妄想型精神分裂状態など、多くの症状に効果があるとされる。
 日本では、東北地方より南部に分布し、三月に株分けし、5〜7月に花期となり、日当たりから
日陰までの湿地で育つ。
 ショウブとの違いは葉には、中肋(ちゅうろく・あばら骨)はない。

(注)引用資料:木村康一・木村孟淳「原色日本藥用植物図鑑」(株)保育者(平成三年六月)) 

<参考メモ・その1:「しょうぶ」「あやめ」「かきつはた」>

(1)しょうぶ さといも科ショウブ属の多年草
   日本中の川岸や池沼地に生育する。特に宮城県、栃木県、富山県に群生する。
   (東アジアやシベリア一帯に分布)
   太い根茎は長く泥中に横たわっていて、白色で赤みを帯びている。節が太く、下部に
   髭根が多い。葉は長さ約70cmで巾1〜2cmで、根茎の先端に群がって生え、
   基部が互いに両側から抱き合って重なっている。
   花は細い花茎から斜めに黄緑色の細い穂の様な形で咲く。
   菖蒲は葉や根茎に芳香があることから、邪気や物の怪を払う力があると考えられた。
   端午の節句に絡んで、玄関や屋根に挿したり、菖蒲湯をたてる風習がある。
   菖蒲で地面を打ち大地から邪気をはらう「菖蒲打ち」の行事が残っているところあり。
   剣のような葉の中央に突起脈がある。
   中国名 石菖(セキショウ)

(出典:(左)富山医科薬科大学和漢薬研究所編集「和漢薬の事典」朝倉書店(2002年6月))
(右)伊沢凡人・会田民雄「カラー版薬草図鑑」家の光協会(1999年8月5日))
(2)あやめ あやめ科の山地に生える多年草
   庭、畑、山地のやや乾いた草原に生える。根茎は褐色の繊維に覆われる。葉は剣状で、
   長さ30〜50cmで巾0.5〜1.0cmで、中央の脈は目立たない。
   紫や白色の花は5〜7月ごろ、高さ30〜60cmで、径8cm内外で、花茎に2,3個つく。
   外花被片は卵形の花弁状で垂れ下がり、基部は黄色と紫の虎斑(とらふ)模様をおび、
   細かい紫色の脈が著しいのが特徴。花の大きさ、色彩などに異変がおおい。
   外側に垂れ下がる三片の花びらの根元が黄色い。
   和名は外花被片の基部に綾になった目があることによる。
   なお、サトイモ科のショウブの古名。 

(出典:(左)大岡信「日本うたことば表現辞典・植物編(上)(株)遊子館(1997年7月7日)
(右)佐竹義輔他「日本の野生植物1」平凡社(1992年8月)
(3)かきつばた あやめ科の多年草
   東シベリア、中国北部、朝鮮、日本各地の池や小川の浅瀬の水湿地に生え、根茎は横に這い
   多数の繊維がある。剣状の葉は長さ30〜70cmで、巾は「あやめ」より広く2〜3cm、
   中脈はない。5〜6月ごろ高さ40〜70cmの花茎が立ち、葉よりも低い所で咲き、
   青紫色および紫色の径12cm内外。外花被片は楕円形・卵型で長さ5〜7cm、基部は
   白く爪部は白色から淡黄色。内花被片(花芯)は長さ約6cmの針状で、直立する。
   水辺に生育するので、庭や畑には植えつかない。葉の中央には、突起脈などはない。
   和名は「書き付け花」から転訛したもので、かってこの花の汁を布にこすりつけて染めたことに
   よる。古くは「かきつはた」、「杜若」「燕子花」などの漢字は誤用とされる。

(出典:(右)小学館「日本国語大辞典」(2001年10月)
(中)大岡信「日本うたことば表現辞典・植物編(上)(株)遊子館(1997年7月7日)
(右)佐竹義輔他「日本の野生植物1」平凡社(1992年8月)

<参考メモ・その2:日本の薬草学の学租「ゲールツ博士」とその末裔>

(1)日本薬学界の祖「ゲールツ博士」Anton JOhannes Cornelius Geerts(1843.3〜1883.8)
 オランダからやってきたお雇い外国人で日本の薬学界の基礎作りをした功労者である。
 オランダ・ウーデンタイクの薬局の息子として生まれた。ユトレヒト大學薬学科に学び、ユトレヒト
陸軍医学校化学教官となる。1869年(明治二年)26歳の時、日本政府に招かれ、長崎医学校
(初代校長は長与專斉で長崎大学医学部の前身)理化学教師に就任した。(太政大臣月額800円の
時代に月給400円という高給取りであった。
 1875年(明治八年)まで在職し、その間に10歳年下の長崎の女性山口きわと結婚した。
 粗悪な輸入薬品の取締官庁である京都司薬場の初代監督として赴任し、続いて横浜司薬場(横浜試験場の前身)の主任となった。
 1880年(明治13年)から、長与專斉の推薦で日本薬局方編纂委員に選ばれ、薬局方の起草を
担当した。多忙の中でも日本に関する著述を10冊ほど遺している。特にフランス語で書かれた
「新撰本草項目」は、評価が高い。「日本鉱泉記」や種痘や流産二冠する著述もある。現在ライデン
大學の博物館に保管されている。
 来日以来15年間、日本の理化学教育、製薬事業に貢献し、神奈川県令の依頼で、検疫消毒の
実務を指導し、消毒所、避病院の建設や発展に貢献した。
 薬局方の成立を見ることなく、横浜で40歳の生涯を閉じた。政府は勲四等旭日小綬章を贈った。
 横浜外人墓地に妻きわと共に永眠している。
 
 東京上野谷中霊園に没後八年、頌徳碑が建立された。また、1974年(昭和49年)国立衛生
研究所創立百周年を記念して、国立衛生試験所構内に移設され、1976年(昭和51年)の命日に
神奈川県薬剤師会より墓地に、横浜司藥場監督就任100周年記念として顕彰碑が建立された。

(左)ゲールツ(中)きわ(右)喜波貞子
(出典:松永伍一「蝶は還らずープリマドンナ喜波貞子を追って」毎日新聞社(1990年3月)
(2)日本人ソプラノ歌手「喜波貞子(きわていこ)」
 孫娘に当たるオランダ国籍の日本人ソプラノ歌手<喜波貞子>なる人物の概要を追ってみます。
 本名 レティツィア・ジャコバ・ヴィヘルミナ・クリンゲン
         (芸名「喜波」は、祖母「山口きわ」の名前を用いているか)
 生涯 1902年(明治35年)11月20日横浜市生まれ。
    1983年(昭和58年)5月29日 フランス・ニースにて没。
 家系 祖父はオランダ人薬学者アントン・ヨハネス・コルネリウス・ゲールツ
    (1843〜1883)で、本邦薬学界のお雇い外国人で、横浜で病没。
    母方の祖母は長崎出身の山口きわ(1853年・嘉永六年9月9日長崎生まれ
    父峰吉・母江口サヲ〜1934年昭和9年11月16日没・81歳)。
    父ヘルミナス・レンデルト・ジャン・フレデリック・クリンゲンもオランダ人で
    商人(オート・クチュールのモード店「ビ・ド・パリ」の経営)で、1892年
    (明治25年)ごろ、ゲールツの娘と結婚、1917年・大正6年没。
    母つるはクリンゲンと離婚後、男子2人、女子2人を育てる。貞子は末っ子。
    一見西欧人の顔立ちだが、どこか「宝塚歌劇女優の雰囲気がある」のは、
    日本人の血筋を受けているためであろう。
    芸名の「喜波」は、祖母・きわを継いでいるとのこと。
 経歴上、日本語、英語、イタリア語、ドイツ語、ポーランド語、フランス語を話すという
 典型的な戦前の国際人であったようです。第二次世界大戦が彼女から「プリマ・ドンナ
 蝶々夫人」と「日本語」を奪っていったのでした。



平成19年5月10日   *** 編集責任・奈華仁志 ***

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